
3月の7日に行った日金山の鬼探しと、4月の10日に行った如意ヶ嶽薬師坊・三井寺の道了尊捜し、琵琶湖博物館のお話の続きはもう私は書かないようですね。残念なことです。
6月のお休みは、伊豆の下田に行きました。鵜嶋城のあじさい祭りが最高潮だと聞いて。(※でも実は去年もこの時期に鵜島城に来てあじさい巡りをしていたので、結局今回は下田城には行くのをやめちゃいました)

伊豆急の線路越しに見る寝姿山の下田城。こっちの下田城ももう何年も行ってないなあ。
結論からいうと、今回の下田旅は不首尾でした。
今回の下田行きの一番の目的をわたしは、何年か前に南伊豆町の図書館で見た『吉佐美古記録』をふたたび読むこと、としたのです。朝の6時ぐらいに気賀の家を出発したまでは良かったのですけど(いつもは早朝に出発しようと思っても、結局うだうだして出発は昼頃になる)、新東名の清水付近で猛烈な水泳選手に襲撃されて仮眠。目が覚めたら11時ぐらいになっていました。清水から三島長泉までは30分ぐらいで着くのですが、三島から南伊豆まではやっぱり2時間弱かかる。南伊豆の図書館に着いたのは14:30ぐらいだったかな。それから1時間半ぐらい本を読みまくって、結局「『吉佐美古記録』はここにはない」と気づいたのは16時頃でした。あれ見たの何年も前でしたからなあ。そもそも『吉佐美古記録』は地元の研究家があしらえたような簡単な軽い装丁のものだったし、誰かが借りているのか、もうどこかに隔離されてしまったのか。(吉佐美の八幡神社の碑文によると、のちに神秘家となった進士氏が昭和18年に書いて図書館に寄贈したものだそうですからね)
「南伊豆に無いのならば下田に行けばいいじゃん。吉佐美は下田市なのだから」と思ったのが16:15頃。急がねばいけません。実はこの日(6/11)は日曜日。一般的に月曜になるとどこも図書館は休みですからね。南伊豆の図書館は17:30までの開館だったので、下田も一緒だとすると、ここから10分で下田まで行っても30分で広い図書館の中でその本を見つけるのはムリだと思ったので、ここは無念を飲んで受付の人にその本が無いか訊ねよう、と(←儂はいつでも自分で見つけるのが好きだ。人に聞くのは嫌いなのじゃ)、でも下田の図書館に着いてみると、こっちの図書館は平日の開館時間は17:00までですが日曜日は特別に16:00までだそうで、もう閉まってた! なんてやる気が無いのだ下田の図書館! 日曜日こそ開館時間を長くするのが普通だろお! むかし下田に住んでいた頃、一度もこの図書館に来たことの無かったわたしは、とても憤りました。当然明日(月曜日)は下田の図書館も休みですとよ。とっぺんぱらりのぷっぷくぷう!

<翌日に行った吉佐美八幡宮の「源三位頼政命霊爾 室菖蒲前命霊爾」>
というわけで南伊豆図書館では目当てを見つけることができなかったのですが、1時間半ここに篭もったことにことによる収穫も全く無かったわけではありませんで
(1)『三位頼政考』(渡辺庄三、平成4年)
(2)『田牛郷土史』の「遠国嶋の記」についての記述

一般に吉佐美地区に伝わっている源頼政の伝説に関する本は何があるのかと言いますと、松尾書店の『史話と伝説 伊豆・箱根』と中野貢氏の『源頼政・菖蒲御前伝説とその回廊』にそれぞれちょろっと説明が出てきますけれど、その大元となるよりどころは、寛政12年に秋山富南が書いた『豆州志稿』を、明治21年になって萩原正平が補修をほどこした『増訂豆州志稿』にある記述です。吉佐美の碑文にある記述も大きく考えて『豆州志稿』にある記述と関係あるものと思われる。
でもしかし、先日コメントをくださった鈴木さんの家に伝わるとおっしゃるのものと、今回読んだ『三位頼政考』で著者が見たと言っているものは、その吉佐美八幡にある伝説とは別個のものであると思われるのです。
まず『増訂豆州志稿』の説明を簡単にまとめますね。
(巻13<流寓 人物 烈女 僧英>)
「源頼政 ○旧記に曰く、久安5年(1149年)8月に(=治承の挙兵の31年前)、賀茂郡の金山(=大賀茂?)に流され、仁平2年(1152年)に吉佐美村に移る。(※吉佐美村清水谷にある八幡宮は久寿元年(1154年)に頼政が勧請したという「三所」のうちのひとつだと伝わっており、ここには頼政が奉納したという文書3、4通が所蔵されている。諸書には頼政の物語についていろいろな事が書いてあるが、当州の者はそれとは異なる数多くの言い伝えと古蹟がたくさんあると言い張っている。ゆえに記録を残しておくが、頼政の筆になるとは考えられぬものもあるし、誤写と思われる写しもある)。(増訂)案ずるに、頼政が伊豆に流されたと云う事実が史書にないところから考えると、この地の伝誦は何らかの牽強であり、頼政の文書と伝えられているものはあるが信ずることはできず、もしかしたらこの地に伝わる菖蒲御前の古蹟に関連して附会されたものではないか」
(巻13<流寓 人物 烈女 僧英>)
「菖蒲 (増訂)伝承ではむかし殿上人が伊豆に流され、古奈に蟄居して妾を作って菖蒲を産む。菖蒲が7歳のとき父は許され、娘と一緒に京へ帰り、彼女が成長すると宮女とした。(『伊豆名述誌』『伊豆日記』『禅長寺記』など)。頼政がたまたま菖蒲を見て、懸想してかなりの年月が経った。鳥羽院がこれを聞いて彼女を彼に賜った。(『源平盛衰記』『太平記』)。治承4年に頼政が宇治で戦死すると、菖蒲は当州の古奈に帰住し、のちに内浦の河内に閑居をつくって剃髪し、西妙と号したという。菖蒲は架空の人物と思われるが、当州においては遺蹟や口碑がたくさんあるのでここに記録することとする」
(巻13<流寓 人物 烈女 僧英>)
「井ノ早太 伊豆玄龍という人の子がもしかしたら伊豆の早太ではないかと言われている。(『頼政記』)。平家物語には、頼政がもっとも信頼する郎党・遠江国の住人猪ノ早太とある。一説に猪ノ鼻ノ早太高直(または井ノ早太)は遠州猪鼻を領し、多田源氏太田伊豆八郎廣政の子であり、仲政の養子にされたのだという。 (増訂)この人を当州の人とする確証はないと思う」
(巻3<村里(下)>)
「吉佐美村 (増訂)下田町の西25町50間、青市村の東33町、田牛村の北1里4町、大賀茂村の南23町 (増訂)18里20町7間 (増訂)天正18年の検地帳、豆州賀茂郡吉佐美ノ郷と。税祇簿ではきさ見。廃・佛岩寺の応永8年作の金鼓の銘に吉佐美村とあるのが一番古い。
○昔は朝日ノ里・月吉村といっていたが、源三位頼政がこの地に謫居したとき吉佐美村と改めたと『頼政記』にある。(案ずるに蚶(キサ)がこの付近の海浜に非常に多いので、キサミとは蚶海の意味だと思う) 和歌あり「今日迄は 角て暮しつ 里人は ■てキサミの 神に任せん」 宝永年間に三嶋大社の后神の宮がこの地に鎮座したことによる称とも言う」
(巻9<神祇(下)>)
「八幡宮(吉佐美村) (増訂)村社八幡神社、祭神不詳。相殿三島社には阿波咩命を祭るという ○若宮が配祀されている。この神は源頼政が石清水八幡宮から勧請し地名を改めた(と「村里の部」に書いてある)。この若宮は最初多田見川の上流の三島の林にあったが、源頼政が現在地に移した。この神は若宮八幡ではなく三島神に従う若宮である。寛永6年の札に、源頼政が吉佐美郷清水谷村と刻した金鼓を吉佐美八幡に奉納したとある。この金鼓の内には小鈴と2寸ばかりの金舌があり、それに前中宮菖蒲と刻まれている。また久寿元年9月に頼政が奉納した歌に「神世より 光をとめて 朝日なる 鏡の宮に うつる月影」「神さびて あはれ幾代に 成りぬらむ 浪に馴れたる 朝日の宮」「かくてのみ 止む可き者か 千早振 土生の社の 萬代を見む」「さりとては 頼むぞかくる木綿襁 我れは朝日の神と思へば」「石清水 流の末を うけつぎて 今は吉佐美の 神に仕ふる」
(増訂)案ずるにここに書いてある頼政のことはすべて附会であると思われる。流寓部を参照すべし。また金鼓に中宮菖蒲と記されてあるというが、菖蒲は中宮になったことはない。菖蒲は鳥羽法皇が頼政に赦し賜ったとされているが、中宮を臣下に賜うことなどあるはずもない。
(増訂)海若子伊豆日記に、八幡宮の社を守っている人の家に行った話が書いてある。主人の老人が身を清め塗り籠めの中から白木の箱を取り出し文机の上に置いた。うやうやしく開いてみると、八幡宮祭礼執行の文が一枚、神前に奉る歌十首、この里の人の系図が一枚。そこには頼政がこの国をさすらって3年後にこの地に落ち着いた次第が書いてあった。久寿元年九月という頼政の署名があった。また菖蒲の前が八幡宮に奉納したという直径9寸ほどの小さい鰐口には、表に吉佐美八幡宮源頼政これを奉ると彫ってあって、その上に小さな穴が開けてあり、その鍔にはとても小さな鈴がつり下げられてある。舌には長さ1寸幅5分ぐらいの真鍮の短冊があって、表に前中宮、裏には菖蒲と書かれている。よく見ると鰐口は新しい時代の物である。頼政の作だという歌の数々も、意味がよく分からぬ最近作ったような拙いものばかりであったが、しばらく見ているとゆかしいような感じもしてきてしまった。すべて拙いものばかりで、これはいつの時代の誰が見ても欺される者はいぬだろう、どんな痴れ者がこれを作ったのだろうとはなはだ興ざめした、云々。
○末社12、祠域の経蔵に大般若経の残本がある。禰宜は進士氏。
(増訂)相殿の三島社は式内竹麻神社の三座のうちの一つである。手石村月間神社の條参照すべし。この神を昔から十七番の御神と呼んでいる。按ずるに、神階帳賀茂郡神社のうち、月まの明神(すなわち式内竹麻神社)を三座と数えるときは、この神がちょうど17番目に当たるからではないか。また、吉佐美の村は后宮(きさみや)の略なのかもしれない。もとは深田という字のところにあったものを、明治11年に合祀した。
○白鬚神を配祠している。源頼政記いわく、豆州十七番の御神、神尾山御倉山の麓多田見河の上流に座していた朝日郷月吉村の土生大明神で、その正体は人皇6代(孝安天皇)頃の興津彦と興津姫である。((増訂)源頼政については前述した通りである)。この神はおそらく式社であると思うが、祠典何の神であるかはよくわからない。もしかすると多祁美加々命神社ではないか。多田美河という地名は訛誤があったのかもしれない。((増訂)この説は間違っている) 三島明神と称しているのはむかしこの祠域に若宮祠があり、この若宮は三島明神に従った若宮であるからである。伊豆納符」