


6月16日に行った沼津旅行の日記の続き。写真は全然関係はありません。(ここまで書けたらいいな)
さて、これまでのあらすじ。
そこから沼津港へ移動して深海魚水族館へ行きました。何年ぶりでしょうか。

深海魚水族館はとても楽しい場所で、当初の予想通り頻繁に展示物が入れ替わっているようなんですね。(深海生物を長期間飼育することはとても難しいことだから)

なのに、この施設に関する印象はずっと変わらない。
建物は大きいのですが展示スペースはそれほど広くは無い。広大でないせいで入場料も安価なのでそれは一面良いことなのですが、「深海水族館」といいながら深海魚ではない展示物がかなりある。まあそれも、深海魚ばかりだと(地味なので)すぐ飽きてしまうであろうので、色とりどりな他の魚と対比させるのはとても良い作戦だと思う。ただ困るのは、意外にも自然と深海魚部分よりもそっちの一般魚部分の方が印象が大きいことで、その一般魚には決して力を入れているわけでもないから、結局他の水族館に負けるのです。
深海魚水族館にはイルカやアシカのショーや、マグロやカツオやブリが力強く泳ぐ大回遊水槽は無い。
一応沼津のヒーローとしてはメンダコやラブカがいるのですけど今回は(死んでしまってて)見られず、その場合今のヒーローは巨大タカアシガニと二種のオウムガイとヌタウナギのようでした。おおそうだ、ダイオウグソクムシは開館当時からここのヒーローでしたね。
で、やっぱり今流行りの施設ですから展示物は一般受けを狙っている傾向があって、それが皮肉にも一般人が深海魚というものに抱いているイメージと乖離することになってしまっている。フクロウナギとかオニキンメとかメガマウスとかシギウナギとかホウライエソとかチョウチンアンコウとかは絶対に水族館では飼育展示できないのです。

ただ、個人的には「サケビクニン」がこの施設の中でどんどん増えているのが見られて、大満足でした。
この魚の水槽は常に暗くて赤くて動きが速く滑らかなので、私は上手くこの魚の写真が撮れたためしがありません。
わたくしは鮭ビクニンよりも「ザラビクニン」の方が何倍も好きなのですけど、実を言うとシャケビクニンとザラビクニンの見分け方を知らない。(同一に見える)。いちおう、「ザラビクニンは触ると肌がザラザラしているからザラビクニンと言う」「サケビクニンは鮭の切り身のようにほんのりと赤い色が目立つから鮭ビクニンと言う」ということは「知識としては」知っているけど、ザラといいながらどう見てもぬるぬるしてそうだし、ザラビクニンも十分ピンク色ですしねえ。
10年ぐらい前に初めて「深海魚ブーム」が起こった頃にいろいろ買い求めた本には、ビクニンの仲間は「ザラビクニン」と「シャケビクニン」しか載っていませんでした。それが現在ではもうちょっとデータが豊富になって、「青ビクニン」「アイビクニン」「髭ビクニン」「跳びビクニン」「底ビクニン」「バラビクニン」「オホーツクビクニン」「知床ビクニン」「樺太ビクニン」「セキチクビクニン」「能登西海ビクニン」「鰭黒ビクニン」等々があるのを知っています。でもそれらは名前だけで、サケビクニンとザラビクニンの見分け方を説明している本は無いのです。
また、「ビクニン」以外にもこの魚の形状はいろんな種に適応されているのがややこしいです。「クサウオ」や「コンニャクウオ」は名前は違っても同じ種類ですけど、エゾイソアイナメとかソコボウズとかバケダラとかアバチャンとかソコクロダラとか、ね。

沼津深海水族館では蟹水槽に入れられていた「ヒメコンニャクウオ」が(体長が10㎝弱の小体なのですけど)ビクニンにそっくりでした。見えないけど腹の下に無数の足と吸盤を持ってるんですよ。蒟蒻姫はなぜか常に卵をイバラガニの甲羅の中に産むという変な習性があるんですって。

意外とコイツ(黄魴鮄)も種的には近い仲間です。硬そうね。かっこいいね。
さて、そこから愛鷹山の麓の方へ移動します。
「根方街道」(県道22号)沿いにある「曹洞宗士詠山大泉寺」へ。
ここは“醍醐の悪禅師”阿野全成の菩提寺であります。

10年前に一度訪れたきりですが、ずーっと「また来ようまた来よう」と思ってたんですよね。
それは、本には「この寺には“全成の首掛け松”というものがある」と書いてあるのに、10年前はそれを見落としたから。なんでも、常陸の国で全成が八田知家に頸を落とされたとき、その首はいきなりびよんと跳びはねて駿河の国まで飛んでいき、館の松に引っかかったという伝説があるのだという。平将門なみじゃないですか。怨霊となって出てきてもおかしくはないはずですが、そっち系の伝説はなくて、ただ飛んで帰ってきただけ。(※全成の兄(?)である蒲冠者範頼にも、修禅寺で首を落とされたあと愛馬が首を加えて浜松の屋敷まで持ち帰ってきたという伝説が、飯田町の竜泉寺にある)。
・・・ただ、この時じつは事前調査が不十分で、当該の松はかなり以前に枯れて無くなっていて(そりゃ800年も経ってますもん)、その切り株と記念碑が隣接する保育園の中にあるというのですが、知りませんでしたので結局見ることができなかったのでした、、、、、。

その保育園入り口には、「幼名今若丸 阿野全成碑」があります。
写真だと分からないと思いますけど、「阿野全成」の「野」の字に変な文字を使ってます。(「野」を崩した物の下に「土」を組み合わせて一字としている)
ここは町名だと「沼津市井出」で地区名だと「浮島(うきしま)地区」といいます。江戸時代まで「浮島ヶ原」があってウナギが名産だった地域でした。来るのが10年ぶりなので、わたくしの頭の中でこの浮島ヶ原が富士市だったか沼津市だったかよくわからなくなっていましたが、沼津市域でした。(「浮島ヶ原自然公園」は富士市にあるのでまぎらわしい。浮島ヶ原はひどく広大だったのですね)

何て読むのか頭をひねったのですけど、これで「大泉寺」でした。
以前来たときもそうですけど、このお寺は参拝者を楽しませようとさまざまなオブジェが随所に沢山飾られていて、飽きません。古の支配者の居館跡に建てられた古刹で、源平時代にまつわる逸話が豊富な、歴史好きには堪らないお寺なのですけど、「阿野全成」「源義経の兄」じゃどうしても火力不足で(そんなこと無いのに!)、お寺のサイトを見ると、地域活性化の中心となろうと、お寺はいろいろな催しをさかんにしているそうです。立派ですね。怪談ライブ行きたいですね。



いろいろな物を持った六地蔵(武器ではありません!)

一軒荒れ果ててるようにも見える広大な庭園ですが、なかなか心地良い空間です。
わたしは(知らなかったので)「首かけ松」を一生懸命捜したのですが、見つかりませんでした。

なにか謂われがありそうな造形の木ですが、松じゃなくて杉ですしなー。

これは伝説の「銀杏観音」(だと思う)のですけど、なぜか、流麗すぎて読めない神の名と白山妙理大権現の名が併記された石碑がある。
ずっと首懸松をさがして、保育園の敷地の中も疑ったのですけど、怪しげな髭モジャの不審人物が保育園の中をじっと覗いているわけにもいかないしなあ、ともんもんと悩みました。(そしてそこが正解でした)。おっさんはどうやって保育園の中にある首掛け松を見せて貰えばいいんでしょうねえ。

そして豊かな緑の中にある「伝・阿野全成 伝・阿野時元の墓」。
一応、左が全成、右が時元の墓だとされています。
が、これはあくまで「伝」の墓でして、どうして居館跡に建ったお寺にこれみよがしにある「これしかない」と言えるようなお墓が「推測で~と思われる」との但し書きが付けられているのかというと、公には全成も時元も、幕府に反逆を企んだ犯罪者であるから、このお墓も別人のお墓として偽装されていたからなんですって。左の方が全成の物で右がその息子とされているのも「左の方が大きいから」という理由で、実はお墓を囲っている石には名前が刻まれているのですけど、右の(小さい)方に「原驛渡邊恵十郎源元豊」と、左の大きな方に「嫡子渡邊平左衛門源致英」「嘉永四年」と書かれています。でも、いくら偽装のためだとはいえ父と子を逆にすることなんてあるでしょうか。
そう考えてみると、右の方の五輪塔はとても変な形です。

Wikiをもとにまとめましょう。
阿野全成も阿野時元も幕府への反逆の罪で討たれました。(時元は自殺)。
建仁3年(1203年)5月19日の子の刻(深夜0時頃)、鎌倉において頼家は全成の館に武田信光を派遣し、全成を謀反人として捕縛し御所に押し込めた。5月25日に常陸国の宇都宮頼業の元に送られ、6月23日、八田知家によって斬られた。頼家は北条時政に全成の妻である阿波局の引き渡しを求めたが北条時政は拒否。7月16日には京都で佐々木定綱と源仲章が全成の三男の播磨公頼全を捕らえ、殺害した。
幕府のそうそうたる人々が出てくるので、全成はかなりの人々を敵にしたものだと錯覚しそうになりますが、この人たちは別に北条氏に敵対していた人たちばかりではなく、ただ将軍頼家に命じられたからそうしただけです。この事件は永井路子氏が繰り返し書いているように、北条氏と比企氏(頼家)の勢力争いによって起こった事件で、すぐに比企氏が滅亡すると阿野氏の名誉は回復され、沼津の阿野館が反逆の中心地と見なされることはなかったのでしょう。ただ、『炎環』とか阿波局とか北条政子の視点が主軸なのですっかり忘れていたけど、阿波局と全成の子である時元は4男で、全成には他に3人の男児がいたんですね。さすが悪禅師。
そういえば以前の記事で、「大泉寺には公暁の位牌がある」と書いてくださった方がいましたよね。書き込みの内容からご近所の方だと思いますが、公暁は比企氏の血縁にあるのだから「信じられない」と書いた記憶があるのですけど、公暁が源実朝襲撃をしたときは比企氏が滅亡してから16年も経って勢力は壊滅しており、実朝襲撃のとき北条義時の代わりに殺されたとされる源仲章は16年前に阿野時元の兄の殺害に関与した人物であり、この事件の半月後に時元も挙兵した(?)のですから、公暁と時元のあいだにも「もしかして」という気がしてこなくもないのですが、どちらにしてももうよくわかりません。
ネット上には「幕末の東武天皇にまつわる遺物が大泉寺にある」という記述もあり、なかなか深すぎるお寺ですね。
でもこの時は半ば満たされない気持ちのまま、浜松へと帰りました。