<大西山崩壊礫保存園(大西公園)>
昭和36年の大雨による大崩落で亡くなった42名を慰霊するための公園。広域に桜がたくさん植えられ、花の名所となっています。
この公園にある案内板の説明(・・・本来崩れ難い場所が崩れ落ちたから大災害となった)がとても読んでいて面白い。
亡くなった方々には申し訳ないですが、日本列島には繊細な造りの場所が多々あり、中央構造線を巡るだけでとても有意義な長野旅となるだろう。
若い頃から「フォッサマグナ」という語句が好きでした。(伊豆半島の衝突がその形成に大きな役割を果たしています)
さっき崩れていた御所平もそうですけど、この付近(中央構造線の南側の柔らかい部分)には「~~崩落地」という地名が随所にあります。
7月の頭に行った「隠し伊那谷を巡る旅」の記録。1日目(その3)。
この頃は浜松はとても静穏だったのでわざわざ(観光地を助けるために)行ってやろうかな、と思って行ったのですが、その後一ヶ月経ってその浜松が「出かけたくない町」になってしまった。
<小渋湖-四徳湖>
昭和44年の小渋ダム完成によるダム湖。この水の下に「桶谷」の里があったという。「桶谷」の地名の由来は“高貴な人が棲まった”という「王家谷」が転じたものだという。
何度も同じ地図貼ってごめんなさい。
新しい地図描くのめんどくさい。
次に、宗良親王の盟友であった北条時行が同じく長期間住んでいたという「桶谷」「四徳小屋」も近くにあるというので、それを見に行きます。
ずっと参照している『宗良親王 信州大河原の三十年』という本の地図に、「桶谷には北条時行の墓がある」と書いてあるんですよね。さっき道の駅で観光案内所のお兄さんに、そんなものはあるのかどうか訊いてみました。そんなにたくさんの本を持っているわけでもないけど北条時行の墓について書いてあるのはこの本だけ。(北条時行という人は有名人物なのに「墓所」が存在しないようです)
でも、観光案内所のお兄さんの反応は、やっぱり「知らない」「聞いたことがない」でした。(当たり前か)。ただ、川の底に沈んだ桶谷のことをそれなりに教えて下さいました。実はさっき私が大河原入りしたのは松川町から小渋川を遡ってだったのですけど、事前に地図を見ながら「桶谷の里があったとしたらこのあたりかな」と思っていた場所(「桶谷の泉」より東側)は、全然人家があった気配が無かったのです。(本では小渋川と鹿塩川が合流する所のすぐ下流が桶谷みたいな書き方だったから)。
でも、お兄さんによると「ダムによって沈んだ桶谷」は確かにあったという。私が思っていたより桶谷はもっと西側だったのかもしれない。
お兄さんは、「お墓のことはよく知らないけど、道路の途中に何かの石碑があるのは見たことがあるので、それを見に行ったらいいかもしれない」とも教えて下さいました。(それはその後うっかり通り過ぎてしまいましたけど、恐らくGoogle-mapに「交通事故供養仏」と書いてあるやつですかね。桶谷の泉のことかも)
「四徳小屋というのがどの付近か」も聞いてみたかったのですけど、聞いても無駄なような気がしてやめてしまいました。(「桶谷」までは大鹿村だけど、「四徳」は中川村だから)
(※道の駅で買った『今、甦る村の浪漫!』に少しだけ記述があります。「『伊那史概要』は「大河原の北条坂の麓に、北条家と名乗る家が四戸あり、時行の末孫と称し、そこに時行の墓というのがある。しかし、上伊那の藤澤谷、福地だとの諸説もあっていずれが真なるかは不明である。ともかく藤澤から大河原の谷にかけて時行伝説があることは北条に何らかの関係があったことは考えられる」と延べ」「頭屋敷・別当・木戸口の名前があるのは時行がこの地に住んだ名残で大河原の内でも更に峻険な谷間に落人が潜伏したとしても無理のない土地である」などなど)・・・ただ、この本の著者にも詳しいことは分からないようです。
小渋湖のまんなかあたりに北から注ぎ込んでいる小渋川の支流(四徳川)があって、それを遡っていくと「四徳の里」です。
四徳の村も「三六災害」で瀕死のダメージを受け、全村移住を余儀なくされてしまったそうです。現在は無人だという。
雨はもうそれほどひどくなくなっていましたが、道がすごくて、四徳まで至る道の写真をほとんど撮れませんでした。
荒れ果てているということはないんですけど、川に沿って細くうねうねとして起伏がある過酷な道。でも、ちゃんと管理はされているらしい。四徳の村が放棄されてからこの道路沿いには集落はないはずですが、「四徳温泉」と「キャンプ場」がこの先にある。
事前に地図を見て、「北条時行が潜伏した四徳小屋があるとしたらどこだっただろう」と考えてみました。まあ、人にみつからないように建てた小屋でしょうから、案内板でも無い限り見つけることは不可能でしょう。地図に載ってないけど「四徳の集落」はどこにあったのでしょうか。おそらく四徳神社というのが集落の中心だったでしょう。
で、行ってみたんですが凄かった。どこまで行くんだ!と心配するぐらいの道の奥の奥にあって、よくこんな場所に人が住んだな、と思う所です。大河原の宗良親王の御所と同じ思想を感じる。さっきまで、「四徳の里から少し離れた不便な場所に四徳小屋はあるのでは」と考えていたのですが、こんな不便な場所なんだから四徳小屋はここでいいよ!
なんでこんなところにこの里はあるんでしょう?
明らかに農業は全然出来ない土地なので、林業か狩猟民か木地師が住むような場所だったのか。(平家の落人伝説があったといいます)。交通の場所としては西隣と東隣に「大伊那谷」と「大河原-分杭峠の道」があるのだからわざわざこんな所を通ることはない。まさに宗良親王が好みそうな場所だと思いました。(※私が思っている以上には折草峠の交通は頻繁だったそうです)
<四徳小学校跡>
<四徳神社>
主祭神は諏訪神(建御名方命)
道路が狭いので最初は分からないんですけど、林の中に広大な住宅地の跡があったことに気づく。
なんかいろいろある!
・・・が急に山ビルが怖くなってしまって、私はこれ以上奥には行きませんでした。
「四徳小屋」がここにあってもおかしくはない感じ。
最盛期には100戸の家があったといいます。畑もあった。
後になってから知ったので行かなかったんですけど、中川村文化センターにこの四徳集落を再現した大きな立体ジオラマがあるそうです。ネットでその写真(小さい)を見ると四徳の里は私が思っていたより広い範囲に家に分散していた。ジオラマには各所の地名も貼られているようですけど、その中に「四徳小屋」はあるのでしょうか。(見に行きたい)
北条時行は「中先代の乱」で「廿日先代」したあと、すぐに鎌倉を奪回されて諏訪へ逃げ、そのあと南朝方に降参し、けっきょく何もせずに死んだような印象があるんですけど、実は宗良親王とはかなり長いつきあいだったようで、17年間ぐらい一緒に行動しています。宗良親王にとっては比叡山で一緒に活動した猟奇的な兄(護良親王)が殺害されるきっかけを作った張本人ですから、彼に複雑な感情を抱いていたに違いありませんが、宗良親王と北条時行が初めて出会ったのは延元2年(1337年)の船旅の時。年齢は15歳差。
たまたま宗良親王と彼は同じ船に同乗することになったんですけど、遠州灘沖で暴風雨に遭い、座礁して遠州白羽に上陸。一緒に北浜名湖の井伊谷城に入ります。延元4年(1339年)から仁木義長・高師泰らの井伊谷攻略が本格的に始まりますが、延元5年(1340年)の井伊谷落城の直前に北条時行が伊那谷に出現し、「王徳寺城」で挙兵。(遠江国での北朝軍を牽制するためだったと思われます)。宗良親王は井伊谷が落城した後、安倍川の城から富士山の麓、甲斐国を経て、越後国・寺泊、越中国・名子の浦に移り、最後に信濃国に移って大河原に入る。北条時行はその間ずっと信濃にいたと思われますが、そこからまた宗良親王の片腕的に戦ったってことですね。
わたしはてっきり、宗良親王が信州大河原に棲み着いた興国5年(1344年)以降に、北条時行も出城的な感じで桶谷ないし四徳にキャンプを張ったのだと思っていましたけど、大鹿村に伝わる伝説では、「元弘3年(1333年)に鎌倉幕府が滅亡したとき、諏訪氏に匿われた亀寿丸(=時行)が潜んでいたのが王家谷(桶谷)」ということになっているようです。うーーむ。諏訪湖と遠いじゃん。諏訪大社で手厚く匿われていたのではなかったのか。ここは諏訪家領だったのでしょうか? そもそも北条得宗家は王家じゃ無いのに「王家谷」というのはおかしい、やっぱりこの王家とは宗良親王のことではないのかと私は思っていたのですけど、宗良親王を匿った香坂高宗と諏訪氏の関係はどうだったのか。井伊氏にしろ知久氏にしろ石黒氏にしろ、「勤王の士」であって鎌倉幕府軍とは相性は良くなかったと思うのですが、宗良親王と北条時行が手を結んだことによって諏訪氏(と鎌倉幕府の残党)は南朝軍に組み入れられることになり、南朝を少し延命させた。幼い亀寿丸が潜んだのが四徳だったらよく分かる。四徳神社は諏訪系の神社でしたし、四徳と大河原は実は違う文化圏だということもわかります。