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Channel: オセンタルカの太陽帝国
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天使ですよ。

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私の勤める舘山寺の喫茶店では、玄関に家康公の初陣の甲冑が飾られているのです。
来年は家康が神となって400年の記念の年なので、うちでも期間限定でこれを飾ってるんですって。でもそもそも家康が神となったのは静岡市でだし、家康がこの甲冑を着たのは18歳での駿府あるいは三河寺部城・尾張桶狭間でなので、浜松市が関与しているべきものでもないのですけど、来年は岡崎市・浜松市・静岡市の三都市で共同して大々的にイベントをするというのです。その一環で私の勤務先にもこの甲冑が飾られているという。
勤務当初、「この会社には極度の家康好きがいるんじゃないか?」と思って密かに探したのですけど、どうもそういう人は居ないのでした。なんだこの会社。

お客さんはこの甲冑を見ると、ほぼ揃えて「家康って背が低かったのね」と言います。
確かにこの甲冑は小さいのです。調べると家康公の身長は「150~160cm」だったそうですが、これは当時の身長の相場としては「中の上」に位置するそうです。信長公や秀吉殿下は「140~150cmだった」というのに比較して言われるんですね。でも、今の目から見るとこの甲冑は小さい。この頃の全ての高貴な甲冑はオーダーメイドで、余分な重量を削ぎ落として最適化するために、完全に18歳(実年齢)の身体にフィットした形状に作られているんでしょうかね。



毎日この甲冑を眺めていて、一番気になったのが頬甲にあった変なトゲ。
なんだこれ。
ちょうど10/11に静岡出張に行ったとき、静岡駅前の静岡市美術館で「久能山東照宮展」というのがおこなわれていて、そこにこの「家康の初陣の兜」の本物が飾られているというので、見に寄りました。なるほど、ほっぺたのトゲにはこういう用途があるのか。この美術展では数多くの甲冑が飾られていていろんな実物があったので、私は心から納得できたのでした。

ただし、この「家康公の初陣の甲冑」は、実は同じ物が二つ存在しているのです。
(1).「金陀弥(きんだみ)具足」(=久能山では「金溜塗(きんためぬり)具足」と呼んでいる)と(2).「白檀塗(びゃくだんぬり)具足」です。(※どちらかが予備のために制作された)。今回の美術展では2つ並べて展示されていたのですけど、残念ながら全体の展示では無かった。(頭だけ)。でも、両方ともいろんな本で見ると、うちの喫茶店に飾ってある複製品とは頬のトゲの形状がかなり違っている気がするんですよね。ウチのはうちので現在の造形師の作った創意のものなのか。かなり高そうなんですけど。

で、仕事の愚痴なんですけど、「この会社は残業が無い。まるで天国のようだ」と浮かれていた私なのですけど、一ヶ月前に宿直シフトも入り始めたところ、宿直の日だけデフォルトで5時間の残業、宿直の次の日は公的勤務時間は6時間(-_- ・・・2日足して18時間なのですが勤務形態がいびつすぎる)ランダムで0~1時間の残業となってしまったのでした。なんだこれ。今のところ週に2回宿直です。宿直って業務自体は基本的に好きなんですけどねえ。来月の給料はどうなってしまうのだろうか。



●2014/02/01 19:46
「異国人と戦う上で気をつけなければならないこと。
異国人は血戦(=肉弾戦)に鈍いので、様々な奇術奇巧を駆使して人の気を奪う。異国人同士はその技を互知しているが、日本人はその術を見れば肝を潰して恐れ入って弱気になるだろう。日本人の持ち前である血戦も弱くなる。小西や大友などがそうだった。ただし異国人の奇術は繰(カラクリ)である。武など無い。恐れずただひたすらに切り込むべし。心得のためにその奇術を記す。
〇火矢(所々に火が燃える)〇神炎(所々に煙立つ)〇毒霧(晴天に霧起こる)〇火禽(数多の火の玉中天を飛ぶ)〇火獣(数多の火の玉地を走る)〇八面砲(八方に飛び出る鉄砲)〇水底龍王(水の底にて雷の如く鳴る)〇地雷〇リュクドシキップ(中天を鳥の如く自由自在に乗り回す船←気球軍鑑のこと)」
そのような怪物を日本に使った例はまだ聞かない。しかしながらそれらの制法は『兵衡』『武備志』または『ゲレイキスブック』等に詳しいのである。日本は閑暇のときに制作してみてその実否を試すべきである。私は清貧な人間なのでこんな怪物をいくつも試作することなどできないが。後賢を待つ」(林子平『海国兵談』)


●2014/01/31 14:34
「第三連隊長吉丸大佐の戦死を聞いて、私の腹は煮えくりかえったがどうにもならぬ。私はかつて大佐の部下であったころ、戦車単独盲進をつねづね戒められていたことを思い出す。大佐は精悍ではあるが、決して猪武者ではない。ただ対岸に悪戦苦闘を続ける小松原兵団主力に対する安岡支隊の責任を支隊長の身になって考えられた結果、人事を尽くした上の攻撃前進であった。後日このことで「歩、砲分離して戦い、損害を大ならしめた例」として非難する者もあったが、士の心もわからぬも甚だしい。だれが洒落や冗談で死地に飛び込めるものか」(『戦車と戦車戦』~日本が負けたのかノモンハン戦車戦の真相(関東軍参謀陸軍大佐・野口亀之助)~)


●2014/01/31 13:47
「駿河でたびたび火災があった。そのため君(家康)は、本多佐渡守正信に「たとえ過失であろうとも、火を出した者は必ず切腹にすると触れを出せ」と命じた。正信は承知して退出し、また翌朝登城したが何も言わなかった。君は正信に昨日の件をどうしたか尋ねた。正信は答えた。「私は家でよくよく考えてみました。必ず切腹させると言ったとしても、仮に井伊兵部が火事を出したとしましょう。彼ほどの者に切腹の命令など出せないでしょう。身分の低い者の過失は切腹で、井伊ならば罪に問われないとなれば、法度は成り行きません。昨日の時点で私もどうでしょうなと思いましたが、家に帰ってさらに良く考えて、ますますそのような命令は出すべきではない、諫止しなければならぬ、と思った次第です」と申し上げた。君は「いかにもお前の言うとおりだ」と言って感心した」(『東照宮御實紀附録』)


●2014/01/08 10:49
「ペローの功績は、細かい所以外は何も書き加えず物語の本体を変えなかったことにあります。その書法は「可能な限り単純である」という点で賞賛に値するものです。フランス語という言語は、今日の形態に沿うなら、まるで自ずと襞を作るように警句風の言い回しになったり細かく切り込んだ対話になります。(巻き毛のリケと間抜けなお姫様の会話や親指小僧の終わりがそんな感じです)。おそらくフランス語それ自体の性格によって、子供の昔話を語るという欲求を持たずに素朴にそして素直に子供の昔話を語ることほど難しいことはないのです」(『グリム童話集』序文)


●2013/12/30 09:24
「徳川期を通じて平田篤胤ほど天狗の存在を信じ、敬し、それを強調した学者は他にない。彼の信じた天狗の世界は一般人には見えない別の世界で、彼はそれを幽境とか幽世(かくりよ)とか呼んで、彼はそこに棲む天狗と通信することを念じ、媒体を通じて手紙と和歌を託したこともある。彼の信じた天狗は霊界の棲息者で、きわめて特殊な霊能を具えた人間のほかには言葉を交わすことはおろか姿を拝むこともできない神霊と見ていた。そのくせ人間界のことにはあらゆる面に通暁し、働きかけ、天狗隠し・天狗倒し・天狗笑いと跳梁し、罰を下し学問・武技まで習得しているという」(知切光歳『天狗考・上巻』)


●2013/12/26 09:12
「ヨーロッパやニュージーランドでも鰻の胃の中身を調べている。一匹の鰻の胃の中から二種類以上の餌が見つかることは非常に稀なようだ。研究者は、鰻は集団全体としてはいろいろなものを食べるオポチュニストだけれど個々の鰻は決まった種類の餌を専門的に食べるスペシャリストなのではないかと考えている。岡山でおこなった調査の結果でも、やはり二種類以上の生物が一匹の鰻の胃の中から出てくる割合は非常に低く、3%程度だった。これに対して児島湾で獲れたアナゴを調べてみると、一匹のアナゴから二種類以上の生物が出てきた割合は13%を越えていた。鰻は一番捕らえやすい種類の生物に意識を集中し、他の生物を無視することで効率よく捕食することができるのではないかと考えられている」(海部健三『わたしのウナギ研究』)


●2013/12/26 01:56
「12月19日、何にしても約束であると諦めている。この12人は誠に因念の悪いものである。萬一助かったればそれこそ今度は皆大難を通過し運勢朝日を昇る如しサヨナラ。
廿日午後6時に至り晴天風北のあらし。21日午前7時より帆を巻き上げ風南にして波低し、サウエスへ走り風の都合で沖に出したり灘へ入れたり、とにかく西へ西へと行く方針である。午後4時より風変り流した。午後1時より追手にてウェス走り営業中ならば流して●天キである。この丁子で三日も吹けば必ず山が見えるはずである。
22日午前6時まで18時間ウェスに走った。午前9時まで21時間走り22日午前9時より又も西風流し始めたイカリ二丁ほりこみ。
23日同じく流れて居る。22日萬坊という魚を突取り、色々として食い遊んでいた。午前5時萬坊目方20貫位、どう考えても西へ船を出す事出来ず東へ行ったとしたら、アメリカまで4ヶ月、しかしここで船を待つのも男らしくない。又船に出合うのもおそい。
24日朝から晩まで遊び次第流れ次第、12時萬坊一本、48時間流した。
24日午前9時から午後9時迄、25日午前9時まで72時間流れ、西に向かう事出来ずに東へ向かう事にした。
26日いよいよアメリカに向かうことに決定しイカリを上げ風を七三に受けてノーイスにカヂを向けて進み出した」(良栄丸日誌)

・・・犯人はマンボウだ!(短絡的な推理)
(※良栄丸遭難事件とは昭和元年に起きた謎の事件


●2013/12/26 01:37
「ミイラ漁船漂着のニュースが全米を沸き立たせているとき、貨物船ウェスト=アイソン号のリチャード・ヒーリィ船長がシアトルの港湾管理委員会を訪れ「この幽霊船なら太平洋上で出会ったことがある」と申し出た。それは1年前の12月23日、荒れ狂う暴風雨の中を航行していたとき、波間を一隻の木造船が木の葉のように漂っているのを発見した。船長は一目でそれが遭難船であることを見て取り、ただちに救助信号を送って荒れ狂う海のなか自船を良栄丸へ近づけ、しきりに救助を申し出たが、船の船窓あるいは甲板に立っていた10人ほどの船員は、だれひとり何の反応も示さず、まったく魂の抜けた人間の集団のようにアイソン号を眺めているばかりだったので、空しく引き上げたという。12月23日付の良栄丸の航海日誌にはこの出来事については触れられていなかった」(庄司浅水『世界の秘話』)


●2013/12/26 01:01
「マルスは言うまでもなく軍神であるから、勇ましくも恐ろしい相貌で表現されるのが本来である。13世紀頃までのマルスは、武装した猛々しい姿で馬車を駆っているのが普通であった。その傍らにはしばしば飢えた狼が描かれ、恐ろしさを強調していた。それが14世紀から特に15世紀になると、この戦さの神の表現が、何とものどかな時にはだらしない物になってしまうのである。有名なボッティチェリの「マルスとヴィーナス」では、軍神は甲冑すら脱ぎ捨てた裸の姿で眠り呆けている。そばに打ち捨てられた兜や槍は、キューピットたちのおもちゃになっている始末である。(中略)近代、例えばロダンが戦争の神を掘り出したときには、それはもはやマルスではなくてベローナだった」(高階秀爾『ルネッサンス夜話』)


●2013/12/25 18:44
「1492年。そうはいかぬ。ポルトガルを出し抜いた者がいた。信じられないことが起こった。コロンないしコロム、あるいはコロンボという男(ペトルス・マルティルによればリグリア人の通称コロヌスというクリストフォロス、他の人の伝えるところによると「全く無名の男」)がスペインの旗の下に、アフリカを回る代わりに大洋を西に向かって航海し、彼の陳述によれば「最短の道(ブレヴィッシモ・カミーノ)」を通ってインドに達したのである。彼はマルコ・ポーロの伝えたフビライ・ハーンには会わなかったが、まずチパング島にいき、それからマンギ(中華國)に上陸した。そこから数日でガンジス河に到達した、というのであった。欧州は恐懼した。不思議、不思議、こんな具合に地球は想像以上にやはり小さいのだ」(シュテファン・ツヴァイク『アメリゴ』)


●2013/12/25 16:38
「1486年。凱歌があがった。アフリカ大陸周回が達成された。バルトロメウス・ディアスがトルメンソート(嵐の)岬、則ち喜望峰を廻航した。そこからもう南へはもう向かわぬ。今度はひたすら東へ航路を取るのだ。この航路はかつて2人のユダヤ人使節(アビシニアのキリスト教の王プレスター・ヨーンが欧州へ送った使者)がポルトガル王に渡した地図に記されていたものだった。インドは目の前だ。しかしバルトロメウス・ディアスの部下たちは力が尽き果てていたので、ヴァスコ・ダ・ガマに偉業を譲ることになった。だがそれで充分だ! 何人ももはやポルトガルを超すことなどできはしない」 (シュテファン・ツヴァイク『アメリゴ』)


●2013/12/22 09:13
「1400年。インドに到達することがこの世紀の夢となった。しかし実はそれは一人の個人の夢であった。その個人とは、生涯をかけて航海を希求したポルトガル王子のエンリケ。彼自身は決して大洋を航海したことはなかったけども、世は航海者ハインリッヒと呼んでいる。彼の生涯をかけての努力は「香辛料の生い茂った土地に到達する」インドの島々、モルッカ諸島に達するという夢に向けられたのだった。オスマントルコ人は紅海をルミー(異教徒)に対し閉鎖し、有利な通商を独占企業として奪っていた。その虚を衝く方法を切り開くのは商業行為であるのと同時に、キリスト教の十字軍行為ではないだろうか」(シュテファン・ツヴァイク『アメリゴ』)


●2013/12/22 08:54
「1297年。年老いた髭面の2人の男が、どちらかの息子とおぼしき若い青年に付き添われて船でヴェニスに到着した。この3人はリアルト橋の近辺では見たことの無いような異様な服装をしていた。長くて厚い上衣は毛皮で縁取りされ、随所に奇妙な房を垂らしていた。更に奇矯なことは、彼らの風体はまさに外国人以外の何者でもないのに、彼らがポーロという名前でヴェニス人だと言い張り、真性のヴェニス方言を操ったことである。彼らは法外の物語をたくさん喋ったが、もちろん彼らの話を真面目に受け取る者は無かった。ヴェニス人は彼らの話に熱心に耳を傾け、そして大いに笑った」(シュテファン・ツヴァイク『アメリゴ』)


●2013/12/22 05:03
「西暦1300年。欧州は、視線を遮っていた神学の頭巾を脱ぎ捨てた。いつもただ瞑想するだけでは意味がない。いつもただ古い書物を巡って新しいスコラ的な解釈を議論するのも意味が無い。神は創造者である。神は人を自身の似姿にあわせて創り給うたのだから、神は人間も創造者であることをお望みである。すべての芸術・学問においてギリシャ・ローマが模範として遺されているが、おそらく我々はすぐにこの水準に到達できるであろうし、あるいはこれを凌駕することも可能かもしれない。だがしかし、この解放された精神に対して、大地はなぜかくも狭隘でありつづけるのか」(シュテファン・ツヴァイク『アメリゴ』)


●2013/12/22 04:44
「西暦1200年。一旦は奪取できた聖なる墓所も、再び失われてしまった。十字軍は失敗に終わったが、しかし空しくはなかった。欧州はこの遠征で深い感動を受けたからである。自分の力を感じ、自己の勇気を測り、そして再びこの世界にはいかに多くの新たな別のものが神の空間と故郷を持っているか、則ち異なれる天の元に別の空間・別の果実・別の織物・人間・動物・風習のあることを発見したのである。自分たちは世界の片隅でいかに窮屈に重苦しく暮らしていたか、そしてサラセン人たちはどんなに豊かに、洗練された豪奢な生活を送っているかを目にして驚愕し、恥じ入ったのであった」(シュテファン・ツヴァイク『アメリゴ』)


●2013/12/22 04:32
「西暦1100年。いや、世界は滅びなかった。神はもう一度人類を憐れみ給うた。人類は生き続けることを許された。人々は神の恩寵に対し感謝を捧げねばならない。己が感謝の念を祈りの手の如く天に向かって差し上げねばならない。こうして大教会堂・大聖堂、あの祈祷の石柱がそそり立った。人々は神への仲介者キリストに神への愛を表明せねばならない。その墓所が異教徒の無道な手に委ねられていることに、もはや堪えられようか。騎士たちよ、立て。信仰深き者たちよ、立ち上がって東へ向かえ。城を、町を、村を出でよ。国を超え、海を越えて前進せよ」(シュテファン・ツヴァイク『アメリゴ』)


●2013/12/21 17:51
「西暦1000年。世界は重く鈍い眠りに閉ざされている。眼はあまりに物憂く、五感はあまりに疲れすぎている。人の精神は長い瀕死の病の後のように麻痺し、人が世界について知っている事は何一つ無い。奇妙なことに人間は以前知っていたことを全て不思議に忘れ去ってしまっていた。読み書き計算する方法も忘れ果てた。王や皇帝でさえ、自分で羊皮紙に署名することができなくなっていた。学問は木乃伊となった神学となって枯れ果て、全地平に見通しの利かぬ濃霧が立ちこめている。城や町の城壁の中に人は潜んで、東方から幾度となく侵入してくる野蛮なものたちに対抗するしかなかった。人々は窮迫と暗黒の中に敢えて勇気をいだかずに暮らしていた」(シュテファン・ツヴァイク『アメリゴ』)

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