Quantcast
Channel: オセンタルカの太陽帝国
Viewing all articles
Browse latest Browse all 184

ぼくのなつやすみ。

$
0
0


やっぱり私は未完成記事は完成できないみたいですね。悲しい。
決して暇が無いわけでも意欲がなくなっているわけでもないのに、どうしてなんだろう。
…といいますと。
いいわけをいいますと。
今の私は、ヒマが適度にあって、なおかつ二日に一度は仕事で他に泊まってる、というのが悪いんだと思います。小さい頃からの性分で、何かをやる時はさまざま調べ込みたいんです。で、時間はあるから、調べたいことの毎に次から次へ本を読むんです。それはそれは本をたくさん読んでいるのです。でも二日に一度は家にいないので、きちんとした文章にまとめる手間が取れないのです。
過去の自分に較べて非常に充実した生活を送っているので不満は無いのですけど、調べたことをそのまま形にせずに流しているだけになっているのが、少し悲しい。
どうも、書いていないことの方が面白いことがたくさんあってるんですよ。
雲見では磐長姫の山に登ったんですが富士山は見えませんでした。波勝崎ではサルよりもおっさんの方が面白かった。松崎の帰一寺の御住職からは毎月ありがたいはがきが送られてくるようになりました。(たまたま暇そうだった御住職から一山一寧についてのおもしろい話をたくさん聞いたので記帳したら、「強制的に毎月はがきを送るようになりますよ」と言われた。ありがたやありがたや)。山の上の宝蔵院には行ったが暗くなりすぎて安良里の大聖寺には行けなかったのでまた行きたい。富士宮の村山浅間では2000円もする姫様の護符を買ったのですけど、あまりに大きすぎてA3の額を買ってきたのに入らなかった。いまでも丸めて部屋の隅に置いてある。人穴浅間では、「車でくぐると必ず事故に遭う」と評判の鳥居にわざと車で通ったら、翌日本当にウチの会社の駐車場で構造物が破壊される“事故”が起こった。(私自身には何もありませんでしたが)業務上お客さんに“数十万”の修理代金を請求せざるを得ませんでしたが、あれってわたしのせいだよな。人穴でとてもおもしろい案内人の人に出会ったこと。「清さん」には必ず話を聞いた方が良いです。すごくおもしろい方です。人穴には「芝山浅間」という知られざるもうひとつの浅間社がある。戦時中ここが陸軍の演習場になって村人は強制的に移住をさせられ、人穴浅間は芝山というところに移転した。戦争がおわっても村人の大半は故郷に戻ることを拒否し、(それほど人穴地区は貧しい土地だったってことです)人穴の大事なものは今でも芝山にあるんだそうです。いつかそこにもいかなきゃね。ていうか許すまじ日本軍。仁田忠常遺跡に砲弾を撃ち込むつもりだったのかよ。(※私は自衛隊大嫌い主義の偏見を持っている人です。戦争はすべてを破壊するから。悲しみしか生み出さないから。ガンダム大好きだから) 人穴の洞窟は去年から立ち入り禁止になってるんですけど、度重なる自然の災害のせいで崩落の危険を感じた清さんたちが補修の必要のためにカメラを持って調査写真をたくさん撮りまくって穴から出たら、その間に県によって「立ち入り禁止」の柵が設置されていたという。(連絡は全く無かったそうです)。だから清さんは人穴内部の明晰な写真をたくさん持っているそうです。あくまで今の入洞禁止は一時的な措置で、必要な費用を確保でき次第(それが一番難しいのだけど)ちゃんと補修して入洞できるようにしたいのだそうです。なんといっても人穴は信仰の重要な聖地ですからね。仕事柄清さんは富士講信仰についてとても詳しいです。このとき私は村山浅間で見た“大棟梁権現”を富士講の角行さんだと勘違いして思い込んでいて“天狗つながり”でここを訪れたんですが(※正解は“大棟梁権現”は末代上人)、だから清さんと私の話は非常にかみあわなかった。清さんは村山浅間のことをとても嫌いみたいでした。6月はふたたび京都の愛宕山に登りに行きました。天狗好きの人は愛宕山へは月参り(できるかっ)。長慶天皇と後亀山天皇の御廟と楠木正行と足利義詮の首塚(…おい)と豊臣秀頼の首塚を巡りました。「伊豆の宝鏡院の謎めぐり」を今でも私は忘れてはいませんよ。松尾大社の天狗岩を見てきました。浜松の守護神・松尾社の御神輿もちゃんと見に行きました。松尾大社の“お酒資料館”(無料)はちょうど16:30の閉館時間で目の前で閉められました。いやん、また来るぞ。愛宕(おたぎ)の念仏寺は五百羅漢が有名なのですけど、なかにひとつだけ“天狗の羅漢”があったのですよ。この天狗を見つけたら人は羽が生えるほど絶対のしあわせになれまから、行った人はさがしてみてくださいね。



と、全部を流しておいて、7月の休暇は富戸海岸へ行きました。
一ヶ月に一回は伊豆へ行くのが今の私の目標です。(今回は三ヶ月ぶりです)
今回は三ヶ月前に泊まった民宿にまた予約を取りました。




今回の伊豆高原行きの目的はこれです。
この本には全部で139の伊豆の頼朝伝説の遺跡のリストが載っていて、わたくしも折を見ては訪問を繰り返して、いずれは探索全制覇したいと思ってはいたのですが、昭和54年編纂という比較的最近の本なのに、今ではどこにあるのかさっぱり分からなくなっている場所が多い。
それが、ネット上で八幡野の「蹄石」について記述しているサイトを見つけたので。
地図もバッチリ

で、139もの頼朝を挙げている「伊豆の頼朝」では、対島村の「頼朝の馬蹄石」については記事が重複しているのです。

(21).馬足石(伊東市八幡野)
「伊東市八幡野から、赤沢に至る山道の右側に、馬足明神と称へられる小祠があるが、此小祠の傍に馬蹄形に似た跡を印した石があるのを、俚俗に、頼朝の馬足石と呼んでゐる。これは、昔、源頼朝が、馬蹄を此石に留めた痕跡だといふことで、不思議にも今に摩滅しないで存してゐる。(『伊東栞』)。本郡、馬蹄石といふもの、中郷村松本、川西村小坂、戸田村戸田、西豆村八木沢、函南村丹那、韮山村寺家、田中村三福、上狩野村湯ヶ島、下大見村下白岩、中大見村冷川、封馬村八幡野・赤沢、及び賀茂郡にて、城東村白田、朝日村田牛、南崎村下流など、その他に分布されてゐる。(『伊豆の伝説』)」

(26).馬足石(伊東市八幡野)
「伊東市八幡野から赤沢に至る山道の右側に、馬足明神の小祠があるが、その傍に馬蹄形に似た跡のある石がある。昔、頼朝が馬蹄をこの石に留めた其痕だといふ。(『伊豆の伝説』)」



上のサイトで見た写真を手がかりに、探索へ向かいます。



場所は「椎の木三本」のすぐそばだそうです。
この道路は「海沿いの抜け道」(私は“上の道”と呼んでいた)と呼ばれる細い道で、伊豆で働いていた頃は毎日のように通っていた道だったんですけど、そんな場所あったっけ?と怪訝に思いながら行ってみますと、おお! 看板があった。わかりやすい!
椎の木三本だって看板ができたのはつい最近(私が浜松へ引っ越したあと)ですから、それと前後してこの看板が作られたのでしょうかねえ。
伊東市の人たちが頼朝遺跡の保全に積極的なのは、とても喜ばしいことだと思います。なんといっても『平家物語』『源平盛衰記』では伊東市の人々は主役?から見て敵役の側にあたるのですからねえ。そういう人たちを救う『曽我物語』という素敵な(?)ものがたりもありますのが面白いところなのですけど。(とはいえまだ場所が不明なものも数多い)

ともかく「頼朝の蹄石」はおかげでとてもわかりやすくなっておりました。



案内板より。
★頼朝の馬蹄石★
「平治の乱の後、伊東祐親支配下の伊東に流された頼朝に因んだ史跡はこの地に多くある。ここ下田街道東浦道に面する小さな祠の前に露出した石は頼朝の馬蹄石といわれるものである。岩に刻まれた馬の足跡は頼朝の愛馬生月(いけづき)のものと言われる。
文化12年(1815年)伊能忠敬指揮する測量隊がこの街道を通った際に残した測量日誌にも頼朝公馬蹄石と記されている。近くには股野景久と真田与一が投げ合ったという巨石があるほか頼朝が狩りの時に幕を張ったという大幕山や頼朝が鬢(びん)を洗ったという鬢水の伝えも残されている。
伊東市健康保養地づくり実行委員会・伊東自然歴史案内人会」

看板・案内板は新しいものだとしても、この祠自体は私がびゅんびゅん車をかっ飛ばしていたあのころには当然存在していたのですよねえ。おそらくは江戸時代からこの場所にあったのです。ゆっくり辺りを見回しながらのんびり歩くことの重要性も思い知ります。



が、上記サイトの古写真(印刷して持ってきていた)と見比べてみると、なんか雰囲気が違います。石の形が違うし、構図も違う。
案内板には「小さな祠の前に露出した石」と書いてあるからこれだと思ったんですが、本当にこの石なのかな。
岩に刻まれた跡も「馬蹄」というにはやけに形がハッキリしない。



うーーむ、できるだけこの古写真に構図を似せて写真を撮ろうとすると、こうなります。



小祠は作り替えられているようで形が違うのですが、こう見ると、右側に少し露出したとがった岩がその石なんじゃんか、と思ってよくよく見てみると、その石もなんか違う。この石は馬蹄石なんかじゃ無い。



こんな(古写真に載ってるような)細長い岩はこの付近には無いぜ。
古写真の方をよくよく見てみると、木が生えているし、木と小祠の間が少しぼやけておるので、「もっと引いた場所から撮った写真じゃないの?」と浅子さんは当然思うと思いますけど、振り返ってみるとそこはもっと巨大な岩がごろごろころがっている登りにくい場所で、その転がる岩群はそれこそどれが馬蹄石なのかもっと迷ってしまうような様相です。昭和10年に生えていた木が今も同じ状態であるわけがないじゃない。(意外にもここは住宅地)



そもそも案内板には「小さな祠の前に露出している」と書いてあるんですからね。



一応うしろの崖にのぼって撮ってみた写真。あんなに祠が小さくなってしまう。
結局の所、最初に撮った写真が馬蹄石だと思うしか無い。という結論に至りました。



とはいえ、この岩だってあるのは祠の正面じゃ無いんだけどな。
いいんですっ。探索完了っ。
きっと昭和10年から少し場所が移動したんだよ。



上の地図のうち、カッコ付きの黄色い文字で書いてある遺跡が、また私が場所を確定できてないものです。まだまだ先は長い。定期的に伊豆高原には通わなければなりませんなッ。


現在、情報収集中。


(7).法泉庵釈迦堂(伊東市川奈)
「伊東市川奈区字東小路にある。建久年間頼朝が伊豆を遊覧された時、川奈村の海に光明が輝いた。不思議に想はれて村里のものに海底を探らせた所。石の釈迦尊が出た。そこで安置すべく一宇建立の仰せがあり、建造されたのがこの堂守である。(『小室村誌』)」

…法泉庵は現在は場所が不明なようです。


(37).鬢水(びんみず)(伊東市赤沢)
「大幕山の山麓の、とある岩角の小孔から、涓涓として流れ出づる清水を、俚俗に呼んで、頼朝の鬢水と言ってゐる。昔、源頼朝、此処を通られ、鬢の毛を刷らふと思はれて、水を索められたけれども無かったので、薙刀の石突をかりて、そこの岩面を衝かれたところ、不思議や、其処から、冷水迸り出でたので、用を辨じ終った。今鬢水と呼ばれる小孔の清水がそれで、今に至る迄、涸渇しないのだといふことである。(口碑)
『伊豆誌』には「平井村(※田方郡函南村平井)の東方、鬢の沢に、鬢田の泉あり、源頼朝用ゐて鬢水とす」といふ記事が見え、此地方の口碑には、頼朝蛭ヶ小島より、心願があって、伊豆山権現に参詣のため、此辺(鬢の沢の地、熱海街道に沿ひ、太場(だいば)を去ること二里余の地。今地蔵堂があり、鬢田山法伝寺と号してゐる)を通られた時、とある地蔵堂(今の鬢田山法伝寺)の堂の傍に、泉井があるのを見られて立ち寄られ、休息の後、鬢の乱れを掻き上げた事などあったと言はれてゐるが、別に「法伝寺縁起」といふものには、其折、戯れに、懐中から、柳楊枝を取り出されて、「我心願成就すべくば、此柳根を生ぜよ」と仰せられて、鬢水の側に押されたところ、後に、此柳、根を生じて繁茂した。で、世に、これを逆柳と言ってゐた、とあるものも、百年前に、既に跡かたもなくなり、泉井も、又埋れて、現時は、天明年間の再建といはれる堂があるばかりだといふことである」

…赤沢の「大幕山」がどの山なのかわからない。


(58).御屋敷(伊東市)
「肥田の西部の中央に、鎌倉時代鞠を以て頼朝に侍した肥田八郎直宗の屋敷趾がある。又、この字に二ツの小さな塚があるが、これは肥田八郎直宗、同次郎景明の墳墓であると伝えられ、中古、この塚の近傍から刀剣器類を掘出した。この近傍の小字に、下屋敷、城ノ腰、城関、馬場、殿藪等ある。(『小室村村誌』)」

…肥田氏の故地は函南の「仁田」の隣りだと思ってたんですけど、頼朝の頃には八幡野に移っていたんですって。八幡野の肥田ってどこ?


(120).大幕山(伊東市赤沢)
「大幕山は、伊東市の赤沢にある高山であるが、昔(安元2年)伊東入道祐親が、奥野の狩座の時、こゝに、大幕を張つたといふので、此名があると言はれてゐる。(口碑)」

…大幕山ってどこだよ。って思ったんですけど、赤沢と伊豆大川の境にある天国的な赤沢別荘地の一角に「大幕」っていう地名があるらしい。だとするとここは「遠笠山」のかなり下の方です。そもそも「巻き狩りがよくされた奥野」っていうのがよく分かって無くて、今では伊東中心部を流れる松川の上流に「奥野ダム」というのがあるので自動的に「奥野の巻き狩りがあったのはココ」とされているのですけど、この巻狩りにまつわる遺跡がたくさんあるのは山を挟んだ八幡野の付近だという。(一方で反対側に少し行った「柏峠」にもこの時の遺跡がある。奥野の巻狩りはとても広い範囲でされたってことです。)


(121).手投石(伊東市八幡野)
「対島(たじま)村八幡野の石脇畠に、高さ六尺、広さ八尺余の大石を、手投石と呼んで、俣野五郎と真田与一とが、力を試みるために投げた石だと言ひ伝へ、今は、神に崇め、小祠を立てゝゐる。(『大日本風土記・伊豆』)
『伊豆志』は、このこと、「仮説なるべし。」と言ひ、『増訂豆州志稿』は、「尚、倉骨沢に、同称の石三個あり」と言つてゐる。或は『曽我物語』の、滝口の三郎が、「青めなる石の、高さ三尺ばかりなるを、(中略) 右の手をさし伸べて、後ざまに押しければ、大石は押されて、谷へどうと落ちて行く。海老名の源八これを見て、東八箇国のうちに、男子持ちたらん人は、滝口どのをよき物肖(ものあやかり)にせよ。器量といひ、弓矢とりては樊噲張良なり。あつぱれ侍や。」と讃められたといふことを、附会して言ひ次ぎ語り伝へたのではあるまいか。(『伊豆の伝説』)」

…実在していたらこれが一番見つけやすそうなのですけど、「馬蹄石」のところの案内板を読むと、近くに実在するらしいな。石脇畠ってどこ? 「倉骨沢」だけが現在も存在している地名です。


(122).拝松(一名御座松)(伊東市八幡野)
「対島村八幡野区岡の路傍にあり。伝曰往事頼朝公が奥野の狩猟の際八幡来宮神社を遙拝せし処にして、今存するもの当時のものなりと云ふ。虬枝偃蹇数畝を蔭す又延命松の称あり。(『田方郡誌』)」

…岡ってどこ?(八幡野は広義に「岡」地域と「浜」地域の二部分に分かれていたそうです)


(127).八幡三郎行氏遺蹟(伊東市八幡野)
「八幡三郎行氏について、増訂豆州志稿には、名迹志に然云へりとして中大見村八幡ならんとし、豆州志稿原本の八幡野(対島村)説を誤謬なりとせられしが、大見地方には之に関する口碑も伝説もなきに反して、八幡野地方には、宅址墳墓と称するもの現存するを思へば、豆州志稿原本の説可なるに非るか、八幡野村誌に八幡三郎宅址は八幡野区西方畑地字天神にあり、往年甕を掘り出す、内に古銭数貫を満たす、又押印を得、三郎の鎮守神として祀りて天神と称す、社木の根株今尚存す、而して墳墓は八幡野塔の前と云ふ所にありと記せり。而して又大見八幡二人にて河津三郎を射る時、「八幡三郎大見に向て云けるは、いざいざ脇道を駆け抜け、先きにて相待ち、物陰より一矢射んと思ふは如何と云ければ、尤かなとて谷の細橋、木樵の通路を是かしこと走りぬけて、赤沢山の麓八幡山の南の尾崎に到て、小松陰より椎木三本楯に取て、鋒矢番ひ今や今やと待つ云々。」と云ふ記事によれば、八幡の方地理に詳しきかが如し、之れ亦参考とするに足らん。椎木三本は河津三郎の墓の西方によき矢頃の距離にあり。其の太さ凡そ二丈余、根株は一本にして樹梢三本に分る、現今は一本のみ存し、他二本は枯死せり。(『田方郡志』)」」

…八幡の三郎については、中伊豆町の大見郷の中心地・八幡がその所領だという説もある。
中伊豆の八幡は「はつま」と読み、伊豆高原は「やわたの」なんですけどね。
この記事を読むと「八幡野」説の方が有力な気もしてきますが、大見小藤太と八幡三郎は伊東祐親に敵対する工藤祐経の側の人で、工藤祐経はおそらく伊東市の北半分を領していたはずなので、八幡野はむしろ祐親の与党の方が強い地域だったんじゃないかとも思う。


さて、今回泊まったのは富戸駅のほどちかくにある小さな民宿です。
泊まるのは今回2回目なんですけど、すでに「ぜったい常連になろう」と誓ってしまっているくらい気に入っている宿。何が気に入っているのかと云ったら、料理の素晴らしさです。



…この写真を見てひょっとしたら浅子さんが「どこが?」と思ってしまうんじゃないかと危惧しますが、本当にすばらしいのです、魚尽くしが。宿泊代は9700円(税別)。しょぼくれたおっさんの一人旅でも歓迎してくれる。



今回も「魚だけで腹をいっぱいにしたい」と思って旅行を決めましたからね。ワンダホー。



メインの魚はイサキでした。伊佐幾は気賀のマックスバリューでも良く売ってますが、めったに買うことは無い。(釣り人のための魚だと思っているから)。でもビールにめちゃくちゃ合う魚ですなや。
鶏魚うめー。

(ちなみに前回来た時はタイでした。来る度に違うのかな)


(※これは1月の富戸の魚)

魚についてはいろいろ詳しく聞きました。



マグロは興味がないのでスルーしようとしましたが、左奥の赤身、これは「大好きなカツオだ」と食べて思ったんですけど、実は本マグロなんですって。手前はキハダマグロ。なんと、私はマグロと鰹の違いも分からないようになっちまったか。伊豆で本マグロって獲れるんでしたっけね。(※どこにでもいる魚です)



いか、やや堅くこりこりしていて非常に美味しい。
「何イカなんですか?」と訊いたら「普通のイカだよ」と言われた。
今の時期の伊豆の普通のイカって何なんだろう。
アオリイカやヤリイカだったらそう言うでしょうし、さっきたまたま行ったスーパーナガヤで売られていた「ソデイカ」かな?(ソデイカも高価なイカだという。)



これ! 非常に美味だった!
訊いたら鈴木ですって。鈴木は浜松だったらクラスの10人は鈴木君だったというくらい誰でも大好きな魚ですが、私が食べてるのはいつも浜名湖産の汽水の鈴木康子さんだからなぁ、磯の濯ぎさんは知ってるのとは全然違った。もっちりこりこり。もちスズキ。



で、これが全然分からなくて、ねっとりまとわりつく脂がとっても特徴的なので、「もしかして深海系のなにか?」と思ったんですけど、訊いたらサワラの刺身なんですって。えええー。まるでトントロをバーナーで軽く炙って胡椒を振ったかのような味わい。



伊豆と言ったら金目鯛の煮付け。もちろん文句の付け所が無いくらい美味しい。



この葉っぱはモロヘイヤですって。ナゼ?



伊豆高原でアサリってどこで採るんだろう?(浜名湖的優民思想に害されている)



サザエさん! サザエさん!
これ絶対旨い栄螺じゃねぇか。
奥浜名湖でサザエって何で採れないんだろうな。
関係ないけど、、 心配しておられる方もいるでしょうのであへて言っておきますが、現在奥浜名湖地域で起きている『浜名湖連続バラバラ混浴湯けむり殺人事件』において、被害者は私じゃないですよ! まだ生きていますよ!
ついでに心配してらっしゃる方もおられるでしょうから言っておきますけど、犯人も私じゃないですよ! わたくしその日はちゃんと伊豆の城ヶ崎の吊り橋にいました! 証人もちゃんといます! 輝くトラペゾヘドロンのかけらなんて伊豆高原のアンモナイト博物館とかで手に入れてなどいませんったらッ。(←いま、『闇のトラペゾヘドロン』という本を読んでいたりして。星の智慧派って今は南アルプスの周辺に勢力を張っているんですって)。で、バラバラ遺体の首が発見されたのは私の家から徒歩2分のところなのです。警察はまだ私の所には来ていません。ここは戦国時代に数百人の気賀の村人が家康によって虐殺された場所なので、「あ~~、とうとうまた起こったか」という感じです。真の犯人は家康と康政と崇伝和尚です。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 184

Trending Articles