
しまった20000文字で終わらなかった(笑)
もう少しゆたゆた続けます。ついでに読書記録も。
宝筺院では誰かに詳しいお話を聞きたかったんですけど、誰も人がいませんでした(受付の人に聞けば良かった)。前に書いたこととほぼ同一のこととなってしまいますけど(つまりこの10年間でほとんど新しく知ったことが無い)、宝筺院でもらったパンフレットの文章をコピーしておきますね。
「宝筺院」 白河天皇開創 楠木正行・足利義詮 両菩提所
《略史》
「平安時代に白河天皇(1053~1129)により建てられ、善入寺となづけられた。南北朝時代になり夢窓国師の高弟の黙庵周諭禅師が入寺し、室町幕府の二代将軍足利義詮の保護を得て伽藍が整備され、これ以後は臨済宗の寺となった。貞治6年(1367)、義詮が没する(38歳)と、善入寺はその菩提寺となり、義詮の院号に因み寺名は宝筺院と改められ、足利幕府歴代の保護もあって寺も隆盛であったが、応仁の乱以後は経済的に困窮し次第に衰退し、明治の初めには廃寺となったが、五十数年をへて復興された」
《小楠公首塚由来》
「正平3年・貞和4年(1348)正月、河内の国の南朝の武将楠木正行は四條畷の合戦で北朝の大軍と戦い討ち死にし(23歳)、黙庵はその首級を生前の交誼により善入寺に葬った。後にこの話を黙庵から聞いた義詮は、正行の人柄を褒めたたえ、自分もその傍らに葬るようにと頼んだ。明治24年(1891)塚の由来を記した石碑『欽忠碑』が建てられた」
《伽藍復興》
「大正6年(1917)楠木正行の菩提を弔う寺として宝筺院が再興された。屋根に楠木の家紋・菊水を彫った軒瓦をもちい小楠公ゆかりの寺であることをしめし、古仏の木造十一面千手観音菩薩立像を本尊に迎えた。現在は臨済宗の単立寺院」
《楠木正行・足利義詮墓所》
「石の柵に囲まれて二基の石柱が立つ。五輪塔は楠木正行の首塚(首だけを葬ったから)、三層石塔は足利義詮の墓とつたえる。墓前の石灯籠の書は富岡鉄斎の揮毫。「精忠」は最も優れた忠。「碎徳」は一片の徳、即ち敵将を褒めたたえその傍らに自分の骨を埋めさせたのは徳のある行いだが、義詮の徳全体からみれば小片にすぎない、という意味で義詮の徳の大きさを褒めた言葉」
《歌碑(楠木正行辞世の歌)》
「かえらじと かねておもへば梓弓
なき数に入る 名をぞ 止むる」
《庭園》
「書院から本堂の周辺は白砂・青苔と多くの楓や四季折々の花のある回遊式の庭園が広がり、晩秋にはみごとな紅葉を見せる」

京都の寳篋院においては宝筺院殿(義詮公)よりも小楠公正行(しょうなんこうまさつら)の方を高位に置いているのがよくわかると思います。宝筺院という寺名なのに宝筺院殿の御墓は宝篋印塔ですらないし。
わたしが何を問題としているのかというと、「足利幕府第二代将軍である義詮公は「宝筺院殿」という号を死後に贈られたが、その“宝筺院”の由来がはっきりしていない」ということです。もちろんこの「はっきりしていない」というのは、史料が全く無いということではなくて、田舎者のただのおっさんが手に入れられる本にはその理由が書いてない、というだけの話なんですけど。専門家の人による立派な専門書にはどこかに「宝筺院殿の建てた宝筺院というのがどこなのか」ということがバッチリ書いてあるに違いない。私はそれを探さないとならないのです。もしかしたらそれは宝筺院殿が少年の頃に活躍していた関東地方の入り口にある伊豆三島の「宝鏡院」なのかもしれない。
室町・江戸の将軍達の「院殿号」というのは、その人が生前にゆかりのあった“菩提寺”に由来していると思うのですけど、義詮の場合はその墓所のある当・宝筺院が「後世になって義詮の院殿号にちなんで寺名が改称された」となっているのがわたくし的に問題なんですね。じゃあ、もともとの宝筺院はどこにあるんだと。
太平記の義詮の葬儀の記述を見ますと、「天下は久しくこの将軍のたなごころにあって、この方の恩を戴き徳を慕う者は幾千万もいた。歎き悲しむ者は多かったがもうそれはどうしようもなかった。泣く泣く薨礼の儀式をいとなむため、義詮公の遺体を衣笠山の麓の等持院に奉遷。5日後の12月12日の午刻に、荼毘の規則を調えて、仏事の次第を厳粛におこなった。鎖龕(さがん)は東福寺の長老・信義堂、起龕(きがん)は建仁寺の沢竜湫、奠湯(てんとう)は万寿寺の桂岩、奠茶(てんちゃ)は真如寺の清ギン西堂、念誦は天竜寺の春屋妙葩、下火(あこ)は南禅寺の定山和尚がおこなった」とあって、ここには「宝筺寺」の人が出てこないので、「そもそもの宝筺院など無かったのだ」という考え方もできる。どうなんでしょうね。関係無いかも知れないけど人形寺として有名な上京区の宝鏡寺はここに出てくる真如寺と関わりが深く、義詮の死後1、2年後くらいに建福寺という名を「宝鏡寺」という名に改めたとされています。

宝筺院には寺宝として楠木正行の木像と非公開の足利義詮の肖像画があるのですけど、Wikipediaによると、この義詮像は将軍の肖像画としてとても貴重な物なのだけど、最近の説では実はこの肖像画は義詮ではなくて尊氏であり、神護寺にある「伝・藤原光能」の像が義詮のものであるという人がいるんですって。おもしろいね。ご存じのように有名な「足利尊氏騎馬像」が本当は高師直で、神護寺の伝・源頼朝像が実は足利直義で、平重盛が足利尊氏だとされているそうですからね。もう誰が誰で、何が何なのだか。藤原光能というのは誰だったのだろう?
実は宝永2年(1705年)刊の『山城名勝志』には宝筺院について不思議なことが書いてある。
「善入寺 大指図 清涼寺西南の勝蔓院の東にあり、開基は黙庵和尚
義堂和尚語録によると、黙庵和尚の十三回忌は善入寺で行われ、埀語があった。永享日録によると永享7年11月9日に嵯峨の善入寺が郁子(=むべ、アケビ)を献じた」
「寶篋院 天龍寺の東南にあり黙庵が諭す場所だった。宝筺院義詮公が○○する為に開創する所なり
補菴京華後集(文明9年丁酉に宝筺院で拈香仏)によると、謹みて按ずるに延文戊戌の年、大居士は初め鈞軸に乗ったとき(※秉鈞軸=権力を握るの意? 延文3年は足利義詮が征夷大将軍に就任した年)たまたま善入の黙菴が本寺にいたので、政務の暇を見て台駕を入れて、山チ訽ス法要チ咨ス。(=恥ずかしがらずに何でも相談した、の意?)」
現在の宝筺院は天龍寺の東北・清涼寺の西南にあるのですから、今は「宝筺院=善入寺」なのですけど、宝永2年の時点では「善入寺」と「宝筺院」は別々の寺だった?「天龍寺の東南」とは、現在の京福電気鉄道嵐山本線嵐山駅付近の外国人がごったがえす小洒落た土産物外のあたりだったのでしょうか。

化野念仏寺のすぐちかくにある後亀山天皇の御廟。
後亀山天皇は長慶天皇の弟で名前は熙成(ひろなり)。勝手ながら兄の長慶天皇とはなんだか仲が悪かったような印象を持っている。「熙成」って名前は「ほそかわごき」っぽいのですよね。この帝も生まれながらにかなり不遇で、最期付近の境涯がまたよく分かっていないのですけど、陵墓は長慶天皇のよりもさらに立派で、とても安心した。うしろの木立がとても圧倒的で、かなり観察した思い出がありますけど、写真にはほとんどその威容が撮れてはいませんでした(笑)。後亀山天皇は愛宕山の麓に隠棲したという伝えがあるのですよね。
●2015/12/15 18:12
「法は私を廃するためにあります。令が良く広まれば自分勝手な人はいなくなります。個を顧みることは世が乱れる元になります。岩窟に棲んで学問をするようになると、人を説得するためか法と行政の悪口を言い、世の常識とは逆らう事を言うようになります。法は世を治めるためにあり、私はそれを乱すためにあると言っても過言ではありません。ところが現代では、聖人とか知者とか言われる人たちが集まって勝手な言葉を並べ立て、上に対して不遜な態度を取るのに上の人たちはそれを禁止せず、却ってそういう言論を追いかけて賞を与えたりして喜んでいる。これでは自分で自分に従わず法も守るなと言っているようなものだ。そして賢い人が在野にいることを喜ぶようになり、姦人は賞金によって富むのです」(『韓非子』)
●2015/10/22 15:58
「景虎公は晴信の戦術を批判した。武田晴信の弓矢は最後に勝つことを重視したもので、確かにそれは国を侵して獲る秘術かもしれぬ。しかし我らは国を取ることは構わない。何度も繰り返し戦うこともしない。攻めたら一気に勝負をかけて一戦を決めるのだ。源義経が弓矢の名手だったことは有名だが彼の知行は伊豫國ただ一国、しかし弓矢の名はまさに日本を統治した相模入道(北条高時、もしくは北条義時、あるいは源頼朝?)を遙かに上回っていた。それは、せずにすまされぬ戦さを、決して退かず間隔を置かずしておこなったことにあるのだ。そう言って即座に武田晴信と戦う準備を始めた」(『甲陽軍鑑』)
●2015/10/22 14:21
「偉大な人物とは、自分の偉大を自覚しそれを信頼する課程で、奴隷根性を持つ人のみを支配すること、コロポックルの群れの中で自分だけが巨人であろうとすることを良しとはしません。彼は自分が支配しようとする相手を価値のないものと考えることはしないのです。そのような人間は、自分の周りの堕落を目撃して一種の圧迫を観じ、人を尊敬できないことに一種の悲哀を感じるのです。同胞たる人類を向上せしめ、高尚ならしめ、一層立派な光に照らして見得るようにすることが、彼自身の高邁なる精神に快感を与え、彼の最大の享楽となるのです」(フィヒテ『ドイツ国民に告ぐ』)
●2015/10/21 21:24
「大王が病兵・老兵を国に返すと発表したとき、アイガイのエウリュロコスが自分は病気だから還してくれと願い出た。のちにそれがウソだと分かり審問にかけられ、実は彼はテレシッパという女性に恋しその人が海の方へ去るので、その女についていくためにそう懇請したと告白した。次第を聞いて大王はそれはどういう女なのかと尋ねた。すると、職は下賤な水女ではあるが身分は自由人であるという。アレクサンドロスは言った。「お前の恋は俺が取り持ってやる。相手が自由人だと分かった以上、言葉で口説くか物で口説くか、どっちが良いかお前はわかるよな」。・・・大王がこんな手紙を友人たちに書く暇が良くあったものだと驚くほかはない」(プルタルコス)
●2015/10/15 20:31
「シュポーアもまがりなりにもオペラ化したが、それはゲーテの『ファウスト』、クライストの『ハイルブロンのケートヒェン』、クリンガーの『ファウストの生涯、行為、地獄落ち』などの戯曲のアマルガム的な台本にもとづいており、純粋にゲーテにのっとっているとは言いがたい。ワーグナーもオペラ化しようとして果たせず、リストも《ファウスト交響曲》として管弦楽化するのがやっとだった。一方フランスやイタリアなど、ラテン系の国々ではベルリオーズをはじめ、グノー、ボーイトなどが相次いでこれをオペラやカンタータにしている。それらは今でも一般に知られ、またよく上演され、ドイツに大きく水をあけている。ラテン系の作曲者たちは物語的な面白さでこの素材に接し、気軽にそれをエンタテインメントに仕立て上げている」(喜多尾道冬「シューマンの“ファウストからの情景”の成立」)
●2015/10/07 23:10
「クチャ(狩り小屋)でも仮小屋でも、昔の人は裸になって背中あぶりをしたんですよ。背中をあぶるっていうのは身体が一番温まるんです。寝る時は厚着はできるだけしないんですよ。たくさん着たら駄目です。いったん着るものを上から温めると、着てるものが温まるだけなんです。そしたらふーと楽な気持ちになって寝込んでしまうんです。そうすると寒くなって目が覚める時には着てるものが全部冷え込んでしまっていて、寒さを感じ取ったときにはもう火が消えています。これでは風邪を引きます」(姉崎等・片山龍峯『クマにあったらどうするか』)
●2015/10/07 22:54
「韓国人をアイルランド人ーーさらに広く、イギリス諸島に住んでいるケルト族と比較してみた。ケルト族はイギリス人とくらべて一面情緒的で気持ちがあたたかいと普通思われているが、反面また情熱的でけんかっぱやいところもある。早い話が、ちょっと一杯ひっかけただけでもたちまちメートルが上がるといったふうで、言葉をかえれば個人主義者。国のことよりも、自分や家族、あるいは部族の方を大事にする。イギリスのように力を合わせて外敵を追い払うことができない。内輪の争いに気が行きすぎている」(ピーター・ミルワード『イギリス人と日本人』、昭和53年)
●2015/10/05 18:33
「ボノボがチンパンジーの亜種でなく独立種と認められるようになったのは、皮肉にも第二次大戦の結果であった。1944年ミュンヘンに近いヘラブルンネルが連合軍の空爆を受けた。町の動物園は幸いなことに直撃弾は受けなかったが死者は出た。動物たちの何匹かが近くで降り注いで炸裂する大型爆弾や間断なく発射される高射砲の轟音で、極度の恐慌に陥り死んだのだ。翌朝、飼育係達たちは死んだ動物たちを収容しながらあることに気づいた。チンパンジーで死んでいたのは小さな亜種とされたチンパンジー(実はボノボ)ばかりだったのだ。そういえば小さなチンパンジーは常に臆病で、大きな兄弟を常に避けており、両種は決して交わることが無かった。この報告を受けてボノボの心理学的・行動学的研究がなされることになった」(今泉忠明『進化を忘れた動物たち』)
●2015/10/05 17:58
「ロマン派時代のオペラは結末は大抵悲劇で、男女ともに没落する。ヘンデルの時代ではそうはしないが、ヘンデルの場合最高潮の場面でもっと微妙に悲劇的なことが起こる。犠牲となるはずだった男性は危うく難を逃れ、予定通りにハッピーエンドで幸せなカップルが誕生するのだが、しかしヘンデルを動かしているのは魔女(蠅ではなくて蜘蛛)なのである。ヘンデルは自分のオペラにおいて常に魔女(超自然の技を使うにかかわらず彼女が望む愛を常に得られない存在)に最上の音楽を与えるのである。台本作者にとっても聴衆にとっても魔法オペラは見て楽しいおとぎ話であるが、ヘンデルはそれを悲しい愛の物語に変える」(ウィントン・ディーン『ヘンデル オペラ・セリアの世界』)
●2015/10/03 16:28
「この裁判記録で興味深いのは、グーテンベルクが鏡職人とされていることである。このころ聖地アーヘンでは7年おきに聖遺物の御開帳がおこなわれていた。十字架にかけられたキリストの腰布や洗礼者ヨハネの首を包んだ布と称するありがたい聖遺物を、巡礼者が凸面の手鏡に映して故郷に戻れば、その功徳によって愛する者の病が全快すると信じられていた。たまたま次のアーヘンの御開帳が1439年だと計算したグーテンベルクは、手鏡製造事業の共同出資者を大々的に募ったらしい。ところが彼は計算が苦手で、実は御開帳はこの翌年であったので、出資者たちは激怒してグーテンベルクに激しく迫った。裁判を起こした原告たちをなだめるためにグーテンベルクが内々に披露したのが活版印刷の秘密の技術だったという」(髙宮利行『グーテンベルクの謎~活字メディアの誕生とその後~』)
●2015/10/03 00:59
「宍道湖に佐陀江という場所があり、ここは鮒や鯰がたくさんいる地点で良い場所でしたから、ある人が銀子20枚の運上金で買い受けたいと申し出ました。奉行はここは交通の要衝だから開ければ藩に良いことだと思い報告したのですけど、堀尾吉晴は許可を与えませんでした。のちに家臣の小瀬甫庵がどうしてかと藩主に尋ねました。吉晴は答えました。「土地が栄えるのはいいと思うし望む人がいるのならば応えた方がいいに決まってるんだがね、ただ佐陀江は私の愛しい家来たちの憩いの場所なのだ。鮒と鯰がたくさんいるんだよ。私がもしなにかあった時に真っ先に「死んでくれ」と言わねばならない者たちの、平時に心の癒しとしている場所を簡単に銀子に変えるわけにはいかんのだよ」、と。」(『名将言行録』) ・・・堀尾吉晴には茶の湯などよりも釣りの方を趣味の上位に置いていたふしがある。
●2015/10/03 00:33
「王の前に連れていかれたテミストクレスは平伏したあと黙っていました。王は通訳を通して名を名乗れと言えといいました。彼は答えました。「王よ、ここに来ているのはアテナイのテミストクレス、祖国に追われた亡命者です。私はかつてペルシャの人々に多くの害を与えたゆえ怨まれておりますが、ギリシャを安全にしたのちはこちらが必要以上にペルシャに報復することを止めましたから、貴国にとっても害以上の益を与えた男でもあります。王よ、私がペルシャの人に施した恩恵の証人として私の政敵を引き合いに出して今の私の不運を使って恨みを晴らすよりも、あなたの徳を示すようにしてください。あなたが私を助ければ命乞いをした者を助けることになり、私を殺せばギリシャの敵となった者を殺すことになるのです」」(プルターク『テミストクレス伝』)・・・テミストクレス伝おもしろすぎ
●2015/10/01 10:02
「大阪府立大学の篠田統教授によると、「昔から太平の世には辛口、乱世には甘口の酒がはやる」という。筆者にはまだそれほどの確信はもてないが、あるいは乱世には酒不足のため少量で満足のいく甘口、酒のふんだんにある太平の世にはいくらでも飲めて飲み飽きのしない辛口が要求されるという解釈もなりたつのかもしれない」(坂口謹一郞『日本の酒』)
●2015/10/01 09:15
「マタイ書では「彼は多くの仕事を行わなかった」と書かれた部分がマルコ書では「彼は何も奇蹟をすることができなかった」となっている。それは決してモーシェが力を欠いていたということではない。そう思うことは神への冒涜である。奇蹟の目的とは教会に人びとをつけくわえることで、つけくわえられるべき人びととは、神があらかじめ選んでおいた人びとなのである。従ってモーシェは自分の力を、かれの父が拒否しておいた人びとの改宗には使う事ができなかった」(ホッブス『リヴァイアサン』)
●2015/09/23 21:25
「阿波の太守・蜂須賀家政はときどき家来を呼んで言いました。最近寒いな。足が寒いだろう。だからお前に私の古い靴下をやろうと思ったんだけど、でも靴下っていつも片方だけ無くなってしまうんだよな。今も探したんだけどやっぱり半分しか無い。とりあえずこの片方だけ気持ちだと思って取っといて、と。後日ふたたびその者を呼び出し、「靴下の残りを与えよう」という。このとき、律儀に前の靴下を取ってあった者には、公は賞賛して昇進させるかまたは昇給させたといいます。ただし稀に、前に与えた古い靴下を無くしてしまったりしていた場合には、蜂須賀公は以後その者にそれはそれは冷たく当たったと言います。これは公が家臣を試すためにやっていたことでした」(『名将言行録』)
●2015/09/22 23:14
「口に妙法をよび奉れば、わが身の仏性もよばれて必ず顕はれ給う。梵天・帝釈の仏性はよばれてわれらを守り給う。仏菩薩の仏性はよばれて悦び給う。されば「もししばらくも持つ者は、われすなはち歓喜す。諸仏もまたしかなり」と説き給ふはこの心なり。されば三世の諸仏も妙法蓮華経の五字をもつて仏に成り給ひしなり。三世の諸仏の出世の本懐、一切衆生皆成仏道の妙法といふはこれなり」(日蓮『法華初心成仏鈔』)」
●2015/08/23 20:37
「「即身成仏」ということも、正法というものを明らかにしていく人間が「即身成仏」した人間というような考え方になっていくんじゃないですか。だから27年間の説法が全部「即身成仏」という形になって出て行く。だから芸術的なものはそこから出てこないですよ」「例のヒゲ曼荼羅というのはやはり空海に対抗しようとしたものでしょうね」「しかし、日蓮宗の寺の庭を見ても、建築を見ても、彫刻や絵画を見ても、それは真言や禅系統の寺に較べれば、芸術性というのはいちばん希薄なのではないですか」「それだけ正法に対する情熱というものはきびしいわけです」」(紀野一義・梅原猛『永遠のいのち〈日蓮 〉』)」
●2015/08/23 20:08
「メガマウスザメは鰓孔(えらあな)がとても小さい。同じプランクトンを主食にしているジンベエザメとウバザメは鰓孔はとても大きく、特にウバザメの鰓の穴は喉から背中まで大きく開いている。ウバザメの食事法は単純で、大口を開けたままプランクトンの中を泳ぐだけ。泳ぐと自動的にプランクトンが口の中に流れ込み、水だけが大きな鰓孔から流れ出していく。プランクトンは口の中にある鰓耙という装置で漉し取られるので、あとはまとめて飲み込めばいい。一方ジンベエは、巨大な口と鰓を使ってプランクトンを大量に口の中に吸い込む。では、大きな口を持ち小さな鰓しか持たないメガマウスザメはどうなのだろうか」(仲谷一宏『サメ ~海の王者たち~』)
●2015/08/19 00:49
「堀尾吉晴が言いました。中村一氏が駿河国を賜ったのは小田原攻めで山中城を落とした功によるもので、それができたのは渡邊勘兵衛了が配下にいたからだ。ところが一氏は個人的な事情で了を解雇してしまった。私も今は出雲と隠岐の二国を預けられている。その恩を返すには、了のような名士がぜひとも必要だ。出雲の国土の中で島根郡が一番良い地である。風光明媚の宍道湖を南に、蒼海を北にしていて、娯楽が非常に多い土地なのだ。この地(2万石相当?)を与えると言えば、彼も喜ぶに違いない。と言って使者を使わしたのですが、伊予の国の藤堂高虎と(2万石の)先約があると言って、渡邊勘兵衛了には断られてしまいました」(『名将言行録』)
●2015/08/18 22:14
「この計画の持つ巧妙な間接性は地理上の迂回にあるのではなく、その兵力配分と作戦指導の構想にあった。ドイツ軍は予備部隊と実働部隊を混用することによって初戦の奇襲をおこなう。使用可能な72個の師団のうち53は旋回する集団にあて、ヴェルダン要塞に面する旋回軸を構成するのに十個師団を充当し、フランス国境に沿った左翼にはわずか9個師団しか割り当てなかった。左翼の兵力を最小限にしたのは、まさにその左翼の弱さによって集団の旋回能力を大きくすることを抜け目なく計算したものでもあった。もしもフランス軍が戦力の一番薄い地点のロレーヌでドイツ軍を攻撃した場合、そこでのフランス軍の勢いが深ければ深いほど、ベルギーを通過して行われているドイツ軍の主力の進軍を押しとどめることは困難になるのである」(リデルハート『戦略論 ~間接的アプローチ~』)