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七王国の玉座。

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9月になってめっきりヒマになってしまったわたくしです。
10月11月はさらにもっとヒマになるだろう。

さて、ここ10日ほどわたくしが夢中になっていたのは、『氷と炎の歌』という小説のシリーズでした。
これは日本でも2006年ぐらいに翻訳が刊行されたという人気シリーズだそうで、わたくしも名前ぐらいは知っていたような気もしますが、一年ぐらい前に「改訳新版」が出まして、わたくしは半年ぐらい前にそれを買った。こやつがとてつもなく分厚い小説でして、私も半年間ぐらい少しずつちびちび読んでたんです。
で、10日ぐらい前にようやく第二部「王狼たちの戦旗」の上巻を読み終わりまして、ふと「他の人の感想も読んでみたい」と思ってネット検索してましたら、この小説の米国ドラマ版も発売されていることを知り、アマゾンで注文してみたんです。そしたら翌日の朝届いてビビった。



(※以降の文章は激しいネタバレを含みます)
小説の方は、わたくしは心の中で「米国のグイン・サーガ」と名付けていました。
原著でも第5部までしか出ていないそうで、長さとしたらあのグインサーガには果てしなく及びませんが、雰囲気が似てる。とくに「どうでもいい細部の描写にこだわって話が全然進まないダラダラとした感じ」が。第一部『七王国の玉座』は文庫本にして1200ページに及ぶ大部ですが、マイクル・ムアコックならばこのくらいの内容なら二章で書ききるでしょう。(もっとも栗本薫ならばこの描写と展開に35巻ぐらいかけたでしょう。)
主人公は数人いて、それぞれがてんでばらばらに自分の好きな事をやっています。狭い大陸の北や南や西や東に主人公がそれぞれいて、それぞれ別の物語が同時進行していて噛み合わず、それが交互に語られるという手法もグインサーガに似てる。
また、「作者は主人公級の登場人物には幸せな未来を与えるつもりがない」ことをあからさまに見て取れるところも共通しています。全員が不幸になり、冷静に考えて先の展望があまりありません。

私が買ったのはブルーレイ5枚組全10話の第一部で(それでも8000円弱の格安)、その頃小説の方は第二部の後半に取りかかっていたのですが、何をとち狂ったのか私は第二部の下巻と第三部の上巻を取り違えてしまって、ドラマ版を見ながらそれをちまちまと読み進めていました。第三部の冒頭には作者により「この巻のお話は、時間的に前巻につづいてない部分がたくさんある」と書かれていたので、わたしが読んだ時点からいきなり超展開になっているところがいくつかありました(だって第二部の下巻を読んでないんですから当たり前です)。しかし「作者め、手法を変えたんだな」と思うばかりで、自分の方が間違っているとはしばらく気付きませんでした。登場人物のほとんどがさらに不幸になっていまして、でも「当然この展開も予想できたね」と思うばかりでした。結局、自分が「どうも読んでない部分があるな」とうすうす気付いたのは第三部上巻を半分以上読み進めたあたりでございまして、慌てて第二部の下巻に戻って読み直し始めたものの、「こんなに分厚い(720ページ)のに話はあれしか進まないのかよ」とげんなりした気持ちに襲われました。そこから下巻を読み終えるのに5日もかかったんですよ(笑)
そういえば、十二国記でも『風の万里 黎明の空』を上巻よりも先に下巻を(半分ぐらい)読んでしまった事があります。意外と読んでいるときは勝手に頭の中でいろんなことを補完しながら読んでしまうものですよね。

以下順不同に気になったところを述べます。



物語の舞台となるのは「七王国」という場所です。「ウェスタロス大陸」という名前が付いています。
詳細な設定があるようですが、その設定書が未だ公開されていないので、全体像がいまいち不明瞭。(わたくしは設定マニアなのです)。ウェスタロス“大陸”と名付けられていながら、わたくしにはこの大陸がグレートブリテン島ぐらいの広さぐらいしか無いように思えてならない。(そもそも名前が「七王国」だし)。とはいえ北部と南部では全然気候が違ったり、「ウィンターフェル城から狼の森まで3日」とか「トライデント河からダリー城まで半日」とか「地峡を渡るのに12日かかる」とか「ウィンターフェル城の北部の森から灰色沼の物見城まで数千?ある」(まさか!)とかいう漠然とした描写はちらほらあるのですが、どうなんですかね、わざと地理が詳説されないという気もする。さらに主人公の一人、“失われた王国の女王”デナーリス・ターガリエンの活動の場は七王国の外の土地なのですが、海を越えた遙かな大地の地理は、読者には全くよくわからなくされています。

で、題名にもなっている「七王国」。
七王国と言いながら現在はひとつの王国に統一されています。この物語では各地方は「城」の名前で呼ばれるのですが、「この七王国とは具体的にどの7つだろう」とずっと頭を悩ませながら読んでいました。小説を読みながら漠然と考えたのは、“北の冬の王国”ウィンターフェル城と“王都”のある南東部のキングス・ランディング、それから西部にある“獅子の王国”キャニスター・ロック城、ウィンターフェルとキャニスターの磐山城の中間にある“河の王国”リヴァーラン城、東部にある“岩山の谷間の王国”アイリー城、そして南西部の“豊かな薔薇の王国”ハイガーデン城の6つは確かだとして、あとの1つは何? 南部にある“ドーン”という謎の大国がそうだと思いますが、なんか地図を見てもよそ者扱いされてるようなんですよね。意外と“簒奪王”ロバート1世の出身地・“嵐の王国”ストームエンド城がそうかもしれん。“鉄の王国”鉄諸島というのもあったな。
それが米国ドラマ版では、映像で地図が表示されていました。
えーーっ、なんだこれ。
これによると、「ストームエンド城」とドーンの「サンスピア宮」を合わせた領域が“第七の王国”とされているように見えます。(もっともこの地図ではストームエンドとドーンの間にある“ドーン海”が無い事になっているので信憑性が無いのでもありますが)
そもそも第二部・第三部で重要な拠点となる「ハレンの巨城」ばかりかその遙か南部のあたりまでがこの地図ではリヴァーラン城の領域となっていることになってるんですよね。物語の描写的にそれはかなりおかしい。また“狭い海の東側”の大陸も小説第三部に掲げられている地図といささか違う。このドラマ版は小説第三部の原著が出る前に制作が開始されたのかしら(まさかね)。どちらにせよ、ドラマを見ても「七王国のナゾ」が解明されるわけではありませんでした。
(※さらに、ブルーレイ同包の解説書では、七王国は“狼のスターク家”(ウィンターフェル城)、“鹿のバラシオン家”(王都キングスランディング)、“嗣子のラニスター家”(キャニスター・ロック城)、“鱒のタリー家”(リヴァーラン城)、“鷲のアリン家”(アイリー城)、“大烏賊のグレイジョイ家”(鉄諸島)、“三頭龍のターガリエン家”(旧王家→東大陸へ亡命)の七つとなっている。“薔薇のタイレル家”(ハイガーデン城)がないじゃん)

薔薇の血潮。

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<稲村ヶ崎>

7月4日に行った鎌倉旅行の日記(第5回)。最終回。

鎌倉宮の次です。実は「比企谷(ひきがやつ)」に行ったんです。いや、自分的には行ったはずだったんです。
そもそもこの旅行のきっかけは「修善寺に伝わる若狭の局のお話(=不越坂)」でしたから。若狭の局は比企能員の娘、彼女が生まれたのが埼玉県の比企の郷だとしても、育ったのは鎌倉の比企谷に違いないって。だからここで旅を締めくくらねばなるまいって。



でも実際のところ、この旅行に行ったのは7/4でして、そしてこの記事を書いているのは10/5。
意外と記憶は明晰なのですが、写真データをいろいろ調べていると、私が比企谷へ行ったのは鎌倉宮を巡った後ではなくて、その前日の夕方らしい。
あれあれあれーー。
つまり前日、17時ぐらいに鎌倉宮に行ったら門が閉じられてしまっていたので、意気消沈した私は南下して比企谷を目指したらしいよ。
その途中に「北條高時の腹切りやぐら」にも寄ったらしいよ。
むむむむそうでしたっけ。そういえば薄暗い中で腹切り櫓を見た記憶もあったりしてな。というわけで、ちょっと時間を遡ってそのことを述べたいと思います。



鎌倉宮から比企谷まではそこそこの距離があります。
だがこのあたりは鎌倉的史跡の密集地。サイクリングするのは楽しいんですが、観光地とは思えぬくらいに道は狭く、住宅街然としていて観光客を阻む雰囲気がある。すこし走るとすぐに行き止まりの連続です。
鎌倉の地形は未だ良く分からないのですが、比企氏といったら鎌倉市の中でも純然たる勢力を誇り、それがために真っ先に北条氏に消されることになった一族。悲劇という言葉と共に語られる氏族です。そういう彼らがわざわざ選んで住んだ比企谷という地区は、どういう様子なのだろうと興味がありました。



なるほど、この付近は日蓮の勢力圏なんですね。
個人的に法華宗は苦手。

だがしかし、「比企氏館」に来て見ますと、八幡宮の参道でたくさん見た人力車が、たくさんここにもいました。
確かに鎌倉の町並みは人力車向けだし、でも鎌倉の有名なスポットは他は谷の奥の奥にあったりするのがほとんどなので、鎌倉駅にほど近いここは「おまかせします」と言われた車夫が最も好む場所に違いあるまいな、と思いました。鎌倉で人力車を頼めば、高確率でここに連れてこられるのでしょう。案外、比企氏がここを居住の場に選んだのもそれが大きな理由なのでしょうねと、そう思いました。(比企氏は関東の中では北條家以上に歴史の無い一族)。
埼玉県に比企郡というかなり恵まれた庄があって、そこが比企氏の基盤なのですが、ウィキを見ても「平治の乱の敗戦で14歳の頼朝が伊豆に流されることになった結果、乳母であった比企の尼も都から夫を連れて比企の里へ下り、その収入で流人生活の頼朝を養った」と書いてありますので、比企郷と比企氏の結びつきも思うほどには深くないのだと思いますし、そもそも(伊豆の伝説では)比企の尼もほぼずっと伊豆の函南に住んでいたことになっていますし、いはんや、鎌倉の比企ヶ谷(ひきがやつ)の地名なんて建仁3年の「比企氏の悲劇」があったからそう呼ばれるようになっただけで、頼朝の時代にはもっと別の名前で呼ばれていたに違いありませんよね。

頼朝が権力を得てからというもの、比企氏の伸張には目を見張るものがあります。源頼朝という人物には「身内には異常に酷薄」という短所があったと同時に、「他人に受けた恩は決して忘れない」という変な癖があったのです。本を読む限り、比企能員(ひきよしかず)という人に取り立てた才幹や魅力があったようには読み取れないですが、この人はあの冷淡な頼朝が北条氏以上に常に寵を授けた側近でありました。その原因は「彼は自分が生涯で一番恩を受けた比企の尼の養子だから」という理由でありました。
備忘の為申しておきますと、頼朝には4人の乳母があり、比企の尼の甥が比企能員、一説に三善康信も比企尼の甥、寒川尼の弟は八田知家、息子が結城朝光、早河尼の息子は山内首藤経俊、4人目の尼摩々は謎の人物です。こういうことはやはりさがみさんの記事が分かり易いです。いずれも源頼朝は関係者を特別扱いしています。



比企氏の事件が起こったのは建仁3年(1203年)の旧暦9月2日。
吾妻鏡を見ればこの事件はとても詳しく描写されているのですが、その時期の他の記事に比べてこの日だけやたらと記事が長いため、かえって「この記事は怪しい」「なにか隠そうという小細工が満載なんじゃないか」とみなされているのですのよね。私の持っている本で一番参考にしている本は、永井晋著の『鎌倉源氏三代記』(吉川弘文館、2010年)という本で、この中では『吾妻鏡』と『愚管抄』での記載を分かり易く対比してくださっているのですが、でもやっぱり良く分からない。わたくしが勝手に夢想していることを、以下に述べましょう。
まず表面的に見てこの事件は、「陰謀事に異常なほど長けた北条氏」と「間抜けの極みである頼家ならびに比企氏」との対立になっており、後の歴史を知っているわたくしたちから見れば「何の策も講じないなんて(=実は講じてるんだけどその講じているところが逆に)比企氏って馬鹿だなぁ〜(←あの悪魔のような北条の奴らを相手にしているのにね)」と思うわけです。でも実の所はこの事件は「北条氏による一連の他氏排撃の第一弾」でありまして、まだその頃は鎌倉にいる誰も、「北条氏が邪悪」だとは知らなかった。
むしろ比企氏は(…頼家はともかくね)、「北条氏を敵どころか重要な数少ない味方と認識してたんじゃないか」。
私のその妄想の根拠は、「比企の谷」と北條時政が住んでいた「名越の谷」がとても近く見えることです。「おとなりさん」なんですよ。長らく「時政が住んでいた場所である」とされていた「名越山荘」は名越谷の奥の奥にあって比企館とはちょっと離れているように見えますが、最近この名越山荘は「本当は時政の屋敷跡ではなかった」と証明されたそうでして、今のところ本当の時政邸の場所は不明なんですが、でも時政は名越のどこかにずっと住んでいたことは確かなんですから、北條時政と比企能員は「おとなりさん」として長い間かなり親しくしていた可能性がある。時政がはっきり能員を「敵」だと認識したのは、いつだったのでしょうか?
まだ頼朝存命の頃、北條時政の立場は極めて不安定な物で、門葉でも家士でもなく、官位も無く軍事力も無く、源平合戦での戦功もなくただ「将軍家御外戚」としてだけ遇されていたということがいろんな本に書いてあるのですが、比企能員も似たような物でした。おそらく両者は頼朝生存中は似たもの同士として、とても(わたくしたちが思っている以上に)仲良くしていたのではないでしょうか。
そもそも北条氏と比企氏の出会いは、鎌倉幕府の成立よりも20年も前の事になります。
時政が監視を命ぜられた京からの流人・頼朝には彼を猫っかわいがりする比企尼というばばさまがひっついていて、お世話をする為にすぐ近く(函南)に住みついてしまった。伊豆時代の北条氏と比企尼の関係を示すエピソードはひとつもなく、仲が良かったのか仲が悪かったのか、時政がばばさまを鬱陶しく思ったのか愛らしく思っていたのかは全く定かではありませんが、おそらく比企尼の函南の家から韮山の蛭ヶ小島まで毎日通っていたと思われる安達遠九郎盛長とは時政は良好にしていたのではないかと思えるため、時政と比企尼も意外と仲良い顔見知りだったんじゃないかと思う。(仲が良くなくなる要因を思いつけない)。その猶子となった尼の甥の能員は生年が不詳なのですが、なんとなく時政と能員は0.5世代ぐらい離れていて(←頼家と能員の息子達が悪友としてつるんでいるから)、能員も若い頃ばばについて伊豆の北条邸に出入りしていたと思う。
時政は無位無官でしたが、物語中は(とりわけ対朝廷との構図において)「交渉事の達人」としてその能力が強調されているそうです。“無位無官”と書いてしまいましたが、時政が“遠江守”に任じられたのが頼朝没後の建久10年4月(@『武家年代記』)だったとして、文治元年(頼朝の死の14年前)に「京都守護」として朝廷との交渉にあたった時政に何らかの官位がなかったはずがあるまい(※京都守護は一応幕府の官職なのですが)
一方、そういう能力多彩な北條時政に対して、比企能員は歴史的には何の能力もあったとされていません。あえていえば「常に頼朝の傍らにあって、常に頼朝への引継ぎ役をしていた」ぐらいで。(それだって充分立派な役割だよ!) でもウィキペディアを見ると奥州鎮圧に対して能員は「北陸道大将軍」「東山道大将軍」として出陣していて、その最中建久元年に「右衛門尉」(=従六位下か正七位上に相当)に任じられている。…これは時政に対しては微妙。

『月と黄金』。

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ふとたまたま静岡新聞を眺めたら、10月の26日と27日の土日に歌枕直美氏がまた来浜するとの記事を目にし、「どうせ今回も駄目なんだろーなー」と自分のスケジュール帳を見たら、26日(土)が奇跡的に空いている!(わたくしは平日はヒマなのに、土日は自由が利かない人間なのです。こういうイベントは土日しかやんないんですよ。私が土曜日に自由に動けるなんて年に一度くらいしか無いですよ) これは運命だと思って(だって新聞なんて滅多に見ないのにたまたま見たらこの記事があったんですから)、26日に浜松市中区の福厳寺(←どこ?)で開かれる和歌劇『月と黄金』の申し込みをしました。

わたくしが過去に歌枕直美氏の公演を見に行ったのは2回。
5年ぐらい前の事になりますよね。
一度目は龍譚寺でおこなわれた『宗良親王』、二度目は国民宿舎・奥浜名湖での『信長』。
恥ずかしい話ですが、わたくしはこの歌声に思いっきり魅せられ、年甲斐もなくはまりこみました。




歌枕氏は近畿を中心に活躍されている歌い手なのですが、なぜか例外的に浜松にだけ定期的に(年一回か二回ぐらい)訪れてくださいます。その理由は、歌枕氏の歌う物語のうちのたくさんの脚本を書いている人が、浜松の細江町気賀の人だからだそうな。(それが私も細江に住むことになった大きな理由なのですがね。細江の歴史は面白すぎる。) 歌枕氏は普段は万葉集や古事記の歌を歌っているのですが、浜松に来るときだけ全く異質な物語と歌を歌っていることが、わたくしには注目できる。この人のレパートリーの広さはすごいおもしろい。
と思いきや、作品一覧を見てみますと、内輪の会で発表された物が多く、一般的な公演はごく限られたもの(といっても凄い業績なのですがな)みたいですね。浜松はとても恵まれてまして井伊谷の龍譚寺以外にも細江町金指の初山宝林寺でも『王子の夢・鑑真の夢』や『古事記の媛たちの歌』が公演されたといいますし(行きたかった)、今回会場となる町中の福厳寺もすでに『熊野(ゆや)』や『ざざんざの松』(将軍義教の物語)が上演された場所であるそうです。

オペラ愛好家であるわたくしから見ても、この「和歌劇」はオペラとは異質なように聴こえるのですが(だって歌い手がひとりしかいないし)、実は「和歌劇」という語句は「株式会社うたまくらの登録商標」だそうでして、別にオペラではないらしい。つまり、「和-歌劇」ではなくて「和歌-劇」だということですね。
私が聴いたことがあるのは『宗良親王』と『信長』の2作だけでありまして、決して全体像を把握できているわけではありませんが(CDは5枚ぐらい買った)、その『宗良親王』と『信長』はかなり性格の異なる作品でありまして、また『宗良親王』で聴き惚れた独特のフレーズは、そののち買ったCDの中には無かった。つまり、この歌い手兼作曲家の方は一貫した作風は持っていて似たような歌をたくさん歌っていながらも、一作一作の個性もちゃんと作り込んで作り分けてくださってるということです。
わたくしは『宗良親王』のCDが欲しい。もう一度聴きたい。

さて、このたび行われる『月と黄金』ですが、なんと源平時代の話ですってよ!
なんか西行法師と静御前のおはなしだそうなのですが、「なんでそれをわざわざ浜松で」と思わなくもなきや、前回の『信長』も浜松に絡めての上演でしたから、今回も何かあるんでしょうかね。実はわれらが舘山寺には「西行伝説」があるので、舘山寺で上演してくださればよかったのに。そういや、天龍川にも西行伝説(=天の中川を渡ろうとしたら浜松の人からいじわるを受けた)があるんでしたっけ。それか!


<影媛は物部麁鹿火の娘ですよ。このCDまだ持っていないから今回必ず買おう>





都合によって26日(土)には行けなくなり、電話したら27日(日)への振り替えをあっさりOKしてくださいました。やりい。
CDは繰り返し繰り返し聴いていたわけなんですけども、3年振りに目の前で聴いてみますと、迫力が全然違う。歌を歌う人ってすごいな。

仕事は全部他人に押しつけて、16時になったので会社から浜松市街を目指しました。
福厳寺っていうのは助信駅の近くにあるらしいです。行ってみたら簡単に見つかりました。ネット検索をしてみると浜松の福厳寺の情報はあんまり見つからなく、なんとなく謎のお寺でした。歌枕氏以外にも、いろいろなコンサートをよく行うお寺みたいです。宗派も不明。助信駅っていうのは遠州鉄道の新浜松駅から数えて4つ目の駅。微妙な場所すぎてわたくしには完全な活動範囲外です。私が若かった頃は貴布禰駅から自転車で自動車学校前あたりが勢力圏だったからな。いえいえ、そういえば少しだけ足を伸ばして学校帰りによく高林のイケヤ文楽館(上島駅付近)まで通ってたっけ。ともかく今では地理がさっぱり分からん。
公演に先立ち御住職の少し長めの挨拶があったのですが、それによりますとこのお寺は関ヶ原のころぐらいまで(1603年)は天台宗だったのですが、徳川家康の指図により曹洞宗に変えさせられたとのこと。その理由は、(御住職の言うには)実はこのお寺は浜松城の家康よりも甲州の武田信玄に肩入れしていていろいろな情報を流していたのが、武田勝頼が滅んだのをきっかけにすべてが家康にぱれ、「全員殺す。ただし別の宗派に改宗すれば許してやる」と言われて言われるがままにしたのだとか。おいおい、、、 浜北の岩水寺も武田に内通してたって聞いたことはありますが、この福厳寺って浜松城から歩いてこられるくらいの距離ですよ。

le concert!

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近頃はまっている動画です。美人ですよね。
この映画については全然知らないんですが、このダイジェストがとても愉快で好きなのです。
邦題は『オーケストラ!』(2009年)ですって。
全体を観なくてもヘンテコな物語を感じられるところが好き。
こういう、一曲の中にこれまでの物語を一気に詰め込んでいるような映像が好き。



最近になって、車搭載のMDプレーヤーが壊れてしまって、生活の中で音楽分が不足しすぎになってしまいました。
実家からまだCDコレクションを移してないから、一気に音楽を聴く機会が無くなった。
車のオーディオは誤って自分で破壊してしまったのですが、これから貧窮する計画を実行してしまったので、困ってしまったのです。修理すると何万もかかってしまいます。部屋で聴くよりも車の中で聴く方が集中できるから好きだったのに。近いうちに長い旅にも出たいし、どうしよう。何も今壊れなくてもいいのに。

家ではたくさんのDVDがあるから暇はしてはおりませんが、音楽物は意外と持ってなかった。
youtubeで観てもいいんですけど、なんか金を払わないことには引け目を感じるんですよね。
だから、中途半端な動画で満足することにしている。


以下、気に入っている動画。



映画『カストラート』より、ヘンデル『リナルド』の「私を泣かせてください」。
前にも貼ったことあるけど、この場面はすばらしい。
このシーンだけでごはんが何杯も食べられる。



『カストラート』(1994年)は今ではyoutubeでも全編観られるけど、イタリア語なんて分からないのでDVDの再販をずっと心待ちにしているのだ。




映画『パガニーニ』(1989年)
これは変態映画でしたが、演奏シーンが素晴らしかったので、とても気に入っていました。
もっと昔の映画だと思ってたんですけど(『アギーレ/神の怒り』(1972年)のせいで)、わたしは公開直後にこれを観てビデオを入手していたんだな。




こわい。

天地創造。

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無事に失業できましたよ!
わたくしは自分をとても真面目に生きている人間だと思っているのですけど、無為に無文化的に働きつめるだけの生活にはいずれ我慢できなくなるだろう、ということはあらかじめ解ってた。いいじゃん6年間も朝早くから夜遅くまで一生懸命働いたんだから。そう思って仕事を辞めました。気分爽快だ。
で、わたしは自分を追い詰めるのが好きなので、ここ半年は「退路を断とう」と思ってアマゾンで無駄遣いをたくさんしてました。
失業後は信長の野望三昧になろうと思って、30周年記念の「歴代タイトル全集」も買ったし(覇王伝以降はきちんとリアルタイムで買ってるのにね)、新作(第14作)の『信長の野望〜創造〜』も予約した。その新作が、わたくしが自由の身になる3日前に家に届いたのでした。なんてすばらしい。

これまでわたくしが最高傑作だと思っていたのは、第12作『革新』と第7作『将星録』でした。実はこのふたつ、ゲームとしてはそう大して難しくないんですよね。漫然とぽちぽちボタンを押していれば終わってしまう作業ゲーム。ちょっと物足りないので、その後に第13作『天道』と第8作『烈風伝』という似たような上級バージョンが出たりしたのですが、そちらはどうしてもシンプルさに欠けた。『革新』は二度ほどクリアしたんだけど、『天道』はいいところで詰んでしまう抜群のバランスでできていて、(私は常に九州の龍造寺で始めるので、九州を統一して四国と中国を席捲しながら東上していく直前に、織田か武田か上杉のどれかが、京都周辺で容易に太刀打ちできない存在になっている)、「いつか失業したら腰を据えて上杉を打ちのめしてやろう」と思ったのでした。それから早4年。

失意の『天道』に取りかかる前に、新作『創造』の封を開けてしまったんですが、1日遊んでみて。
ううううう、これがわたくしの理想とする『信長の野望』の決定版じゃんか!!





さてと。
わたくしは「理想の信長の野望!」と書きましたが、それはもちろん皮肉ですよ。
わたくしは根っからの左派で戦争反対論者・核兵器根絶主義者ですから、命のやりとりをする戦争を扱った作品に軽々しく戦さをかっこよく描いて欲しくない人間なのですが、信長の野望っていうのは歴代代々あくまでライトなんですよね。リアルさを無視する姿勢が根本にある。とはいってもそういう姿勢に対してアンチにもなりきれないわたくしについてはこれを読んでくれてる浅子さんもよく分かってくださると思います。

歴代の信長の野望では、龍造寺で始めて九州を統一した頃には100万ぐらいの兵を動員できるぐらいになるのが、まあ信長の野望っていう作品です。
どこの宇宙三国志だ。
それがね、
今回の作品では、プロデューサーが代わってその新しいプロデューサーという人が信長の野望に果てしない愛を持っている人で、つまりこれまでの信長の野望から正統路線に回帰することを志したひとだったんですって。要は、100万の兵を率いる龍造寺なんてあり得ないんですよ!!(※龍造寺隆信の会心の最後の会戦“沖田畷の戦い(1584)”で彼が率いた総数は12,000前後)



ふふふ、でもやっぱりここには注目、戦さに出た立花道雪は腰に116日分の兵糧を巻いていること。宇宙食かよ。
やっぱりコーエーだ。

わたくしが『信長の野望』に求めていること。
「難しいことをせず、ちまちま力押ししているだけで龍造寺隆信が織田信長に勝てること」
これに尽きる。
今回のこれはそこがとても良い。気分爽快。


そもそもなぜわたくしは昔も今も龍造寺隆信で遊び続けているか?
それは「となりに大友宗麟がいるから」であります。
大友宗麟大好き。宗麟軍団は強い。配下に屈強の戦士達が揃っているのです。“鬼の”道雪を初めとして、“豊後三老”と言われた吉岡統増・臼杵鑑速・吉弘鎮理。戦闘で強かった一萬田鑑実・志賀親次・問註所統景・斎藤鎮実・無謀な田北鎮周。“ヘンテコ奇術師”角隈石宗。そしてそして、高橋紹運と立花宗茂の親子。さらに、大友に従属していたり刃向かったりしていた勢力として、なんだか他人とは思えない筑紫広門、秋月種実、宗像氏貞、星野兄弟。
九州になじみのないかたには「なんのこっちゃ」という人名ばかりでしょうが、大友配下の彼らの場合、ひとりひとり、列伝を読んでいるだけで心が燃えるばかりか涙まで溢れだしてくる素晴らしい武将揃いなんですよ。本当に昔の武将様の生き様っていうのはすごい。これらに比べると、島津家の4兄弟と家臣団はこういっちゃなんだけどドラマに欠けるし(よく知らないから)、われらが“龍造寺四天王”も同様だ。



ゲームに出てくる高橋紹運像で一番気に入っているのは、スクエア・エニックス社の『戦國ixa』の“アリー・アル=サーシェス”紹運なんですが、信長の野望に関しては過去にもっと遙かにかっこよい紹運が出たことがあったような。



こちらはixaの「極」の紹運で、めちゃくちゃ格好良く強いものの、未入手。わたしは「上」の紹運で気に入っているからいいや。
信長の野望では“戦神”高橋紹運の登場年は1564年(16歳)。“肥前の熊”龍造寺隆信と高橋紹運は19歳違いなのです。その登場年までに大友勢力を征覇してしまえば、こちらの勝ちです。




ところがギッチョン!


それに対する我らが龍造寺家。
初期に龍造寺家で始める最大のメリットは、「当主の隆信が戦闘においてめちゃくちゃ強いうえに、謀略にも長けている」ということです。初期の隆信の強さを持ってすれば少しぐらいの地理的不利などなんてことはないし(有明海に面する佐嘉は決して恵まれていない土地ではないが)、少しぐらいの配下の不足は彼一人でなんとかなる。いえいえ、配下が不足しているどころか、地味ですが隆信の配下には“龍造寺四天王”という頼りになるおっさんたちと“猫男”鍋島某というチートな軍師がいたりもする。
いきなり大友の巨大領に挑むのは無謀なのですが、佐嘉近辺には練習相手としてちょうど良い「少弐氏」と「有馬氏」がいる。練習相手って言ってしまったけど、龍造寺隆信の生涯を本で読んでいて面白いのは、大友や島津といった大軍相手に戦った戦争よりも、旧主・少弐を駆逐したり、肌の合わぬ神代勝利や江上武種らとの地汗まみれる謀略戦の時代なんですよね。徳川家康も三方ヶ原の戦いの頃が一番おもしろいし、チンギスハーンもジャムカやトオリルハーンと小競り合いしていた頃が一番楽しいと感じるわたくしです。

とにかく、信長の野望では一刻も早く肥前を統一して、筑後の大友勢さえ駆逐してしまえば、あとは勝ったも同然なのだ。大内はなぜかいつも勝手に自滅するので立花山城はいつも容易に手に入る。

大人のほろにが。

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去年の12月15日にベイステージ下田で食べた下田バーガー(金目鯛)¥1000。
美味しかったです。ただ、食べ終わった後なぜかお金を払わずに店を出てしまい(無銭飲食)、
次に行った上原仏教美術館で自分が食べたのはモスバーガーではなかったことに遅ればせながら気づき、
慌てて下田港へお金を払いに戻ったら、「あら、そうなの?」という対応だったので腰が抜けた。
いいのか下田・・・




さてさて、
大分前に愛用していたミニブログ『俺に岩せろ!』もまた閉鎖されてしまったんですよね。
せっかくたくさん本を読んだのに、悔しいことだ。
なので、また定期的に本を沢山読んだ記憶をここにバックアップしていこうと思います。
gooのこの長ブログだっていつまで存続するのか怪しいものになってきておりますが。




●2013/09/04 12:33
「チェンバレンがミュンヘン会談において外交常識を無視してヒットラーとの宥和を図ったのはなぜなのか。戦間期の英国における戦争に対する強い嫌悪感や、チェンバレン自身の平和主義的傾向が彼の行動を説明する重要な手がかりである事はまちがいない。しかしながら、前述したようにミュンヘンにおける彼の行動は余りにも確信に満ちており、「戦争を避けたい」という消極的な心理のみでは説明が付かず、より積極的な動機があるように見えるのである。(中略) チェンバレンの“確信的宥和政策”は、第一次大戦後の国際情勢の激変に対応し、新たな国際秩序を構築しようとする能動的な努力として理解すべきであり、そうしないかぎり辻褄が合わない」 (冨田浩司『危機の指導者チャーチル』)

●2013/09/04 12:04
「あるラコニア女(=スパルタ人の女)は、持ち場を放棄して逃げ帰ってきた息子を、祖国にふさわしからざる者として刺し殺した。「これはわたしの子ではない」と言いながら。彼女がその息子のために刻んだと伝えられるのが次の墓碑銘である。“消え失せよ、臆病な子は闇の中を通って。お前は憎まれエウロタス河は流れぬ。 無用の犬ころよ、役立たずよ、今すぐハデス(冥府)に消え失せよ。消え失せよ。スパルタにふさわしからぬ者をわたしは生んだ記憶は無い”」 (プルタルコス『ラコニア女たちの名言集』)

●2013/09/04 11:53
「人間は、古事にまつわる聞き伝えであれば、たとえそれが自分の土地に関わりを持つ場合でも、遠つ国々の物語りと同様にまったく無批判な態度でこれを受け入れるものだ。一例を挙げれば、アテナイの一般民衆は、ヒッパルコスが独裁者であった為にハルモディオスとアリストゲイトンに暗殺されたのだ、と思っている。しかし事実は(中略。…謀反を企てたが温情によって処罰を免れたヒッピアスが、たまたま出くわしたヒッパルコスを私怨の為に偶発的に殺した)。…一般人はすでにこの事実について知らない。このような誤伝は、古い出来事に対する記憶の混乱から起こる物ばかりでなく、現在の出来事についてすら頻繁に起こる」 (トゥキュディデス『戦史』)

●2013/08/30 12:02
「ネアンデルタール人を含むいかなる古代型人類(=クロマニョン人以外の全ての古人類)も、居住空間を構造物で造ったという証拠が無い。岩陰であれ開地であれ、ネアンデルタール人が住んだ場所で家が造られた形跡は無かった。(中 略) 4万年前に新人がヨーロッパにやってくると、人類の空間使用はいかに多彩になったことか。北フランスのアルシ=シュル=キュール岩陰。ドン河畔のコスチェンキ。モラヴィアのドルニ・ヴェストニッツェ、ケルン近郊のロンメルズーム。大部分が明らかに新人によってなされた。ネアンデルタール人が関わったとされる例は少しだけだがある。でもそれもそれは新人に影響されて旧人がした、と私たちは指摘している」 (クリストファー・ストリンガー/クライヴ・ギャンブル『ネアンデルタール人とは誰か』)

●2013/08/30 11:31
「紀の記年を疑うとしても、物部木蓮子(もののべのいたひ)の娘・宅媛(やかひめ)が勾大兄皇子(まかりのおひねのみこ)の妻として迎え入れられたのは継体擁立以前(=継体朝の家系が越の国にあった)かもしれぬ。とすれば、木蓮子の属していた「物部氏」もヤマト土着の物部とは別系統であった可能性も考慮される。木蓮子の子・麻佐良(まさら)は宅媛の兄弟であるから勾大兄皇子(=安閑天皇)とは義理の兄弟である。その彼は諏訪の豪族と推定される「須羽直」の女・妹古(いもこ)を妻として麁鹿火(あらかひ)・押貝(おしかひ)の兄弟を生んだ」 (畑井弘『物部氏の伝承』)

●2013/08/30 11:01
「「俺はどこに行っても、必ず何かを発見するのさ」。彼は節くれ立った黒い杖を上げて、壁を指し示した。「ある人間が壁を築くと、なぜすぐに次の人間がその向こうに何があるか知りたくなるのだろうな?」 異相の小男は首をそらせて、不揃いな目で若者を見た。「反対側に何があるのか、お前も知りたいのだろう?」 「何も無いさ」 ジョン・スタークは言った。」 (ジョージ・R・R・マーティン『七王国の玉座』)

●2013/08/22 15:06
「ジローラモ・サヴォナローラは聡明有徳の僧であった。彼は市民の自由のために「政府が国事犯に与えた判決について、人民は自由にその正否を訴える事を可能にする法律」を作った。しかしこの法律が制定された直後、5人の市民が国家の安寧秩序を乱した罪で投獄され、当人や支持者達が無実を訴えたいと思ったのにサヴォナローラの側近達によって即座に死刑が実行されてしまった。法律は無視された。これは他のどんな事よりもサヴォナローラの名誉を失墜させたのだった。サヴォナローラはこの法を守るように尽力するべきだった。彼がこの法律を成立させる為に、あんなに骨を折ったというのに。彼はこの事態に対して一言も弁護も非難もしなかった」 (ニッコロ・マキャベッリ『ローマ史論』)

●2013/08/22 14:40
「博物志によると「真の茶を飲めば、睡気を少なくさせる」とある。睡気は知能の働きを鈍らせ、人を愚昧にさすのである。また、睡気は病いである」(中 略) 「桐君録によると、「茶を煎じて飲めば、人を眠らさないようにする」とある。人は眠らなければ病いが無いのである」 (葉上僧正栄西『喫茶養生記』)

●2013/08/22 11:20
「清康の食事中に皆が出仕すると、清康は食べていた椀を全てこぼして、「よく来た。皆これで酒を飲め」といった。盃ならまだしもさすがに主君の椀で酒は頂けぬ。皆が躊躇していると、「何で飲まぬのだ。早く早く」とおっしゃる。一同が頭を地に付けて畏まっているのを見て、「皆なぜ飲まぬのだ。前世の行いがよければ主人になり、悪ければ家来となるだけだ。侍に上下の差は無い。許すから飲め」と重ねて言われた。そこまで言われてはと皆が前に進み、酒を頂戴しようとすると、公は微笑まれて、「老いも若きも残らず三杯ずつ飲め」と言った。帰り道、「今の杯と情けあるお言葉、何にも代え難い。あれはご主君と我々共の首の血だ。このご恩にはお馬の先で討ち死にをして報いよう」と家来達は話し合った」 (大久保彦左衛門『三河物語』)

てっぺんのイヌ。

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あいも変わらずわたくしは天狗様に夢中です。
6年前にも同じ事言ってましたよね。
6年にも渡って同じ事を求めて本を読み続けられる対象があるのは幸せなことだ。

いずれ、何十年後かにどこかで調べた成果を発表したい。
が、いろいろ調べたことを纏める場として、

 ★日本の大天狗(google版)
 ★天狗の地図?(bing版)
 ★遠州地方の天狗(bing版)
 ★遠州地方の天狗(google版)

あたりを想定してたんです。
最初利用していたのはmsnによるbing版で、初めその便利さに目を見張ったものでしたが、アップグレードされるたびに何故か徐々に不便に、見た目も悪くなっていき、あるとき「こりゃダメだ」と思ってgoogleに移った。google版はさすがgoogle様で、bing版と違う操作部分があるにせよそれなりに便利だったのですが、これもメジャー/マイナーチェンジが頻繁で、つい先だっておこなわれた「新しいgoogleマップ」へのアップグレードで、不覚にも使い方が全く分からなくなってしまいました。なんだこりゃ。一生懸命やった書き込みが全部無効化されちゃったじゃん。「以前のマップ版」に戻る手段も不明です。困った困った。
いまのgoogle版は本当に噴飯物で(以前出来たことができなくなったということは、こんなに人をいらだたせるものか)、ただ今は試行錯誤の構築期なのかもしれない。今の状態ならばあんなに不便なbing版の方がまだマシなほどで、再移行も考えなくてはなりません。ただgoogleはまた変わってくださる可能性も大きいので、注視が必要なのです。文字数が無制限で大きな写真を使えれば良いのに。
私は「一度作ったら10年後にもそのまま使えるデータ」が欲しいだけなんだよ〜〜。そもそも私のような使い方が推奨されていないのか。




・・・と嘆きながら、鞍馬山に再び行ってきました。
鞍馬天狗は日本の天狗群の中の代表格。実はわたくし、3年ぐらい前に一度鞍馬山に行ったことがあります。愛読していた『日本怪奇幻想紀行』(同朋社・2000年)という本に「鞍馬山は日本一の天狗密度」という記述があって、「天狗密度ってなんやねん」と思ってかなりワクワクして行ったのですが、山内にはほとんど天狗の説明や遺構など見当たらず、とてもがっかりした記憶がある。ところが家に帰ってきていろいろ調べてみますと、全然違うじゃないですか。「これはまた行かねば」という思いを強くしていたのでした。

前回行ったときは、まず高雄山の神護寺に登って文覚上人の墓まで歩き、そのあと愛宕山にも登って、それから鞍馬山に行ったので坂道つづきでもう疲れ果ててしまっていて、それ以上歩きまわる気力も無かったので、体力を温存する為にケーブルカーで上まで行って、そこから奥の院の「魔王殿」までがんばって(約800m)歩いたのでした。ところがその行程中にはほとんど天狗成分が無く、意外に感じたのでした。天狗の山じゃなかったのかよ。例えば可睡斎や道了尊のように天狗の像が建ってたりはしない。御真殿があったりもしない。天狗的に出来たことといえば僧正ヶ谷の高い杉の木の間で無理矢理天狗の気配を呼吸するぐらいのことでしたかな。山内には天狗の由来を書いた看板などもほとんど無く、唯一あったのは「謡曲『鞍馬天狗』の案内板」ぐらい。こりゃあ天狗探求にはなかなか上級者向けの山だ、と閉口するしかなかったのでした。
最深部にある「奥の院・魔王殿」というのが鞍馬で一番のパワースポットとされています。ちまたではここにいる大魔王が日本全国の大天狗の総帥だとされており、そこを目指して歩いていく人が多いのですが、到着してみると、そこには天狗を捜して歩いている呑気な私のような人間が場違いであると感じるほど、熱心で真剣な参拝者が多いのにのけぞった。皆さんここにいるのが天狗だから魔王殿まではるばる見に来ていたのではなく、魔王が魔王だから真摯にお参りに来ている人ばかりだった。来る前は大魔王を神体としてるなんてふざけた寺だと思っていたのに、そんな戯れ言を許すような空気は現地には無かった。
とはいえ、行ってみて明らかになった問題点というのもいくつかあります。

  (1).鞍馬山は何をもって天狗の山なのか。
  (2).鞍馬の天狗(護法魔王尊・鞍馬の大僧正・鬼一法眼)の正体は何か

これは、最初歩いただけでは分からなかったことでした。
今回は、それを再び感じてみる旅であったのでした。

朝の4時に浜松を出発し、延々と国道一号線を走り続けて11時に鞍馬山に到着しました。
いつも豊田付近から伊勢湾岸道を通っていってしまうので、「今回は真面目に一号線を走ろう」と思ったら、思いっきり時間がかかった。
実は旅に行くときは地図を見る習慣のないわたくし(旅に行かないときに良く地図を見るから)は、誤って「一号線は関ヶ原を通って米原に出る」と思い込んでいたのですが(それは東名高速道路だ)、実際はただ名古屋の町中を通って伊勢湾岸道と同じ四日市に繋がっていました。ただ遠回りしただけでした。
でも京都に入ってから適当に道を走っていたら、一発で鞍馬の山に到着したよ。ふふふ、私は方向感覚には自信があるのだ。一度行った所ですしね。(※鞍馬の山はすごく分かりづらい山の奥にあります)

まず第一に、前回の旅の失敗点。
鞍馬の山は山内ではなく、「鞍馬駅」が一番の天狗スポットだったのですよ。
私は常に車で移動するから、駅なんて完全に盲点であった。こんな山の奥に鉄道が走っていることからして田舎者の私にとっては不思議なことだったのですが、山門から歩いて3分の所に叡山電鉄の鞍馬駅がありました。



おお、あれはよく見る鞍馬の天狗面!
こんなところにあったのか。



駅舎の隣には天狗(が脇に描かれている)顔出しが。



こんな案内板も。これは山中にあった方が良い気が。



駅舎に入ると、中に「〜最後の浮世絵師が描く源平の世界〜『月岡芳年と義経』展」というものが展示されていました。素晴らしい。
月岡芳年は幕末から明治中頃にかけて活躍した人です。武将の場面絵が多く、中に天狗も共に描かれているものも数多くあって、目の離せない人です。最近、なんかこの手の浮世絵本が頻繁に出されてますよね。わたしも妖怪・怪談絵を中心に何冊か買いました。が、月岡芳年は作品の数が膨大すぎてわたくしもいまだ全体像がつかみきれておりません。
鞍馬駅のこれは「義経展」ですから、一ノ谷の戦いや屋島の戦いなどの場面がメインなのですが、中に天狗の描かれた物も2点だけありました。



「武勇雪月花」のシリーズより、「五條乃月」。
芳年の初期(第?期)にあたる慶応3年の作品だそうです。五條の橋の上での弁慶と牛若丸の対決を描いた物。義経物語の中でも最も絵になりやすい盛り上がりの部分ですが、天狗伝説の世界ではこのとき橋の上から鞍馬の大僧正が見下ろしていて、配下の八天狗が牛若丸を見えないように助け、いつもの三倍も高く牛若は舞い上がり、天狗の力で弁慶は打ち負かされた。ということになっています。
武勇雪月花という連作は「雪」「月」「花」をテーマに3つの作品から成り、「雪」をテーマにした「吉野の雪」は義経の忠臣・佐藤忠信と横川覚範の対決を描いたもの。「花」がテーマの「生田の森 ゑびらの梅」は生田の森の戦いで、鎧(箙)に梅の花を差して優雅に(?)戦った梶原源太景季を描いた物。つまり「五条乃月」では「月」の象徴が天狗だった、ということになりますね。ん?
この絵はとても有名なので、何度も見たことがある気になっていましたが、家に帰って手持ちの本を確認してみたら、一枚も載っていませんでした。あれ?(芳年は作品数が多すぎるんですよ)

その拡大図です。



分かりづらいんですが、僧正坊の右側にいるふたりのうち、赤い服の男が愛宕山栄術太郎(太郎坊)、その右の白い衣の男が比良山次郎坊です。どちらも顔立ちがおもしろいでしょ?
さらに面白いのがこちらです。



西塔武蔵坊辯慶の薙刀にぶらさがっているのが飯縄の三郎。その右側にいる鳥頭のやつが白峯相模坊。おわかりになりますでしょうか。飯縄三郎は仰向けになっているのでちょっと顔が分かりづらいのですが、顔が普通の人顔に見えるんですよ。すごいでしょ?
って何がおかしいのかわかんないって? 実は、「飯縄系天狗」っていうのは天狗群の中で一党を為していまして、この系統はみんな「顔がカラス」というのは常識なんです。(・・・なんですったら!)。飯縄系天狗には秋葉山三尺坊とか小笠山三尽坊とか小田原道了尊とか高尾の天狗とかがいます。月岡芳年がそれを知らないのはおかしい。
これに対して、白峯相模坊の方は(この人は金色の大鳶になった崇徳帝の眷属ですから)鳥顔なのは妥当だ。



さらにもうちょっと見てみましょう。この書き方だと、どっちが前鬼でどっちが彦山豊前坊か悩みますが、前鬼は前世が鬼なんだから顔が鳥なのはおかしい。きっと鳥顔が豊前坊で人顔が前鬼坊だ。大山伯耆坊も顔が隠れててわかりづらいのですが、鳥顔。この人は相模の大山から相模坊が飛び去っていなくなったあとに伯耆からやってきて大山に住みついた人ですから、別に相模坊と同じ顔だとしてもおかしくない。
とすると、この絵でおかしいのは飯縄三郎だけなのだ!!! 三郎が鳥の顔でないのはどう見てもおかしい!!!

・・・いえ待ってください。実はこの絵はおかしくないのです。
実はね。
芳年の師の歌川国芳にも、同種の絵があります。
この時代はこういう絵が一種の流行でしたから、みんなが似たような絵を描きまくっていた。



歌川国芳・画『平家の驕奢悪逆を憎み、鞍馬山の僧正坊を始め諸山の八天狗、御曹子牛若丸の影身に添ひ源家再興を企るに、随従の英雄を伏さしむる図』(弘化5年←芳年の絵の19年前に描かれた絵)
ちょっとわかりづらいのでまた拡大しますね。



おわかりになりますでしょうか?
偉大なる先生の国芳の描く絵では飯縄三郎が鳥顔なのは良いとして(正しいから)、こっちの方は愛宕山栄術太郎の方も鳥顔にされてしまっている。
このふたつの絵の対照表を作ってみますね。

            国芳    芳年

  愛宕山太郎坊   鳥     人
  比良山次郎坊   人     人
  飯縄山三郎坊   鳥     人
  大峯前鬼坊    鳥?    人
  彦山豊前坊    人     鳥
  白峯相模坊    人     鳥
  大山伯耆坊    鳥     鳥
  富士山太郎坊  (いない) (いない)

こう並べてみると、芳年はわざと師の国芳と逆の組み合わせにしているように思えます。比良山次郎坊は両方で人顔になってますが、両方とも必要以上におもしろい顔。何者だ次郎坊。その次郎坊を両方人顔にしてしまったので、伯耆坊もどちらでも鳥顔にされたのかしらね。
それでも芳年には躊躇があったので、三郎と伯耆坊の顔がわかりづらいように意図的に隠したりのけぞらせたりしたのでしょうか。





鞍馬駅舎にあったもうひとつの芳年の天狗図がこちら。こちらは晩年(明治18年)の「芳年漫画」から、「舎那王於鞍馬山學武術之圖」。
僧正坊の鼻がながーい。実は師の国芳にも同テーマの絵が4枚ありましてね。・・・・・・長くなるからもうやめよう。



鞍馬駅の前には土産物屋が数件ありまして、そこにも天狗エキスがいっぱい。おもしろーい。
教訓。
鞍馬に来たら鞍馬駅に行け!
一番天狗の密度があるのは駅前だ。

それからお寺に向かいます。
山門の前に「雍州路」というお店が建っているのですが、このお店は「鞍馬駅前のお店」ではなくて「鞍馬寺の山内のお店」というたたずまい。前回来たとき、そのお店の前の看板に描かれたイラストが数少ない天狗成分だった。
それが、3年前と看板が変わっていました。(正月バージョン)



ていうか、検索してみるとこの看板の絵は頻繁に描き換えられているようです。ええね。
ぼたん鍋5500円か〜。猪鍋のフルコースってなんだろう。



山門をくぐって愛山費(200円)を払うとすぐにケーブルカー乗り場があります。このケーブルカー、片道100円と破格に安いのでつい乗りたくなってしまう誘惑に駆られますが、今回は頑張って九十九折りの道を歩いてみることにする。ただ、このケーブルカー乗り場の建物(普明殿)は内部がすこし異様なため、念のため見ていくことにする。ケーブルカーの待合所の隣は毘沙門天の礼拝所になっていて一部的に暗いです。

その建物の2階は鞍馬山の自然の紹介コーナーになっているのですが、その一画に天狗コーナーがありました。前回来たときは気付かんかった。





とても真面目だ。ええね。



カルカロドン・メガロ天狗の爪!! でけえ。きっとこれが僧正坊の両手の爪ですね。

そこから歩いて登ります。今日はまだ元気です。



由岐神社の門をくぐり抜けると雪景色。南国・遠江の人間は雪を見ると無闇に嬉しくなってしまいます。そうかー、雪があるから由岐神社かー(違う)



そこから遮那王が暮らしていた「東光坊」の脇を通って九十九折りを歩くんですが、そんなに疲れることもなくお寺に到着。なぁんだ、清少納言に瞞された。こんなのへっちゃらだ。



さて、ここからが真の目的です。
鞍馬山の中に、全部で4つの「護法魔王尊」の像があるというのです。前回はすべて見逃してしまった。
鞍馬山は「鞍馬弘教」という独特の教義を持っているのですが、訪れてみると熱心に礼拝している人が多く、私みたいな不信心者がぷらぷらと面白半分に歩き回っているのは悪い気がしてしまって、前回はそそくさと「奥の院」へ向かってしまったのです。今回の旅は護法魔王尊の像を見ることが本題だ。

4つある魔王尊像のうち、ひとつはお寺の秘仏とされる御本尊(鞍馬山の本尊は毘沙門天なのですが、教義では毘沙門天と千手観音と大魔王が三位一体の同一人物とされているので、本堂にはこのつがそれぞれ本尊として立てられている)は秘仏なので見ることが出来ないのですが、その前に「お前立ち」という代わりの像が立てられているそうです。これが魔王尊像の2つ目。これを拝むことが出来ないかと本堂に入ってじっと暗闇を見つめたのですが、本堂の中はとても暗く、目の悪い私には見ることができませんでした。ちぇっ。きっと心得の良い者にしか見ることのできないものなのでしょう。堂内は禁撮影。

3つめの魔王尊像は、本堂の隣りにある「光明王堂」に安置されているといいます。



実は今回わざわざこの時期に来たのは、鞍馬寺では1月1日〜15日まで「しめのうち詣で」というのをやっていると聞いたからで、なんとなくこの期間なら魔王尊像を拝めるのではないかと思ったからです。来て見たら、光明王堂の扉は閉まっていた。ぐわーー。
ネットで見るとここの扉が開いていることもあるようなのですが、いつだったら良いのでしょうか・・・
今回も任務に失敗してしまった・・・
(※秘仏の魔王尊の写真は本等にいっぱい載っています)
魔王は「常に16歳の少年の姿に見える」という設定です。
(↓)16歳。



4つ目の魔王尊像は、来た途中の「鬼一法眼社」の傍らにあるといいます。
鬼一法眼堂、、、 って来る途中あったっけ。
入口でもらったパンフの地図はいまいち分かりづらく、鬼一法眼社の位置がはっきりしません。注意深く道を下ります。
ありました。遮那王のいた「東光坊跡」のすぐ近くだった。



お堂の隣りに池があり、上から水が注がれている。この水の流れのことを「魔王之瀧」と呼ぶそうです。池の傍らには「魔王之碑」もある。



その瀧の部分をよく見てみますと、いました!



なんだか16歳の魔王が〇〇してるような構図だなー。
しかしまた、「なんでこんなところに鬼一法眼が?」という問いには、なかなか答えられないようです。
そもそも鬼一法眼(きいちほうげん)は伝説上の人で、天狗マニアには「護法魔王尊・僧正ヶ谷僧正坊と並ぶ鞍馬の山の名前のある天狗のひとり」ともみなされているのですが、そもそもなんで彼が天狗扱いされることになったのかという事情も、なかなかややこしいです。(※2005年のNHK大河ドラマ『義経』に鬼一法眼を、怪しいこと極まりない美輪明宏が演じましたので、天狗的なイメージ形成にすごく役だったのですが)。
まず、鬼一法眼の伝説についてはここのブログさんが詳しいです。
鬼一法眼は「義経に兵法を授けた人物」として知られるので、東光坊と鬼一法眼社がこんなに近いのならば、さぞかし牛若の勉強もはかどっただろうと思われますが、伝説の中にも鬼一法眼が鞍馬山に住んでいたなどという伝えはありません。

鬼一法眼が初めて登場するのは、室町時代に成立した『義経記』です。義経記では彼は天狗などではありません。京で名の知れた陰陽師。安倍晴明の旧跡にほど近い一条堀川に住んでいました。陰陽師と天狗は相容れない存在です。
義経記では鬼一法眼は帝から下賜された十六巻の書を秘蔵しておりまして、それを天下に名高い『六韜』だと思った義経が狙います。(本物の六韜は6巻ですが、鬼一法眼は増補版を持っていたのかもしれない、違うのかも知れない。そもそもこれは六韜ではなかったのかもしれない。だって六韜は太公望が書いた本のはずなのに、義経記には「太公望がこれを読んで八尺の壁を登って天に昇った」と書いてあるから)。すでに義経は牛若でも遮那王でもなく、一度奥州平泉に行って元服して17歳になっています。
京に戻ってきた義経は、鬼一法眼に「六韜を読ませてくれ」と申し入れますが、鬼一法眼は意地悪をして断ります。困った義経は勝手に鬼一法眼の邸内に住み込んで鬼一法眼の末娘をたぶらかし、娘の手を借りてその書を持ってこさせ、半年ほどかけて全て写し取ってしまいます。そのあと鬼一法眼の邸内で義経はわざと目立つように振る舞ったので(なにやってんだ)法眼も義経の存在に気付き、怒り狂って娘婿の湛海という手練れを呼び、あいつを殺してしまえという。それを娘から聞いた義経は(義経記では六韜を写し取ったあとも一ヶ月半近く義経は鬼一法眼の邸内に隠れて住んでいたことになっている)、隠れて湛海を返り討ちし、山科へ去る。娘は悲しみのあまり死を迎え、鬼一法眼は「後悔先に立たず」と思ったということです。
「義経ひでー」と思うばかりですが、いつしかこれが「鬼一法眼は義経に兵法を教えた」という話にすりかわってしまったといいます。
室町時代初期に成立した謡曲『鞍馬天狗』(作者は世阿弥だとも言われている)では鬼一法眼は出てこず、「義経に兵法を教えたのは大僧正ヶ谷に古くから棲んでいる大天狗」となっています。
戦国時代にはどういった事情か「鬼一法眼が鞍馬寺に六韜のうちの『虎の巻』を寄贈した」ことになっており、実際に中世に勧進聖・御師・願人たちによって鞍馬寺の勧進のために毘沙門天像や「鬼一法眼兵法虎巻」を頒布して回ることもあったそうです。
このあたりが現在鞍馬の山内に「鬼一法眼社」がある理由かもしれませんね。
江戸時代にはいつのまにか「実は鬼一法眼は源義経に心を寄せていた」ということになってしまっており、享保年間成立の『鎌倉実記』などには義経の股肱の臣の名前の中に“鬼二郎幸胤”と“鬼三太清悦”の名が見える。この二人は暗黙として“吉岡鬼一法眼憲海の兄弟・息子・あるいは赤の他人”として作品ごとに異なった扱いをされています。
その集大成ともいえるのが享保年間成立の義太夫節浄瑠璃『鬼一法眼三略巻』というとてつもなく長い作品で、そこでは「鬼一法眼はもともと源氏の与党であったが、平家全盛の時代になって心ならずも平家から糧を受ける身となってしまった。清盛公から「兵法書をよこせ」と度々催促を受けて心を病み、夜な夜な鞍馬山に出かけることになった。そこで不憫な少年・牛若丸に出合い、僧正坊の扮装をして少年に兵法を伝授することにする。義経に稽古を与えた鞍馬天狗の正体はなんと鬼一法眼だったのである」というふうになりました。この題材の扱いの分析についてはこの記事がとても勉強になります。 で、この作品が現在の天狗世界で鬼一法眼が天狗扱いされる根拠となっております。
で、その『虎の巻』についても、義経記ではその説明は「爰に代々の帝の御宝、天下に秘蔵されたる十六巻の書あり。異朝にもわが朝にも伝えし人、一人としておろそかなる事なし。異朝には、太公望これを読みて八尺の壁にのぼり、天にあがる徳を得たり。張良は一巻の書と名付け、これを読みて三尺の竹に乗りて虚空を駆ける。樊ロ會はこれを伝えて甲冑をよろい弓箭を取って敵に向って怒れば頭の兜の鉢を通す。本朝の武士には坂上田村麻呂これを読み伝えて悪事の高丸を取り、藤原利仁これを読みて赤頭の四郎将軍を取る。それより後は絶えて久しかりけるを、下野国の住人・相馬小次郎将門これを読み伝えて、わが身の勢達者なるによって朝敵となる。されども天命を背く者のややもすれば世を保つ者少なし、(略)、それより後はまた絶えて久しく読む人もなし、ただいたづらに代々の帝の宝蔵に籠め置かりたりけるを、そのころ一条堀川に陰陽師法師に鬼一法眼とて文武二道の達者あり、天下のご祈祷師でありけるが、これを賜りて秘蔵してぞ持ちたりける」となっているのが、いつしかこれが「唐の国から吉備真備が伝え、大江氏に贈られたもの(←時代が合わない)を大江匡房が八幡太郎に与え源氏の重宝とした。いつしかそれを鬼一法眼が手に入れてしまい、義経はただそれを鬼謀を使って取り戻しただけ」という風に変化した。
義経記では明らかに『六韜』単体なのにこれもまた『六韜三略』とセットで語られるようになり、題名からして『鬼一法眼三略巻』も『三略』が主役っぽいのに実際は「虎の巻」(←六韜の一部)を巡って争っているという。
「義経は書写した六韜のうち、“虎の巻”以外は焼き捨てた」という説話もあるのですが、その出典はなんなのでしょうか。それから現在出回っている「鞍馬の虎の巻」もなかなかヘンなものらしいですよね。見てみたい。
義経が入手のためこんなに苦労した『六韜』も、現代の私たちは容易に読むことが出来るのですから涙が出ることです。うーーん、私もなんか上から目線で語ってしまってる。義経記の中で義経がそんな私を激しく非難する文があります。

「鞍馬山の魔王尊と僧正坊は同一人物なのか? あるいは別人なのか?」という説明は、また数年後に鞍馬山を訪れたときに、稿を改めて致すことにしますね。
もう一つのナゾは「狩野古法眼元信の描いたという天狗絵の実際」ですよ。これもまたいずれ。(正月は宝物殿は閉鎖されておりました)

今回の収穫は、「鬼一法眼社にあった魔王尊像を見た」ということにしておきます。
それにしても、ここ(東の谷)から少年牛若が奥の院にある僧正ヶ谷に夜な夜な通うのはなかなか大変なことですね。一度本堂を通らなければ西の谷には行けない。


<東光坊跡 義経公供養塔>(昭和15年建立)

丑の刻参りの呪詛に恐怖す。

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鞍馬寺の紋はどう見ても「天狗のうちわ」なのですが、お寺の説明によると「菊の花を正面からではなく横から見たものをデザインした」と伝えられているそうです。え?
また天狗様も、鞍馬山にいるものは「姿を見せない山の精霊」「マイナスをプラスに転化させる力を持つもの」だそうです。へー。

1月11日に行った京都旅行の記録、その2。
3年前に来たときは鞍馬のすぐ近くにある貴船神社も素通りしてしまってまして、丑年生まれの私は丑の刻参りにもとても興味を持ってたので残念な思いを日々強くしていたのでした。今度こそは貴船にも行ってみよう。
わたくしの生まれ育った遠江国旧浜北市は、これ以上の田舎町もないってくらいのどうしようもない田舎町ですが、むかしは町の中央にそれなりの繁華街があってその町を「貴布禰(きぶね)」と呼んでおりました。その町も再開発によって跡形も無くなっていますが、現在の遠州鉄道「浜北駅」も昔の呼称は「貴布禰駅」だったんですよ。小学生になったとき歴史に興味に持ったばかりのわたくしはいろいろな地名由来を調べ始め、「貴布禰」は水神信仰の地名だと知った。私の家は天龍川の河原にありましたから、「諏訪信仰」「龍神信仰」とは別に天龍川の祟りのみなもとに「貴船信仰」というものもあることに感嘆を持った。水神にもいろいろ種類があるのだと。
その貴船信仰のおおもとは京都にある鞍馬の山なのです。



鞍馬山の門前から坂を下り、貴船口からまた坂へ入る。うを、鞍馬本町と貴船はすぐそこだと思っていたのに、貴船口から貴船の門前まではかなりの距離がある。歩いている人もけっこういます。遠くて寂しい道なのに。駐車場を捜すんですがほとんど無い、おまけにところどころ見かける看板には「駐車場代1000円」と書いてある。高いよ。(鞍馬の駐車場代は500円だった)
貴船の門前にも駐車場があったのですが、やはり1000円でおまけに何かの工事中で駐車不可。
やたらと道が狭いし「この先駐車場があるのか? 無かったとしてもUターンできるのか?」と思ったところに料理屋さんがあり、そこで客引きをしている上品な人がいて(あとで調べたら女将さんだった)、「もしおなかが空いていたらここで湯豆腐を食べて、車はいくらでも停めててもいいからゆっくりお参りしてらっしゃいよ」「ひとりでも全然いいですよ」と言われて、「うん、そういえば小腹が空いてるな」と思ってランチの料金を尋ねたら、3500円。湯豆腐が3500円! でも考えてみたら「京都で湯豆腐」ってなかなかおもしろそうじゃないですか。3500円って高くないなと思い直し(なんでだ)「ごちそうになります」と言って駐車場に停めてもらいました。
お店は「貴船茶屋」というお店です。本来は川床料理のお店(=夏のみ)だそうです。



お店の中はかなりレトロな造りの座敷。ええじゃないか。



すでに席がしつらえてあって(1人だったのに!)、火を付けられる。





おおおお、本当に湯豆腐だけで3500円なのか!?
さすが京都、やるなっ、と思っていたらかっこいい料理人の男が京野菜の天麩羅と炊き合わせを持ってきてくださいました。なぁんだ(と、がっかりしてしまう自分がいたりして)





炊き合わせなんですが、「どうせ京風の味付けなんだろー?」と、濃い味好きな東蝦夷な私が挑戦的な気持ちになってしまうのは仕方の無いところでございます。が、蔭に隠れてタラコを炊いたのもあったりして、とても芸が細かい。やっぱりおっさんは京都の力に感服です。例えば天麩羅にも一番奥に何かの真丈のもちもちした何かがいたりもして。



肝心の豆腐です。
天麩羅を食べているうちにぐつぐつ煮立ってきますので、食べる。おお、普通の豆腐だ。
私は常から豆腐が大好きなのですが、その実、良い豆腐を食べ分ける舌など持ち合わせていなかったのでした。
とはいえ3500円の豆腐ですから、きっと凄い豆腐を使っていない訳が無い、と思いながら楽しく食べました。
豆腐ダレが濃い・・・ これは京風じゃないのね(大歓迎だ)



それから、ジャコご飯と香の物と果物で終了。満足しました。
そしてあとあとに図らずもここで豆腐を食べたことを感謝することになりました。とても程良い満ち足りた腹持ちがとても長時間持続した。最近の私はとても粗食になっているので、いきなり脂っぽいものを食べたら大変なことになっていたかもしれない。寺社巡りをするにあたってこのささやかで精進的な膨満感はなかなかありがたい。

「なんで京都で湯豆腐?」と思うんですが、調べてもなかなか分かりません。
精進料理の中心と考えられたから京都とのつながりを感じられますが、別にお寺は京都だけにしか無いわけではないし・・・。ここのサイトを見ると「室町時代には豆腐といえば奈良」だったそうです。現在は、京で湯豆腐といえば「南禅寺界隈」となっているそうですが(なんでだろう)京都全体で湯豆腐が料理屋メニューとなっています。なんでだろう? 「祇園豆腐」というものもありますが、京都には豆腐メーカーが多いのかしら? 
「豆腐を誰が発明したか?」(伝説では淮南王劉安だそうです。何か逸話があるのか?)とか「日本に製法を持ち帰ったのは誰か?」とか(伝説では弘法大師。・・・高野豆腐が先なのか?)なんて考えたことも無かったのですが、またいずれ金持ちになったら、京都に他の豆腐を食べに訪れたいですね。




それから貴船神社(きふねじんじゃ)に参拝。
18代反正天皇の時代に玉依姫命(神武天皇の母)が大阪港から「黄色い船」に乗ってここにやってきたから「黄船」→「貴船」。という説明が貴船神社のサイトに書いてあったんですが、その玉依姫命は別に当社の祭神では無いそうです。神武天皇の母ってそんな長寿伝説がありましたっけ? ウィキペディアを見ると「玉依姫」の項にはややこしいことが書いてありまして、玉依姫は何人もいたそうですから、「タケノツヌミ神の娘」の玉依姫がそれっぽいかも知れない。建角身にしても11代垂仁天皇の頃の人で、この頃の天皇はみんなとんでもない長寿ですから建角身の娘だったとしても玉依姫も人並み外れた長生きだったということになりますが、貴船神社は賀茂別雷神社の摂社だったそうで、賀茂別雷命の母は伝説では建角身の娘の方の玉依姫だとされているから。とにかく記紀では反正天皇は5年しか在位していなかったことになっていて、そこにピンポイントに玉依姫の創建伝説があるところが面白い。反正天皇は身長が9尺2寸半もあったそうです。



貴船神社は「絵馬の発祥の地」だそうで江間好きな私は「何か書いてみても良いな」とチラと思ったのですが、「今は別に願いたいことも無いし」と思い直し(←えっ!?)、でもここが実質わたしの今年の初詣だったため、おみくじだけ引いておくことにしました。(さっき行ったばかりの鞍馬寺の鞍馬弘教という教義はヘンテコ教義だと思うため、ノーカウントとする)
この神社の「水みくじ」は有名でしたね。
本殿の目の前にある水場に紙を浮かべると文字が浮かび出てくるというのですが、テレビで見て想像していたより占う水場は小さかった。



でーーいっ、小吉!  (凶でなかっただけ良しとしよう)

 ・「商売」・・・利益は思わしくない (ショック!)
 ・「旅行」・・・行っても心配だらけ
 ・「恋愛」・・・他人の妨害がある。末永く我慢すればそのうちにね。 (誰だっ)
 ・「病気」・・・重くなるが治るよ。
 ・「無くしたもの」・・・出てこない。
 ・「転居」・・・急ぐな。

うーーーーん、、、、。ちょっと厳しい一年になりそうだ・・・

で、「この狭い境内のどこで丑の刻参りをするんだ?」「どこかに山の奥にでも入る道でもあるんかな」と思ったのですが、私はこの先に「奥の宮」というのがあることを知りませんでした。(※貴船の奥宮は本宮から約700m)。丑の刻参りをしたい人(?)はそっちに行くようです。
これも知らなかったのですが、本宮にいる神は「高龗(たかおかみ)神」で、奥の宮にいるのが「暗龗(くらおかみ)神」ですって。神社によればどっちも別の名前の同じ神だそうなのですが、天龍川にいることになっているのは「闇龗神」なんですよ。
貴船神社は、本を読めば読むほどおもしろいので、また行ってみたいです。
とにかく鞍馬が「天狗の山」なのに、そこから少しだけ行った所にある貴船が「鬼の谷」となっており、空気の匂いさえもが全然違うところが興味深い。
「丑の刻参り」の語句が初めて出てくる作品は室町時代の謡曲『鉄輪』だそうですよ。(※丑の刻参りの風習自体はもっと古くからあったとされるが)謡曲の世界も面白いですね。いろんなところで参考文献になる。本を数冊買ってありましたので、そのうち詳しく読んでみましょう。




せっかく叡山電鉄沿線にいるのだから、そこから比叡山延暦寺に行ってみることにします。
折角だからケーブルカー・ロープウェイを使って登山しても面白いな、と一瞬思ったりもしたのですが、調べてみたらなんかややこしいし、横川まで行くのだったら移動手段が結局必要だし、車で向かうことにしました。でもいづれまたケーブルカーでも登ってみたいですね。



比叡山て、こんなに大都市に挟まれた山なのに、なかなかの高さですよね。(標高848m)
秋葉山(866m)と同じくらい。
比叡山は有名な魔所です。天台宗の大道場でもあるのですが、今回の私の目的はもちろん天狗探求。
確かとても若かった頃来た事がある。デジカメもまだ持っていなかったくらいの頃で、写るんですでいっぱい暗がりの写真を撮ったんですが、それももう手元に残っていない。でもなんかとても良い思い出があります。

比叡山は、天狗伝説もまたとても豊富です。(20年前に来たときの私は知りませんでしたがね)
日本最古の「天狗の聖地」といっても良いです。
まず、『今昔物語集』(第20巻)に載っている12話の天狗説話のうち、少しでも比叡山に関わりのあるものが7話。

 1.天竺の天狗が海水の音を聞いて我が国にやってきた話
 2.震旦の天狗の智羅永寿が我が国にやってきた話
 3.天狗が仏に変身して都の中で木の上に座っていた話
    『今昔物語』ではこの仏の正体を天狗だと見破ったのは深草帝の皇子ですが、
    ほぼ同様の話を伝える『宇治拾遺物語』ではその役を叡山の僧がします。
 4.天狗を祭る僧が内裏で奇跡を起こしたが馬脚を現して追われた話
 7.美人で誇り高い染殿が天狗に惑わされ狂乱した話
    『今昔物語』ではこの話に決着はつきませんが、
    後の世に成立した『是害房絵巻』では比良山聞是坊が是害坊に言う。
    「染殿をたぶらかした鬼はその後、智証大師円珍に挑んで琵琶湖に沈められた。
     おまえもわざわざ中華の国から来たんなら死ぬつもりでがんばらんかッ」 
 8(欠話).良源僧正、霊となり観音院に来たり、余慶僧正をこらしめた話
 11.万能池の竜王が天狗に誘拐された話

ただし今昔物語では比叡山は「天狗の山」とされているのではなく、天狗を退治する役として比叡山の僧が関わっていることが多いです。叡山の僧は天狗には滅法強い。(※それは、『今昔物語集』を編纂したのが叡山の僧だとされているから)。例外的に、巻19に「比叡山の天狗、僧を助けて恩を報いた話」というタイトルがあってどんな物語か興味が沸くのですが、残ってるのはタイトルだけで本文は失われているそうです。残念だ。良い話だったらいいのに。同様に欠話の巻20の第8話も、慈恵大師良源(角大師)の役は天狗的な役なのか、天狗を懲らしめる役なのか・・・ (天台座主第20代・余慶僧正も第2話において大唐天狗・智羅永寿を散々に蹴り嘲った人です)

室町時代後期〜江戸時代中期にかけて成立したと思われる『天狗経』には、そのころ著名であった48人の天狗の名前が列挙されていて中世の天狗世界の把握の集大成となっています。残念ながら天狗は日陰者なので、その48人のうち半分はやがてデータの詳細が失われ、どういった背景を持つ超自然の顕現なのか今のわたしたちには分からないものになっおりますが、それでも天狗経の中の48狗を、現在でも「日本の48大天狗」と呼んでおります。
その48人のうち、比叡山に棲むとされているのは2人。

 ・比叡山法性坊(ひえいざんほっしょうぼう)・・・48大天狗の4人目
 ・横川の覺海坊(よかわのかっかいぼう)・・・48大天狗の5人目


まず、『今昔物語』の方は、比叡山が舞台になっているのは1つだけ(智羅永寿の話)だけ。
智羅永寿(ちらようじゅ)というのは中国からやってきた大天狗の名前で、後の世になって、謡曲『善界』(観世)『是界』(宝生・金春・喜多)『是我意』(金剛)とか『是害房絵巻』では「是害房」などと、「ちらよ」が「せかい/ぜがい」という名前に代わってしまうのですが、とにかく彼ははるばる日本にやってきて、別の山の日本の天狗と共に(『是害房絵巻』では愛宕の日羅坊、『善界』では愛宕の太郎坊天狗)、一緒に比叡山に降り立ちます。
その遺跡はどこなのかと探そうと思いました。
その場所は、今昔物語の描写によると、
「比叡の山の大嶽の石卒塔婆のもとに飛び登りて、震旦の天狗も此の天狗も道邊に並み居ぬ。(中略)とばかりあれば、山の上の方より、餘慶律師といふ人、腰輿に乗りて京へ下る。この人は只今たふときおぼえありて、いかで陵ぜむと思ふに、極めてうれし。やうやく卒塔婆のもと過ぐるほどに、事すらむかしかとし思ひてこの老法師の方を見れば、老法師もなし。また律師もいと平らかに弟子どもあまた引き具して下りぬ。怪しく、いかに見えぬにかあらむと思ひて、震旦の天狗を尋ぬれば、南の谷に尻を逆様にて隠れ居り。此の天狗寄りて、「何とここには隠れたまへるぞ」と問へば、答ふるやう、「この過ぎつる僧は誰ぞ」と問へば、此の天狗、「これは只今のやむごとなき験者餘慶律師といふ人なり。山の千手院より内の御修法行ひに下るるなり。(後略)」

この場所はどこか?
ヒントは「大嶽の石卒塔婆のある道ばた」、「山の上から余慶律師が」、「山の千手院より」、「余慶僧正は観音院僧正とも呼ばれた」。
これだけをメモして比叡山に行ったんですが。

・・・わかりませんでした。
だって「行けば分かるだろう」と思って行ったのですけど、「観音院」すらどこにあるのか分かんないんだもん。
「観音院」と「山の千手院」は同じものだと思うのです。でも現在の比叡山にはその建物は無い。(信長に焼かれたか?)
でも、家に帰ってから調べ直したんですけど、もしかしてこれ
くそー、もうちょっと調べておけば。

とすると、「大嶽」というのが「大比叡の山頂」だとして、「山王院の方角から都の方へ向かって下りていく山肌」で「石卒塔婆」を捜せばよかったのか。
地図で言うとこのへん?(また(雪の無い時期に)行きましょう)
(※『是害房絵巻』では余慶は「千光院ノ律師」となっているそうです。千光院なら西塔にあった建物です。(今は無い))




続きまして、「比叡山法性坊」。
これはわかりやすい。モデルになった人物として、「法性坊尊意」(第13世天台座主)という高僧がいるからです。
「法性坊尊意」と言っても知名度は無いのかもしれませんけど、それはそれは凄いお坊様。
11歳のとき高雄の山に入り、21歳で智証大師円珍から戒を受け、加持祈祷の術に秀で、元三大師・良源は弟子。
宮中で、菅原道真の祟りを調伏し、平将門の乱も調伏するなどエピソードも多い人です。
菅原道真とは親しい友人だったんですって。(21歳の年齢差があったそうですけど。菅公が年長)
謡曲の『雷電』では死んで荒ぶった道真の霊を、法性坊が鎮める。
生前からかなりの徳のある僧として高名だったそうです。
そういう人が「死後、天狗になった」ということがインパクト強いんでして。

その天狗化については、知切光歳師の『圖聚天狗列伝』が詳細です。
「将門を調伏した天慶3年2月下旬の22日、法性坊は頭をきれいに剃ってもらい、念入りに沐浴の後、かねて念願の往生の日が近づいたことを弟子たちに告げた。結縁のために柱を立てて集まる人に知らせ、24日早朝、新しい法衣に着替えた。口中と手足を浄め、自分の坊舎、東塔東谷の南光坊から中堂まで輿をひかせ、いつもの勤行に仕立て、なんらの病もなしに示寂したのであった。享年81。(あるいは75とも)。少しも屍臭がしないので、弔問の僧俗どもが奇異に思った。送葬の日、ひとつの奇瑞があった。数百羽も打ち群れて南光坊の空を飛び交い、哀しい声で鳴きたてていた山の鴉が、葬りが終わると、いずこともなく飛び去ったのである。人々は法性坊の死を悼んで鴉が鳴くのだと見たかも知れないが、現世の業を終えていよいよ天狗界の王者を迎える鴉天狗どもの御迎えの声だったのかもしれない。おそらく棺の中は死出の衣装だけを残して、遺体は遠く横川の空へ飛び去った。羅山の『神社考』にはそのときの光景を、「尊意ハ群鳥ト同ジク、横川ノ杉ニ翔リ」と叙している」
「法性坊は叡山天狗の首領とされているけれども、根が座主上がりの高僧だけに、動乱を好まず、もっぱら愛山護法の天狗、呪術に通暁し法験あらたかな天狗として、自分の立場を固守して愛宕や鞍馬の天狗の下風に就くこともなかった」



要は、法性坊の天狗遺跡の場所は、根本中堂なんですね。これは叡山の中心となる建物。とてもわかりやすい。
根本中堂はそれはそれは見事な建物でしたけど、内部は禁撮影でした。
そして思いっきり寒くって、床が冷たくて、足がしびれてきた。(宝物殿も足が凍えた)
私は非常に寒さに強い人間のつもりなんですけど、それにしても我慢できないほど。
お坊さんて尊敬するなあ、と思いました。

で、天狗経48天狗のうちの39番目、上野の国・妙義坊もその正体は法性坊尊意なんだそうです。
48人しかいない大人物のうちの2人が同一人物だなんてアリか?
その謎もそのうち解かなけりゃ。



で、比叡山東塔に来たのなら、あわせて見ておかねばならないのはこれ。
なんと根本中堂に下る坂の上の所にありました。
なんでこの場所なのか。
“大塔の宮”尊雲法親王も116・118世の天台座主になった人ですが、この人はこの場所に棲んでいたんでしょうか?

『太平記』より
「この大塔の二品親王は、時の貫主(=座主)にておわせしかども、今は行学ともに捨てはてさせたまいて、朝暮ただ武勇の嗜なみのほかは他に事なし。お好みあるゆえにやよりけん、早業は江都が軽捷にも超えたれば、七尺の屏風もまた必ずしも高しともせず。打ち物は子房(=張良)が兵法を得たまへば、一巻の秘書尽されずと云う事なし。天台座主始まって、義真和尚より以来一百余代、いまだかかる不思議の門主(=座主)はおわさず。」
すでにこの時点で天狗的(遮那王的)なのですが、
この碑の脇に置いてある看板を読むと、
「当時、根本中堂を御座所としてのちに大講堂へ入る。弟の尊澄法親王(=宗良親王)と一緒に常住した」
と書いてある。
おお、根本中堂で寝起きしていたのか。(・・・できるのか?)
寝る場所は他にあったのかな。

大講堂も大塔宮の天狗遺跡として私的に認定。





大塔宮のモニュメント?

そこから横川に向かいます。
「西塔」も行きたかったけど、さっき貴船で引いたおみくじで「西は凶」と言われてしまったし。
西塔には伝教大師の遺跡が多く、平田篤胤などは『古今妖魅考』の中で「比叡山次郎坊(=比良山次郎坊)の正体は伝教大師最澄である」と断言しているのだそうですけど、知切師は「そんなバカな」と首をかしげておられます。

横川は20年前に来たときも歩いたことがあります。
20年前も、そろそろ日が落ちるころに来て徐々に木々の間が暗くなり、とても幽玄な気持ちになりました。
今日も図らずも似たような時刻になってきてしまっており、冥くなる、だんだん冥くなる・・・
道路がかなり凍っており、一度道に撒かれた融雪剤でタイヤがツルッと滑ってしまったので急に恐くなり、ゆっくりとソロソロと運転して横川の駐車場に到着したちょうどそのとき、関係者らしい車が出て行った ・・・しまった、閉門の時間です。(16時)
でも閉門といっても係員がいなくなって横川中堂に入れなくなるだけで、普通に建物の間を歩くことはできます。
(慈覚大師作だという(伝)「日本一優しい顔の聖観音」というのを見たかったけれど)



しばらく歩いてみて気付いたんですが、わたし、ここに来た事ないや。
そうか、20年前に来たと思ったのは、横川じゃなくて実は西塔だったんだな。
適度な年月は、勝手に自分の記憶を捏造してしまうから困ってしまいます。
そうか、私は横川を歩くのは初めてでしたか。



中堂の坂を登っていたとき、顔のすぐ横で何か獣の気配がして「ヴォヴォッ」という声も聞こえました。
吃驚して「猿!?」と思ってじっと雪を見つめたんですが、何もいない。何!?
そういえば秋葉山を登っていたときも、見えない犬の気配を感じたことがあったのですよね。
何なのだろう。(今回の猿と前回の犬の気配は全然違う物でしたけど)


さてさて、「横川の覚海坊」についてです。
とても分かりやすい「比叡山法性坊」に対し、こちらの天狗はナゾに包まれています。
『圖聚天狗列伝』によりますと、「覚海」という名前で自ら望んで天狗に成ったという伝説を持つ高僧が13世紀に高野山に実在してまして、なんとなく伝統的に「高野山にいた南証坊覚海法印という人が48大天狗の横川覚海坊の正体だ」ということにされているのですが、「本当にそうか?」と知切師も頸を捻っています。
それは、高野山の高僧が死後、比叡山の天狗になるのはどう考えてもおかしいから。(そりゃおかしいですよね)
知切師によると、「天狗になった覚海は今でも高野山で姿が見られることがあるという」とのことで、(高野山ではこの覚海天狗を「大魔王」として祭っているともいいます)、またこの「南証坊覚海」とは別人で同じく高野山で天狗になったとされる「美髯公と呼ばれた覚海」という人もいた、と書いています。(知切師によると「現在高野山で目撃される覚海坊とはこの美髯公の方では無いか」とのこと。「美髯公」というあだ名を持つ日本人の方が天狗よりも珍しい気もしますけど)。どちらにせよ、高野山には覚海坊にまつわる天狗伝説はいっぱいあるのに、比叡山に伝わる覚海坊は名前のみで逸話が一切無いのです。
「覚海」と言う名前はよくあった名前だと思う。
伊豆に伝わる北條高時の母の名も「覚海円成尼」ですし。
でも、
「横川覚海坊と高野の覚海は同名別狗ではないのか」
「いずれにしても、確証が無いかぎり、横川覚海坊は南証坊覚海としておきたい」
「横川覚海坊は横川中堂の護法などではなく、逆に北の方から都を目指して嫌がらせをしようとなだれ込んでくる天狗の一団を支援している首領のひとり、と見たらどうであろうか。それなら高野山出身者が覚海坊であってもおかしくない」
うん、知切大先生がそう言うんなら、私もそうだと思います。

どちらにせよ、横川の近辺は天狗的な雰囲気が充満しております。いいところだ。



また近いうちにもっと丁寧にこの山の中を歩いてみたいです。もっと早い時間に来て、一日中歩き廻りたい。



だんだん闇くなってきてきており、「この山の中にはもう私しかいないんだな」と思って歩いていたら、奥にある四季講堂(元三大師堂)から数人が激しく読経をしている声が聞こえてきました。
おお。
元三大師(慈恵大師・良源)こそ天狗的な人だと思うんですけど、この人って天狗になった逸話って無いんでしたっけ?
(もっと変なものになってしまったから、天狗は無いのか)

 


そういえば今になって思い出したんですが、延暦寺の「一つ目小僧の伝説」にも私は強い興味を持っていたんでした。
探すの忘れてました。
この、一つ目小僧になったという「慈忍和尚」というのも、今昔物語において大唐天狗の智羅永寿をピシパシ苛めていた「飯室権僧正・尋禅」(第19世座主)なんですよ。
・・・小僧じゃないじゃん、小僧どころか大和尚(かしょう)じゃん。(正確には「一眼一足」と呼ぶそうですよ)
比叡山は化け物ばかりだな。

  (妖怪伝承データベースより)
  信濃国・北安曇郡の小谷では、天狗を一眼一脚の怪物、もしくは山犬という。
  松本平ではチンバともいうらしい。

(★次回への課題)(※参考サイト
比叡山にも「魔王堂」があって、天狗が祀られているそうだ。(鞍馬と同じく魔王の正体は毘沙門天だそうですけど)
ここにも慈忍和尚が関わっているそうです。



横川から琵琶湖の方に坂を下ります。
出てきた場所は堅田の町。
「そういえば3年前に堅田で天下一品を食べたな」と思って行ってみましたら、見当たらない。
「あら、なくなってしまったか」と思って車を走らせたら、別の場所にありました。



写真がブレてしまいましたが、花飾りがたくさんある。
移転したばかりなのですね。以前の店舗は屋台色を大きく出した独特な外観だったのに、残念。
でも内装と壁の効能書きは見覚えのある物でした。
(※検索したらリニューアルオープンしたのは去年の7月だそうです。なんだこの花)



味付け煮卵チャーシューメン(こってり)¥920 を注文。
高いな。(でもノーマルのこってりラーメンは¥680 なんですよ。)
前回はこのお店で「豚トロチャーシュー」を頼んでしまった記憶があるので、今回は通常タイプのチャーシューに。
こっちの方が好きなんだ。



写真じゃもうわからないぐらいにヌトヌト。これだこれだ。
以前の旅ではその後、はからずも天下一品行脚の旅になってしまったんですが、今回はこの一杯でもういいや。
(前回の旅でひどく感激した「あわせ味」(←浜松店には無い)はもう一度食べてみたい思いもしますが)


それから適当にお風呂を探し、(琵琶湖畔には温泉が豊富)、大津に戻って
4年前、三井寺に行ったときに利用したネットカフェで夜を明かしました。
なにか化け物的な作品を読みたくなって、『夏目友人帳』を読みながら寝たのですが、
なんだ、あれ、あのばあさまがどうなったか非常に気になるじゃ無いか。
ねえねえ、婆ちゃんは幸せになったの? どうなの?
・・・明日もつづきを読もう、、、

(つづく)

琵琶湖の特産品。

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1月12日に行った琵琶湖旅行の記録の続き、第3回。


8時に目を覚まし、出発。
今日の目的は琵琶湖一周。
私は遠江国の住人ですので、近江の国のことを兄のようにお慕い申し上げておるのです。
琵琶湖の北の方には行ったことが無かったので。

知切光歳の『圖聚天狗列伝』には、琵琶湖の天狗には3人が名を挙げられています。

  ・比良山次郎坊(ひらさんじろうぼう)
  ・竹生島行神坊(ちくぶじまぎょうじんぼう)
  ・松ヶ崎普門坊(まつがさきふもんぼう)

比良山は3年前にも天狗を捜しに行ったことがありますので、今回はパス。
(3年前無目的に適当に比良の山の中を歩いたんですが、何も見付けられませんでした。
痕跡がなさすぎるのです。今の時期に比良の山に入ったらきっと遭難します。
でもそういえば、ダンダ坊遺跡(比良の僧兵の城砦跡?)は見付けたのでした)


3年前に撮った比良山のダンダ坊・・・ 写真だと何がなにやら。


今日は竹生島に行ってみることにします。
竹生島は琵琶湖の北端にある小島。浜名湖でいえば礫島にあたる島です。
浜名湖には礫島ひとつしか島が無いのですが(人工島・弁天島(象島)もあるが)、琵琶湖には「竹生島」、「多景島」、「沖島」という3つの島があって、それぞれ個性を持っている。
本当は面白そうなので3つとも回りたかったんです。
夏だったら大津を出発して、「3つの島を1日かけて巡るクルーズ」というのがあるそうなんですが、この時期にはお休みしているらしい。
なので竹生島だけ行くことにしました。(天狗がいるのは竹生島だけだから)



ところで、琵琶湖の各地域の呼び名についてです。
浜名湖は形が入り組んでますから、場所によって「浜名湖本湖」「弁天島」「今切れ口」「引佐細江湖」「庄内湖」「猪鼻湖」「松見が浦」「内浦湾(舘山寺)」「鷲津湾」という名前が付いています。
この日記を書くに当たって、琵琶湖にも相当の地名が無いか調べたんですが、琵琶湖の場合、「北湖」と「南湖」という区分をするそうです。
その「南湖」というのは琵琶湖大橋(堅田--ピエリ守山)より南の細い部分。北と南のバランスが悪過ぎやせんか。
(南湖の部分だけでさえ広さで言えば浜名湖本湖よりも遙かに広いのですが)

ちゃんと調べれば「赤野井湾」「山ノ下湾」「奥出湾」「塩津湾」「大浦湾」「マイアミ海」などの地名があるようです。
でももっぱら沿岸の集落名・港名「〜沖」と呼ばれる事の方が多いみたい。そりゃそうか。


さてさて、“琵琶湖で一番神秘的な島”竹生島に行くには、大きく3つのルートがあります。
・長浜港から(琵琶湖汽船)・・・片道約30分、往復2980円。冬季は1日2便。
・今津港から(琵琶湖汽船)・・・片道約30分、往復2520円。冬季は1日2便。(土日祝のみ)
・彦根港から(オーミマリン)・・・片道約40分、往復3300円。冬季は1日2便。
それぞれ2便ずつとはいえ、選択肢は豊富ですね。だって人が住んでいない島なんですから、只観光だけの線なのに。さすが竹生島。夏はもっと本数が多いです。もちろん車で来ていないのなら、往と復を片道の別々とする組み合わせもできます。夏には大津港出発の便もあるという。

私は3つのうち「今津港」を出発する物を選ぶことにしました。
たまたま日曜日でしたし、どうせ琵琶湖を一周するつもりでしたし、この往復が島での滞在時間が一番長かったし(80分)、何より料金が一番安でしたから。
今はともかく、平経正や延喜帝の時代には、どこから出発するのが一般的だったんでしょうか。志木沢郁氏の『可児才蔵』では比叡山麓の明智光秀に仕えていた可児才蔵が琵琶湖最北端の菅浦まで馬で行って、漁師に舟を借りて竹生島に渡る描写があるのですが、今の時代ではその方法はなかなか・・・

出航の時間は10:30。
今津港がすぐにみつかるか自信が無かったので「間に合うかな」とヒヤヒヤしながら行ったんですが、10時前には無事到着していました。大津からは50kmぐらいなので、1時間半ちょっとですね。

そうそう、このルートを選んだ理由のひとつは、







雪を冠った比良山を間近で見たかったからでもありました。
「近江八景」の一つは「比良の暮雪」。まだ朝なので暮雪ならぬ「明雪」ですが、美しくて迫力がある。近江八景にならって遠江にも「浜名八景」というのがあるんですけど、「比良の暮雪」に対応するのがわれらが舘山寺の「大草山の暮雪」なんですよ。偉容は段違いだし南国浜名の東岸で雪が積もることなんてありませんけど。
とくに堅田の町中から見る比良山が見事です。あのどこかに次郎坊がいるんですよー。
(北比良の堂満岳とカラ岳の間にリフトとロープウェイがあって(2004年に廃止)その山頂駅の付近に「次郎坊」という地名があったといいます。スキーのためのロープウェイだったそうなので、冬の間も次郎坊に登れたんですよね。八雲が原のスキー場の脇に接した場所なので、便宜的に付けられた新しい地名だったのかもしれませんが。それよりも堂満岳(どうまんだけ、1057m)の名前の由来は何? カニ?)

写真で見ると雲一つ無い晴天に見えるかも知れませんが、実は天気は良いのに東の方がたいぶモヤってまして、既に対岸は見えない。
しまった、昨日の方が見晴らしは良かった。


9:14の景色。



到着した9:40頃にはその場に私しかいなくて、「やべえ、貸切か?」と思ったのですが、「琵琶湖周航の歌資料館」やら「ヴォーリズ通り」やら歩いて戻ると(意外と楽しかった)、出発の10:30には乗客は10人前後に。寒いですからね、こんなもんですよね。









浜名湖の遊覧船が大好きなので、琵琶湖の遊覧がどんなのかとても楽しみだったんです。
なので浜名湖との対比。
浜名湖の場合、舘山寺を出発して30分で周遊するコースと60分で周遊して帰ってくるコースがあるんです。30分コースなんて行ってすぐ戻ってくる感じであっという間なんですが、それでも行ける範囲のポイントをいちいち回り、ゆったりとした雰囲気を味わうことが出来る。
琵琶湖の場合は、片道30分なんですが、ただ一直線に竹生島を目指す。スピードも速く、全く連絡船です。
一応座席で、琵琶湖案内のビデオをずっと見ていることもできますけど、湖上の風景を見ていても景色は雄大すぎてすぐ飽きる。浜名湖は地形が入り組んでますから沿岸をちまちまのろのろ走るだけで、「浜名湖って狭いんだな」と改めて思いました。琵琶湖は広い。深さもだいぶありそうです。
琵琶湖は浜名湖に比べて波がほとんどありません。地形的に潮の干満も無いのかしらね。
この日は空気が煙っていて、かなり近づかないと竹生島の姿もはっきりしませんでした。

竹生島には季節によりいろんな形態のクルーズが様々あります。
今津港発のに一回乗っただけでは琵琶湖遊覧の感覚は掴めないんだろうな、と思います。
浜名湖遊覧とは大違いです。
浜名湖の遊覧も、むかしは5つぐらいのコースがあったそうなんですけどねえ。



今津港からのルートは、ニュースでよく見た「カワウの害が甚だしい」島のお尻の方から近づきます。凄いねカワウ。




下にある鳥居は神社(都久夫須麻神社)のもので、上に見える(階段はまだまだずっと続くが)の鳥居はお寺(巌金山宝厳寺)の物。まあ、明治以前はお寺も神社も一体だったんですが。

竹生島の見所についてはいろんなサイトで紹介されているので省略するとして、わたしはこの島の天狗のお話だけを・・・
・・・しようかと思ったんですが、ウィキペディアの解説が(私的に)とても面白いので紹介。
この島は現在は「弁天様の島」として有名ですが、島自体は「浅井姫命(あざいひめのみこと)」といいます。浅井の姫は弁天(市杵島姫)とは別の女神だという。
淺井比売の本体は滋賀県の北東部にある伊吹山脈の「浅井岳」(1317m)で、伊吹山塊の主峰・伊吹山(1377m)の男神「多多美比古命(ただみひこのみこと)」とは伯父・姪の間柄だったそうです。ある日、この二人が「背比べをしよう」ということになったのですが、姫の方がおほほほほほと背伸びするとみるみる標高が伸びていったため、伯父は怒って手にした刀で姫の首をはね飛ばしてしまいます。姫の首は湖に落ち、「つぶつぶつぶつぶ・・・」という音をたてながら沈んでいったので「つぶつぶくび島」→「つくび島」という名前になったとか。この昔話にはいくつかのバリエーションがありますが、怒りがまだ収まらなかったのか、伯父は姪の身体の本体の「浅井岳」という名前も「金糞岳」という名前に変えてしまいます。
これは竹生嶋縁起によれば孝霊天皇25年のことだといいます。

大人げないのは伯父の「多多美比古」で、何も頸をはねなくても、と思うのですが、このタタミヒコもまた謎的な神で、鍛冶神だともいい(だから金糞か)、また「伊富岐大神」と同一人物だともいう。伊吹の大神といえば大猪に化けてヤマトタケルを祟り殺した人で、その正体は「八岐大蛇」とも言われており、そうか、八岐大蛇なんだったら仕方が無いね。(何が)。姪ももしかしたら首は3つぐらいあったかもしれない。
なお、現在の金糞山は1317m、竹生島の水面上の標高は197m。竹生島付近の湖の深さは104mだそうですから、それらを足すと、首を切られる直前の浅井姫の身長は(顔がひとつしかなかったのだとしたら)1618mということになる。うち300mが顔部だったことになり、浅井姫の真姿は6頭身の美女。近江の国では一番であり、金糞岳のすぐ近くにある能郷白山(美濃国で一番高い、1617m)にも1m勝ったことになりますね。ただし、竹生島は湖底とは繋がっていない(浮いている)という伝説もあります。
ところで「浅井比?」の名の由来は何だろう?
「孝霊天皇4年に東で富士山が隆起して西に琵琶湖が出現した」という伝説があり(林羅山『神社考』)、この場合下手人はデェダラボッチですよね。だとすると巨人デェダラ坊と巨大女アサイ姫は同時代の人間だということになる。
(※「景行天皇10年に竹生島が出現した」という伝承もある。)




『圖聚天狗列伝』より。
「行基が弁天堂を開くまでの竹生島は人跡を絶した無人島で、程近い多景島と共に比良山塊の天狗どもの絶好の遊び場であった。そこに行基が寺を創建し始めたのだから、天狗どもはわれらのなわ張りを渡すなとばかり、様々の障碍をほしいままにした。しかしそうした天狗どもの蠢動も、法験無双の行基菩薩の折伏にあって静まった。首領の行神坊がまず仏価に浴し、眷属とともに長く島の護法たらんことを誓い、剃髪ならぬもろ手の指の生爪ことごとくを切ってささげた。天狗の有力な武器である爪をみんな切ったというのだから、発心の程が知られよう。行神坊という坊名はこのとき行基に授かったものか。弁天堂へ登る鬱蒼とした道の傍ら、大きな杉の下に行神坊を祭った天狗堂がある。そこは昼なお暗い樹蔭で、この小島の中でと思うほど一種の魔気を漂わせている。行神坊が切って捧げた生爪は、今も山上の宝物館に、役ノ行者の竹杖その他、数多くの宝物、古文書類と一緒に陳列されている」

この逸話の出典はなんなのでしょうか?
知切光歳が本の名前を挙げないのは珍しいので、近所の人(神社の人?)に聞いたエピソードなのかも知れない。
「行神坊が比良の天狗」と断言しているのも、「湖畔の伝承」として「竹生島では比良の天狗の集会がおこなわれる」と書いていますから、独自に比良の天狗話と白髭明神(猿田彦)の逸話を蒐集したときの聞き書きかもしれませんね。



島内の案内板に全く天狗堂のことは書いてありませんが、階段を昇りきるとすぐに見つかりました。
知切師は「魔所のように禍々しい」と書いてますけど、すっごく明るい場所にあります。30年のうちに雰囲気が変わってしまったのでしょうか。



で、書いてある名前は行神坊ならぬ「行尋坊」。
知切師は「行神坊」という名前をどこから持ってきたのでしょうか?
「行神坊」という名前を知切師以外に使っている人はいません。
(※同様の例は「光明山利鋒坊」→現地名「光明山笠鋒坊」があります)



堂の上部に絵が飾ってあります。おおっ、行尋坊天狗の御姿だっ



なんとやさしげな。
どなたが描いた絵なんでしょうね?



天狗堂のうしろにあった2本杉。
この堂は湖を背にして建っています。
残念ながら堂の付近には行尋坊のいわれなどの解説板などは無し。
惜しいですよね、こういうメジャーな観光地の目立つところに天狗様の偉業をさりげなく示しておけば、今の世でも天狗様信仰の人は増やせると思うのにね。(誰も要らないって)

それから、頂上付近にある宝物殿に向かいます。別料金500円。
もちろん行尋坊の生爪を見に行ったのです。
ところが、入館料を支払ったとき、おっちゃんが「中に弘法大師の請来目録があるよ」と言う。そこでもらったパンフレットの表写真もそれ。実はわたくし写経が趣味なのですが、字の練習をするとき常に手本にしているのが空海の『風信帖』と『潅頂記』でして(ネットでいくらでも見れる。本もたくさん出てる)、大師様の字をそれはそれは愛しているのですが(それにしては私のクセッ字は全く似ないが)、弘法大師の真筆がここにある!?
その前に陣取ってずーっとそれを眺めてたんですが、これって本物? 確かに弘法大師の字には見えるが、空海って書によって全く筆跡が違うし、どうなんだろうね、これ? とパンフレットに書いてある解説をずっと読みながら悩むことしばし。そもそもなんで弘法大師の書が竹生島なんかにあるんだよ、と思ったら解説にも「平安時代中期の写本」とちゃんと書いてあった。なんだよ、大師の字と似ているから勘違いするところだったよ、とホッとして宝物館を後にしたんでした。めでたしめでたし。
この書の中で空海は自分の名前のことを変な文字で書いていることが面白かった。空海の「海」の字を「泉」みたいな字で書いてるの。(「泉」の「白」の部分が「毎」)
・・・と安心して家に帰って念のため検索したんですが、やっぱり弘法大師直筆の『請来目録』の本物はやっぱり竹生島にあるんじゃん。
あれ、本物だったの!? 本物だったんですかッ!?

冷静に考えて私の目にしたのは平安中期のレプリカで(だってそう書いてあるし、重要文化財って書いてあるし)、でも国宝である本物も竹生島に蔵されている? うーーん、わからん。

で、天狗の生爪。
そんなのあった? 弘法大師に夢中になってたので、見た記憶がありません。うー。
見た人の記録はたくさんあるのであることは間違いないのですけど、あったかしら。あったとして、この私が脳裏に見たことすら留めていないだなんてこと、あり得るのかしら。「爪とは思えないほど大きい」と見た皆様は書いておられます。うー。天狗の爪の隣には竹生島の天狗についての解説もあったそうです。う゛ー。
それから、ネットで調べたら「竹生島神社の一の鳥居の隣に石碑があって、その裏側には行尋坊の爪の後が残っている」という情報があったので、一の鳥居の付近を探したんですけど、結局見付けることは出来ませんでした。だってこの鳥居、新しいんですもん。家に帰って調べ直してみたら、この「竹生島神社」というのは島にある神社のことではなく、湖の対岸の早崎町にあるという竹生島神社のことでした。ややこしいわい。(竹生島も早崎町に属している)(※参考
ついでにネットで知った情報。
「行尋坊は随従として行基の傍らを離れる事なく、「死んでも永遠にこの島の守護を誓う」と言って、指の生爪を剥いで天狗となった」
知切師とは若干ニュアンスが違うような同じなような。
行基の側にずっといたのなら、少しは記録が残っていそうな。行基の伝記もそのうち捜してみましょうね。

さて、島での滞在時間は80分です。
探索の時間は「長ければ長いほど良い」と思っておりましたが、50分もするとやることが無くなりました(笑)
もちろん本堂も唐門も船廊下も神社もじっくり眺めましたよ。
見たかった「白蛇様」を見付けられなかったのですが、どこにあったのでしょうか。
まぁいいです、今日の目的は天狗探しであり、その目的は達したのですから。
大々的な工事中の箇所がかなりあり、見学はいささか不便でした。
でもこの修復工事、昨年始まり6年もかけてみっちりやるそうで、



ここなんかもカラフルな色に塗り直されるそう。
そうか、次回来たときは(来ることがあるか?)この景色はもう無いのね。
違うポップな雰囲気になってしまっているのね。

船着き場には土産物屋が何軒も並んでおるのですが(7軒あるそう)
この季節なので営業してたのは1軒のみでした。
たった1軒でも開いているのはありがたいもので、ちょうど小腹が空いていたので何か食べようと思い、ちょっと覗いたら前から食べたいと思っていた「鮒寿司」の文字があったので「しめた」と思ったのですが、実は先程「竹生島に来るルートは選択肢が多い」と書いたんですが、この時期だけは便宜的にみんな同じ時間に島に上陸して同じ時間に退島するように設定されているようで、つまり長浜からのお客さんも彦根からのお客さんもこの1軒のお店に殺到しており、なんかめんどくさくなっちゃった。いいや、鮒寿司なんか滋賀県ならどこでも売ってるだろうし、どうせこういう観光島の値段は必要以上に高いだろうし、と思って諦めました。
ここは季節中は客引きがすごく煩わしいそうなのですが、私は昨日貴船でとても好ましい客引きに遇う経験をしたばかりですし、今となって思えばもったいないことをしたな。

あとはずーーっと湖の景色を眺めておりました。
竹生島から比良の山や伊吹の山を望むことを楽しみにしておりましたのに、全然見えひん。
対岸すら見えません。
琵琶湖って広いなあ、と思いました。

そこから湖を戻って、13時ごろにドライブ再開。
すぐに道の駅「マキノ追坂峠」を発見しまして、小腹を満たす為に寄り道。
すでに周囲は雪だらけになってまして、堅田あたりとは全然景色が違う。なのに道の駅は人でごったがえしておりました。





鮒寿司、高ぇ。
ついでに「鯖寿司」も買ってみました。
3年前にドライブに来たとき、白髭神社を通って高島市から西進し、朽木谷を通って京都に戻ったんですよね。その途中、夜道の朽木谷で鯖寿司ののぼりをたくさん目にし、「喰いてぇ〜」と思っていたのでした。朽木谷は通称「鯖街道」。琵琶湖全体で鯖寿司が名産物かどうかは知りませんが、少なくともマキノのここではご当地グルメだ。3年越しの夢。
で、道の駅の中にはいろんなメーカーのいろんな鯖寿司が売られてまして、さすが鯖街道。でも困ったことに値段が全然違う。
分量にかかわらず、安いのは安いが、高いのは高い。これは困ります。
おそらく材料の生産地による差だと思うのですが、そんなこと言われても。
「生と焼きを食べ比べてみよう」と思って(真ん中ぐらいの値段のを)購入してみました。

さっそく外に出て、雪に囲まれた屋根付きのベンチに座って食べて見ます。
雪が降ってます。寒い。

まず、鮒寿司から。
これは食べて見ないとどんなものか全く想像もつかないですからな。
静岡でこれを食べられる機会は全く無い。







おそるおそるご飯の部分から食べ始めてみます。
おお、ウワサには聞いてましたが、本当に〇ってやがる。
酸っぱいニオイに酸っぱい味。本当なんだ。

続いてフナの身の部分。堅い! そして酸っぱい。
不思議な食べ物だなあ。
これは酒と一緒に食べるもんじゃないか?
すげえ、どうしてこれが食べ物になったのかと考えると涙が出る。
結局の所、4分の1弱食べたところで諦めて(もうこれ以上食えん)、家に持ち帰ることにしました。
賞味期限は未開封で1/22までと書いてありますが、車の中でこれ以上〇ったとしても全然問題は無いでしょう。だってすでに〇っているから。
さっき竹生島でこれを食べなくて本当に良かった。
怖い物が大好きな私をこんなに怖れさせるとは、恐ろしい食べ物だ。

家に帰ってから(2日後に)お酒と一緒に食べてみました。
あれ? 酒を供にすればいくらでも食べられる。
なんだこれ。
ていうか、むしろ好きだぞ。
分かっていてもバクバクは食べられませんけど、ちびりちびり食べる物ですね、これは。
ご飯の部分は食べなくても食べてもどちらでもいいそうですね。
「チーズみたいな味」と一般に評されていて、「なにが?」と不思議に思っていたのですが、
確かに卵の部分がチーズみたい。ここが一番美味しい。
すばらしい。(でも一気に食べられず、3日かけて食べました)
食べきってしまった今となっては、写真を見るだけでよだれが出るほどです。
なお、卵の部分は初心者向けで、通は雄の鮒寿司を好むそうです。恐るべし近江県人。
雄の鮒寿司は諸処の事情からものすごく希少価値があるそうです。

話を1/12に戻しまして、続いて鯖寿司を食べる。



うん、うまい。
ウマい以外に言葉が無いですよ。だって鯖ですもん。
琵琶湖畔でわざわざサバを食べることの是非を考えてみようともしましたが、だって仕方がないよ、そういう文化だったんだもん。
なお、鯖寿司は静岡でも頻繁に食べられます。

続いて焼きサバの寿司を。



うーーん、ますます旨い。
焼きサバですからね、美味しいのは当然だ。鯖ってなんて素晴らしい魚だろう。
(浜名湖でも鯖は獲れます)。ただ、若狭の鯖の脂っこさは世界一なのだそうです。

・・・ドライブを再開します。
そこから琵琶湖の北辺を通って湖東地域に行こうとしたんです。
ところが雪は降ってるし、道路はもう凍ってるし、「ただいまの気温3度」とか書いてあるし、もうぶるぶる。
いえ、さすがの私でも3度では水は凍らないとは知ってますが、道を走っている車は平気でびゅんびゅん飛ばしてますから、きっとみんな雪タイヤ穿いてんだな、と、それは当たり前なんですが(南国生まれの私は雪タイヤなんて持ってない)、自分の後ろに3台も車が付けばどうしても飛ばしたくなる自分がいて、やがてガードレールにつっこんで小破している車やそこへ向かうパト車など見て、やばい、このままだと自分もアレになる、と。



本来なら琵琶湖北辺を通る国道303号線を通っていくべきでしたが、そのルートは山道でして、いくら国道ではあるとしても今の私の車のタイヤでは危険だ(と、思いました)。
従って比較的平地だと思われる国道161号線を通り、琵琶湖北部の山地をぐるっと回っていこうと思ったのですが、琵琶湖って思ったより標高の高いところにあったみたいで、福井県に向かってじりじりと坂を下っていく。いやぁ〜〜、これ以上北に行きたくない、坂を下りたくない。
坂を下っていけば気温は上がっていくはずですが、北へ向かっている為その安心感は相殺され、実際に車の外温計は、2度、1度と下がっていき、だって雪が降ってるんだから1度だったら道路はやばいじゃん、こりゃやばい、タイヤにチェーンを巻くべきか、とウジウジしだしたところで、国道6号線が出現し、山を迂回して南下開始。助かった〜〜と思いつつ、また琵琶湖に戻ってくるまで気温は1度から2度を上下しているままでした。その距離およそ20km。南国人には雪の降る道路は怖い。

それにしても琵琶湖は北と南の気候の差が大きい。
浜名湖より凄い、と思いました。(当たり前)
長浜市ですらも、小谷城のあたりと長浜城のあたりは全然風景が違う。余呉湖とか賤ヶ岳とか姉川とか、本来なら見て回りたいところがいっぱいあったんですが、雪が怖いあまり、ぜんぶ素通りしてしまいました。初めてほっとできたのは長浜市の南部辺り。
改めて不思議なのは、戦国浅井氏の領土ですね。あの山地を真ん中に挟んで、どうして西浅井と東浅井、それから高島市のあたりまで支配できたんでしょうか。私は雪山を必要以上に怖がってますけど、船利用前提ですよね。


そこからは適当に、道の駅やらお土産やさんやら覗きつつ南下していきました。
「琵琶湖の特産品」ってなんでしょう。
なにかおもしろそうなおみやげないかなー、と思って見て回ったんですが、佃煮とか甘露煮が多かったですね。(苦手)
もちろんさっき食べた鮒寿司はすばらしい発明品ですが、
もっと湖魚的なのはないかと。

遠江湖人的には、いろいろな本で紹介されていた「琵琶湖八珍」が面白いと思いました。
これは昨年、安土城考古博物館(なぜ?)が主体となって選定されたもので、、「琵琶鱒」「小鮎」「似五郎鮒」「ハス(コイ科の大きな魚)」「本もろこ(コイ科の小さな魚)」「いさざ(ハゼ科)」「琵琶ヨシノボリ(ハゼ科)」「スジエビ」の8つですって。
本当は、ウナギやシジミを推す声も大きかったのですが(実際に琵琶湖沿いには鰻屋が多かった。瀬田シジミもブランド)、将来のことも見据えて敢えてこの8つにしたんですって。
おもしろいのは、「食材」としてこの8つが選ばれたんですが、「料理方法」は敢えて問わないってところ。
例えばあの素晴らしい「鮒寿司」の材料が「ニゴロブナ」なのですが、
米に漬けて●らすの他にもニゴロブナにはたくさんの調理法があって、ここではそれらをすべてひっくるめて「珍」とするという。



ヨシノボリって食べる文化が琵琶湖にはあったのか。
この「琵琶湖八珍」は「宍道湖七珍」をリスペクトして提唱されたそうで、
そもそもその宍道湖七珍も調べてみると、例えば松江市のサイトなどには「シラウオの酢味噌」「アマサギ(ワカサギ)の照焼」「鱸の奉書焼」「鯉の糸造り」「煮たモロゲエビ(ホンジョウエビ)」「シジミ汁」「ウナギの蒲焼き」などが紹介してあって、それらを一緒に食べるのが本来がごとくの書かれ方をされているのですが、これももともとは、「スズキ」「モロゲ」「ウナギ」「アマサギ」「シジミ」「コイ」「シラウオ」の7つの食材そのものをさすものだったとか。
その大元の「宍道湖七珍」も言い始めた最初は昭和30年頃だそうですからそんなに古くもないし、そもそも「鱸」「蜆」「白魚」「鰻」「公魚」「モロゲエビ(ヨシエビ)」は浜名湖にもいるし食材として珍しくも無い。(この「珍」というのは「珍味」という意味ではないのかしらね)



それに対し、「琵琶湖八珍」はよく出来てるし、琵琶湖らしさを体現できてる。
(ウナギやシジミなんか(と言ったら近江の人に怒られるだろうけど)選ぶべきではなかった)
海の恵みの種類で言ったら、浜名湖の方が何倍も恵まれている気もするけど、浜名湖も琵琶湖に学ぶべきところはたくさんあるよな、
とドライブしつつ、佃煮ばっかりで買う物が無いことを嘆きながら、思っていました。

でも実際のところ、琵琶湖の一番の恵みって魚などではなく、水郷地帯の豊かな水田と農作物のような気もしますけどね。
(浜名湖には一番欠如しているものだ)

(つづく)

役ノ行者の呼び声。

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この写真は細江町中川の刑部城にいる役ノ小角。
なぜか足下におキツネさまが。(前鬼と後鬼でしょう)


1/12に行った琵琶湖旅行の記録の続き、その4。

最後は「松ヶ崎普門坊(まつがさきふもんぼう)」です。

知切光歳・著『圖聚天狗列伝』(1977)より。
「近江八幡市から一里半ばかり北の、湖水に突き出した南端の長命寺は、延暦寺西塔の別院といわれる古刹である。背後の長命寺には、「富士権現の母神の墓」と伝えられる大岩石があることで知られている。孝霊帝朝の富士山突起と琵琶湖陥没の伝承から、琵琶湖を生んだ母神という付会らしい。この長命寺の住僧が天狗に化ったという見聞を、国学者の伴蒿蹊が『閑田耕筆』(享和元年刊)に書いている」
(要約)元禄の頃、長命寺の普門坊という名前の僧が、百日荒行して天狗に変じた。しばらくのち隣りの牧村にある彼の実家(郷士)に「今後は来られぬ」という声が響いた。長命寺の裏山に祠が造られ、年に一回のこの社の祭りは牧村の実家が行い、以後100年続いている。
「百余年の間、毎年例祭を絶やさなかったとは、普門坊の霊威と練行のことがその地方の住民に相当強く印象づけられ、畏敬されていたからであろう。ただこの種の天狗化生譚はほかにも幾つもある。普門坊はたまたま蒿蹊のような優れた学者の筆に載り、そのうえ松ヶ崎普門坊という狗名まで残されていたのが幸いで、列伝の一狗に加えたまでである」



のんびりドライブしていたら、またも16:00頃になっておりました。
昨日の横川でもそうでしたが、こういったお寺の拝観は大概17:00までで、受付も1時間〜30分前には締めきってしまうところも多いですから、焦る。
近江に詳しくないわたくしは「長命寺」という名前のお寺さんのことは知りませんでしたが、現地の観光案内板には大概場所が示されておりますのでなかなか有名なお寺のようだ。「長命寺港」という港が琵琶湖観光の拠点のひとつになっているからでもあるみたいですが。
安土城〜彦根城付近の水郷の風景には心洗われるものがありましたが、足は留めず長命寺を目指します。



有名なお寺とは思えないぐねぐねした坂道を延々登っていくとお寺があり、この時間なのに駐車場にはたくさんの参拝の車が停まっておりました。
そこからなかなか味のある風情の石段が。



とってもありがた〜い名前のお寺です。開創伝説は聖徳太子。
太子がここに遊びに来たとき、「500年前に武内宿禰が字を書いた柳の木がある」と聞いて、見に来たところ「寿命を長くし望みを叶えさせよ(寿命長遠諸願成就)」と彫ってあったので感心し、お寺を建て、武内宿禰の長寿にあやかって名付けたとのこと。天台宗。姨綺耶山(いきやさん)長命寺。桜餅とは関係ないそうです。
武内宿禰は孝霊天皇より5代あとの天皇の時代の人ですから、知切光歳の書いた「富士山の権現の母(この女神の名は不明)の巨岩」は宿禰が来たときには、既にここにあったことになる。
といいうか、我らが伊豆の国の英雄・佐々木定綱(=蛭ヶ小島の蛭子の君の一の子分)ととてもゆかりの深いお寺だそうです。へぇ。
近江佐々木氏は六角家の祖。六角家は蔵前家の源流。

やはりお寺のお名前がお名前ですから、真摯にお参りしている人が多い。
長寿などは願いたくない私は本堂を巡って見るのにも身が狭く、困ってしまいました。
重要文化財の三重塔も見所だといいます。でもただいま1年4ヶ月をかけての修復工事の真っ最中だそうで、2層の屋根辺りまで見学用の足場が組まれ、間近で見させていただけるようになっていました。さきほど竹生島でも似たような工事現場を興味深く見たばかりです。

で、敷地内を巡って天狗様の祠を捜します。
興味深いのが、本堂の近くにこれまた立派な(すこし小さい)「護法権現社」というのがありまして、「これが天狗様か?」と思ったら、護法権現というのは武内宿禰のことだそう。その建物は江戸後期のものだそうで、そのまた隣りにある立派な「三仏堂」と見事な調和を見せている。これは神仏分離の騒ぎのとき大変だったろうなぁ、と思いました。で、その「護法権現社」というのを覗き込みますと、背後に見事な巨石を背負ってまして、これが武内宿禰の神体だとみなされているようだ。



これがその武内宿禰の神体(を横から見たもの)ですが「修多羅(すたら)岩」と呼ぶのだそうです。
「すたら」?
「仏教用語である」と下に解説板がありますが、そんな用語があるのか。と思って検索してみると、確かに「修多羅」は仏教用語でありますが、その意味は見事に解説サイトによってばらばら。同一の語句とは思えないほどです。少なくともここに書いてあるような説明は、他では見いだせない。そもそも「しゅたら」と読むのがメイン潮流で、これを「すたら」と読むのは北九州市にある地名ぐらい。何者だ、スタラ?(「しゅうだら」と読むお寺もあるそうです)
そういえば、このお寺の山名も「姨綺耶(いきや)山」という意味不明の名前。
「なにかナゾのあるお寺なのか!?」とワクワクしてきました。

知切師が言った「富士権現の御母堂の岩」というのこれか、もしかして富士権現と武内宿禰の伝説の融合がここにある!?と思って周囲を見回すと、本堂の背後に相当する位置にアレ。



あれが「六所権現影向石」ですね。(遠くてボけちゃった)
わたくしまだこのカメラの操作に慣れておりません。
なんでこれが「六所権現」なのかわからないですけど、寺伝によればあれが「武内宿禰が長寿を願った石」だそうです。(柳の木じゃなかったっけ)

そしてこちら。



太郎坊大権現の鳥居!
なんで太郎坊?(普門坊とは別者か?)
そしてお分かりになりますか? 鳥居の上には無数の小石が並べられております。



鳥居の先をずんずん進みますと、ありました、天狗の社。

葛木坐(かつらぎにいます)。

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1月13日に行った奈良旅行の記録の続き、第5回。最終回。
やれやれ、やっと書き終わります。こんなにヒマな毎日なのに書くのに20日もかかるなんて思っていませんでした。


ブランとサマー。

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アントニオ・ヴィヴァルディは好き。
なかでも「四季」は、「調和の霊感」に次いで好き。
(「夏」と「冬」しか聴かないですが)


1年前に引っ越しまして、20年かけて貯めたCDコレクションはすべて実家に置いてきてしまったのです。
さらに、車のオーディオが壊れてしまいまして、MDコレクションも聴けなくなってしまったのです。
目下のところ、非道い音楽日照りでして、YouTubeにお世話になるしかない。
とかいいつつ、このパソコンも専らガンダム再生専用機なのでして、
合間を縫って音楽を聴くんですが、
パソコンで音楽を聴くって言うのはなんか馴れないですね。

いまヴィヴァルディで一番お気に入りなのが、この方。



マリ・シリェ・サミュエルセン(Mari Silje Samuelsen)、ノルウェイのお嬢さんですって。



わたくしの20年来の「四季」のお気に入りはホグウッド指揮/ジョン・ホロウェイ(ヴァイオリン)1982年でした。
カーステレオが壊れてなければ今後20年もずっとこれだけ聴いていたでしょう。

でもここに至って別の物を聴く必要が出てきたというのも面白いことです。
例えばラーメン屋だったら、好きなお店がひとつできたら他の店に行く必要も無いし、
他の人の趣味にケチをつける必要も無いはずです。
クラシック音楽もまったくおんなじ理屈のはずなのですが、

見ておもしろい音楽と聴いて安らぐ音楽は違う。
またカーステレオが復帰したら、ホグウッドばかり聴くことになるんだろうな。
このお嬢さんは車で聴くとなったら、絶対敬遠する類だろうな。
・・・と思いながら、楽しく見ることにしております。
うしろのおっさんも面白い。




同じマリお嬢さんの「冬」。

今度はイタリア抜きでやろうぜ。

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クジラ。

1月13日に行った奈良旅行の記録のつづき、第6回。
…なんてこったい、5回で終わらせる予定だったのに。(書き終わらない)
せっかくヒマでヒマで仕方の無い毎日を送っているのですから、早く次の旅行に行きたいですよ。(でも雪は怖い)


さて、葛城地区には行きたいところがいっぱいあります。
まず、櫛羅のすぐ近くに綏靖天皇の御所跡だという「高丘宮」があります。それからそこからすぐに「室秋津島宮」もある。
葛城の地は「欠史八代」(=第2代綏靖天皇〜第9代開化天皇までの、記録があまりない時代。紀でおよそ500年間)の間、政治の中心地だったんですね。
わたくし「失われた〇〇」とか大好きなので、一度ここをじっくり歩いてみたかったんです。

…と思ってたんですけど、車で走っていたら、あっさり通り過ぎてしまいました。わかりづらい。
いいか、またあとで来れば。(※来られませんでした)
で、欠史八代は別名「葛城王朝」と呼ばれております。
謎に満ちた時代です。
が、「葛城王国」の範囲って一体どこからどこまでなんでしょうね。現・御所市と葛城市と大和高田市は入るとして、橿原市は違いますよね。第9代の“日本の猫の大王4世”開化天皇なんか遙か遠くの奈良市のあたりに宮殿(春日率川宮)を作ってしまってます。



「御所市」は「ごしょ」ではなくて「ごせ」と読みます。
古王朝時代の「御所跡」がたくさんあるからこういう地名になったと単純に思いましたのに、なんで読みが「ごせ」なんでしょうね。
WikiPediaには「市内を流れている葛城川に5つの瀬があったとする説や、孝昭天皇の御諸(みもろ)が「御所」に変わったとする説がある」と書いてあります。
意味不明。
が、「ごせ」は決して新しい地名では無く、江戸時代以前から「ごせ」という呼び名があったということは、天誅組の乱を調べていて知りました。
が、この「ごせ」って、本当はきっと「巨勢」か「古瀬」ですよね。
そうだと言い切っていけない何か(もっと深い事情)があるのでしょうか。

巨勢谷を本拠とした「巨勢氏」は葛城地方固有の部族です。
巨勢氏の祖とされる「武内宿禰(たけしうちのすくね)」は、第12代景行天皇から第16代仁徳天皇の頃の人だとされていますから、「欠史八代」の時代よりもあとの人になるわけです。武内の宿禰の父は「屋主忍男武雄心命」(日本書紀)/「比古布都押之信命」(古事記)の2説があり、どちらも第8代孝元天皇に結びつけられておりますが、武内宿禰以前に葛城の地に結びつくような逸話は無いようですね。巨勢氏や蘇我氏は「渡来系氏族」だとされていますし。で、武内宿禰の息子たちが波多氏・林氏・波美氏・星川氏・淡海氏・長谷部氏・許勢(巨勢)氏・雀部氏・軽部氏・蘇我氏・川辺氏・田中氏・高向氏・小治田氏・桜井氏・岸田氏・平群氏・佐和良氏・馬御樴氏・木臣・都奴氏・坂本氏・玉手氏・的氏・生江氏・阿芸那氏・江野財氏らの祖となるのですが、とくに第6男の「かつらぎのそつびこ」(襲津彦)が「葛城氏」の祖、すなわち役ノ行者のご先祖となるわけです。
一方、葛城地方の大神とされているのは「一言主(ひとことぬし)」の神です、性格がよく似ているので出雲神の「事代主(ことしろぬし)」と同一人物とされることもありますが、たぶん別人。一言主が現れるのは第21代雄略天皇の時代で(つまり武内宿禰よりもあとの時代の神)、葛城地方の「賀茂氏」とゆかりが強い神です。暴虐な雄略天皇は「葛城氏」と「賀茂氏」を両方とも粗略に扱いましたので、なんかわけのわからないことになりました。役ノ行者は「賀茂氏」の一族、とされることもあります。
ということは「葛城氏」と「賀茂氏」は同族? まさかね。



御所市のマスコットキャラクターは「そつひこくん」と「いわのちゃん」。
「ソツヒコ」は武内宿禰の息子で、朝鮮出兵等に功のあった武臣。
「イワノ姫」はソツヒコの娘で仁徳天皇の皇后となり、「とてつもなく嫉妬深い女性」として知られる人。

パガニーニ 大協奏曲ホ短調(第6番)。

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車のMDプレーヤーが壊れてしまっているのです。
使えないのはMD機能だけなので(とはいってもMDの使いやすさを愛しているからせっかくこれを付けたので、惜しいことなのですけど)、まあしばらくCDで聴いてればいいやと思って、京都旅行に行くときCDを100枚ぐらい積んでいったのですが、やっぱりMDが便利だ。CDはディスクの交換がとてつもなくしづらい。(私の車はマニュアル車だから)。結局、比叡山から葛城・天理まで走っている間、CD交換は放棄してずっと1枚のCDを聴き続けることにしました。私は面倒くさいことが大嫌いなのです。その1枚がパガニーニの協奏曲のディスクでして、京都奈良旅行の時どころか、以後1ヶ月間ずっとこのディスクを車の中に入れたままにしています(笑)

パガニーニのヴァイオリン曲は若いときから大好きで、
20年前に買ったアッカルドの協奏曲集をずっと愛聴しており、
身体の一部になってさえいて、
私の中では既にベートーヴェンやバッハと同格なのですが、
1年半前に買ったダイナミック社版のマッシモ・クァルタ盤のCD全集もまた気に入ってしまって、
いま車で聴いているのはそっちの方。

やっぱり一番「好き」なのは20歳の頃から「第4番」なのですけど、
最近になって自分の中で愛寵度が追い上げているのは、「大協奏曲」と題された「第6番」。
6番なんて番号が付いているけど、本当は若書きの習作で、「第1番」よりも古いんですって。

youtubeで探しても「動いている動画」が探しきれませんでした。
この曲で動いているアッカルドを見てみたいなー。

なので敢えて、聴いたことの無い(動かない)動画を探してみたいと思います。
アレクセイ・ニコラエヴィチ・ゴロコフ、1999年に72歳で亡くなった旧ソ連の方だそうです。

パガニーニの6曲ある協奏曲は、全部サルヴァトーレ・アッカルドの演奏が神がかっていて、全部youtubeで聴けるし、これさえあれば今後100年は戦えるのだと思います。
ただ、他の方々のもいろいろ聴いてみますと、他のクラシックの音楽よりも何倍もパガニーニの音楽は演奏者の個性が出やすいと思います。
このゴロコフという人の演奏も、完璧超人アッカルドの響きとは大分違うんですけど、
やっぱり聴いていて面白いし、満足できます。
それは、私が車の中で聴いているクァルタの演奏もおんなじなんですね。

この「第6番」は「爽快ポイント」が少し多いところが気に入っています。
この(動かない)動画で言いますと、

[7:30]のところ、
[8:30]から[10:35]までの長いヴァイオリンの活躍部分、
[11:47]からの切ない旋律、
[13:32]からの壮麗な気持ちの良い部分、
それから[22:16]の再び気持ち良い尽くしの第1楽章の終結。

わたくしはこういう音楽が好きなのでした。



アレクサンドル・デュバッハの演奏。
ブリリアントの格安シリーズで売られてたやつですね。(買ってない)
これもなかなか良いではないか。(ちょっと音に迫力が足りないか)

虚空蔵信仰。

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◆昨日のニュースから。
「ウナギ稚魚「やっと正常」…豊漁で値下がり期待」

不漁続きだったウナギの稚魚(シラスウナギ)が今年は豊漁だ。
春までの漁期を残し、主要な産地では、すでに昨年の漁獲量を大幅に上回っている。
昨年は1キロ・グラム当たり248万円まで高騰した取引価格が、50万〜60万円に値下がりしている。早ければ半年で成魚になるといい、今夏以降には、店頭でのウナギの値下がりも期待できそうだ。

国内有数の漁獲量を誇る高知県では、昨年12月下旬の解禁から2月15日までの漁獲量が248キロ・グラムとなり、過去最低だった昨季(23キロ・グラム)の10倍を超えた。好漁の要因について、県の担当者は「黒潮の流れが変わり、海流に乗って来たのではないか」と推測するが、真相は不明だ。

鹿児島県でも、2月15日時点で漁獲量が501キロ・グラムに上り、昨季全体の149キロ・グラムを大幅に上回る。台湾など海外でも比較的、今年の稚魚漁は好調とみられる。台湾産や中国産の稚魚が集まる香港からの昨年12月の輸入量は約5・5トンで、前年同期(約0・6トン)の9倍に達した。

国内で流通するウナギはほぼ養殖物。多くの養殖業者は、専門の卸業者などから仕入れたウナギの稚魚を、半年から1年半ぐらい育てて出荷する。稚魚が安くなれば、それだけ、安く出荷できる。

水産庁が業界団体に聞き取ったところ、昨季に養殖池に入れられた稚魚は約12・6トンだったが、今季は2月上旬の時点で既に約11・7トンに達しており、昨季を上回るのは確実だ。養殖ウナギの出荷量が全国一の鹿児島県で、ウナギを養殖する男性(69)は「昨季が度を越した高値だったので、やっと正常になったという印象」と話す。
2014年3月1日18時30分 読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20140301-OYT1T00709.htm





…やったー!
わたくし鰻が大好きで大好きでたまらないんですが、2年前から敢えて断っていたんです。絶滅してしまったら困りますからね、断たざるを得ない。この期に至ればひとりひとりが立ち上がらねばならぬと思うのですよ。もう間違いなく絶滅しちゃいますよ、鰻。
でもですね、「ウナギの稚魚不漁」については「2014年には日本へ来るウナギの稚魚の量は回復する」と予言していた方がいらっしゃったのです。
ちゃんと当たっていたのがすごい。ほんと科学ってすげーや。

その方というのは「塚本勝巳氏」で、その近辺の方々が2012年に相次いでウナギ本を出版しており、わたくしはそれらをむさぼり喰らうように読んでいた。その本は『世界で一番詳しいウナギの本』(飛鳥新社)だったと思うのですけど、今本棚を探したらどうしても出てこないので、同時期に出された同種の本の写真を掲げておきます。

その説の要旨も明確に覚えているわけじゃ無いんですが、
「塩分フロント仮説」とかいうものだったと思います。

「ウナギは結構グルメな動物で、とりわけ塩味には敏感で、母ウナギは海の中の塩分の濃度を的確に嗅ぎ分けて産卵位置を決定する。「塩分の濃い海」と「塩分の薄い海」の「境目」のことを「塩分フロント」といい、仮に人間が舐めても判別できないような塩の濃淡なのだが、母親ウナギにとってはとても大切な調味料的なものだという。この塩分濃度はさまざまな事情によって南北に移動するが、とりわけ大きな要素がエルニーニョ現象。最近は温暖化が続き、塩分フロントが徐々に南の方に移動しており、それによりウナギの産卵地がかなり南になってしまっている。そのため、近年のニホンウナギの稚魚は、黒潮ではなく、東南アジアに向かう海流に乗ってしまって日本には来なくなっているのではないか」

…実はこういう魚のことを「死滅回遊魚」と言って、別の所に行ってもまた同じ道を帰ってきてくれれば良いのですが、ほとんどの場合は行き先で死に絶えてしまい、帰ってくることは無いそうです。東南アジアもウナギの種類は多く、きっと同じような場所を産卵地にしていると思いますのに、おかしな話ですね。

「2012年と2013年は上記の理由でウナギの稚魚は少なくなり価格は高騰するが、2012年の調査で塩分フロントが北上していることが確認されたので、2014年は稚魚の量は回復する」

ニホンウナギの産卵は6月。半年かけて日本沖までやってくるので2013年の1月か2月頃には…
あれ? 1年ずれてるや。
その本が手元に無くてその記述が確認できないんですが、もっと明晰に、涙が出そうなほど見事な推理で、「ウナギは回復する」と書いてあったはず。わたしそれを読んで去年あたり、いろんなひとに「来年はウナギが回復すると偉い人が言ってますよー」って言ってたんですよね。私と会話した人たちはそのことを覚えていてくださるでしょうか。(エッヘン)

が、ニホンウナギが絶滅寸前なことはまだ変わりが無いので、願掛けの為に極力ウナギを断つことは続けたいと思います。
うなぎが大好きだから!!
(…しかし、ウナギが絶滅する前に大不況で浜松の鰻屋が死滅しそうです)

ここのサイトより。(←どこのサイト?)



キロ50万円って4年前の水準じゃないですか!
来年以降っ、来年以降の塩分フロントの予想はどうなっているんですか塚本せんせい!
(知らなかったが2013年10月の新刊として『うな丼の未来』という本が出ていたのでした。これはぜひ読まなければ)

なお、冒頭に掲げたのはスペイン食材通販サイトにあった「うなぎの稚魚のオリーブ油漬け」(115g5000円)の写真を無断拝借。
喰ってみたーーい。
スペインの人たちもウナギが大好きなのですが、スペインには成魚のウナギを食べる文化は無く、もっぱらシラスウナギだけを食べるのだそうです。しかし「子供を産む親のウナギは食べないからスペインのウナギは絶滅しない。日本人は反省しろ」と言っているそうです。うーーん、正しい。(※実際、他国では絶滅寸前なアンギラアンギラも、スペインだけは何故かまだまだ大丈夫だとか。でもやっぱり高騰はしているそうで、こんな料理手法も生まれているそうな。うなぎの稚魚とみせかけて実はタラのすり身。ううううう、スペイン人、そんなにウナギが好きなんですね。鰻好きについてはスペイン人と日本人は兄弟みたいなものだ。ウナギについて冒涜的な英国にはいつか何らかの手でギャフンと言わせてやりたい)




これだけではなんなので、
今作成している「ウナギのウンチク集」を。
いっぱい本を読んでいるので、いずれ分量をこの20倍ぐらいにはしたい。
見やすいようにウナギのおもしろい写真が欲しいなぁ。

◆うなぎは「海水魚か? 淡水魚か?」と聞かれれば、「どちらかといえば海水魚」。
(正確には“海水魚起源の陸河回遊魚”)。

◆川にのぼらずずっと海だけで過ごす「海うなぎ」というものがいる。
マリアナ沖からはるばる日本近海まで来て、どうして川をのぼらないかは分かっていない。

◆実は川を上るウナギよりも、川を上らず、沿岸に留まる海ウナギの方が圧倒的に多い。
(それが「もともと川ウナギの方が少数派だった」のか、「川ウナギの方が普通なのに、近年河川の環境が激変して川ウナギが減ったから」なのかは、分かっていない)

◆うなぎの寿命は住んでいる場所によって全然違う。
河川に住むうなぎは、雄は数年、雌は十数年生きると言われる。

◆日本で確認されたもっとも長く生きた天然うなぎは、浜名湖で2011年に報告された22歳のもの。
飼育下で50年、もしくは80年生きたうなぎがいる、という噂も流れているが、
『理科年表』の「脊椎動物の最長寿命の表」では「88年」と記載され、魚ではチョウザメ(152年)に次いで長寿な生き 物である。

◆一般に食べられている養殖鰻はシラスウナギの状態から8ヶ月〜1年半ぐらい育てられたもの。
(うなぎはレプトセファルス→シラスウナギの状態で1年弱過ごすと考えられている。)
最近ではうなぎ資源減少を受けて1年未満の鰻を出荷してしまうことが多いが、浜名湖養魚漁業協同組合では、「1年以上育てる」と謳っている。

◆1年で出荷する物を「新仔」、1年以上育てる物を「ヒネ仔」という。
うなぎは育て方によって成長速度が違うので、新仔もヒネ仔も出荷されるサイズは同じ。
新仔は身が柔らかいので人気が高い。

◆養殖うなぎと天然うなぎは全然見た目が違うそうである。

◆養殖うなぎで食べられるのは“成魚”であるが、“親魚”とはほど遠い「黄うなぎ」である。

◆うなぎは成長段階によって「プレレプトセファルス」→「レプトセファルス」→「シラスウナギ」→「クロコ」→「黄うなぎ」→「銀うなぎ」→「親うなぎ」となる。

◆中国産うなぎも韓国産うなぎも台湾産うなぎも、分類上はすべて基本的に「日本うなぎ Anguilla japonica」である。

◆国産うなぎと台湾産うなぎは「日本うなぎ」100%だが、中国産うなぎには「ヨーロッパうなぎ」が20%含まれている。

◆「日本うなぎ」と「ヨーロッパうなぎ」と「アメリカうなぎ」は見た目でほとんど判別できない。
(日本ウナギでも個体差による外見の違いが著しいため)
種の判別は一般に遺伝子検査によって行う。
だがちまたに、「ヨーロッパ鰻は日本に較べて目が大きい。身体が大きい」、「アメリカ鰻は顔が長い」といわれる。

◆アメリカうなぎは気性が荒く、養殖に向かない。

◆鰻(ウナギ科)には16種+亜種3種がいるといわれる。
その内訳は、日本鰻(Anguilla japonica)、大鰻(Anguilla marmorata)、ヨーロッパうなぎ(Anguilla anguilla)、アメリカうなぎ(Anguilla rostrata)、マダガスカルうなぎ(Anguilla mossambica)、オーストラリアうなぎ(Anguilla australis australis)、シュミット・オーストラリアうな ぎ(Anguilla australis schmidtii)、セレベス長鰭うなぎ(Anguilla celebesensis)、ルソンうなぎ(Anguilla luzonensis)、ボルネオうなぎ(Anguilla borneesis)、アフリカまだら鰻(Anguilla borneesis labiata)、斑紋長鰭鰻(Anguilla reinhardtii オーストラリア近辺に広範囲に棲息)、 ニュージーランド長鰭大鰻(Anguilla dieffenbachii)、ベンガルまだら鰻(Anguilla bengalensis bengalensis)、インドネシア短鰭うなぎ(Anguilla bicolor(二 色の) bicolor)、ニューギニアうなぎ(Anguilla bicolor pacifica)、?(Anguilla breviceps  中国に棲息)、?(Anguilla nigricans)、太平洋短鰭うなぎ(Anguilla obscura(ぼんやりした))、イ ンドネシア 長鰭うなぎ(Anguilla malgumora)、ポリネシア長鰭うなぎ(Anguilla megastoma)、まだらうなぎ(Anguilla nebulosa タイに棲息)、?(Anguilla inerioris)、ネパール新鰻(Neoanguilla nepalensis)、
…あれ? 24種もいる。(未記載種もけっこうあるみたいです)

◆鰻は大きく分けて「短背鰭種」と「長背鰭種」となる。日本ウナギは長背鰭。
短背鰭種は全19種のウナギのうち5種。

◆ニューギニア短背鰭ウナギ(Anguilla bicolor pacifica)が日本の河川で自生している可能性がある、といわれる。(Wikipedia)
ヨーロッパうなぎも日本の川に少なからずいるが、これは放流されたもの、もしくは養殖場から逃げ出したもの。

◆「ムカシウナギ」というものが2009年にパラオ共和国の海底洞窟で発見され、「ムカシウナギ科」が創設された。

◆電気ウナギやヤツメウナギ、ヌタウナギ、田ウナギ、ドジョウはウナギ目ではない。
アナゴやハモ、ウツボ、ウミヘビの一部はウナギ目である。

◆鰻は深海魚から進化した。

◆レプトセファルスはマリンスノーを食べて育つ。

◆東大の海部健三氏が2008年頃に岡山でおこなった調査によると、川で獲れたウナギの餌の75%がアメリカザリガニだった。

◆天然ウナギのエサは小魚、エビ、カニ、昆虫、蠕虫類(ミミズ・ゴカイなど)など。なんでも食べる。
「シャコを食べて育った鰻が一番美味」と言われる。
ドジョウもウナギの大好物。
シラスからクロコ、またはクロコから成鰻に変態する時期には何も食べなくなる。

◆うなぎは成体の地方名よりも、成長具合における地方名の数が圧倒的に多い。

◆ウナギの大きさによる呼び方(サイト・産地により微妙に異なり多様)
シラス・針鰻・糸鰻→クロコ(黒仔)→メソ・メソッコ・ニュウメン・中(40g以下)→ ビリ・ヘッツク・ガレ(発育不良の小さなサイズ)→サジ・上中(40g〜50g)→キソダシ・ヨリシタ(選り下)(50g〜75g)→原料・ヨウチュウ(養 中)→アラ・荒メリ・相中・ヨタ(養太)(200g前後)→太クチ(250g)→ ボク・ボッカ(300g以上)

◆「ビリ」は、その年齢に対して小さな発育不良のものをいうが、養殖に入れるぐらいになった最小の大きさのものも「ビリ」と呼ぶ。
「天クロビリ」、「養ビリ」(13g以下のシラス)。

◆ウナギのサイズ規格
うなぎは「1kgの中に何匹いるか」が取引上の大きさの目安となる。単位は「p」。
「6p」…1匹当たり166g前後、「5p」…1匹当たり200g前後、「4p」…1 匹当たり250g前後(5pと4pが国産品の平均規格)、「3p」…1匹当たり333g前後、「2.5p」…1匹当たり400g前後

◆下り鰻は400g超がふつう。
養殖うなぎからは絶対に下り鰻はできない。下り鰻は秋にしか獲れない。

◆ウナギの地方名
アオバイ(岡山)、ヤアクワヤ・ウナジ(沖縄)、カヨコ・カヨオ(常州)、 カニクイ(愛知)、カネクイ(有明海)、シャジ(群馬)、 リタウナイ(石垣島)
カンナメ・カミナゲ(愛知・三重…仔鰻)、クチボソ(和歌山)、マムシ(関 西…鰻飯のこと)、マムシウナギ(関西…マムシに使うウナギ)

◆「カニクイ(蟹喰い)」はふつう「アンギラ マルモラータ(オオウナギ)」を指す呼び名であるが、普通のウナギでも主に蟹をよく喰うものを「カニクイ」と呼ぶ。「カニクイ」は形態として広頭型になり、狭頭型に較べて味が劣るとされる。
シャコを食べて育つものはなぜか狭頭型になり、美味。
これは、川に棲むもの(蟹喰い)と沿岸河口域の棲むもの(蝦蛄喰い)の食環境の違いが大きい。

◆・ウナギを表す漢字
武奈伎(万葉集)、牟奈伎(万葉集)、牟奈支(新撰字鏡)、鱓鱔鰚(新撰字鏡)、魚+習(新撰字鏡・類聚名義抄)、魚+夫(新撰字鏡)、魚+旦(本草和名・本朝通鑑)、鰌魚+旦(本草和名・倭名類聚抄)、鯆魮魚(本草和名)、魚+央 魚+乚魚(本草和名)、鯸鮧魚(本草和名)、鱣魚(倭名類聚抄)、鱣(倭名類聚抄・類聚名義抄・本朝通鑑)、魚+旦魚(倭名類聚抄・類聚名義抄・本朝通鑑)、鯆魮(倭名類聚抄・類聚名義抄)、 魚+央魚+乚(倭名類聚抄・類聚名義抄)、無奈木(倭名類聚抄)、鰌(類聚名義抄)、鱓(類聚名義抄)、魚+央(類聚名義抄)、鰻鱺魚(和爾雅・本朝通鑑)、風鰻(和爾雅)、鱓魚(和爾雅)、海鰻鱺(和爾雅)、宇奈岐(本朝通鑑)、鰻鱺(日本釋名)
・・・『新撰字鏡』『本草和名』『和名類聚抄』は平安初期、『類聚名義抄』は平安中期、『和爾雅』『本朝通鑑』『日本釋名』は江戸中期。

◆現代の中国語では「ウナギ」は「鰻(マン、モン、バン)」、「鰻鱺(マンリー)」、「白鳝」、「鳗鲡」、「鳗鱼」、「黄鳝」、

◆『古事記』(712年)と『日本書紀』(720年)には鰻が出てこない。
『出雲風土記』(713年)と『万葉集』(759年頃)には鰻が出ており、日本で最も古い鰻に関する文献は、『出雲風土記』ということになる。
『大宝律令』(701年)や『延喜式』(927年)の諸国の特産品のなかに鰻はない。
『本草和名』(918年)にはむなぎがある。

◆レプトセファルスはシラスウナギより大きい。シラスウナギはクロコより大きい(こともある)。

◆インリン・オブ・ジョイトイは台湾のウナギ親善大使(2008年)。

◆浜松で養鰻業が盛んになった理由のひとつは、カイコがたくさんいたから。
製糸業が盛んだった浜松では、当初、糸をほぐしたあとの蚕の繭の中身(つまり蚕)をウナギの餌とした。カイコを食べて育ったウナギはかなりイヤな臭いがしたという。

◆有名な「石麻呂に われ物申す 夏痩せに よしといふものぞ うなぎ捕りめせ」の歌に出てくる「石麻呂」というのは、大伴家持の友人であった“吉田連老”という人。吉田連老の「吉田」は「よしだ」ではなくて、正しくは「きつた/きちた」と読む。きつたのむらじおゆ。(※“よしだのむら じ”と読むことも多いが、元々の姓が“吉”だから)。決して老人だったわけではない。
百済系の渡来人の家系で、石麻呂の父(吉田連宜)は僧だったが「伎芸に秀でている」として政府から還俗を命じられ(続日本紀)、のちに典薬頭となった人。「仁敬先生」とも呼ばれた。
家持は親友の父の作の歌を万葉集に数首のせたが、子の石麻呂の歌はひとつも選ばなかった。
医術の達人の息子にウナギの効能を説くところが、一番のミソだという。

◆東京では長い間、「天然鰻が最上で、養殖物は食べる物ではない」とされていたが、その認識が改まったのは関東大震災後の物資の欠乏がきっかけ。

◆戦時中、鰻は統制物資(事実上養殖は全滅)になった。

◆「串打ち三年、裂きは八年、焼き一生」

◆鰻の蒲焼きの付け合わせとして奈良漬けが添えられることが多いのは、奈良漬けの中の「ペプチド」(=酒粕に由来)が鰻の脂分をほどよく抑え、また抗酸化物質であるメラノイジンが鰻の豊富なビタミンやミネラルの吸収を助けるからだと言われる。
鰻の蒲焼きに奈良漬けを添えるのは明治時代頃から始まった。どの地域のどの店で始まったかは不明。

◆2010年5月におこなわれた民主党政権の事業仕分け第2弾、「ウナギの完全養殖に成功!」を発表したばかりの水産総合研究センターが仕分けの対象からはずされたが、「そもそも当センターが仕分けされそうになったのは、日本に完全養殖を実現されたら困る勢力の陰謀」、「小沢一郎のせいだ」という噂が流れた。

◆2007年にウナギ犬は浜松市の“福市長”に就任したが、2012年に「出世大名家康くん」に福市長の座を譲った。
2011年3月30日の“退任式”で、うなぎイヌは、「浜松市のみんなとお友達になれて嬉しかったです ワンワン! 全国各地にイベントにでかけたり、学校の運動会に参加したり、たくさんの思い出をありがとうございましたワンワン!」と喋ったと伝えられる。
浜松市の各所に出現したうなぎイヌには大きなヘソがあったが(つまり胎生)、そもそも原作にもヘソが描かれている。

◆うなぎイヌが浜松市の福市長に選ばれたのは、原作に「生まれは浜名湖ということにでもしておきましょうか」という台詞があったから。
うなぎ犬は母がうなぎで父が犬のため、父母どちらも浜名湖産であるはずである。
さらにウナギ犬には姉(うなぎイヌ江)がいることになっていて、カエルと結婚した彼女の子(つまりうなぎイヌの姪)がウナコーワである。

◆ウナギ犬が2012年に浜松市福市長から「引退」した理由は、年間105万円の著作権利用料と「自由に使えないこと」が足かせとなったから。

◆AKB48兼SKN48の北原里英(1991〜)のあだ名は「うなぎイヌ」だが、その理由は「唇の色と形が似ているから」。
本人もウナギ犬と呼ばれる事を気に入っており、うなぎ犬のTシャツを良く着ているとの証言もあった(2010年頃?)。
「おはよウナギも、私だと思っていただいていい」

◆読売巨人の阿部慎之助捕手(1979〜)は「ウナギ犬」と呼ばれているが、その理由は「顔が似ているから」。

◆愛知県知事の大村秀章(任2011〜)も「うなぎ犬」とアダ名されている。

◆2013年2月1日、環境省のレッドリストでニホンウナギは絶滅危惧IB類に指定された。

◆「妊婦は鰻を忌むべき」と記しているのは『本朝食鑑』『巻懐食鏡』『日東魚譜』『武家調味故実』『新撰包丁梯』。
どれもが「みだりに食うこと」を禁としており、ビタミンA(レチノール)の過剰摂取を戒めたものである。
厚生労働省は「妊婦のビタミンAの一日あたりの上限許容量」を5000IUとしている。標準的なうなぎの蒲焼きのビタミンAは4500IU。
妊婦がビタミンAを摂りすぎると、水頭症や口蓋裂等の胎児の奇形の発生率が高まるとされている。
(ただし報告では連日15000IU以上摂取した場合の危険率が3.5倍という)
一般には、妊婦でも「毎日食べなければ大丈夫」だと言われている。

◆虚空蔵菩薩と三島神の信仰の強い地域では、鰻を食べることを避けることが多い。
虚空蔵菩薩とうなぎの関係については、「虚空蔵菩薩の使いが鰻である」「菩薩の修業時代に鰻に助けられたことがある」「菩薩は鰻に乗って人界に降りてきた」「菩薩の大好物が鰻」など諸説あるが、どれもが民間伝承レベルで、経典に書かれているわけではない。

◆浜名湖の秋葉山舘山寺は福一満願虚空蔵菩薩を祀っているが、鰻にまつわる禁忌は無い。

◆「鰻の神社」として有名なのは京都の三嶋神社だが、伊豆の三嶋大社でも鰻は三嶋神の使いとして祀られている。(大社から南方3.5km離れたところにある右内神社(別名うなぎの宮、うなぎの森)は、隣接する左内神社と対になって「大社の門を守る神」となっている)。
三嶋大社と鰻の関係は、「大社の別当の護持仏が虚空蔵菩薩だったから」と説明されることが多いが、大社の別当寺の変遷は不明確な部分も多く、確実に判明しているところでは、聖護院(不動明王)・愛染院(愛染明王)があって、結局の所ナゾである。

◆三島市ではむかし鰻を食べることが堅く戒められていたが、現在では「うなぎの町」である。

◆二代将軍・徳川秀忠は上洛の途中に三島で鰻を捕獲して食べた中間に、はりつけを命じたことがある。

◆三島では明治末期まで「うなぎを食べると毛の無い子が生まれる」という迷信があった。

◆湯布院の女神は「宇奈岐日女」というが、名前からの連想からのちに「ウナギの化身」とされることになった。(本来は違うらしい)

初山宝林寺(細江町中川)の龍文坊。

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『ホビットの冒険』の映画を観てきました。
正直あまり期待してなかったんですが(なんで3部作に引き延ばすんだよ、1作に収めろよ、と思ってた)、やっぱりめちゃくちゃおもしれー。「ここで時間をかけるんだろうな」と思った箇所がことごとくスルーされ、変な風に改変され、オリジナル要素の部分に一番時間をかけていました。こういったやり方もあるんですね。
でも、レゴラス調子乗りすぎ。




さて、改めて「地元の天狗探求をしっかりやらねば」と思っているわたくしです。

わたくしの家にもっとも近いところにおられる天狗様は、細江町金指(かなさし)にある初山宝林禅寺(しょざんほうりんぜんじ)にいる「龍文坊(りゅうもんぼう)大権現」。
比較的古くも新しくも無い天狗で、「江戸時代の初期にいた天狗」という伝説を持っている人です。



お寺の説明書きには、この人のことを「天狗だ」と明言しているところが無いのですが、大丈夫、れっきとした天狗様だそうです。
大天狗ひしめく遠州の天狗界ではあまり知名度のない天狗様であります。大いなる秋葉の眷族や名状しがたい奥山半僧坊とも全く関わりが無い孤立した存在であるよう。が、心配はご無用。毎年4月の第2日曜日には「龍文坊大祭」というものがおこなわれ、その時は大賑わいを見せるんですって。それから、このお寺の周辺、道路や参道や駐車場には「鎮守龍文坊大権現」と染め抜かれた真新しい赤い幟りが無数にはためいています。お寺にはそれなりに相当大事にされている天狗だということが伺われます。



龍文坊伝説のポイントは3つ。

・前世は開山(独湛禅師)に住持した在地の少年だったこと。
(活躍時期が特定できること)
・突然いなくなった。
・鎮火伝説がある。(京都の黄檗宗本山萬福寺で)

正直申し上げて、これらの伝説は全く特筆すべきところのない陳腐な類型化されたものです。「偉い人に付いていたお供の人が天狗になった」というのは奥山半僧坊、大雄山道了薩埵、迦葉山中尊尊者など例が多いです。このあいだ行った琵琶湖の松ヶ崎普門坊も、遠州では岩水寺の地安坊もそうでしたね。また、龍文坊の火防伝説、突然現れて火事を消し止めたあと「われは〇〇なり!」と叫んで消えたというのは、秋葉山三尺坊のマネです。
だがしかし、「黄檗宗」という異国風味溢れるケレンな宗派に天狗が現れた、というのはよく考えたら注目してみるべきかもしれない。
というのも、独湛ゆかりの当地浜松であってさえ黄檗宗のお寺というのはそれほど多くないのですが(8ヶ所あるという)、わたしの行ったことのあるここと、それから旧浜北市の不動寺にはそれぞれ天狗伝説があるんです。(残りの6つの黄檗寺院ってどこですか?) それから、舘山寺にも江戸時代には「宝樹庵」という小庵があったそうなのですが、それも黄檗関係の施設だったという。言うまでも無く舘山寺にも天狗はいました。黄檗宗って、意外と天狗と関わりある宗派ですか?
(…と思い、全国的な黄檗宗の天狗事情が知りたくなってその旨を検索してみても、何も分かりませんでした。唯一、京都の大本山萬福寺には「萬福寺七不思議」というのがあって、そのひとつが「漢門の天狗の鬼瓦」だそうです。←「黄檗事典」より)
浜松の半田町にいたという法源師の逸話も天狗っぽいですよね。(こんなこと言ったら昔話に出てくる超人はみんな天狗ですけど)。舟岡山の法源は皇室出身者です。後水尾天皇を黄檗宗では「水帝」と呼ぶという。

一応、「見知らぬ小僧が萬福寺の火災を消し止めた歴史的事実なんてあるのか」と、調べてみようとしたんですが、そもそも「萬福寺は一度も火災に遭ったことのないお寺」だそうでして、そりゃ大事に至る前に龍文坊が消し止めちゃったんだから、そりゃそうか。
でもそれは、「今冬、全国で大雪が降りまくったのに浜松だけがそれを免れたのは、これも龍文坊のおかげ」と言ってるのと同じ気がする。萬福寺には「火打ち箱無し」(万福寺には常に人がいっぱいで常に誰かが火を使っているから、火種が要らない)「諸堂取り締まり無し」(萬福寺は常に人がいっぱいでどこに行っても人がいるから、盗賊は入り込めないし戸締まりの必要もない)という言葉があったそうですから。浜松が常に暖かいのは当たり前のことなんですよ。



山門の額。「初山」(しょざん)と書いてある。隠元筆。

天狗のことはさておいて、個人的に初山宝林寺はとても好きな寺です。
浜名湖地方では、4年前に観光の為に「湖北五山」というのが選定されまして、初山宝林寺はそのひとつ。
宗派は「黄檗宗」、建立は寛文4年(1664)、開山は独湛性瑩(どくたんしょうけい)。



「黄檗(おうばく)宗」というのはあまり馴染みの無い名前ですが、江戸時代にとても盛んだった臨済宗の一派だそうです。
中国風の雰囲気がとても強いのが特徴だそうです。
臨済宗と黄檗宗は何が違うのかというと、大部は変わらないけど細部がかなり厳格で、お経も日本語読みでは無いそうです。明治以降に臨済から独立して黄檗宗と名乗ったんですけど、「臨黄ネット」というのもありますし、そんなに違った物でも無いのでしょうね。臨済宗は「〜派」のとても多い宗派。浜松では臨済宗はとても盛んですが最大派閥の「妙心寺派」はあまりなく、「方広寺派」という浜松独自の流れが繁栄しています。

黄檗宗の宗祖は隠元??(いんげんりゅうき)。1592年生まれの中国人で、1654年に長崎興福寺在の中国人僧・逸然性融に招かれて日本へやってくる。このとき20人の弟子も一緒にやってきたそうで、「独湛」もその一人だったそうです。日本では既に鎖国政策が始まっていたのに、21人もの外国の高僧が一気にやってきたら大変だったろうと思うのですけど、きっとこれには「明の滅亡」(1644年)が大きく関わっていますよね。隠元の渡日には、鄭成功も関係しているらしい。
とにかく、黄檗宗の特徴は「中国風」なのに、その「明」はすでに滅んでしまっていて、本場中国はすでに10年前から全然別の物に作り替えられ始めてしまっていたのです。それは日本にでも行きたくなりますて。

「黄檗」(おうばく)とはなんぞや。
黄檗山という名前の山が中国にあって、それが起源。隠元は黄檗山にある萬福寺の住職だったのです。日本にやって来た隠元は、京都にも同じ名前の寺を建て、それが日本の黄檗宗の総本山となります。ややこしいのは、中国には黄檗山黄檗寺(江西省)というお寺と黄檗山萬福寺(福建省)という2つの有名なお寺があるのですが、全然別の物であること。中国には「黄檗宗」という宗派は無いこと。(明で行われていた「正統な」臨済禅を日本に持ち込んだものなのですから、当然のことです)
で、黄檗山は「黄檗」(きはだ=主に染料に使われ、生薬としても優れ、建材にもなる素晴らしい木)がたくさん生えていたからその名が付いたそうです。



初山宝林寺も「境内に明朝の気配が横溢している」とうなのです。が、私は勘が鈍いので何が明朝風なのかさっぱりわかりません。(京都にある黄檗山萬福寺はすごいそうです)。あの丸い格子ですかねえ。(「卍崩し組子」というそうです)。が、独譚がこのお寺を建てた年は、明帝国が消滅してからもう20年も経っていたのです。



わたくしが初山宝林寺を好きな理由は「ぶつぞう寺であるから」です。
ちょっと前、私もまだお金がある頃にリボルテックタケヤの安い仏像を10体ほど買って、パソコン回りに飾ってますからね。
(仏像好きというよりはフィギュア好きだというべきか)



「仏殿」の中はとても独特な雰囲気です。
私はこの中でだったら何もせずに5時間だって過ごせる。
(暗いから、写真の多くがぶれてしまってます。ごめんあそばせ)
本尊は「釈迦三尊像」。
禅宗では「三尊像」というと「釈迦如来」「マハーカッサパ尊者」「アナンダ尊者」の3人であることが多いんですって。





達磨大師と梁の武帝。
なんで梁(6世紀)? …と思ったけど、中国で初めて大々的に仏教を保護した皇帝だから、日本の聖徳太子にあたる存在なんですね。






両脇に並ぶのが「二十四諸天像」。
これがすばらしいんです。
メンバーは「四天王」と「二十八部衆」からの抜粋とその他だと思うのですが、それにしても構成が独特だ。



筆頭が関帝大菩薩。
黄檗宗では、関羽がすごく大切な存在みたいなんですね。



2人目は摩利支天。
これが私の一番のお気に入りの像かもしれないですね。
横に付いている顔のうち、右のは「象かな?」「貘かな?」と思ったら猪だそうです。
摩利支天ですからね。
それにしても表情がすばらしい。正面のお顔は3眼ですよ。



3人目のお方は鬼子母神。
見てくださいこの優しそうなお顔。足元のお子様もかわいらしい。



4柱目は堅牢地神。
うーーむ、ウィキペに説明してあるのと全然姿が違う。
頭の上の飾りはこれ以上鮮明に撮る事ができませんでした。(暗い)


……と、こんな風に24人全部紹介したいところですが、今回の目的はあくまで天狗なのです。
また暇なときに残りのを説明いたしますね。
(300枚ぐらい写真撮りましたから)
ご覧のように、作られてから350年も経って表面がボロボロなお姿なのですが、却ってそれが良い感じ。

このお堂の床は「敷き瓦」っていうのですが、これも明朝風なのかしら。







なに食べてるんだ。



どこかで見たことのあるような仏さまもおわす。

さて、仏堂を出て左側を登っていきますと、「鎮守龍文坊大権現」の小祠があります。





立派なお堂です。
上部にかかっている額ですが、



…読めません。何の霊?
これ、本当に天狗様のために建てたお堂なのかな?



内部。「ご神体」は鏡でした。
両側にかかっている字も、なんて書いてあるのか読めませんでした。
このお堂の内部で注目すべきなのは、脇に布団が敷けるようになっているところ。
見えないんですが、反対側の左側も同様になっています。
つまり、このお堂の中で2人の人(がんばれば4人?)が眠れるようになってるんですね。

…なんで?
「天狗のお堂の中で夜を明かさねばならないような儀式」が、このお寺にはあるってことでしょうか?
布団はいつでも敷けるように既にセットされているってこと。



ここのところに龍文坊天狗の「効能書き」が書いてあります。
前に「志納金のお願い」の板が立てかけられているので一部文字が隠れていますが、
「火伏せ」「火難盗難除け」「商売繁盛」「交通安全」「家内安全」「厄病退散」「開運吉祥」「縁結び」
でしょうか。

お堂の前には2本(よく見れば4本?)の巨大な杉の木が生えていて、猿猴(えんこう)杉と言うそうです。





なんで「猿猴」なんですかね。
と思ったけど、これは杉の品種の名前だそうです。
通常は1〜4mぐらいの低木だそうで、検索して見る写真はみんなこの姿とは全然違いますから、確かにこれは珍しい。「枝が長く伸びてテナガザルが手をさしのべたように見えることから」→「猿猴」だというんですけど、350年前の日本で手長猿なんて見たことのある人はいたんでしょうかね。(※この場合の「猿猴」とは中国から伝わった伝説上の動物で、「猿」がテナガザル、「猴」がニホンザル(中国にいるのはアカゲザルか)ですとか)。
都田川には少しだけカッパ伝説もあります。

そして、最近の初山宝林寺が一番アピールしているのが「金鳴石」。
「金運上昇の利益バツグン」として、有名になりつつあります。



独湛禅師がわざわざ中国から一緒に持ってきたものだそうです。
「支那金鳴石初山永寶」と彫ってあります。(もちろん独湛禅師の筆でしょう)。まさか独湛禅師が「客寄せに使おう」と思ってここに設置したはずもないと思いますが、わざわざ「永寶」って彫ったって事は… これ、中国ではどういういわれがあって伝わってたんですかね。「叩くと、石なのに金属の音がする」というんですが、叩く棒とかはありません。下に置いてある小石で叩くようです。
で、説明文を読むと、、、 この石のもたらす金運って、龍文坊天狗の効験じゃないですか。

都田のとうふ。

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近所の豆腐屋さんを撮ったら、UFOが写っていました。
鳥に見えますが羽がない。
ヘリに見えますがプロペラが無い。

(拡大図)


さて、今のわたくしはすこぶるつきの豆腐好きなのですが、そのきっかけとなったのがこのお店だったのです。
都田にある豆腐屋さんで、「須部商店(勘四郎)」といいます。
(「須部」は都田ではとても由緒ある姓)
山の中にあるわけじゃないんですけど、「山奥のとうふ」を名乗っていました。
今はなぜだか「川辺の食卓」と名乗りが変わっている(わけでもないでしょうけども)。

4年ぐらい前に仕事でこのお店を訪れる機会がありまして、(社会見学みたいなイベントの付き添いだったのですが)、ここで出来たてのザル豆腐を食べさせてもらった。これが美味しくて美味しくて、財布を持ってこなかったことを後悔したのですが、お店の人はなんとただの付き添いであるわたしにお土産の豆腐をたっぷり(2セット)持たせてくださった。(タダ)。それを数日家の冷蔵庫で冷やしてから食べたら、これまた美味しかった。



都田といったら私の住んでいた浜北の隣町なので、それから幾度かそこへ足を運んだんです。あの出来たての豆腐、もしくは歯応えのあるあのざる豆腐を食べたいと。ところが基本的にここは工場なのでお店はいつも開いているものでも無いらしく(タイミングが悪かっただけかもしれませんが)、なかなか再購入する機会が無かった。で、サイトを見たら、月に1回「できたてとうふまつり」というのが開かれていると知った。過去2回それに行ったんですけど、初回は2011年2月11日。2回目はいつ行ったか(探してみたけど写真が見当たらない)
驚きました。「田舎の豆腐屋のイベント」と侮って行ったら、「これは何の豊漁祭だ」と言いたくなるほどの膨大な人。
豆腐好きって浜松にこんなにいるんだと、感嘆しました。

でも、ここでも「ざる豆腐」はいつも入手できるわけではない。初回はたくさん売ってたので3つぐらい買ったんですが、2回目に行ったときは売り切れてたのか入手できず。でもこのお店はお豆腐のバリエーションがとても豊富なんですよね。お目当ての「ざる豆腐」は450円もして、その頃の私は熱心にラーメンを食べ歩いていた頃でしたから、豆腐ごときに一丁450円も払う自分をおかしく思っていたのですが、家で食べたら満足感は十分ある。イベント限定の豆腐を食べたらそれもまた美味しい。「豆腐丼」とか「豆腐たこ焼き」とか食べた。できたてならでことの感動。
でも、須部商店の「都田のとうふ」は浜松市内のスーパーならたいていどこでも売ってるんです。それもよく買って食べるんですけど、家で食べると全然特長の無いなんのこともない豆腐に感じる。(ふつうの豆腐ですからね)。スーパーで常に感動的なあのザル豆腐を売ってくださらぬものか、と切望してました。都田のお店が毎日開いてれば良いんですけどねー。
とうふ祭りも月に一回ですし、日曜日だけだし。

と、
2日前にたまたま、「次のとうふ祭りはいつかなー」と思って須部商店のサイトを開いたら、びっくりしました。当のとうふまつりは一週間前で残念だったものの、2013年10月2日に「食事&デザート処「川辺の食卓 都田のとうふ 勘四郎」がオープンしていたというのです。定休日(木曜日)以外の日は毎日開いているというのです。おお!
「土・日はかなり混む。予約推奨」と書いてあって、「まさかこんな僻地の豆腐屋が常に満席なんてことは無いだろー」と思いましたが、「豆腐祭り」での混雑ぶりは見ているため、念のために月曜日まで待って訪店。



13時ぐらいに行ったら先客は2組でした。
このくらいならいいね。
なおこのお店はランチ営業のみです。
(11時半〜14時まで。豆腐販売は17時までしてるそうです)
黄色いハンカチが目印ですって。


メニューは、
  ●(季節限定)まるごと豆乳鍋御膳(1日5食限定)¥1500
  ●(季節限定)湯豆腐御膳(1日5食限定)¥1380
  ●(季節限定)ゆば丼御膳(1日5食限定)¥1500
  ●できたて寄せ豆腐御膳 ¥1200
  ●焼きたて油揚げ御膳 ¥1200
  ●できたて豆腐丼セット ¥780
  ●焼きたて油揚げセット ¥780
  ●できたて寄せ豆腐(単品) ¥500
  ●焼きたて油揚げ(単品) ¥500
  ●たこ焼き風揚げ豆腐 ¥300

…散々悩んだ末、「できたて」という言葉に惹かれて「できたて寄せ豆腐御膳」1200円を注文。それから「焼きたて油揚げ」にも引きつけられる物があったため、それも単品で注文してみました。(500円)。まったく、豆腐なぞに1200円も払うなんて気が知れませんが、なんせこの間わたしは貴船で湯豆腐¥3500を食べたばかりだったのです。





おお、これは食欲をそそる。



温かくて柔らかい。
考えてみたら家だと冷や奴で満足してしまって、わざわざ豆腐を温めることが無いんですよね。味はまあ普通の豆腐なんですけど(私には豆腐を食べ分ける舌など持っていないから)、やっぱりうまい。
少しずつ掬って食べるから、この量でも満腹に感じて、柔らかいのに口応えがあるように思いました。
やっぱ豆腐って最高だな!



続いて追加注文の「やきたて油揚げ」。



なんて魅力的な見た目でしょう。厚い。
普通にイメージする油揚げとはちょっと違い、厚さがあるので「外はカリッとした油揚げ、中は歯応えのある厚揚げ」って感じ。これは素晴らしい。
そのままだとほとんど味が無いんですけど(本当はそれがいいんですが)、薬味で色々と楽しむ物です。特製タレ(加藤醤油の『心』醤油とかつおと昆布だしだそうです)とやや青い大根おろして生姜と醤油麹が付いておりました。



うーむむ、これを家でお酒のお供にいろんなものを付けて熱々にして食べて見たい。
これらを食べ尽くしたら、もう満腹でした。



デザート。
「緑茶豆腐白玉」ですって。とってもぺたぺたしてました。あんこが(甘くなくて)好ましかった。
ごちそうさまでした。
これは、ぜひまた来ましょう。

この熱々の豆腐はごはんにそのまま載せて、タレをたっぷりかけて食べたら本当に美味しいと思います。それが「豆腐丼」で(以前にとうふまつりで食べたことがある)、今日食べた「御膳」を「五穀米」じゃなくしてデザートを省いたら、400円安い780円になりますから、これはリーズナブルで何度も食べに来たくなると思います。

帰りに売店で、「ざる豆腐」(¥525…1個だけ残ってた)、「よせ豆腐」(¥315)、ゆば豆腐(¥525)、「絹生揚げ」(¥315)玄米入り豆乳(¥315)を買って帰りました。
よっし、また家で豆腐三昧だ。

…思えば、私が伊豆に住んでいた頃、家のすぐ近くに豆腐料理屋さんがあったんですよねえ。一度も行こうと思わなかったし、行く機会も無いだろうと思ってたんですが、今は無性にあのお店に行きたくてたまらない。

式内 蜂前神社(細江町中川)。

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大昔から浜松の人間は神話や伝説にはあまり興味を抱かなかったらしくて、変わった神様を祭っている神社というのも、少ししかありません。
三方ヶ原から祝田(ほうだ)の坂を下ったところ(つまり家康伝説で、三方ヶ原合戦のとき家康が武田信玄軍に待ち伏せされたまさにその場所)にある「蜂前(はちさき)神社」は、名前も凝っていますし、祭神が「熯速日命(ひのはやひのみこと)」「甕速日命(みかはやひのみこと)」「武甕槌命(たけみかづちのみこと)」といいまして(武甕槌はともかく)「聞いたことが無い神かも?」と思って一瞬わくわくしたのですが、検索したら3人とも「日本書紀で伊弉諾が火神軻遇突智を斬ったときに滴った血から生まれた神」で、つまり神話の中ではそれなりにメジャーな神様であったのでした。

ただ考えるに、どうして浜松でこれらの神様なのでしょう?
それから、『日本書紀』を読む限り、この3人の中で一番上位に立つべきなのは甕速日であるように読み取れるのに、浜松のこの神社の場合は、中心に置かれているのが熯速日で、甕速日と武甕槌は脇神なのです。これは浜松の神話の中で何かあったでしょうか? それから、浜松には異様に(?)武甕槌を祀っている神社が多いような気がします。これも、何かあったからでしょうか?
(※呉松町の根本山には「神護景雲元年に武甕槌が降臨した」という神話がある)

猪鼻はどの角度から見ると一番猪の鼻に見えるか。

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浜名湖の最も奥には「猪鼻湖(いのはなこ)」という小さな湖があります。(ここも汽水ですよ)。
ここは「浜名湖の中で一番景色が良い場所」として有名であります。
(浜名湖はどこも景観がすばらしいですけどね)
「猪鼻」の名の由来は「猪の鼻の形をした」という意味ですが、何が猪の鼻なのかというと、湖の形でもなく、魚でもなく、ましてやそこに住んでいる河童や人の鼻の形でもなく、「猪鼻神社にある神石の形」なんですって。
式内猪鼻湖神社は、猪鼻湖の入口にあたるところにある古社。
浜名湖にとって「猪鼻湖」はとても重要な位置づけにあります。
歴史的には中世にこの付近から「猪の早太(いのはやた)」という英傑が出て、都で鵺を退治することにあずかったのですが、彼の名前はこの猪鼻湖神社に由来していると思われる。また、“猪の”早太は本当は“井の(=井伊家の)”早太だとして彼を井伊家の係累だとする説もあり、だとすると井伊氏の名の由来も「猪鼻」と関係があったかもしれない(無かったかもしれない)ことになるじゃないですか。







旧・瀬戸橋から見た猪鼻湖神社。
黄色い矢印のところが「猪の鼻の形の石」です。



…ぜんぜん猪には見えませんね。
いったい、古代の人はどうやってこの石を見て、「あっ、いのししだ!」と思ったんでしょうね?



現在、猪鼻湖神社に近づくには一方向からしか道がありません。
瀬戸橋を渡って大崎半島の南の方から神社を目指す方法。



「新・瀬戸橋(赤い橋)」の向こう側に「旧・瀬戸橋(銀の橋)」があり、この向こうに猪鼻湖神社がある。
当然むかしは橋なんて無かったので、唯一大崎半島をはるばるとてくてく歩いてくるしかない。
ご覧の通り瀬戸海峡はそれなりの広さがあります。
また、神社のこちらがわには赤い神橋があり、それを見るに海がまだ深かった頃にはこの神社は島だったのでしょうかね。
ここも橋の所ほどではありませんが、なかなか深くて対岸へ泳ぐにはちょっと勇気が要るぐらいです。
お寺と違って神社は昔は地元民しか崇拝しないものだし、ここの人間はみんな舟を持っていたのでしょうか。



これが式内社 猪鼻湖神社!
ちっさ!
この小さな社の中に「建甕槌神(たけみかづち)」と「市桙嶋姫(いちきしまびめ)」の2巨神が並んで立っておわすのです。



と思いましたけど、この社は飾りですね。
この岩の島全体が神様で、社はあってもなくてもどうでも良いものだったのでした。
実はむかしは建甕槌神と市桙嶋女神は別々に祀られていたのだそうで、昭和50年に一緒にしたのだと案内板に書いてある。参拝方向から見て岩の表側にあったのが市桙嶋神社で、岩の反対側の奥の高いところにあったのが「猪鼻湖神社」(祭神;建甕槌大神)であったそうです。

この全体巌の島、ぱっと見てぼろぼろの岩質のように見えますが、踏みしめて立ってみると非常に堅い。
神石の「猪の鼻の形の石」がどこにあるのかと言いますと、神社の裏手、三ヶ日方面の方。
神社がこの「猪石」をバックに建っていればかっこいいのですが、実際は岩を乗り越えて下の写真の黄色い矢印のところにある。



昭和50年建立の社の前に、何かコンクリートで作ろうとした跡があるのですが(拝段?)、これが「猪の宿った石」の位置とはすこしズレてる。
つまり、「猪鼻湖と猪鼻湖神社の名前の由来」となった「猪の花の形の岩」は決して神社のご神体ではなくて、あくまでひとつの「神石」という扱いなのですね。
神は、この岩山全体です。

この小さな神社の前に立つ為に岩を登っていますと、ひょいと見えるご神石のかたち。



おお、イノシシの鼻だ! 鼻というより「イノシシの顔全体」ですね。猪顔湖神社。



横から見ても良い感じなのですが、
もう少し近づいてみると、もっと良くなる。

少し斜め前から。



うしろに下がってななめ後ろから。



そばにある崖を登って「猪鼻湖神社旧址」の碑があるところから、見下ろすように。



そして、出来るだけ近づいて正面からアップに。



…あれ?
正面から見ると猪っぽく見えなくなってしまう。
(見えると思えば見えますけどね)



鼻。
猪の牙は無いんですけど、じっと見つめてたら何かあるような気がしてきました。

実はこの岩は湖に身を長く乗り出すような格好をしてまして、首は既に海の上にさしのべてますので、正面からこれを見るのはなかなか難しい。
(舟に乗って航行すれば容易ですけど)
ではこの猪の首は、何を見つめているのかといいますと、



これは真後ろから撮った写真なので何の岩なのか分かりづらくなってしまってますが、
猪の視線の先にあるのは、瀬戸の赤い橋、
そのずっと向こうには、そう! 浜名湖の入口・今切れ口!
…と言おうとしましたが、、、、 
実は方向が大分ずれてまして、この先にあるのは宇津山崎の宇津山城でした。
猪は何を凝視してるんだろ。(視線をずっと伸ばしていくと潮見坂のあたりで遠州灘に出るはず)

…橋を渡って、対岸から岩を眺めてみましょう。



わかりづらっ。



こうです。
なんということでしょう。あちら側からだとあんなにはっきり「猪の顔」だった神石が、こちら側からだと「頸の長いスマートな洋犬」(あえて言うならば)かアリクイのように見える。
はっきりしましたね。
「猪の顔」は「猪鼻湖神社の側からちょっと岩を登ってその奥を見たとき」、一番猪風の顔に見えるのです。

が、これはなかなか大変なことですよ。
むかしは当然瀬戸大橋なんてかかってませんから、ここに来るには大崎半島をのんびり歩いてこないといけなかったはず。この半島はかなり距離がある。
一方、この近くの集落といったら、(大崎集落は別として)、「三ヶ日」、「都筑」、「鵺代(ここが猪早太と源三位頼政の関係地だといわれる)」、「尾奈」、「宇津谷」は向こう側の岸なのです。(舟で来ればいいんですけどね。でもここは気賀・新居両関所のすぐ近くだ)。おそらく本当に限られた人しかこの岩のことを知らなかったと思われます。

というのは、この石を一目見れば、「猪鼻湖の“猪の鼻”とはこの岩のことだ」と瞬時に諒解すると思いますが、資料ではこれのことを「獅子岩」と書いてある物が少なからずあるのです。どこが獅子じゃい。(←シシ神という呼び名が変わったものだと思いますが)、シシと獅子は違う。
また、「式内 猪鼻湖神社」には論社(=本当はこっちなんじゃないの? と主張している神社)が意外と多い。猪鼻湖の一番目立つこところにあって、議論を待つ必要の無い形の特徴的な自然石がある神社がここにあるというのに、論社はここのサイトによりますと、「猪鼻湖神社」(三ヶ日町下尾奈)、「神明神社」(三ヶ日町下尾奈)、「大神山八幡宮」(湖西市大知波)、「諏訪上下神社」(新居町浜名)、「諏訪神社」(新居町新居)、「猿田彦神社」(新居町新居)などがあるという。
なんでこんなに、、、、
というと、実は江戸時代にはこの猪鼻巖はほとんど知る人がいなかったらしい。

享和3年(1803年)に掛川の人・再彰館長庚(兵藤庄右衛門)という人によって書かれた大著『遠江古蹟圖繪』という本には、この猪鼻巖のことが出てきません。掛川から奥浜名湖は遠すぎるので庄右衛門は三ヶ日が苦手だったようなのですが、庄右衛門は非常な石好きで、各地の変わったいわれの石について熱心に書き記していますので、この巖のことを知らなかったら書かなかったはずは無いと思う。
また、それに先立つ寛政9年(1797年)、京都の人・秋里籬島によって出版されたベストセラー『東海道名所図会』には、「猪鼻湖神社」は出てくるのですが、「新居」の名所として紹介されていて、「猪鼻湖神社 延喜式内。鎮座今さだかならず。振裾記に云わく、浜名郡に猪鼻湖?社あり。社號考ふるに、此?は水うみの岸の上に鎮座と見えたり。今きくに、八王子社もと濱邊の岡の上に有りしを、寶永4年所うつりの時、諏訪の社中今の所に移すといへり。然れば、八王子もし猪鼻湖の?にあらずや。但し又諏訪の事にてもあらずや。世の中うつりかはれば、古き名をうしなひ、あたらしき名を呼ぶ事まゝ多し云々」
要は、「よくわかんないけど名前が変わっちゃったんじゃない?」と言ってるんですが、その新居の八王子とは、現在「八所神社」として諏訪神社の境内にあるらしい。
ここに引かれた『振裾考記』という本は“遠江国学の祖”杉浦国頭の著作で、この人は浜松諏訪神社の大祝で賀茂真淵の師。
でも真淵の弟子の碩学(天竜の人で『遠江風土記傳』(寛政元年、1789)を書いた)内山真龍はさすがに凄い人なので猪鼻について詳しく書いておりまして、「猪鼻驛は荒井驛と同じではない」と書いている一方で、「猪鼻驛が水没してしまったので三ヶ日宿が置かれた」などと不思議なことも書いてある。「猪鼻岩、形似猪鼻、悪岸臨湖」。
真龍はとても綿密に調査をする人ですが、交流もとても広かった人なはず。同時代に真龍しか知らないなんてことはありえるでしょうか。
なお、「猪早太と猪鼻湖の伝説」については『遠江國風土記傳』にとても興味深いことが書いてあります。この本は近代デジタルライブラリで簡単に読めますので、興味があったら読んでみてくださいね。(そのうち紹介します)




そんなことより戦車です。
この猪鼻湖近くの湖底には、第二次大戦時の日本軍の画期的な中戦車・四式(チト)が沈んでいるというのです。
(ごめんなさい、上のゲーム画像は九七式中戦車(チハ)です。
私はこの手のゲームがすこぶる苦手で、チト開発まではとても長い道のりだ)

とにかく、昔から猪鼻湖には幻の戦車が沈んでいると言われていて、去年辺りにその探索がひどく盛り上がったそうなのですが、結局見つからなかったそうなのですよね。
この戦車が沈んでいると言われている場所にはいろいろな説があるのですが、一番有力視されている場所がここだったそうです。



でも、これにも、猪鼻湖神社と同じ問題が絡んでいると思う。
だって戦車をわざわざここに沈めるには、瀬戸橋を渡るわけにはいかないんですから、浜名湖をぐるっと回り、気賀か三ヶ日のどちらかの町を通って大崎半島に至ったのち、南下してここまでたどり着かないといけないわけですよ。そもそもこの秘密兵器がどこからどういう経緯でここにやってきたのかという話にもなりますが、そもそもここに沈んでいるという話自体がガセだという可能性もある。(だって人知れず隠してしまいたかったわけですから、見当違いの所に噂だけ流しておけば良い)。でも目撃者もいる。
昨年あんなに探したんですから、チトはこの場所にはいないのでしょう。
でも、チトと一緒に沈められたという他の二台(チハとウィンザー・キャリア)は、いるかもね。
こんなに狭い湖域なのに、そんなでかい物が探しても見つからないというのも凄いことです。
(※ウィンザー・キャリアだけは既に引き揚げられているとのことでした。いつ、どこに?)

浜名湖近辺で戦車部隊がいたというのは、浜名湖北岸に布陣された戦車第23連隊(豊橋にいた戦車第24連隊と合わせて独立戦車第八旅団とされた)で、これは本土決戦の最終作戦のためのものですよね。150輌の戦車があったそうなのですが、チトは渥美半島(伊良湖射撃場)にいたという話があります。浜松は執拗に空襲に襲われていたので、広く防衛戦車を展開していたのでしょうかね。対戦車戦のために開発された四式中戦車が、悲しすぎますね。

関係無いことなんですけど、戦争のための兵器に愛着を感じてしまうなどいけないことですね。(戦車は高いし)
でも私は戦車が大好きでして(飛行機や戦艦には興味ない)、デアゴスティーニの「コンバット・タンク・コレクション」をずっと買い続けておりまして(現在第47号)、目的は愛する英国戦車の蒐集のためだったのですが、英国戦車は人気無いみたいで(?)、このシリーズでも冷遇され続けてたんです。40号近くまで欲しい戦車が全く来なくてそろそろ買い続けることに疑問を感じてたんですけど、ここに至って、39号・クロムウェル、43号・クルセイダー?、そして来たる49号(4月1日発売)でチャーチルですって!! いやぁ、チャーチルが出たら買うの止めようかなとも思ってましたが、この勢いならマチルダさんやトータスも来ますよね! 一番欲しいのはスーパーチャーチル(エドワード黒太子)なんですけど、これは無理かな。
対して、日本の大戦中の戦車は未だ音沙汰が無い(笑)
チハはまだしも、チトは無理かネ。

戦車ゲームの方でもメインは英国戦車で、足のクソのろいマチルダでひたすら頑張りながら、たまにチハでウサを晴らしています。スーパーチャーチルまでは先が果てしなく長い。

光月坊(細江町小野)。

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この人は地元でも天狗扱いされてはいないのですが、わたくし的に「天狗っぽいな」と思いました。
権現社などではなく、ちゃんとした神社に祀られている人なんて(お坊さまなのに)、天狗でもなかなかいそうでいないですけど。

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