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Channel: オセンタルカの太陽帝国
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来た、見た、勝った。

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ヘンデルの歌劇『エジプトのジュリオ・チェザーレ』(1723〜24年)。
最初の歌が宿敵グナエウス・ポンペイウスを追ってエジプトに上陸したカエサルの歌う「Presti ormai」(エジプトの大地よ、今ぞ与えよ)。
この歌は短いんですがなかなか良い曲で、
短いなりにカエサルという人の特長を示していると言って良く、
ていうかすごく短いところ(2分)が素晴らしい。
ヘンデルは本当ならばいつものように10分ぐらいかけて延々と歌いたかったはずです。

で、この曲、いろいろ聴いていますと歌手ごとにかなり違うのが面白くなってくる。
冒頭のが、ある意味理想的な“男の気持ち悪い(←いい意味で)裏声”の代表格アンドレアス・ショル。20年前(1996年)の古い映像なのでこんな感じなのですが、これが実際に扮装までも加えると、コチラ。



アンドレアス・ショル(2012年)、(「Presti ormai」は[6:00]から)
占領軍(ローマ軍)を米軍と金持ちに、被征服国(エジプト)を中近東あたりに喩えているのかしらね。悪趣味ですが歌手がひたすら豪華でおもしろい。


似たような表現なのが下記のこれらなのですが、



Presti ormaiは[1:35]から。
カエサルはジェフリー・コール(裏声)。アメリカ合衆国大統領って書いてあります。
先に出てくる青い服のおばさまが大ポンペイウスの妻のコルネリアですって。
その隣の白服の女性はポンペイウスの息子セクストゥス。(実は彼女の息子ではなくポンペイウスの3番目の妻ムキアの息子。本当はこの時はヒスパニアにいたとされる)



カエサルはリサンドロ・アバディー(バリトン)。
格好は良いがカエサルは決してこんな男では無かった気が。



カエサルはヴィヴィアン・ショットウェル(メゾソプラノ)。ロシア風?(寒いところの服装)
やっぱり高めの女声が最高ですね。(メゾですけど)。

違和感が少しあるのは、私などにはカエサルは“男の中の男”というイメージがあるので、甲高い声はそれはそれであり得るのかもしれないけど、もっと「力強くあってもいいのではないか」、とも思うからです。いや、みなさん力強く歌ってるんですけどね。「力強さ」にはそれなりにバリエーションがあることを知る。

参考画像。



安部カエサル(1989年)。



アランドロン・カエサル(2008年)。






マーロンブランド・カエサル(1953年)。

勝手な思い込みなのですが、カエサルは脂ぎっていてハゲ気味で女たらしで声は低くて力強くて頭以外は毛深くて腕力があって頭が良くて口が回って読書が好きで野練も好きで料理が巧くて夜目が利いて朝は弱くて神は信じてなくて子種が弱い。
だから、このオペラで歌われるカエサルは印象が正反対なのですけど、ヘンデルが想定したカエサルは、女に優しくて決断力があって戦争には強いけどしょっちゅう危機におちいっていて声は力強いけど優しいカストラート。声は高ければ高いほど、力強ければ力強いほど良いと思うのですけどね。

見た目において最強なのは2005年のサラ・コノリー(女性)だと思います。



Presti ormaiが見つからなかったので終幕のクレオパトラ7世(ダニエル・デ=ニース)との二重唱。
サラ・コノリーは声がかなり低めのように感じられます。
このオペラの主人公は実はカエサルでは無くてクレオパトラなので、このような二重唱がある以上、甲高すぎてもいけなかったんでしょうかね。力強いカストラートのカエサルの声を夢想してしまうのですが。

(長いのがあった)


サラ・コノリー。Presti ormaiは[4:45]から。

伝統的な扮装のカエサル。



クレメンティス・タマス(バリトン)。



フラービオ・オリバー(裏声)。…ドイツ?



ローレンス・ザッゾ(裏声)。
Presti ormaiは[4:32]から。

カール!

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笑いました。



久しぶりに「洗車ゲームでもしようかな」と思いましたら、
戦車倉庫の中に見慣れぬ車体が。ドイツ車だ!





私は英国車か日本車しか使わないんですが、
こいつはまぎれもなくドイツ車!



なんと、Tier(難易度)?なのに耐久度1500。
(Tier?でとびきり硬いと評判のマチルダさんですら650ですよ)。
これは・・・!
主に線路や特別運搬車(トラクター/大型牽引車)で運ばれ弾はクレーンをつかって詰めた40/041兵器 自走砲カールですか!!
すげえ。


ウィキペディアより)
(横にいる戦車は弾を運搬するために改造された?号戦車。改造?号1台にカールの弾が4発載せられる)

わたしは中戦車オンリー(突撃第一/退却不可戦術)なので自走砲の使い方なんてわかりません。
なので不安を抱きつつゲームを始めたのですが、



ちょっと見づらいですが、敵も味方も全員カールだ!
通常戦闘では敵と味方が15人ずつのケームなのですが、今日だけは7人対7人のようです。
全員がカールで全員が自走砲なのなら、安心ですね。
(史実ではカールは7台しか無かったからか。つまり敵も味方も異なる世界上のドイツ軍てことだ)



ぶわははは。みんなカール。

姫様道中。

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気賀の町に引っ越してきて丸1年。
気賀といったら“姫様”。
この町の一番の祭りが4月におこなわれる「姫様道中(桜祭り)」で、浜松ではそこそこ有名なものなのですが、こんな狭い町で道路を通行止めにして行われる行列なので、それまで浜北住まいだった私でもなかなか足が重く、去年の4月、この祭りが終わった直後に引っ越してきたので「次こそは必ず、(見に行けたらいいな)」と思っていたのでした。いわば、これを見るためにあわせて失業したともいえるわたくしなのでした。(嘘)

「姫様道中」は今回で62回目で、昭和27年の始まりだといいます。
商工会のサイトによれば、昭和25年頃に「各地区ごとにそれぞれ祭りをやるのが面倒くさいから、全部ひとまとめにして一緒にやってしまおう」と思ったことがきっかけだそうですが、ウィキペディアによりますと昭和25年当時の「気賀町」の範囲は、現在の気賀駅・西気賀駅周辺と広岡・小野のあたりだったそうです。
「小野」って井伊谷ではなく気賀の領地だったのか。

ややこしい話なんですが、「気賀」と「井伊谷」は隣接していて今では一つの町(?)になってるんですが、戦国時代の頃には全然違う領地でありまして、井伊谷を治めていたのが源を平安時代の「武家八介」までさかのぼる名家「井伊氏」。一方、気賀には明確な支配者がいなくて、交通の要衝なものですから町人や地侍の寄り合いがいろいろやっていたみたいです。ですから、永禄11年に三河から徳川家康が攻め寄せてきたとき、井伊谷はいちはやく家康に恭順を誓ったのに(※このとき井伊家は一時的に滅亡していた)、気賀の農民や地侍たちは今川氏の方を選んで家康に戦いを挑み、華々しく皆殺しにされるのです。この戦いを「堀川城の戦い」と言って、浜松史の中では些細な出来事であるのですが、地元の人は家康に対しては複雑な感情を持っています。
このときの気賀の町の指導者だったのが、尾藤主膳・新田喜斎・竹田高正・山村修理の4人。4人とも遍歴の(?)武士だったのですが、それぞれおもしろい経歴を持った人間なので、そのうちまたたくさん本を読んでから紹介しますね。「竹田高正」はサッカー王子・今川氏真にサッカーの奥義を伝授した人物だと伝えられておりますよ。尾藤主膳は真田幸村の母方のひいじいちゃんなんですって。
とにかく気賀の町は変な個性を持った町で、周辺諸村とは一線を画している。
江戸時代に気賀を支配したのは旗本近藤家の分家、気賀近藤家。(本家は金指)。気賀関所を支配した気賀家の方が重要な気がするのに、当然ながら本家の金指家の方が格が高い。
そして、平成の大合併までは気賀は「細江町」、井伊谷は「引佐町」だったのでした。どうも、よその人間だと細江と引佐の違いがよくわからなかったりしたのですが。
現在でもすごく近い距離(800mぐらい?)に、「県立気賀高校」と「県立引佐高校」があって、「こんな小さな町になんでふたつも高校が?」と頸を捻ったものでしたが、歴史が違うんだよね、引佐町と細江町は。(といいつつ、引佐高校は金指にあったりするんですが)


なんの話をしていたんですっけ?
えーと、62年前に「新しい祭りを作ろう」と思ったとき、「姫さま」という素材がこの町にあったというのは幸せなことです。
「江戸時代に“姫街道”というものがあって、そこは(さまざまな理由で)東海道を旅することを嫌った女性たちが主に使った道だから」というのが気賀町がアピールするこの祭りのキモなのですが、別に、姫街道は磐田の見付から三河の御油まで約60kmを歩くコースで、つまり気賀でなくてもどこにでも姫さまはうじゃうじゃいたわけです。さらには姫さまだけじゃなくっても、武骨な侍たちだってうじゃうじゃとここを通っていたわけです。徳川家康だってここを通って遠江侵攻したんですし。武田信玄だって刑部城で越冬したし。
なのに、昭和27年に「気賀の町を姫さまの町にしよう」と思ったという慧眼。
本当に、家康がここに関所を作ってくれて良かった。

大事なことは、ここを通る「姫さま」は、全部「よその土地の姫さま」だったということです。
近藤氏の歴史には著名な姫さまがいませんよね。
隣り町の井伊谷には「井伊次郎法師直虎」という(そこそこ有名な)姫さまがいたのですが、ここでは出番がありません。



で、このお祭りでは毎年姫さまは応募によって決められるのですが、
姫さまは一人ではなくって「2人いる」というのもポイントです。
(土・日の2日にかけておこなわれるから)
どういう風に決められるのかがとても気になりますよね。

昨今の個人情報保護の流れによって、外部から調べようと思っても、いったいどうなっているのか(どういう風に募集するのか、どういう人が応募するのか、選考基準は何か、などなど)さっぱり分かんないんですが、やっぱり応募者がそれほど潤沢じゃなくて、苦労しているような気配はうかがわれます。さすがに歴史ある祭りなので、主役の姫さまを決めるのは簡単でしょうが、なんといっても「行列」なので、「それ以外の人々」の数を集めるのが。
当然「よその地域から来てくださった人々」を集めるのが理想的なのでしょうけど、当然ながらそうもいかないでしょう。

浜松市姫様道中実行委員会の顔本によりますと、今年の場合は12月19日〜1月20日の間が募集期間。(それが2月10日まで募集期間が延長されてますから、やっぱり参加希望者の集まりはかんばしくなかった模様。とほほ)。3月2日に“参加者”に最初の案内が送られたそうです。まずは「腰元」を選んで、さらにそのなかから「姫様」と2人の「上臈」を選定するのですが、さっきも言ったように姫様は2人。上臈2人も一日目と二日目で入れ替えるという贅沢ぶりだそうです。行列と踊りの練習が始まったのが3月29日。姫様決定は4月2日(←祭りの3日前)だそうです。こりゃ大変だなあ。
まつりの最後に舞台で「姫様たち」にインタビューをしてたんですが、やっぱり「姫様」は地元の人、もしくはゆかりのある人みたいですなあ。(当たり前ですが)。「去年も参加したから今年も出てみた」という方が何人もいたのも印象的でした。また、特筆すべきなのは「今年は地元の中学生の協力が大きかった」と強くアピールしていたこと。腰元さんたちの1/3ぐらいが中学生のようです。(化粧が頑丈なので写真をたくさん撮っても容易に顔バレしないでしょうから安心)。でも言い換えると、「去年までは中学生の助けを借りなくてもなんとかやってきた」「今年はとうとう公的機関に声をかけなくてはならない緊急事態におちいった」ということなのでしょうねえ。
一度参加してしまえば、「あの祭りに参加することがこの学校の伝統」となるでしょうから今後の心配はしなくてもいいのでしょうけど、淋しくはある。
ちまたでは歴女ブームとかいって武将のコスプレが盛んなのですが、そういった流れがこちらに来ることはなかなか無いのでしょう。次郎法師のコスプレをしたい人ならいっぱいいるでしょうに〜(でも、本当の次郎法師は武将じゃありませぬよ)

(★参考★)
『戦国IXA』の次郎法師。


『戦国大戦』の次郎法師。


『戦国無双』の次郎法師。


『信長の野望』の次郎法師。天道以前は出てなかったんですっけ。


『戦国BASARA』の次郎法師。

“ウェディングバージョン”ですって。なんの嫌がらせか。
(※次郎法師は結婚をしなかった人。法師ですから。井伊直政を養子にした)

・・・また、何の話なんだっけ。

英国民は獅子の心を持つ国民である。私は幸運にも、それに吠えよと命じる役を与えられた!

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待ちに待ったデアゴスティーニ『隔週刊コンバットタンク・コレクション』(第49号)、チャーチルMk.?がやってきました!
・・・思ったよりちゃちい。(まーこんなもんか)



「チャーチルの何が好きか?」って言ったら、
なにもかもが独特なことです。

ひたすら車体が長いことも独特だし、何もかもを犠牲にして遅い速度を犠牲にしたことも独特だし、こんな巨大な車体を持っていながら砲がきわめて細いことも独特。
美意識がひと周りしてかっこいい。
「英国戦車はどれもクセがある」といわれる中で、この人がピカいち。

「チャーチル」と名付けられたのは、戦車が不足していて緊急増産の要があった英国で、たくさんあったあった戦車案のなかから英国首相ウィンストン・チャーチルが強く推したため、これが制式採用されたと伝わるから。チャーチル好みの戦車なんですよ。

沼津から大仁にかけての小山の群。

さわれるよ。

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すみません。
伊豆へ小旅行へ行くつもりだったのですが、急に出かけられないことになり(怪我をした)、少し日延べします。

かわりに弁天島のウォットに行ってきました。
(歩けないって言ってるのに、、、)

メンデルスゾーン 弦楽四重奏曲第6番ヘ短調。

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久しぶりに車を運転して。
そういえば私の愛車でのヘビーローテーションはメンデルスゾーンに移っておったことを思い出したのでした。

メンデルスゾーンといえば、生まれた家は大富豪で、その名も「フェリックス(幸運)」で、その容姿は「天使のようだ」と言われ、「神童」ともてはやされ、祖父は高名な大哲学者で、4才離れた美人の姉も音楽の才があり、その姉とは幼い頃から演奏を通じて魂が一体化し(おかげで彼は生涯シスコンだった)、多彩な友人にも恵まれ(ウィキペディアにはメンデルスゾーン1歳のとき彼の家でフェルディナント・ダヴィッドが生まれたと書いてあるんだけどわけわからん)、働く必要もない身分なのに職は向こうからどんどんと舞い込み、奥さんのセシルもまた美人で、子供たちもまた天使で才能に恵まれ、人が知らない曲を2、3演奏するだけでなぜか自分の名声が高くなっていく、そういう人でした。唯一の弱点は「祖父が元ユダヤ人だった」ことぐらいですかね。
こういう人にはいろんな人が悪口を言うんです。「メンデルスゾーンには精神の深みが足りない」「心の飢餓が無い」と言ったのはワーグナーと宇野功芳だけじゃないそうです。

ですが、そんな南方熊楠でさえも文句が言えなかったのというのがこちら。
38歳のとき、最愛の姉が突然病死し、彼は悲痛にむせびます。2ヶ月後に作曲を始め、2ヶ月後に完成し、体調を崩し、2ヶ月後に彼も死ぬ。残ったその曲には、彼の生涯の栄光は一切繁栄されてなく、ただただ姉への強い血反吐だったのでした。これを書いたから彼も死んでしまったしまったのだと思うほど。
残された妻セシルがとてもかわいそう、と思うほど。




なんというか、この映像を見ると、「若い人が演奏するにふさわしい曲」と思う。
最初の方、みなさんとても必死な形相をしているのですが、私も車の中でこの曲を聴くときは似たような顔になってます。
それが終楽章になると無心な顔となる。
そして、終結部になると(この映像では[25:30]のところ)どうしても泣いてしまいます。
うううう、みんな死んでしまうんだ。


が、基本脳天気な彼が死の間際じゃないとこんな曲を書かなかったのかというとそうでもなくて、弦楽四重奏曲第2番イ短調(18歳のときの作品)も、同じような気迫を持っておりますよ。

さわってきたよ。

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足のケガのリハビリをかねて、またウォットに行ってきました。
鸚鵡貝にさわりに。
そうです、前の記事で「感激した」と書きながら、あのとき私はオウムに触らなかったのです。矢張得体の知れない物になんか矢鱈に触りたくないもの。
でも、家に帰ってから、「やっぱり惜しかったな」「鸚鵡貝と遊べる機会なんかそうそう無いよな」という気持ちがイースト菌を練り込んだ小麦袋のように大きくなっていったのです。というわけで再訪。


(5月6日まででしたか。なぜかこの案内板にはオウムガイのことが書かれてない)

アクリル板の向こうで鸚鵡は所在なげにぷかぷか浮いていまして、「こんなの触って楽しいのか?」と一瞬疑念が涌きましたものの、狭い投手口から手を突っ込んで「どうやってあそこまで手を伸ばすんだ」と思っていたら、つつつつつ、と貝の方からこちらへ泳いできた。なんて協力的なオウムなんだ。まるで「触って、触って」と言ってるかのよう。(実際はエサを求めての行動なのかしらね。オウムガイって何を食べるんでしょうね。)





で、つかんだ感触ですけど。
かたい。(あたりまえだ)
写真を撮ろうと横にしたり上を向かせたり、いろいろしてましたら暴れる暴れる。「もういいだろ、離せよ」というように、ぶんぶん逃げようとする。が、鸚鵡貝の場合は水を噴出する口(漏斗)が前向きに向いているので、殻の後ろの方を持っている限りいくら水を吐いてもお前は私からは逃げられない。あははははは面白いなあ鸚鵡貝。「ぶぅん!ぶぅん!」と水を吐く感触は中々他では味わえない。ふだんは脚だけで泳ぐんでしょうけどね。触手は意外と長い(何本あるんでしょう)。まだこの頃のイカタコ類には吸盤が無い。





ヤア、ボクピーチャンダヨ



前回はいなかったヤシガニ(推定18歳)も今日はおりましたよ。



なんと、二重の水槽に頑丈に閉じ込められている。水槽は傷だらけ。なんと、そんなに危険な動物だったのか。触れるんじゃなかったのかよ。



水槽が傷だらけすぎて、あまりよく見えません。
そして狭すぎて、あまり動きません。そもそもヤシガニはそんな動く動物じゃないですね。
それにしても、これで18歳ですか。(あまり大きくないように見える)。沖縄おそるべし。ヤシガニっておいしいそうですね。



説明版もいっぱいで、とても楽しかったです。この幽霊蟹も展示されていればなお良かったんですけどね。(見たところただの赫手蟹)



<ウォット見取り図(1階)>

さて、折角なので、ウォットにいま何がいるのかを記録しておこうと思います。
来るたびに展示品が変わっているのは確かなのですが、変わってないのも多々あるので、この記事を書いていても「あれ、ここは3年前はどうだっけ」とか「この魚は前にいたっけ」とか思うのばかりだから。一旦記録しておけば今後もウォットを3倍楽しめると思う。
あと、前回間違ったことをかなり書いていたのでその修正も。

まず「パンダ水槽」。



前回「ちらっとパンダウナギが顔を出した」と書いたんですが、今日はいくら目をこらしても存在を窺い知ることはできませんでした。「その白い筒の中にいるんでしょ」と思われると思うのですけどその中には何もいない。(前回もそこにはいなかった)。おそらく後ろの岩の下に隙間があって、その下にいるんだと思います。カワアナゴしか見えなくて(鯰もいるんですけど)「一体なに水槽なんだよ」「パンダウナギは死んだんだ」と思っても仕方の無いところなんですが、パンダウナギはいます。(見たもん)。これはあれですね、「幸運のパンダウナギを見られたらその日3時間だけ幸せになれる」とか噂を流したらいいと思いますね。だってパンダウナギですよパンダウナギ。そんなの滅多に見られないよ。(※茨城の大洗水族館と九州の高千穂峡淡水魚水族館 にもいるらしい)
ウォットのパンダは1998年に近くの養鰻場から寄贈されたもので、そのとき2歳仔だったといいます。ということはいま18歳ですか。


(※これは2008年12月の写真)
以前にはパンダウナギとは別に「銀色の鰻」というのもいましたよね。
今はいないように見えるけど、パンダと同じように岩の下に隠れているだけかもしれません。



「長いもの水槽」。
いるのはハモ×2、マアナゴ×2?、クロアナゴ×2、ダイナンウミヘビ×2、ホタテウミヘビ×2。長くないのに一緒に悠々と泳いでいるのはハマフエフキ(とても美味しい)とニセクロホシフエダイ。ハモもこのくらいの大きさの魚になると襲わないんですね。



みんな仲が良い。



前には10羽ぐらい舞っていたミノカサゴはもういなくなってしまったんだと思っていましたが、1羽だけ残っていました。「毒のある魚水槽(正式名は「毒・トゲ・歯 ちょっと危険な水槽」)」。
ここにいるのはミノカサゴ、コグチフサカサゴ、ハリセンボン、ハコフグ(幼魚)、サザナミフグ、シマヒメヤマノカミ。「本当に危険な魚」じゃなくて「ちょっと」。面白いメンバーだというのがわかりますね。ミノカサゴは飾りですね。(こいつはかなり危険)

ひとつだけ魚名リストに説明の無い魚がいて、「この顔が愛らしい黒い魚ってなんだろなー」と思って眺めてたんですけど、



これってサザナミフグですか。(説明版のサザナミはもっと白い色)



白いのと黒いのが並んだ図。
サザナミフグは肝臓・卵巣・精巣だけでなく、皮膚からも毒を流していてそのせいか肉にも毒が浸み込んでいると言われている食べられない魚。(誰も食べないので肉部分の毒の有無は不明)。画像検索してみると、サザナミフグは本当に多種多様の色をしている。最大50cm。こんなに個体差が激しいんじゃ、フグ調理免許を持っている方々は、どうやって見分けているんでしょう?


名前の由来となったお腹のさざ波模様。



「毒水槽」「長いもの水槽」に並んでいるのが「アマモ場水槽」。
江戸時代に争うほど獲ったのに、浜名湖のアマモ場はまだまだ広い面積が残っているそうですね。
アマモ場に棲む魚は小さい魚ばかりなので普段の私なら通り過ぎてしまうのですけど、よく見たら楽しいのだと思います。

アマモはナイロン紐で作った偽物です。
この水槽にいる魚は、イソギンポ、ヒメハゼ、アカオヒセシマハゼ、サンゴタツ、ナベカ、ハオコゼ、アイゴ(幼魚)、アミメハギ、イソスジエビ。



歯虎魚が群れているところか一番の見所になるのでしょうかね。



イソギンポ(玉子をかかえています)。こういうのを面白く思うようになったらお魚好きもかなりなものになってる。



見えますか? 変なところに入り込んでいるヤツがいる(歯虎魚)。
ピクピク動いてますのでこの子は元気です。決して不慮の事故ではなくてこいつは自分からそこまで入ったのだろう。狭いところが好きな人はいる。



そして、砂場のアイドルといったらこの子ですね。ナベカ。
日本全国どこにでもいる魚で、砂場よりはむしろ岩場の磯だまりによく見られる魚ですが、それにしても美しい。あまりによく見られすぎてお魚愛好家にはちっとも大事にされない魚ですけど、容易に捕まえられて。塩水さえ用意できれば(汽水でも大丈夫)飼育も丈夫なので、それなりに人気がある。生態もおもしろいし、これはアイドルになりうる。
ナベカは漢字で「那辺加」と書きます。地方名がとても多くて伊豆では「三島女郎」「三味線弾き」などと呼ばれた事もあるそう。見た目の派手さが芸者を連想させるんですね。それがどうやって「那辺加」などという意味不明な共通名に統一されていったのか、とても不思議。






「アマモ場水槽」の対面は、4つの個水槽。便宜上、「北側の個水槽(1〜4)」と呼ぶ事にします。
上部に「アマモ場ってなぁ〜に?」という説明書きがありますのでここもアマモ場水槽であると錯覚しそうになりますが、ま、アマモはそれほど関係無いようだ。ここは普通に「浜名湖の砂地に棲んでいる魚コーナー」だと思います。浜名湖は一般に水深がとても浅いです。
順番に見ていきましょう。

水槽1


名付けて「フグ水槽」。
いえ、この中にはふぐはコモンフグとヒガンフグしかいなくて、他の魚(ヒブダイ、アオハタ、マハタ)の方が数が多いんですけど、とにかくフグの動きが活発で、完全にふぐだけが主人公なのです。ただ、フグの軌跡が速すぎてほとんど写真が撮れない。



ヒガンフグとコモンフグの見分け方は簡単ですね。(白抜きか黒抜きか)。両種とも、肝臓・精巣・卵巣それから皮にも毒があるんですけどザザナミフグと違って肉は喜んで食べられるんですって。ただ、全く毒を持っていない個体は多いらしいし、逆に東北地方で捕れるものは肉にも毒があるとのこと。それはどうやって見分けるんだ。つくづくフグ料理士さんって凄いと思います。ヒガンフグはトラフグに続く「美味しいフグ・ナンバーツー」だそうです。

水槽2


「たて縞よこ縞水槽」。
カゴカキダイ、イシダイ、イシガキダイ、キュウセン、オヤビッチャ(幼魚)、オトメベラ。



カゴカキダイ(左・おいしい)とキュウセン(右・おいしい)。
実は魚の世界ではふたりとも「たてじま」なんですってよ。へえ。

水槽3


なんかとりとめのない水槽。
マツカサウオ、アカマツカサ、ネンブツダイ、オオスジイシモチ、イサキ、イトフエフキ。

水槽4


ヒラメ・カレイ水槽。
これは個人的に見ていてとても楽しい。ヒラメが大好物でして、えへへ。
浜名湖には多くの種類のヒラメとカレイがいるということをアピールすべき。
ここにいるのは、ヒラメ、イシガレイ、ネズミゴチ、クラカケトラギス、クサフグ、クロホシフエダイ、オキフエダイ、コロダイ。

ヒラメ・カレイを眺めて楽しいのは「意外と泳ぐ」ということですね。
見てますと、ひらひらひらひらひらいつまでも泳いでいるのがいます。

「カレイの美味しさランキング(刺身編)」は 1.マコガレイ(大分の) 2.マツカワ 3.ホシガレイ 4.イシガレイ でしたっけ。(※カレイはどれもおいしい)。浜名湖にはどれもいます。種類がやたら多いカレイに対して、ヒラメは基本的に「ヒラメ」一種類。(ガンゾウビラメやコケビラメもいますけど「ヒラメ」とは別種とされる)。カレイと違って、「ヒラメ」はヨーロッパやアメリカにはいないそうですね。(※日本のと同じ種類の「ヒラメ」は、という意味で地中海には「砂ヒラメ」という種がいる)。「シタビラメのムニエル」は英国?の名物料理ですけど、ヨーロッパでよくムニエルされるシタビラメは日本のと違って右向きだと聞いたことがあります。(普通の左向きの赤舌平目も高級魚として君臨しているというのでややこしい)



ネズミゴチも美味しいですよ。(食べたこと無いですけど)


大水槽。


前に「魚の数が少なくなった気がする」と書いてしまいましたけど気のせいでした。
ここにいる魚はそれほど変動は無いけれど、たまに異動がある。(いまは黒鯛がいません)


マダカ、ヒラスズキ、アオハタ、ゴマフエダイ、コロダイ、コショウダイ、シマアジ、ドチザメ、ナンヨウツバメウオ、ネコザメ、ヒケソリダイ、マダイ、ヤイトハタ、カンパチ、アカエイ、クエ、ウツボ。
派手なのがおらず重量感のあるのがいいですね。
私のお気に入りはやっぱりマダカ(スズキ)ですけど、ウォットのサイトによりますと一番人気はアカエイ、次いでサメ類なのだそうです。人気って分かんないですね。



マダカとはスズキの地方名ですけど、出世の町浜松では「支配者の魚」と呼ばれている魚です。浜松城近くに浜松のヌシの棲んでいた「鱸谷」という古代遺跡がある。本などでは「出世魚スズキのフッコぐらいの大きさを三河・浜名湖ではマダカという。「スズキになるのは未だか」の意。60cmを超えるとスズキへと変わる」と書いてあることが多いのですが、これは画一的な事典の記述の弊害で、実は浜名湖でも地域差が大きいものです。とくに浜松南部は、旧可美村を本拠地とするスズキ一族の影響と威勢が強いせいでよっぽど出世に出世を重ねた個体でないと(=市長レベルにならないと)スズキと呼ぶ事は少ないです。いくら大きくてもマダカをマダカと呼ぶ事は間違いでは無いのです。それとは別に、私は昔からトヨタ派なので、マダカのことはいくら出世してもマダカと呼びます。マダカの洗いおいしい。静岡県は東京都よりもスズキが多いそうで、クラスに5、6人はスズキくんがいました。伊豆のスズキ、駿河のスズキ、遠州のスズキは別系統だそうで、遠州の場合、徳川家康の遠州入りにいち早く付き従った井伊谷三人衆の鈴木重時がその祖なのかと思いきやそうではなく、源義経の伝説的な家来の鈴木重家をその源流としており、浜松のスズキ家の本家(篠原町)は1411年に今切れ口に漂着したという伝説を持っているそうです。その87年後に大津波で今切が崩壊しました。(ただし伊豆の大瀬崎のスズキ家の方がより本家に近い系譜を持っているそうだ)
今度スズキが都田へ引っ越すと聞いたんですけど、どうなるんですかねえ。
ヒラスズキも「ヒラ」と付いてますけど、実力は部長クラスだそうですよ。(美味しい)



とても大きいシマアジ。じゅるり。



カンパチ。浜名湖にはこんなに大きくなったのはいないでしょうけど。
左下のシマのあるタイは・・・・・・ コショウダイ。



「トラフグ水槽」と「エゾイソアイナメ水槽」。
ここがおそらく一番目立つ位置にある水槽ですね。
「遠州灘といったらトラフグ」、これをアピールしないと。
普通は遠州灘で獲りますが、湖内にも普通に入り込んでいるそうです。
トラフグ水槽にはトラフグのみ5頭。エゾイソアイナメ水槽にはエゾイソアイナメ5体とハシキンメ2匹、エビスダイ2匹、それからイズハナトラザメとナヌカザメが入っています。

トラフグは以前は南側個水槽のbやdにいたんです。(2頭)。その時は他の魚と一緒にいたせいか、落ち着かず、盛んに泳ぎ回っていることが多くて容易に写真を撮らせて貰えなかった。
それがトラフグのみの水槽になったら、5頭とも、なんと動きが優雅になったことか。他の魚がいると心安がないんですかね、虎ですから。
今はいくらでも写真を撮らせてくれる。







この可愛らしい歯がキケン。



この模様だと何か虎なのかさっぱりわかんない。
砂地で休んでいると背びれがクタってなるのが愛らしいのですけど



泳いでいるときの下腹びれも「そんなところにそんな立派な羽根がっ」という作りで、よく見たらよく動いてて美味しそうですね。(鰭酒、、、じゅるり)



ハシキンメは深海魚なので、深海域の無い浜名湖にはいません。



エビスダイも深海魚では無いですけど浜名湖内にはいないようですね。
顔が怖いのでハシキンメの方が見応えがある気がしますが、水槽に天井からの照明が当たる箇所がありまして、その下に来るとエビスダイがきらきらと赤く光ります。これはキレイだ。


南側の個水槽(a〜d)


水槽a


「コバンザメ水槽」。
ここにはコバンザメ2匹、クエ(幼魚)、マゴチ、イネゴチ、ゴマフエダイ、コブダイ、アカエイが入っていますが、なんとなくコバンザメが主役。
コバンザメには、誰かにひっついているときに「くつろぐな〜」とかいう感情があるのかしら。
この水槽には何にもくっつく相手がいないのであきらめの表情で転がっているコバンザメが逆にとても愛らしい。





そしてマゴチ。
わたくしの最近の最愛の魚のひとり。(とてもおいしい)
右側はクエの幼魚。

水槽b


「ワカメ水槽」。
メバル、コブダイ、タカノハダイ、カサゴ、アナハゼ。
隣りの水槽cと合わせて「釣って楽しい魚たち」ですね。
浅い砂地を想定しているみたいで、ここにいるのはみんな子供たちです。

ちなみに検索したんですけど、私はワカメとコンブの見分けがつきませんでした。
これは・・・ ワカメで良いですか?



メバルの子供かわいい。

水槽c


「牡蛎棚水槽」。
セイゴ、コショウダイ、アイゴ、メジナ、イスズミ、カワハギ、ウマヅラハギ。

メジナやメバルは釣り人に愛される魚ですけど、滅多にスーパーで見かけることは無いですよね。
釣り人にのみ食される食魚!(というほとでもないですけど)。いろんな魚を自分で釣ってさばける人に憧れます。



この白いのと黒いのは両方コショウダイなんでしょうね。
背びれの形が全然違うように見えますけど、実は同じ。
黒コショウと白コショウ。はッ! だからコショウダイか。

水槽d


「マダイ水槽」。ニベとアカハタもいます。





こんな説明書きがあるのですけど、よく見たらこの水槽の中はマダイしかいないのです。チダイと見分けようとしても無益なこと。惜しい。
血鯛は近所のマックスパリューでよく小さいのを売ってますので(安い)、買って塩焼きにしてます。
魚は丸焼きが一番簡単でうまいですよね。




「ふれあい水槽」。
小さな魚がたくさん入っています。
水槽の下部に手を突っ込んでおさかなに触れるようになってるんですけど、私もいい年したおっさんなので、いつもここは素通りしていました。
・・・今日は、せっかくなので小魚に触ってみましょう。恥ずかしくない恥ずかしくない。



カメラを構えながらなのであんまり深くまで入らないのですが、
手を突っ込むと、一瞬小魚が集まる。
え、なんでなんで、ウチで飼ってる人なつっこいメダカでさえ手を差し入れると逃げるのに。
ただ、それは一瞬だけで、
ドクターフィッシュみたいにツンツンしてくれるのかと思いきや、
一瞬で全員が興味を失って散会する。なんだよ〜、もっと触れ合おうよ〜



なぜかここには魚名の説明版がありませんので、触れ合いたいお魚の名前を呼んで追いすがることができません。
ちぇっ。

チョウチョウウオやクマノミぐらいはさすがに分かりますけどね。



・・・と思ったけど、チョウチョウウオってやたらと種類が多くてカタログ見るとクラクラしますね。
これは、トゲチョウチョウウオ。控えめなトゲ。



これは? ・・・ハタタテダイ。



・・・なんと、たったこれだけ書いただけで1万4千文字を超えてしまいました。
全部の魚を記述するって(しきれていませんが)やたらめんどくさいですね。
つづきます。がんばります。

(つづきです)。

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舞阪の岐佐神社(ハマグリとアカガイの二女神を祀る)の祭礼の模型。


外に出ますと、鰻プールがあります。



鰻プールこそウォットのメイン。
ここは水産試験場でありまして、浜名湖分場の役割とはずばり鰻なのです。
ここも「シラスウナギの量産化」を使命にしていると聞いたことがあります。実現するといいですね。

鰻プールを上から眺めると、こうなります。



「露地池」と呼ばれるものが12個並んでいるのですけど、お客さんが覗けるのは2つだけ。上の歩けそうになっている通路には立ち入れず、あくまで横の小さな小窓から「研究施設を少しだけ覗いている体」であります。
われわれが覗けない他の10つのプールにはあんなものやこんなものが飼われていて、あんなことやこんなことが極秘裏に実験されているに違いないね。(カラのように見えるプールもありますけど)

であるからして、ここで見られる鰻も何かの実験対象であるはずなんですけど、ここで何が行われているか、そしてここ数年ずっと(※私が来たときという限定ですけど)水位が低く保たれて鰻がよく見えなくされている理由が、よくわからない。

水位が低いんだけど、よく見たらオオウナギがちゃんといましたよ!



よく分かんない?
ううん、肉眼だともうちょっとよく見えるんですけどねえ。もっと見やすくしてほしいですねえ。





うなぎ“にも”ってことは他にもうなぎパイの形をしたウロコを持った生物がいるってことですねえ?



その隣の錦鯉プール。
ここも浅い。ここでは錦鯉で何の実験をしているんだろう?

家康楽市。

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<2014年3月26日に竣工したばかりの浜松城天守門>

足のケガが完治しました。もうどこも痛くありません。
浜松城公園で2日間にかけて「家康楽市」というのをやるというので見に行ってきました。
今回で第5回目だそうです。



浜松に越してきたばかりのころ「浜松人は誰も歴史に興味が無い」「徳川家康が浜松にいたことすら知らない人の方が多いと思う(みんなどうでも良いと思っている)」と独りでプンプンしていたことを懐かしく思い出します。一体、こんなに「家康、家康」「出世、出世」とばかり言う町になってしまうだなんて、どこの私が予想したでしょうか。昨年の出世大名家康くんの茶番は関心が無かった私ですら背中が痒くなりましたが、まあ、良かったことだと思います。

「浜松産 食のイベント 家康楽市 In 浜松出世城」は「春の陣」と「秋の陣」が行われるそうで、つまり第5回目の今年は3年目だということです。
すべては「浜松福市長 うなぎイヌ」が政変により失脚し、「出世大名家康くん」が出世を果たした2011年以降のブームですよね。家康くんはゆるキャラとしてはけっこう遅出だったイメージがありますけど、ゆるキャラブームってまだ継続してるんですか?







10時ぐらいに会場に着きますとやってましたのが武将隊のショー。
浜松には武将隊がいませんで、この方々は岡崎市の武将隊。「グレート家康公「葵」武将隊」といって、はるばる武将の名産地の岡崎からやってきてくださったそうです。とは言っても肝心のグレート家康公は来ておられませんで、今日いた3人は、左から服部半蔵、酒井忠次、赤い人がわれらが人斬り兵部だとか。まぁ、井伊直政公が来てれば浜松的には万事良い気がしますけど、榊原康政も本多忠勝も岡崎よりも浜松の方でより活躍したのにね、プリプリ、とか思ってましたら、HP見たら井伊直政も酒井忠次も14時に岡崎城の公演に出演することになってる。13時ぐらいまで浜松にいたような気がするんですけど、四天王も大変ね。(※よく見たら、わかりづらいところに3人は浜松にいると書いてありました)
これはどうも、浜松にも自前の武将隊が欲しいですよねえ。井伊直政(※浜松出身者)は必須として、井伊谷三人衆(※浜松出身者ではない)と大沢基胤(※浜松出身者)と飯尾連龍(※浜松出身者)とその妻・椿姫(※フランス人)と叶坊光幡(※浜松出身者ではない)あたりを入れて。(←地味ね)



岡崎の井伊直政はかっこいい。



2日目(4/27)の武将隊は、酒井忠次が抜けて、井伊直政、服部半蔵、榊原康政(=右のヒゲ男)の3人が来てくれていました。改めて、武将隊はすごいです。こんなに動きにくそうな衣装なのに、歌って踊って飛び跳ねられる訓練を存分にしていることが見て取れました。あと、全員がそれぞれ交代で司会ができる話術も身につけているみたい。




面白いと思ったのは、会場に何人も家康公がいたことで、



この人(真ん中の黒い歯朶具足の人)は何かの重鎮らしくて、ずっと会場を威厳を保って歩き続けていた。何の人なんだろ?



「徳川三姫」と一緒に。



浜松ではまだ家康くんは大人気。家康くんふわふわ、おこさま200円。



金陀美鎧の家康公はなんと神谷昌志氏と歴史講座をやっておられた。
神谷昌志という方は浜松歴史界のスーパースター。昭和4年生まれですから今年85歳になられるのですが、話は明晰でとても力強く、とても元気だ。わたくし、ほっとしてしまいましたよ。実物を拝見するのは初めてですけど。



最後に『井伊直政誕生物語』という劇(劇団砂喰社)という劇があり、そこに出てきた徳川家康。この役者さんがすごく良かった。声がとっても良い。でもこの役者さんはメインイベントである『三方原合戦』では武田方の指揮官をやってましたけどな。

浜松まつり。

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浜松まつりを見に行ってきました。

浜松では最も大きいお祭り。毎年5月3日〜5日の3日間にかけておこなわれます。(昔は5日間だったと言われています)、「浜松の人のお祭り好きは大層なもので、真の浜松人は浜松まつりの3日間のためだけに1年間を生きる」と、どこかで聞いたことあるような褒め言葉もよく言われます。
このお祭りは、昼間遠州灘の海岸でみんなで仲良く凧を揚げ、夜になると市街地で屋台をひっぱって大声を上げてひたすら練り歩く、それを3日間くりかえす、そういうお祭り。
わたくしは浜北生まれの旧石器時代人ですので、浜松まつりには全く思い入れがありません。学生の頃に2度ほど見に行ったことがありますけど、凧揚げと練り歩きは部外者は参加できませんので、「参加する人はひたすら楽しいだろうが、見る人にはつまらない」という印象を持っていました。祭り期間の交通規制が酷いんですよね。最近は地域間の繋がりが弱くなり、祭りを通じた結束力も変容してきて、トラブルや要不要論も大きくなってきていると聞いたことがあります。

今年はひたすらヒマですから、30年振りぐらいに観に来てみました。
数年前から「また見に行かなければ」と思っていたのですけどその理由は2つ。
(1).何かの記述でどこかの屋台の彫り物が「源頼政の鵺退治」だというのを見た。
  (※どこでその記述を見たのか覚えてません。もしかしたら磐田あたりの別の祭りだったかもしれない)
(2).天狗模様の大凧を上げる町がある。



「昼間はタコ、夜は屋台」、ときわめて単純な祭り。
起源は伝説では450年前にまで遡るそうですが、今ではその説は「偽説」として退けられておりまして(ここのサイトさんが詳しい)、今、知られている限り「この時期に大凧をあげる風習があったらしい」とする最古の記録は寛政元年(1789年)に高林方朗が(高林家の長年に渡る記録は浜松では大変尊ばれています)日記に記した「四尺四方の凧に四百七拾弐文支払った」という記述。4尺(約1.2m)四方ってそんなに大きくないですけど。でも明治頃になるとかなり大きな祭りに育っていたそうです。ただの凧揚げ祭りで、神社的な由緒とかは全く無いそうですのに、歴史だけはそれなりに誇れるものであります。
昼間の凧揚げと、夜の豪華な市中引き回しのどちらの方が祭りの本体なのかといいますと、凧の方なんですって。
もともとは凧は各地域でそれぞれ揚げるものだったそうです。近くの地区で凧をあげていればわざわざそこまで行って凧をぶつけ合うこともなされたとか。(糸切り合戦の歴史)。それが明治42年に一つの場所に集められるようにされました。鉄道院の浜松工場建設予定地が広かったので、そこが会場に。ところが3年後に浜松工場が完成してしまったので、大正8年(一説に大正7年)に歩兵第67連隊練兵所(現・和地山公園)に移転。その間の8年間、どうしていたのかは不明です(ウィキペディアによると複数会場があったらしい)。昭和42年まで三方ヶ原の和地山でやってたのですが(昭和12〜21年は休止)、あまりにも参加町が増えすぎて狭くなってしまったので、現在の中田島砂丘へ移ったのだそうです。(公式サイトでは昭和23年から中田島砂丘が会場となった風に書かれていますが)。「浜松まつり」という名前がつけられたのは昭和25年から。(その頃の浜松市の市域は現在の1/50ぐらいしかありませんでした)

今年は147もの町が凧をあげたそうです。5年ぐらい前までは参加町は増える一方だったのですが、ここ数年は落ち着いているそうです。



本日は絶好の凧揚げ日和です。
このお祭りに車で来るのは命知らずでありまして、車大好きなわたくしも今日ばかりは電車です。私は運良く遠鉄沿線に住んでるからいいとして、他の町の方々はどうしてるんでしょうね。と思ったら、天竜川沿い飯田公園に臨時駐車場が設置されるんですって。うひー大変だ。浜松駅からアクト塔まで行ってとこから中田島の凧揚げ広場までシャトルバスです。すごい人がバス待ち行列してるんですけど、臨時バスも絶え間なくやってくるのでそれほど待ちません。で、中田島の凧揚げ公園に至りますとそこから会場まで歩くんですが、その距離約15分。遠い。お祭りの出店がいっぱい出てまして、こりゃ子供を疲れさせて綿菓子やお面をいくつも買わせる作戦だな、と思いました。大変です。



まあ! 凄い人の数です。
この混沌具合を写真で表現するのは無理なのですけど、浜松は寂れた町だと思っていたけど失礼な話だったな、まだまだこんなに人がいるんだなと、感心することしきりです。主役は凧をあげる人たちですから、ただの見学者であるわたくしたちは極力邪魔をしないように注意しながらウロウロしないといけません。凧の人たちは凧の動きに合わせて移動しているので、うっかりしていると本当に容易に邪魔をしてしまいます。見学者はジャマ者。ごめんなさいごめんなさい。常に上に注意しながら歩かないと危険です。



このお祭りは「初子の誕生を全体で祝うための凧揚げ」を源としてまして、その風習は現在でも色濃く受け継がれています。そこかしこで凧の前で子供を高く掲げて皆で喇叭で囃し立てる儀式をしてました。子供は社会の財産だからこういう祝いは絶えさせてはいけない、というのが賛同側の意見。今でも初子しか祝わないんでしょうかね。(女の子の名前もいっぱいありました。1つの凧に2人ぐらいの子供の名前を書くことも普通なようです)。子供の名前の書いてない凧は、、 ま、そういうことだ。

凧は凧ですから一度あげてしまえばずっと空にいるはずです。それにしても凧をあげるって大変。今日は青空なのに風は微風で、ここでこんな大勢の人の中で大勢で大きなものをあげるには技術が要ります。なんせ会場には174の町の人と凧と、それ以上の見物客で溢れかえっているのですから。会場が狭すぎます。(最初にバスを降りた辺りや、海岸で凧を揚げている組もありました)。おまけに「凧を競わせる」というのもしなければならない。なかなか飛ばない凧や、荒ぶる凧や、ひとりだけ無尽に空を左右する凧や、墜落する凧も多々出ます。「こりゃ喧嘩になってあたりまえだよな、だって狭いんだもの」と思いました。でも昨年凧の喧嘩沙汰がニュースになったせいか、会場の均衡と穏やかさは一際留意されていると感じました。(でもそれは1日目だけかもしれませんね。この方々は3日間ひたすら5時間ずつ凧をあげつづけるのですから、かなり疲れる一方で2日目3日目ほど精神は高揚していくはず)



会場がひときわ盛り上がった場面が「凧が絡まっている場面」なのは見ていて面白いことでした。狭いので、もう、当たり前のように凧が絡みます。するとみんな集まってきて、やいしょやいしょとかけ声を揚げながら力強く糸を引く。写真にうまく撮れないのが悔しいところですが、こんなのどうやって凧を飛ばしながら糸をほどくというのでしょうね。見えないですが、糸の数だけの凧が絡まっているってことですよね。でもみんな「絡みをほどき慣れている」「こんなの日常茶飯事だ」というのが見て取れますし、傍目には喧嘩しているように見えますけど、一帯感は他のどこよりも大きくなっています。もちろん、途中で大破してしまった凧も各所で見られますが、それはそれで誇らしいものなのでしょう。



それぞれの町ごとに、予備の凧がたくさん用意されています。予備っていうか子供の数(×?個ずつ?)だけあるんでしょうね。おそらくここの見える以上の用意があると思われます。3日間揚げ続けなければならないのですから、。また、凧の用意が幾つあったとしても、各町で揚げる凧の数は、基本的に一度にひとつずつのようです。(全員で力を合わせて一つの凧を上げるため)


さて、天狗様の凧を捜しましょう。
会場でもらえるパンフレットに、各町の凧の模様とその由来が書いてありまして、バッチリと知りたいことがわかります。
天狗由来の凧をあげているのが3つの町。さすが浜松は「天狗の町」でありますからね。



そのものズバリ、「天狗様のタコ」なのは千歳町。
千歳町とは鍛治町や田町を除けば「浜松一の繁華街(歓楽街)」でありまして、ザザの裏手に当たります。モール街や三太や鰻のあつみのあることでおなじみですね。移転しちゃったけど餃子のむつぎくもありましたっけ。でも、この町の本当の顔は「夜の町」だそうですよ。どうしてその町が天狗の意匠を掲げているのかと言いますと、パンフによれば「この地方きっての古社松尾(まつのお)神社が氏神。御身体を守護する猿田彦命(天狗様)をもって他町の凧を威圧せんと若衆の意気衝天の心をよく表わしている」ですって。サルタヒコの神でしたか。



「松尾神社って天狗の神社だっけ?」と思ってあとで行ってみました。
うーーん、まったく気配すら無い。そもそもこの神社、千歳町ではなくて元魚町にあります。でもこの神社、こんな見た目ながら歴史が古く「浜松の守護神」とみなされていて、千歳町だけでなく肴町・伝馬町・平田町・旅籠町・塩町・成子町・東西菅原町・元魚町と合同で厚く尊崇しているとのことでした。(社殿が貧相なのは浜松全体が執拗な空襲で念入りに徹底的に焼かれたためです)。文中「御身体を守護する猿田彦命」とある「御身体」とは、京都の「松尾大社」と共通する主神・大山咋神のことなのでしょうね。「松尾神」と併祠される猿田彦である「白鬚神(=天狗様)」こそが浜松の産土なんですって。さらに、案内板にはこの神社を創建したのが「明徳2年に曳馬城の城主となった松尾信濃守という人」だと変なことが書いてあります。何者だ松尾信濃守?(信濃国主小笠原長忠の配下の名前に同名の人がありますけど、おそらく別人でしょう)。一般には曳馬城を築城したのは(諸説ありますが)今川貞相で、その年代は永正年間とされています。明徳と永正は近い年代ですが、静岡県神社庁編纂の『浜松市神社名鑑』(昭和57年)にも「松尾神社の宮司は浜松城に常勤し、城内にも松尾神を祀って城の鎮守としたため、浜松城は別名松尾城とも呼ばれた」と書いてあるため、何か知られない由緒を持っている神社ではあると思います。白鬚神がどうした理由で浜松まで来たのか知りたいですな。ハッ、近江--遠江繋がりでしょうかッ
ともあれ千歳町の凧の由来は天狗の元祖サルタヒコ神。これにちなんで千歳の衆は「天狗連」と名乗っており、なんかかっこいいな。





われらが三尺坊大権現の「天狗のうちわ」を凧の模様としていますのが三組町。
三組町には北遠の秋葉山の別当でありながら徳川家康の隠密となった叶坊光幡が、浜松城で近侍していた時に建てた秋葉神社(叶(かのう)坊)があるのです。明治19年に秋葉町・半頭町・清水谷町の3つが合併したので「三組町」という名前になったんですよ。
「三組町の中心にある秋葉神社が凧印の元である。秋葉神社は天狗の山として有名であり、その天狗の団扇もみじの葉が、神社旗の印になっており、神社のお許しをいただき、もみじを凧印とした」
そうそう、秋葉天狗のウチワは八つ手ではなくてモミジなんですよ。秋の葉といえばモミジで、秋葉山にいた蛙の背中にモミジ模様が浮かんでいるのを見付けた行基菩薩が「秋葉山」と名付けた、という伝説がありますから。(八つ手は常緑樹)



もうひとつ「天狗のウチワの凧」(こちらは棕櫚の葉)を揚げている町がありまして、それは上西町。
蒲の冠者の勢力圏の町であります。
「上西町の氏神である冨士神社の御神紋を示し、天狗の追い風に乗り、青空へ舞い揚がるようにとの願いが込められている」
富士宮浅間神社の大宮司・富士氏の家紋の棕櫚団扇は一般には天狗の団扇とは区別されているはずなんですね。でも、富士氏は天狗も信仰してたからこの家紋にしたという邪説もある(知切光歳はほのめかしているのみですが)。


ついでなので、徳川家康由来の凧もいくつか。
家康はドケチで有名で「役に立たぬ華美なもの」が大嫌いだったので浜松城下での凧揚げは禁止したという伝説があります。(次に浜松城主となった堀尾吉晴が凧揚げを奨励した)。意外と、同じようにケチで悪名を馳せた“倹約の権化”水野忠邦は浜松では凧揚げ自体は禁止せずに「凧は大きくしないこと」「色は黒一色にすること」と規定したのみだったといいますので(それでもかなりケチっぽい凧になってしまいますが)、浜松の凧に限定して言うのならば「水野忠邦よりも徳川家康の方がよりどケチ人間だった」と言えそうです。(ただし二男秀康が生まれた年に家臣が凧を揚げたという記述も偽書『浜松城記』にある)



佐鳴台の凧。
なんと、徳川家康の奥さんの築山御前をモチーフにしているのです。
佐鳴台には築山御前が殺害された御前谷があるからでありますが、「無念に死んだ築山殿の怒りを怖い顔で表現したのか!」と思ったらそうではなくて、「佐鳴台地区には、浜松城主徳川家康の正室、築山御前にまつわる大刀洗の池および赤宮神が存在していたなど、双方女性にまつわる史跡から、女性の喜怒哀楽を表現するという般若の面を使用している」と書いてあります。つまり心優しい女性から溢れ出るたおやかな感情の発露の束が、般若然の顔となるのですね。「般若」とはそもそも「智慧」のことであります。築山御前は聡明な(?)方でございました。私は般若湯が大好きです。
別バージョンもありました。さかさまでごめんなさい。大凧はバランスを取る為の棒が下に生えてますので、置くときはさかさまにするんですよ。



なお、佐鳴台はとても広い町で(1〜5丁目まである)、佐鳴台1丁目だけは別の凧をあげるそうです。



「佐鳴台一丁目」なのに遠目では「佐二」と書いてあるように見えますが、これは「佐乃一」と書いてあるんですって。
「この地域が古戦場であったことから、佐乃一組が凧揚げ会場に挑む心境を、矢立の中にある一本の矢羽根として町のシンボルにみたて、これを凧印とした」
えっっ、佐鳴台が古戦場!? いつの時代のことだろう



小豆餅。
家康伝説では必ず紹介される「小豆餅婆さまと銭取伝説」の図案です。
「三方原合戦の地に今も残る小豆餅、銭取りの地名から、餅つきの杵を中心にして左右へ一文銭を配し、小豆餅の「小」の字をデザインした」
文字をデザインしながら伝説をもれなく包括するというとてもすばらしいデザイン。浜松には「小」の字の付く町は他にもあるので、これだったら「私の町だ」と一目で分かります。シンプルで居ながらかなり目立つ。小豆のお餅そのものではなく銭を図案にしたというのも秀逸。家康が払ったのは1文ではなくて2文だったんですね。ぷぷぷ。



それに対する「銭取」。(※写真を撮り忘れてしまったので公式サイトから絵を借りました)」。
(「銭取」という地名は泉町にあります)
「泉の周辺が銭取であったことから、昔の銭形である一文銭を凧印にし、町名の「泉」の文字を配した図柄としている」
ね、当の銭取りを擁する泉町が一文だといってるんですから、やっぱり小豆餅の値段は1つ一文で、家康は餅を2個買って食べたのだということがわかりますね。(波模様があるということは家康はもしかして寛永通寶(もしくは文久永寶)の4文銭で支払った? いえいえ、一文銭って書いてあるし、神君時代の浜松では独自の波模様のある一文銭が流通していたに違いありません)



富塚町北。
「武田勢が攻めてきた折、家康は驚き慌てて鯉の片方を食べ、片方の身はそばの池の中に捨てた。片身の鯉は出世して、佐鳴湖の主になったという云われを図案化した」
なんと、浜松の「片身の魚」伝説は秀吉だけじゃなかったのか。
家康凧はこれだけ。

秀吉由来の凧もひとつありました。



頭陀寺(ずだじ)町。
「頭陀寺城の松下加兵衛之綱に仕え、のちの太閤秀吉となる出世話にあやかって、ひょうたん印で初子の将来の幸運と出世を祈り、町民同士の語らいの和の意を込めている」

今川氏真由来の凧もひとつだけあったんですけど、写真が撮れませんでした。
恩地町の凧で「恩」って一文字書いてあるだけなんですけどね、この町の「恩」の相手は今川氏真なんです。

注目すべきなのが、この町の凧。



入野の凧。
書いてある「義廣」ってどちらのお子さんかといいますと引間城主だった飯尾豊前守の初子なんですね。浜松まつり由来の故事を凧由来にしてるんです。『浜松城記』によると飯尾豊前守に「義廣」という名の子供が生まれたのでそれを祝って入野出身の佐橋甚五郎という人が大きな凧を揚げた、というのが伝説上の浜松まつりの由来。でも、飯尾豊前守はふたり(飯尾豊前守乗連と飯尾豊前守連竜)いたんですけどそのどちらにも「義廣」なんて名の子供はいないし、そもそもこの時代に生まれたばかりの子に義廣なんて名を付けるか! ていうのが『浜松城記』がデタラメだと断定された大きな理由なのです。それを分かった上での入野町のこの図案。だって入野在住の佐橋某(この人は実在した)が凧を作ったとしても、凧に「義廣」と書く権利を持ってるのは元目町か元城町じゃないですか。
でも、飯尾豊前守連竜の子、飯尾義廣が「ほんとうにいなかったのか」を証明できないのも歴史の妙なのです。もともと斯波氏の被官だった飯尾氏は斯波氏衰亡後、今川氏にすりよったり謀反の動きを見せたりいろいろしましたので、永禄以前に、ごますりの為に子供の誕生にかこつけて「義」の字をもらう約束を早々にとりつけて(今川は「義」の字は容易に与えないはずなんですけど、飯尾氏は極めて稀な立場にあった)、でもやっぱりその約束を破り捨てた可能性が、そして引間落城後、飯尾の子供の存在が闇へと隠された可能性も(小説の世界では)無いでもないのです。浜松の椿姫は夫が惨死を遂げたのに何のためにあんなに必死に戦って散ったのか。それは幼い息子のため! 連竜自身が幼名義廣だったのかもしれない。そんなこんなを分かった上での入野町のこの図案。(大事なことなので二度言います。入野町は当初、反徳川側でしたからね)
入野町は凧揚げ参加町としては新参の町(昭和51年)で米田一夫氏や神谷昌志氏が著書の中で『浜松城記』を否定したのが昭和62年前後。



浜松生まれのヒーローといったら“蒲(かば)の冠者”源範頼。
井伊直政は引佐生まれ、徳川家康は三河生まれ、結城秀康は雄踏生まれ、豊田佐吉は湖西生まれ、本田宗一郎は天竜生まれ、山葉寅楠は紀州生まれですからね。
真の浜松生まれの英傑は源範頼、徳川秀忠の二人しかいません。
が、範頼関係の凧はひとつもありませんでした。残念・・・
平安後期には「蒲二十四郷」といってとてつもなく広い領域を持った蒲の御厨ですが、その後いろいろあって現在では10ヶ町(神立町・大蒲町・将監町・植松町・宮竹町・西塚町・上西町・丸塚町・上新屋町・子安町)のみを「蒲地区」と称します。その「蒲(かば)」は浜松駅から近いのに独自の気風を保ち、平成になるまで「蒲の神明宮の祭り(10月)の方が大事」として浜松まつりには参加していませんでした。大蒲町の参加は平成7年、神立町の参加は平成19年。だからその凧模様も新しく選びぬかれた最新のデザイン理論でやられているはずなのですけど、そこに蒲公の入り込む余地は全く無かったって事ですね。つくづくも残念。やはり一番優れているデザインとは「蒲」(大蒲町)とか「子」(子安町)とか「丸」(丸塚町)とか、一目でパッと分かるシンプルな一文字デザインなんです。でも上西町(平成4年参加)とか冨士天狗の団扇ですし、植松町(平成2年参加)は将軍義教公が褒めたという松の植木、宮竹町(平成21年参加)は「神なる竹」を模様にしてあしらっています。そして、蒲の大神のおわす町・神立(こうだち)町の模様がこちら。



立ってる! 右三つ巴の紋が蒲の大神の神紋だそうです。

とまあ、凧の模様を眺めているだけで楽しいお祭りでした。
近くに「浜松まつり会館」というのがあって、そこに過去の各町の凧模様の変遷などが展示してあり、見ると意外と試行錯誤が繰り返されてきていることが分かります。



下池川町なんて「イ」と「k」と「川」の字をうまく組み合わせて独自感を醸すためのいろいろの工夫の末に現在は「イ」の一文字となっている。やはり一文字凧が一番優れているのでしょうか。



三組町も最初からもみじのウチワじゃなかったんですよ。
会館にはたくさんの年輩の方々がいて、熱心に説明してくださっていました。この時期だけのボランティアかな。いくつか質問をしますととても楽しそうにお話ししてくださいます。この方々ってきっと若い頃は熱烈な凧戦士だったんでしょうねえ。「凧はどういうきっかけでデザインを変えるのか(頻繁に変えるそうです)」とか「凧の絵の金型は意外と高い」とか「絵の描き方」とか、いろいろ教えていただきました。数年後にまた来たら、多数の町の凧の模様が変わっているのかもしれません。私は初心者ですので今日の風具合は「大凧揚げには足りない頼りない弱風」だと思っていましたが、会館の大先輩のお話だと、「今日はとてもよい風」だとのことでした。上の方にとても良い風が吹いているという。強すぎる風も困りますものね。



風の具合で凧はいろんなところへ飛んでいくものでして、
狭い会場から飛び出して住宅地の方でも凧を揚げている組があります。これは決して好きでそんなところでやっているわけではなく、凧と風の都合に合わせた結果なんですよね。で、住宅地に墜落した凧も。そこに登場するのははしご車。これは電気工事をやってる場面じゃなくて、電線に絡まった糸と凧をほどいてるんですよ。うひー怖い。近辺は停電状態にしてあるんですかね。はしご車は2台出動し、電信柱で大活躍しておりました。


15時頃にシャトルバスに乗ってアクト塔へ。
御殿屋台の行列が始まるのは18時からなので、それまでヒマです。
行列に備えて町の各所で屋台の準備をしてましたので、それを歩いて巡りました。すでにして歩きすぎて脚が痛い。
公式パンフには各町の御殿屋台の説明がちょろっと書いてあるのですが、凧とは違って説明がとても簡素でほとんど詳細が分からないのです。写真も小さすぎて、少なくともこれを見る限り頼政公の鵺退治や天狗様の屋台があるのかないのか全然不明なのです。全部見て回る必要があります。凧と違って屋台の市中練り回しはオマケですから全部の町が参加する必要が無く、屋台の数は89だそうです。



一番個性的なのは元城町の御殿でしたね。ただのお城の模型かと思いきや、随所の意匠も細かくされている。





泉町。弁慶と牛若。上に鞍馬天狗が。



高丘町。恵比須神。



東田町。櫛名田姫と素戔男



和合町。桃太郎の鬼退治。狐っぽい犬。



旅籠町。清正公の虎退治。



佐藤中町。天の岩戸。



亀山町。公式パンフには「乙姫と浦島太郎と亀」と書いてあるんですけど違うと思う。



完全に寛永四文線(十一波銭は1769年以降ですが凧の模様は十一波じゃないですよ)の泉町。源義経公の武勲。



砂山町。蝦蟇仙人と鉄拐仙人。



海老塚町。伊勢海老の町の名の由来は定かではないそうです。(浜松駅の西側、海の無い町)



浅田町。源三位頼政の鵺退治、、、、 じゃないですよね。源頼光と酒呑童子かな。

どれも凄いんですけど、四方に立派すぎる彫り物が縦横無尽に踊っているものですから、説明が無いと(ほとんど無い)なにがなんやらわからなくなってきてしまいました。
結局頼政や五位鵺はいたのかいなかっのたか、わかりませんでしたとさ。

そして、薄暗くなってきますと行列開始。見事でしたけど、私のカメラではもう何も出来ることがございませぬ。

わたくしの最も観たかったのは“天狗連”千歳町の御殿屋台。おお!!





うひょー、凄い! かっこいい!





もう暗くて全然明晰に撮れませんけど、鞍馬天狗と烏天狗たちですってよ。
公式の詳しい説明のあるサイトさんがコチラ



べんがら横丁と般若連。
今日ぐらいは横町も繁盛していて欲しいですね。見に行けなかったですけど。



あんなところに瀬名姫のお顔が。

小腹が空いたんですけど、見回しても遠州焼きとかチュロスとかフランクとか棒パスタとかそんなのばかりで「浜松グルメは先週存分に体験したからな」と思っていましたら、アクト塔の地下広場にこんなコーナーが!!



題して「世界の屋台!!」
そうですよね、鰻とか河豚とか海老とか烏賊とか餃子とかいくら浜松の名物とかほざいていても、「日本の中の真のブラジル」と称えられる浜松市の一面を逃してはいけません。私が高校時代にバイトした浜北のバイク工場で、ペルーやブラジルの方々がぎょうさんいたあの体験を懐かしく思い出します。浜北では美味しい印度カレー店が次々に失われていってる最中ですけど、わたしたちは浜松が誇るエスニック食文化を忘れてはいけない。

なので、広義のブラジル料理をたくさん食してみたいと思いました。今日は電車で来てるしな。



浜松名物シュラスコ、600円。スーパードライと一緒に。
うをーーなんて旨いんだシュラスコ! と思ったのは一瞬だけで、熱々のシュラスコは柔らかく味付けは濃厚で(主に岩塩の味)、それはそれは美味しいんですけど、熱を失うと同時に硬くなり旨さが瞬時に吹き飛んでいきます。でもシュラスコって初めて食べましたけど、浜松にはブラジル料理店がいくつもある。絶対近いうちに再挑戦しますよ、熱々のシュラスコの食べ放題に!



インカ料理店にて、「エンパナダ・デ・ポジョ(インカ肉餃子)」300円、とコロナビール。いろいろ注文しインカビール(?)も注文したけどいろいろあってこの品だけになっちゃった。まあいいか、さっきのシュラスコで満腹だし。インカ餃子、インカ帝国人ってこんな旨いもの食べてたのか!! 皮がサクサクのパイ。他のメニューもいろいろ食べたいと思ったけど、今日の私のお腹にはその余地なし。朝の食事(キムチ鍋)を食い過ぎたか。

となりにエジプト料理店があって、そちらにもとても気を惹かれたんですけど、ずっと行列で、私が入る余地はありませんでした。エジプト焼き鳥、エジプトカレー、食べたかった。



そしてアクト地下の舞台ではスペインのダンスを延々とやってましたとさ。陽気なお祭り。
練りは22時過ぎまでやっているそうですが、かなり疲れが溜まってきたのでわたくしは21時頃に帰りました。楽しかった。

揺るがす者の寺院。

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相も変わらず天狗様に夢中です。
以前「魅惑的な遠州の天狗の地図」というのをgoogleで書いていたのですが、少し前に「新しいGoogleMap」というのが登場しそれに移行した途端、非常に編集しづらい事態になってしまったんです。新しいバージョンは文章書きに必要な機能がほとんど削除されていて、全く私の使用の目的にはそぐわないしろものだったのです。「しばらく待っていたら便利な機能とか次々と備わっていくのかもしれない」と思って待っていたんですけど、半年経ってもその気配が無い。やがて、プンプンしながら古いバージョンのgoogle地図で同じのをもう一度作り直すハメとなりました。この野郎っ、一体何度目の作業だと思ってんだ。でも考えてみればgoogleの人は新しいのを作ったのに「古いバージョン」を未だ残して今でも万全の機能で使えるようにしてあるんですよね。そこにgoogleの良心(そんなのあるのか?)を窺い知ることができます。けど、私の使い方はgoogleが推奨しない使い方だってことですよね。(ごめんなさい)。この分だと古いバージョンもいつ使えなくなるか分かったものではありません。私は地図とブログを組み合わせた素晴らしい便利サイト(自分にとって)を作りたいだけなのに。

で、新しく作り直すに当たって写真がいろいろと必要になったので、また必要に応じて写真の再入手を頑張ることにしました。
実は、悲しい事情で昔撮った写真の大部分を私は失ってしまっているのです。

まずは秋葉山へ。



春に行くから春野町。春野の春の山の緑はとてつもなく美しい。
・・・じゃなくて、ここはまだ旧天竜市。
まず清流で有名な阿多古川をのぼって「石神の里」を目指すことにしました。
浜北人にとってはすぐ近くを轟々と流れる天龍川は確かに素晴らしい恵みの川なのですが、あまりにも流れが怖すぎて(一夏に死人が何人も出るから)、夏にいつも遊びに行くといったら普通は女性的な風情の阿多古川だったんですよね。子供の頃は「阿多古」の名の由来なんて考えたこと無かったのですけど、やっぱり秋葉天狗繋がりの名前だったのかしらん。

で、旧天竜市という町は意外なほど(←私にとってはね)天狗伝説の少ない土地なのです。
子供じゃなくなってからは阿多古川に足を運ぶ機会はなくなってしまい、でも子供時代のキラキラしい想い出は頭の奥底に宝物になっているものです。7年前、改めて北遠の天狗伝説を調べたとき、石神の里が「天狗の昔話」を誇っていることを嬉しく思いました。
7年前の私は書いています。
「天龍川の支流・阿多古(あたご)川流域にあるキャンプ場。小さい頃行きました。「あたご」といい「石神」といい、立派な天狗地名かと。私の小さい頃の集団キャンプでは廃校に泊まった記憶があります。 ここの公式サイトのマスコットキャラクターが天狗なのです。メニューにはお座敷「天狗亭」とか「天狗バーベキュー」の名も。 いわく、「石神の里の天狗バーベキューは、伝説の秋葉山のカラス天狗の大好物をしのびながら、更においしさとボリュームとスタミナを加えて、名物として開発されたものです」 コースとして「お得なグループセット(25名様以上)」は、◎天狗コース(2100〜4200円) ◎しいたけコース(2100〜3150円) ◎山芋コース(2100〜4,200円) ・・・魅惑的ですが、なんでしょね、この値段の差。 公式サイトにある「阿多古の昔話」より。 「昔、観音山にコタローという名の小天狗が住んでいた。ふもとの石神の里におりてきては悪さをし、村人たちが困るのを見て喜んでいた。 冬の寒い日、腹をすかせたコタローは食物を恵んでもらおうと村人の家の戸をたたいたが、誰も開けてくれなかった。寒さとひもじさで震えているコタローを哀れに思ってひとりの爺さんが、婆さんのこしらえた麦飯とろろをふるまってくれた。コタローはお礼にうちわを置いていった。このうちわで畑をあおぐと山の芋がたくさん取れた。それ以来、石神の里では日本一味の良い山の芋が取れるようになり、麦飯とろろが名物になった」。コタロー。 結局のところ、この天狗が「秋葉の天狗」なのか「観音山執金坊」その人なのか、知りたい」

でもだがしかし、先日調べたら「石神の里」は今現在天狗由来を捨て去っているようなのです。なんてこったい。
7年前のわたくしの心を掴んだのは「天狗バーベキュー」の説明。
「石神の里の天狗バーベキューは、伝説の秋葉山のカラス天狗の大好物をしのびながら、更においしさとボリュームとスタミナを加えて、名物として開発されたものです」。
でも、2年前のあの恐ろしかった巨大台風の時、石神の里の名物だった「鮎のつかみどりの池」が再起不能の被害を受けてしまったそうで、それに伴って業務縮小がおこなわれ、「天狗バーベキューの食材の提供」もやめられてしまったそうなのです。天狗も鮎も無い石神の里、いったい何がどうなってしまったんだ?
これは、ぜひとも見に行ってみなければと思っておりました。

鹿島の椎ヶ脇神社のところから主要道を離れてひたすら北上します。阿多古川は本当にキレイな川ですね。でも、私が小学生だった50年前に父に頻繁に連れてきてもらっていた淵は、もうどこなのか思い出すことができませんでした。悲しい過去の想い出。(おそらく下阿多古小学校の付近だったと思います)。
それにしても阿多古川沿いの町ってとてもたたずまいが綺麗ですよね。そして変な神社もたくさんある。


阿多古大ナマズ神社。(本当にそういう名前なんですったら)

川をどんどんさかのぼって、「あれ、こんなに上流だっけ?」と思ったあたりに「石神の里」はありました。





あれ? 「鮎つかみどり」「天狗ハベキュー」と書いてある。
でもサイト(ブログ)を見る限りは、実質場所貸出し専用の施設となっているみたいです。
天狗伝説を捨て去ってしまった今、「天狗ハベキュー」の文字が悲しい。
もっと愕然としたことは、「ここは私の記憶の中にある石神の里と違う」と気付いてしまったことです。「石神」というのはこの里の字のことでして、つまり50年前の私はこの付近の別の廃校に泊まったんですね。8歳の私が(カブスカウトだったんですよ、デンデンデン)初めてインスタントラーメンを食べたという忘れがたい記憶が、石神の里のどこかの(今はあるかどうかもわからぬ)その廃校にあるのでした。
でも、ここはそれなりに雰囲気は良いぞ。「公式案内」によりますと、バーベキューの食材は自分で用意しないとならないそうですが、席代は500円でガス台が2000円だとか。いえ七輪を持って野宿すれば日本全国の川どこでもタダで行けるのですけど、ここの宿泊の場合、バンガローが1人2000円なんですって。(駐車場が1400円)。いいかもしれない。屋根のある2000円はいい。1人でも申し込めるだろうか。(1人じゃムリだよね)
7年前の私と今の私が違うところは、本をよりたくさん読んでいるところです。「石神の里の名の由来」は天狗とは全く関係が無い。

「出かけよう!北遠へ」

ただ、この里と阿多古川を挟んでそびえている山が観音山であります。(この山もまた浜北の小学生が林間学校に毎年訪れる山だった)。観音山は天狗の山。そこの執金坊が石神の里に下りてきて、石神でなにかやらかした(知られていない)逸話があるのかもしれない。観音山についてのレポートも近いうちに書きますからね。




(石神の里付近の阿多古川)

そこから県道296号線を北上して熊へ。
旧天竜市熊は、道路標識等には「Kuma」とルビが振ってあるのですが、住んでいる人はみんな「くんま」と発音するのだそうです。
本当に、山の奥の奥の奥の村で、天狗伝説がひとつはありそうな感じなんですけど、本を読んでも全く見つからない。
「モトクロスパークくんま」のある場所の地名が「天狗塚」というそうなので、天狗がひとりもいなかった訳がないのですけどね、調べても分からなかったです。ここでは天狗よりも熊の方が強かったってことですね。


(道の駅「くんま水車の里」のあたりの阿多古川。水の透明度が死ぬほどキレイ)

そこから県道295号線を東へ走って秋葉山へ。
天龍川の秋葉山上社への参道の橋(東雲名)を渡り、秋葉山の南の道を通って春野町へ。
その途中で、「千草」の集落のあたりで足を止める。
千草で調べたかったことは2つ。
(1).少し前、「春野天狗街道」について調べていたとき、全然見当違いのところで似たような看板を見たことがあるのを思い出したのです。


グーグル・ストリートビューの写真。

うむ、似てるが別の看板だ。(天狗の里はるの ○km先と書いてあります)
この看板の記憶のせいで、「春野天狗街道はどこからどこまでだ?」とずっと悩んでいたんですよ。(ストリートビューで見れば一発でしたが)
解せないのは、この「千草」の小村のある地区は、2005年の合併以前は旧春野町ではなく旧天竜市に属していたことです。天竜市域内の場所に、春野町が看板を立てますか? でもそもそも春野町と天竜市が気多川を市境に設定していなかったことに地図上の違和感を感じます。(「雲名」も天竜市だったですよね)。汚れ具合を見ればかなり古いのですけど、昭和61(1986)年に設置された「日本一の大天狗面」を図案にしていることはわかります。

(2).「てんご塚」の昔話について。
御手洗清氏の『続・遠州伝説集』(1974)に書いてあるんですけど、それを要約した私の文書がこちら。
「千草の集落から天龍川を挟んで対岸にある形の良い山に、夜になると頻繁にまるで山火事が広がるようにパチパチと音を立てながら火が燃え広がるのが見えるので「天狗様がいる!」と「天狗塚」と呼ぶようになりました。
ある日、いつものように夜光る山を見て「天狗様がまたやってるよ」と言い合っていると、見知らぬ老人が「いや、今日はこっちに飛んでくるぞ!」と言います。その言葉に応じて天狗の火が本当に村の近くまで迫ってきたので、村の人はびっくり仰天。大騒ぎしているうちに天狗の火はいつの間にか消えてしまい、見知らぬ老人もいなくなっていたということです。天狗様もせっかくやっているのだから村人たちに常に驚き怖がってもらいたかったのだ、とそういうお話し。
「天狗」がやがて訛って「てんご」となったそうです」

千草の里から見る「形の良い」てんご塚の写真を撮りたかったのです。
車を停めて周囲を見回し、一番よく見える山を見定めて撮った写真がこれ。



でも残念、この山は文中にある天龍川では無くて気多川を挟んだ上島の集落の方向です。
西に目を向けて天龍川の向こう側に目をやりますと、、、 思ったより遠いぞ。



凄く参考にしている「出かけよう! 北遠」さんが似たようなことを書いてました。うむ、よく分からない。『ふるさとものがたり天竜』という本を私はまだ手に入れていない。

揺るがす者の寺院(続)。

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“天狗の町”春野の天狗探訪のつづき。
「日本一の大天狗面」のすぐ北側には大きな流れの気田川があり、そこに架かっている橋が宮川橋。この橋は、天狗の飾りが施されているので通称「天狗橋」と呼ばれております。赤が鮮やかでなかなか愛らしいでしょ。もちろんすぐそばにある大天狗面を模してある。平成3年3月の架橋ですって。



こんな感じの橋。気田川はとても気持ちの良い川で、幅は広いけど天龍川よりは安全そうで、夏になったらとても賑わいそうな川です。河原が広い。
当然、橋の反対側にも天狗はおりますよ。



「なぁんだ、同じ天狗か」と一瞬思いましたものの、上げてる片足が違う。バックの色が違う。(間違い探しか)。何より見える景色が違うので、川の南側の天狗とは違う印象も受けました。

その少し向こうに「気田(けた)」の町があります。
恥ずかしい話ですが、春野町の歴史について書いてある本を全く持っておらずこの地方の歴史がさっぱり分からないのですけど、春野町はとても広い町で、気田川沿いに集落が点在している。歴史的に地域の中心となっていたのは鎌倉時代からこの土地を支配していた天野氏の住まう秋葉山下の「犬居(いぬい)」の町だったと思う。でも、実際に行ってみると「気田」の方が中心地っぽい雰囲気を感じますね。おそらく犬居は戦国城下町そのままで地形の高低差をそのまま活かして狭く入り組んでいる。気田は土地が広い。でも、気田の集落の歴史ってどうなっているのかしらね。いつ頃から栄えていたのかしら。
子供時代の頃、浜北の低湿地で暮らしていた私は「気田(けた)」と「気賀(けが/きが)」が頭の中でこんがらがってわけがわからなくなってしまったものですが、そんな私が好んで気賀に住むようになるなんて、何をどう想像できただろうか。なお、合併前の旧春野町時代は、春野町の役場は犬居と気田の中間にある「宮川」(大天狗面のある地域ですね)の現・春野協働センターの場所に存在していたそうです。
そしてそして、私はドライブが大好きで良く天龍川を逆昇って春野のあたりまで遊びに来ていましたが、宮川橋より北へは行ったことが無かったのでした。だって用事が無いもん。

今日は初めて、気田の町を訪れようというわけでした。



目的は「天狗饅頭」。天狗の饅頭を扱っている3店舗の内の一軒が気田にあるのです。「本多屋菓子舗」。
おお、先程の月花園以上に何とも歴史を感じさせるお店だ。しかし、店頭から店内を覗いてみると無闇に入りづらいような風情があり、目を良く凝らしても天狗的な何かがありそうな気がしなかったので、逃げ去りました。私は意気地なしだったのです。気田おわり。(え?)

春野は「天狗の町」とは言いながら、天狗成分が充満しているのは宮川橋以南です。その北にはほとんど天狗が見られない。その中でこの本多屋菓子舗だけが例外。いずれまた饅頭を見付けに来たいですね。

続きまして向かいましたのが、春野町図書館。
調べたいことがいっぱいありましたからね。



図書館と一体化している「歴史民俗資料館」にあった犬居城の模型。立派です。



犬居の支配者は鎌倉時代に源頼朝の腹心であった天野藤内遠景の子孫たちです。伊豆の遠景の晩年は不遇であったとウィキペディアに書いてありますが、遠景の息子の政景が承久の乱での功績によって全国各地に分かれた土地を貰い、それぞれに係累を住まわせました。秋葉山下の天野氏の歴史は伝説的なものが多いのですが、確実な史料の初出は後醍醐天皇の綸旨。南北朝の動乱に際して、天野氏は新田の配下として鎌倉を攻め、後醍醐の忠臣として全国を転戦し、宗良親王を厚く崇拝して井伊と共に親王を守り立て、足利尊氏の配下として井伊谷城攻めに参加したそうです。なんやねん。
秋葉山下にあって修験勢力との結びつきは強かったものと思いますが、「犬居(犬が居る)」という地名自体が山嶽信仰との関わりがある。戦国時代には「犬居」は「乾(いぬい)」とも記されますが、「乾=北西の方角」はどこから見て乾だったんでしょうね。一時期、とても深い関わりを持った今川義元から見て北西なのかも。
戦国時代初期の秋葉山がどういう状態だったのか、定かではありません。というか、確実な史料は戦国時代後期の徳川氏と天野氏の抗争のときまでありません。つまり、武蔵国出身の茂林光幡(熊谷浄全)という武家うまれの修験者がいて、彼は全国の霊山を巡り歩いたあげく、十代の徳川家康と知り合い(場所は可睡斎で、とされる)桶狭間の年にその配下となる。雄山閣の『秋葉信仰』の監修者・田村貞雄氏の記述が詳しいのですが、家康と光幡は16歳差で光幡が年長。
今川義元が死んで天野氏は今川を見限ることに決めるのですが、そこに家康の使者として茂林光幡がやってきます。話し合いの結果、天野氏は徳川家康の傘下に入ることを了承。家康遠州侵攻の翌年の永禄12年(1569年)のことでした。
この功により、茂林光幡は秋葉山別当(第二十四世)に就任。
実は修験の山としての「秋葉山」の名は、このとき家康が光幡に与えた安堵状が初出なのです。
これが「秋葉山三尺坊の正体とは戦国時代の叶坊光幡なんじゃないか?」といろんな人が考える原因です。

大事なことは、
(1).茂林光幡は秋葉寺の「第24代住持」とされているが、それ以前の秋葉の住職について分かることは名前のみだということ。(初代住職(開基)は行基大菩薩です)
(2).茂林光幡が永禄以前に「秋葉の修験者」だったという証拠も全く無いこと。
(3).茂林光幡は「叶坊(加納坊)」と名乗るようになるが、この名の由来が定かでは無いこと。一般には「浜松城のすぐ近くに秋葉を勧請し、その坊に因んで“叶坊”と呼ばれた」となるが、三組町秋葉神社の社伝によると「叶坊」の勧請は天正年間(1573年以降)。それ以前の元亀3年(1572年)に犬居城の天野景貫は寝返って武田信玄の忠実な家臣となっています。元亀元年(1570年)に家康が上杉謙信に使者として光幡を送ったとき、彼の名乗った名は「権現堂叶」。(この権現堂とは、彼が出家前に寄食していた鎌倉の「光明寺権現堂」だそうです)
(4).天野景貫がおとなしく家康に従っていたのはたった4年間です。そこから激しい「犬居戦争」が始まり、最終的に収束したのは4年後。この間、別当の茂林光幡は秋葉山へ近づくことが出来なかったと思われますが、他の「秋葉修験の勢力」はどういう動きを見せていたのでしょうか? 天野に味方する「秋葉僧兵」もいたのかな。
(5).天野氏は秋葉権現を信仰していたのかどうなのか。当然していたに決まってる。犬居落城前に穴山信君の指揮下に入った天野景直(系図に見えない名。景貫の次男の小四郎虎景/景広と同一人物?)は清水に秋葉山本坊峰本院を建てていますし、江戸時代に随筆集『塩尻』を書いた尾張藩士の天野信景は、「先祖代々の秋葉信仰」の話を度々書いています。
(6).関係無いですけど、天野遠景から数えて天野宮内右衛門尉景貫は11代目。さかのぼること400年前に天野遠景は源頼朝から「伊豆の藤内遠景は、奉公他に事なる(異なる)間、遠景10代、頼朝10代、いかなる不思議ありと言ふとも、咎に行なわるべからず。これは不憫(不便)に思しめすが故なり。文治2年7月10日」というお墨付きを貰っていたんですよ。11代目に天野家が滅ぶっていうのもなかなか感慨深い話ですね。言った当人の右大将家はとっくの昔に滅び去っていますけど。(天野氏の系図は幾種類かありますが、私は犬居城址顕彰会発行のを参照してます。神谷昌志氏も同じのを採用している)
(7).「どちへんなし」ってどういう意味? 犬居の天野家とは別系統ですが、三河の天野家である天野康景は「どちへんなし」って言われてたんですよ。「仏の高力、鬼作佐、どちへんなしの三郎兵衛」って。その「どちへん」は人によっていろいろな解釈されているのですが、「公平な」とか「偏りのない」とか「慎重な」とかいうのが一般的でしょうか。でも?川實記によるとどちへんなしは漢字で書けば「何方辺無」、つまり「どこにもいない」ですよ。「仏でも無ければ鬼でも無いどこにいるか分からない人」ということはつまり天野康景は狐や河童、いえ!天狗だったのではないでしょうか!(強引なこじつけ)
(8).「茂林光幡」って何て読むの? 私は自然に「もりんこうは」って読んでましたけど、検索してみたら「幡」の字に「は」の読み方は無かった。神谷昌志氏の御本では「かのうぼうこうはん」とルビがふってあります。もしかしたら「しげばやし みつしげ」とか「もばやし てるまさ」とかいう侍名かも知れず、さらに一説として「森林光幡」とか「光播」と書いてある本もあるので、謎は深まっていくのでした。群馬県のタヌキで有名な茂林寺とは何か関係があるのかな。なお秋葉寺53世藍谷俊雄師の御本『三尺坊』には「茂林光播(永禄年間 寂)」という文字があります。



春野の図書館で分かったこと。『広報はるの(縮刷版)』より。

・昭和61年3月、「日本一の大天狗面」設置。
・昭和61年4月20日、第一回はるの大てんぐまつり開催。
  その後、何年か大天狗まつりが大盛況の記事がありますが、現在はやっていない?
  「天狗面設置除幕式」
  「バーベキューセット無料貸し出し」(食材は自分で用意)、
  「天狗もちなげ」「天狗ステージ(カラオケ大会)」「天狗講和」
   カラオケの優勝者には「大天狗(大人)」「小天狗(子供)」の称号が。
  「小天狗コーナー(子供達に大人気のファミリーコンピュータゲーム大会)」
   などがありました。
・昭和61年4月、気田の酒井さんから「もうひとつの大天狗面」寄贈。
   縦1.2m、鼻の高さ60cm。
   ・・・これは現在文化センター内に飾ってある天狗でしょうか。又は大面横の小屋の中のかな。
・昭和61年10月、秋葉神社上宮本殿再建。
・昭和62年1月、町制30周年を記念して、「第16回駅伝大会」を「天狗の里駅伝」と改称。
  (※現在も継続。2014年が第41回。「天狗駅伝」としては第26回目)
・昭和62年4月21日国道362号線の長沢バイパス完成、昭和64年4月犬居バイパス完成予定。
   アンケートによりこの2つの区間の愛称を「秋葉天狗街道」に決定。
・平成元年5月号、「天狗街道」PRのために3枚の道路看板を設置。
・平成元年9月号、「里原天狗市の一年」記事。(※現在はどうなっているか不明)
・平成2年4月号、犬居小の6年生がプールに天狗の壁画を描く。
・平成2年5月号、「天狗のげたモニュメント」完成記事。
・平成2年10月30日、秋葉神社上社の参道・狛犬・大鳥居の完成除幕式。
  (天皇陛下即位を記念して建造。総工費2億円)

・・・ちょっと調査が不十分だったかも。(数年分読むだけで疲れた)
何がきっかけで誰が言い出していつ頃に「春野を天狗の町にしよう」と決めたのかを知りたい。
秋葉神社の再建と大天狗面設置が契機のひとつとなったのは確かなことですが、大天狗面のところにある看板を読むとそれ以前に町の天狗化の動きがあり、その流れで神戸から大面を貰ってきたそうであるので、それ以前のことも知りたい。でも疲れてしまって昭和61年以前の分は今日は読めませんでした。また読みにきます。

春野における「天狗」とは、決して秋葉山三尺坊のみを指しているものではなく、むしろ周到に宗教色は排されています。30年も前に(今から見れば不十分ながらも)テングのキャラクター化を図っていたことは注目すべきであるでしょう。しかし、どこを見ても「この町にとって天狗とは何か」「天狗の町とは何であるべきか」という事は語られていない。「春野は天狗が作った土地だ」とも「春野には天狗がまだいる」とも「春野人は天狗の子孫である」とも「天狗的生き方をすれば幸せになる」とも「春野の天狗の山はコレとコレとコレ」とも「鼻が長いと便利だ」とも「みんな天狗になるべき」とも「山と一体化しよう」とも「火事ダメゼッタイ」とも「春野は民話の里」とも「天狗的社会が未来的社会の理想型」とも「天狗は茶が好き」とも、そういうことは全く言っていない。
要は「山の幸と川の恵みに満ち溢れた里」「天狗は元気」、それが「天狗の里」なのであります。

それにしても「秋葉天狗街道」は新・光明山ふもとの「春野(国道362号)と佐久間(国道152号)への分かれ道」の入口から「日本一の大天狗面および天狗橋」までの約22kmぐらいの間を言うのかと思っていましたら、「峯小屋トンネル」から犬居城そばの「若身橋」までだったんですね。(長沢バイパスと犬居バイパス工事を記念して名付けられた愛称だから)。道理で大天狗面の付近には看板が無いと思った。この2つの道路が無い時代に春野まで遊びに来る苦労を思うと、愕然としてしまいます。ぶるぶる。昔の人は大変だ。

あと、一つ感心したこと。
さすが天狗の里春野町。
図書館に知切光歳の『圖聚天狗列伝(東日本編)』がありました。
天狗列伝の置いてある図書館、初めて見たぜ。
が、この本、古書でも高いし、かさばるのです。この図書館でも、東西セットではなくて、東日本編しか無かった。
そして、とても残念なことは(内容を読まねば分からないことなのですが)
知切光歳は、静岡の天狗は「西日本の天狗」に分類しているのでした。
だから、春野の秋葉山三尺坊は、この本には載っていない!
(新潟の秋葉山三尺坊は「東日本編」に収録されていますよ)

また、『天狗の研究』もありました。



そこから秋葉神社の下社へ。
この坂、死にそうになりながら登った記憶ばかり思い出すなあ。もちろん、今日の私は極めて健康です。
秋葉神社の下社はこじんまりとしていて、ほとんど見る場所が無いのですが、建物が新しくてピカピカしている上社に対して、こちらは古びていてぼろぼろなのが、却って良い感じのお社であります。「秋葉神社」と「秋葉寺」は現在きっちりと分離していて、神社の方は天狗色を断固として排除しているはずなんですが、よく見るとささやかに天狗を飾っていたりするのは見所です。





この拝殿って何なんでしょうね。(何も無い)
秋葉山の祭神は遙か遠い山頂におわすので、山頂の方角に向かって座って拝む為の施設なんですかね。この段を昇って戸を開けると、向こうに何があるのだろう?(祭日に来ると分かるのかも知れない)



売店にも天狗グッズが豊富なのですけど、この日はもう17時半を過ぎてまして、すでに店仕舞いされていました。



手前のこの砂場って何をする場所なんでしたっけ。火渡り?(まさかね)



それからこれ。これ何だっけ?(大きな雪かき用のスコップをひねったものみたいのが上から吊り下げられている) ・・・叩いて音を出すもの?

神社の手前から気田川原に下りてみます。



下社の前の川原はキャンプ場になっていまして(川遊びも自由に出来ますけど)まるで「海の家」ならぬ「川の家」みたいな感じです。
ここも随分気持ちの良い川原ですけど、気田川は全体的にどこも気持ち良くて、そこら中にキャンプ場がある。野宿なんていちいちお金を払う必要のないところでやれば良いじゃんと思うのですけど、お金を払ってまで泊まる施設のある場所ってのは、すば抜けて景色が良くて、お金を払うのが惜しくも無いくらいのところなんですよね。

秋葉山麓の川原は川天狗の伝説が多く、「夜になると天狗が山から降りてきて魚を捕る」伝説がいくつもあるのです。場合によっては遠州灘にまで飛んでいきます。

「駿遠州へ至りし者の語りけるは、天狗の遊びとて、遠州の山上には夜に入り候へば時々火燃えて遊行なす事あり。雨など降りける時は、川へ下りて水上へ遊行なす。これを土地の者は天狗の川狩に出たるとて、殊の外慎みて戸などをたてける事なる由。如何なる事なるや、御用にて彼地へ至りし者、その外予(=著者・南町奉行根岸鎮衛)が召仕ひし遠州の産など語りしも同じ事なり」(『耳嚢』巻之三、天明・寛政の頃)
「遠州海辺に天狗火と云ふものあり。土人これに逢ふ時は甚だ恐怖叩頭拝伏して、あへてみる事なし。遠方に現ずれども人一度呼ぶ時はたちまち眼前へ飛び来る。この火にあふもの多く病悩すと云ふ」(『譚海』巻二・巻九、天明・寛政の頃)

どちらも文中に秋葉山の文字がありませんが、両方とも秋葉の怪異について述べたものです。
「秋葉山の山頂から下りてくるとしたら、どのあたりが一番便利で一番魚が捕れやすいのかな」ということを川原で見て較べてみたいと思ったのですけど、まあ、素人にそんなこと分かるわけがありませんわね。いちいち見に行くと気田川はどこだって絶好条件なのです。地理的な近さで言ったら実は「日本一天狗面」のある付近が一番近い。川幅も広い。が、天狗だって宗教者の端くれ、信仰心に篤い人たちが千年使った秋葉寺の参道を丁寧に下って川邊に出ようとすれば、領家という集落があるんですけど、その付近の気田川は人の気配はあまり感じられず淵は深い。でも、天狗ってのは人を驚かせてなんぼなのだから、人に見えるように降りるとするとやはりこの秋葉神社下社から人口の多い犬居の里の辺りになるんじゃないか。一方で、魚がよりたくさん獲れそうなのは気田川と天龍川が合流する千草の渡河点付近、もしくは少し上流の東雲名・西雲名の付近、もしくは誰も知らないような淵に好漁場がありそうな気もしますよね。秋葉ダムに沈んだあたりとか、「鮎釣」の集落の大カーブ地点とか、明神峡とか、怪しいところが他にもいっぱいあります。
「漁をする天狗を見ると、目が潰れる」と言います。
あるいは「片目の魚を見付けたら、それは狗賓様の獲物なので決して捕ってはいけない」とも。
天狗が出るのは雨の日の晩なのですよね。実は川原のキャンプ場って凄く危ないんですよ。(台風の日に田んぼを見に行ってはいけない、と同じ意味の戒めなのだろうか)。そうかっ、雨の日にキャンプに来ればいいのか。良いですね、いつでも出動できるように七輪と木炭を準備しておきましょう。(テング火見てみたい)



下社前の川原は、眼前の光明山の山影となってすぐ日が落ちる感じです。キャンプ場は800円。

・・・もう夕方です。
今日はあと春埜山に登って、それから新光明山にも行って、という計画を立てていたのですけど、計画倒れに終わってしまいました。今日はこれでおしまい。
帰りに、西鹿島に寄りました。



天狗研究の第一人者として今をときめく早瀬狗王(秋葉山三尺坊総本部長)氏が1994年に出した画集『天狗百態』の解説に、西鹿島駅の近くに「テングー・ランド国際天狗山の神資料館」というのがあると書いてあるのですけど、それが今どうなっているのかと思って。その本には「薬局の店内にコーナーを作って約500点の民芸品(面、土鈴、絵馬、置物、掛け軸、絵他)を展示している。但し将来的にはしかるべきところに寄贈して本格的な資料館にするつもりである」と書いてあったんですけど、その薬局ってこのお店ですよね。残念ながらこの日はもう店終いされており、また店頭には資料館の説明とか案内とかそういうのは一切見受けられませんでした。残念。でも、浜松には一般人の天狗の研究者の方がいっぱいいるってことです。いつの日かそういう人達とお知り合いになれるよう、私も頑張りましょう。
以前、「笑喜家」や「精進」のあった於呂のあの場所に、新しいラーメン屋が準備中なのを見て帰りました。



2日後(5/15)、再び天龍川へ向かいます。
今日は、光明山笠峰坊/利鋒坊のおわす旧天竜市の光明山へ。



大天狗・光明山笠鋒坊(こうみょうさん りゅうほうぼう)はおそらく、大総帥・秋葉山三尺坊が誇る「74人の眷族」のうちの筆頭なのです。
光明山(539.7m)は秋葉山(885m)のすぐ南にそびえ、江戸後期に大流行した「秋葉詣で」には光明山にのぼり光明山の摩利支天に参拝してから秋葉山にむかうのが一般的でした。
開基は秋葉山と同じ行基菩薩。伝説では摩利支天の神託を受けた行基が光り輝く山に入って摩利支天と虚空蔵尊の石像を彫って寺を建てた後、1年後にさらに北へ歩いて秋葉山を発見したと伝わっています。
元亀3年の犬居城合戦では秋葉山に武田信玄が、光明山に徳川家康が陣し、山頂から盛んに矢を打ち合ったと伝わりますが、伝説上のその陣はおよそ6km離れているので「東海一の弓取り」と呼ばれたさすがの家康でも実際は届くか届かないかのところだったと思います。ただ、徳川家がこの山を大事にしたのは確かなようで、秀忠と家光が寄進して建てられた大伽藍は諸国に有名だったと言います。が、明治9年と昭和6年に二度にわたって大火災が起き、すべて焼失したので昭和14年に山東地区の現在の位置へ移転再建しました。火坊天狗の山が何度も大火事に遭うのは遠州地方の伝統的な風習です。

自分の中でひとつ解せなくなっていることがありまして、光明山の天狗の名前は「利鋒坊(りほうぼう)」とも「笠鋒坊(りゅうほうぼう)」ともいうんですが、前に「魅惑的な遠州地方の天狗」 の地図を作っていたとき、5年ぐらい前の私はこの二人をハッキリと「別人だ」と断言したんですよね。それにはそう結論づけるに足る何か明晰な理由があったはずなのですが、今の私にはそれが何だったのかいまいち思い出せない。
「利鋒坊」の説明があるのは知切光歳の『圖聚天狗列伝』。彼はこの名を宝暦の頃の書『天狗名義考』(名古屋の人・諦忍が書いた)から引用しました。
ところが本に「利鋒坊」という名前を書くのは知切師のみで、浜松在住の人は大概この天狗のことを「笠峰坊」と書いている。おそらくこれは、現地在住の知識人・兵藤庄右衛門の書いた『遠江古蹟圖繪』を資料にしているからじゃないかと思うんです。
知切師は『天狗名義考』の利鋒坊について、「名前以外には何も記していない」と書いてあるのに対して、僅か50年後の『圖繪』には庄右衛門による詳細な笠峰坊の解説があるのですから、これを対比して「利鋒坊と笠峰坊は別人だ」と私は思ったのかな。「利鋒」は「鋭く尖った槍のようなもの」という名前なのに対して、「笠峰」は「笠のような山の頂上付近の形」という意ですしね。(光明山の標高は低く、笠のような見た目です)
現在でも、利鋒坊と笠峰坊の違い(あるいは同定)について書いてある本はありません。

でも、改めて『遠江古蹟圖繪』を丁寧に読んでみますと、兵藤庄右衛門のお寺の記述は詳細なものの、その守護神である天狗については「権現祭は9月28日、湯立、ならびに神楽有り。27日夜七十五膳あり。秋葉同様なり」とあるのみで、全然記述は詳しく無かったのでした。私は、「知切師は遠江古蹟圖繪を読んだことが無い」と思っていましたけど、実は読んだ上で「名前以外には分かることが無い」と断言していたのかも知れない。
私の誤解の原因は、現在光明寺が説明している笠鋒坊の説明がとても詳細だったからだと思います。昭和15年に光明山31世甘蔗明道師が記した『光明寺年表』というのがあるのですが(お寺の受付で買える。500円ぐらいだっけ。でもここは平日は人がいないので気をつけて)、その冒頭に「養老元年、僧行基勅詔を蒙りて当山を開創し、自ら本尊三満虚空蔵大菩薩ならびに摩利支真天および十一面観世音菩薩の尊像を刻作す。僧最傳なる者来たり随喜す。寺伝に云わく、光明山は天地開闢の始めより神明仏陀の守護し玉う霊場にして、昼は樹上に瑞気あり、夜は巖中より光明を現す。行基菩薩この奇瑞を見て歓喜に堪えず、壇塲に結界して虚空蔵菩薩の求聞持法を修しければ宝剣飛来して瑞応を空中に現す。また定中に観念を凝し、笠鋒坊権現の7千5百の眷属と俱に明星谷の森林に遊現し玉うて拝し、更に鏡山の巖下に坐して摩利支天の応現に接し神託を蒙る等の霊験多し」、さらに「天平5年、最傳数多の眷属を卒し来り住僧霊澄に告げて曰く、我常にこの山に住し長く群生を利済せん、と言い了って白雲に隠る。後に崇敬して、光明笠鋒坊と称し、世に大天狗と呼ぶ。これを以て皇国天狗の本地と云い伝う」、「大同元年、秋葉山の請いに応じ、当山より大権現の眷属75人を派遣し、約するに、月見の宴をなして帰らしむ云々と。而るに爾来秋葉にては月見をなさず、献詠者あるも月見の文字を憚ると」、「嘉永5年、山門の童沙弥、絶倒してすぐに起き、住持碓山に告げて曰く、われは是れ山護笠鋒坊大権現なり。更に摩迦羅神王(大国天)の像を造り国民の福祉鎮安を祈請せよと。これを幕府に告げて京師の彫刻師丹羽七郎右衛門に嘱して大国天を謹刻せしむ」などと書いてあるのを読んでいたから、勘違いしちゃったんですかね。知切師はさすがにこの『年表』は入手してなかったと思います。(おそらく知切師も平日訪れたんじゃないでしょうか。お札売り場に人が居なくても大丈夫、気を長くブザーを押し続ければ、人が出てきてくださいますよ)

注意するべきは、寺の正式な縁起では「笠峰坊」ではなく「笠鋒坊」となっていることです。やはり尖った宝剣が名の由来なんですね。「笠」の字はどこから来たんでしょうね。

光明護国禅寺は、二俣の市街地の北のはずれにあります。
二俣という地名は、天龍川と二俣川が合流する地点の絶壁にお城(二俣城)があったから「川がふたつに分かれるところ」という意味で二俣と呼ばれるのですが、今では地形が変わり、川は全く二俣じゃなくなっているので、私的にはこの光明寺のある地点が秋葉山へ行くに当たって「佐久間側へ行くか(国道152号線)」「春野側へ行くか(国道362号線)」の分岐点となっているので「だから二俣なんだ」と思うことにしています。

「光明寺を名乗るからには新しいお寺も光明山のどこかに作るべきだったのに」と浅く思いますけど、改めて地形図を眺めますと、新しい光明寺の建てられた名も無いこの山も、実は光明山の一部だったりしたのでしょうかね。(大谷から船明にかけて掘削された?)



新光明寺入り口。新しいお寺なのに、すでに良い感じに苔むしています。
石段の上り口は「女厄除け坂」という名前が付いていますが、30段ほど登ると「男厄除け坂」と名前が変わる。
また朽ち果てた石仏もいっぱいある石仏寺でもあります。
この場所については寺伝(光明寺年表)にこうあります。「当山有縁の勝地・元光明。元光明は行基菩薩光明山開創以前に当所に草庵を結び、光明山と称し居ること暫くす。天正11年、二俣城主大久保七郎右衛門厚く帰依し、山林田地を喜捨し、行基初休の地に離刹を創立し、元光明山と称す。降って寛文10年宝林寺と改称し当山の門葉となし明治6年廃寺となる。故に(昭和14年の再建は)移転というよりは寧ろ帰元というべきなり」



正面にあるこの綺麗な建物が本殿だと思うでしょう?
でもこれは実は「大国殿」。金ピカの巨大大黒が中にいます。(平日は鍵か掛かっていて入れません)
本殿はどれかというと、背後の坂の上にある少し小さめの建物。



「三満殿」といって中に三満虚空蔵菩薩がおわします。(見れない)。
「三満」とは「智」「福」「威信」を満たすという意味ですって。


下の広場に戻って大黒殿の左後ろの味のある黒い建物。これが天狗の御真殿で、「光明殿」という額がかかっています。ただ覗いても「摩利支真天」という大提灯がぶらさがっているのみで、どこが天狗なのかさっぱり分かんない。唯一、紋が天狗のうちわでした。(モミジではない)





そして、絶対に行かねばならないのが背後の山の上の方にある「奥ノ院」。
これが、大したことない高さに見えるのに、登ってみたらめちゃくちゃしんどい。健康バリバリの今の私ですらしんどい。



なんだろう、とても低い山なんですよ。山頂でもないのに。
どうしてこんなに疲れるんだろう。こんなところにこんな建物を作っちゃうんだから、本当に信仰心ってすごいです。この建物には2階部分があるんですかね。(中から見上げると無いように見える)



「ここにこそ天狗を祀ればいいのに」と思うんですが、この奥之院の守護神は「三宝摩利支眞天」です。「摩利支天」ではなくて「摩利支眞天」。合戦の守護神。犬居城攻防戦の勝利を記念して家康から与えられた「家康の兜の中の御持仏」(どの兜だろう)の摩利支天の小像を安置していたのだそうです。(ただしその像は「以前盗賊が入って盗まれてしまったと住職が語った」と、遠江古蹟圖繪に書かれています。『光明山年表』にはその盗難事件についての記述がないのですが、天保14年に「3月5日、将軍家慶公日光御参拝の時、当山奥ノ院に奉祀せる兜入摩利支天を御本丸に迎え、御留守中住持良運に嘱し、武運長久の祈願を修せしめ玉う。5月、住持良運、大島へ流罪せらる。此のため一山の衰頽し塔頭寺院皆廃す」という変な記述があります。天保14年というのは兵藤庄右衛門が『圖繪』を書いたよりも40年近くも後のことです。あるいは、この時「兜入摩利支天」が紛失&偽物であることが発覚して、住職が伊豆大島へ流されたのでしょうか?)

堂の前には「イノシシ狛犬」が2つ並んでます。



眼下に見下ろす二俣の町。



ぶひぶひ。

で、前回来たとき、ここで私は満足して帰っちゃったんです。
でも、帰ってはいけなかったのでした。ここからあと少しだけさらに登ったところに、笠鋒坊様の石像がおわすというのです。5年前の私は知らなかったぜ。



いた! 天狗だ!



ちゃんと鼻を強調してつくられているのが分かります。
私には見付けられなかったのですが、神谷昌志氏の御本によりますと、側面に「二十世碓山代」と彫られているとのこと。嘉永5年に小僧が化けた天狗に出合って巨大大黒を作り上げた御住職ですね。その頃はまだお寺は光明山の山中にあったはず。碓山和尚はこの石像を一体どこに立てたのでしょう。旧・奥の院?





この場所には笠鋒坊以外に、お不動様となんやら分からぬ石祠もあって、3つがむかいあって立てられています。このお不動様も良い造りですね。・・・ていうか摩利支天?(猪がいないと分からないです)。さらに上まで登って行けば、山頂に展望台があるとのことですが、、、、 今日の私はもう疲れ果てました。

(・・・つづく)





境内の中心に最近作られたらしい輪蔵的なマニ車的な石柱があり、ちゃんと「正一位光明笠鋒坊大権現」の名前が刻まれておりました。ありがたやありがたや。
「正一位」の神階をくださったのは桜町天皇(元文3年、1738年)だそうです。(『光明山年表』)

揺るがす者の寺院(続々)。

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(新光明寺の黄金の大黒真天。昭和6年の光明山の大火災のあと、昭和12年に作り直されたもの)

5/15に行った光明山の天狗探しのつづき。
光明山に登ります(車で)。二俣川沿いに国道362号線を走っていますと、至る所に「光明山遺跡はこちら」の案内板があります。いくら走って行っても看板があるので、「光明山遺跡って何ヶ所もあるの?」と思ってしまうぐらいです。実は、光明山はとても面積の広い山で、本当だったら幾つもの名前に分けても良いぐらいの低い領域が、全部光明山の名前で呼ばれているのですね。で、上り口の案内がたくさんあるので「登山ルートがたくさんあるのか」と思ったら、山東・只来付近の案内板は皆ただ一つの登山口(麓ルート)に案内されている。



光明山の登山については、サイト「よみがえれ秋葉古道」がとても親切です。こういうの非常にありがたいですね。それによりますと光明山の登山道は「麓橋古道」「只来古道」「横川古道」「お目たで池古道」「長沢古道」「秀珍林道経由松間古道」「松間古道」「佐久古道」の8つがあるそうですが、難路が多く、一般的に昔から使われていたのは(丁石があるのは)メインが「横川古道」で従が「麓橋古道」だったそうです。でも、横川古道は車では入れず、今では車で行けるのは「麓橋古道」と「長沢古道」。昔の人の苦を思うと便利な世の中になったものです。


麓橋古道入口付近。ここからは光明山の山頂は見えません。

南北に長い光明山の尾根伝いに南から走る「麓橋古道」は非常に距離が長い。13時半に山道に入り、快調に飛ばして「光明山遺跡」に到着したのは13時50分でした。先程行った新・光明山にもお寺の前に「光明山古墳」があったのでとても紛らわしいんですけど、光明山古墳は古墳時代の遺跡、大酋長のものだったと思われるとても大きな前方後円墳。対して旧・光明山にある「光明山遺跡」とは「旧・光明寺」そのもののことです。昭和6年まで現役のお寺だったところです。



見えないと思いますけど「古井戸」「箱井戸」「五人塚」「方神塚」「奥ノ院跡」「大権現」「鏡石」などの文字がある。



この日は雨が降ったり止んだりで、山頂まで来ると深い霧が立ちこめていました。天狗が出そう。



光明山の一番の見所は、まるで巨大城砦かとみまごうばかりのこの石垣。
そもそも「光明山遺跡」というのは、お寺であり、古城でもあるんですよね。もともとお寺があったのを、今川方の朝比奈時茂がお城にしてしまったのですが、やがて徳川が取り、その後武田が獲り、天正3年6月までは武田氏の城でした。徳川家康は気田川を挟んで犬居城に対しているこの城に目を付けて、本陣としたと伝えられています。この戰さでは家康が負け戦だったことが多かったので伽藍のほとんどが焼失してしまったのですが、戦後、その城構えを元にお寺が再建されて、以前より立派なお寺へと生まれ変わった。ここに来た人は大体言います。「お城みたい」と。
が、戦国時代の遠江にこんなりっぱな石垣があったわけはないので、おそらく江戸後期〜明治ぐらいの造営になると思います。
石垣構造で一番立派な部分が、正面の仁王門から本堂に上がる付近のところにある石垣ですよ。(建築物は現存せず)。なお、兵藤庄右衛門は仁王堂の絵を描いておりません。当時は無かったのか?



この石垣も長い歳月の間草に覆われ、ラピュタみたいになっています。杉に覆われたラピュタ遺跡。
これ、見た目は階段なんですけど、すり減っているのか馴れてしまったのか、ほぼ滑り台状になっており雨の日や白い霧の日は危険。





本堂付近。何も無い。





敷地の奥の方に、石垣で盛られた一段高い場所があります。
案内板には「神前」と書かれていますけど、『遠江古蹟圖繪』には「光明山大権現」と書かれてある。つまり天狗の居場所(御真殿)ですね。本尊よりも高い位置。護山というのはそういうものです。
その天狗台にも今は何もありませんけど、すぐ近くに小さな社が。



敷地内にある建造物はこれと下の望遠鏡と江戸や明治の年号を書いた折れた石灯籠だけ。何の社かどこにも書いてないんですけど、天狗様でしょうか。中を覗くとさらに小さな祠とふたつの木像(天狗ではない)があります。



ここからの景色は凄く良いんです。望遠鏡が設置してあって、100円入れる式かと思ったらよく見たら無料式だった。なんて太っ腹なんだ。でも今日の天気だと覗いても白い霧しか見えません。家康にとっても、実は見えて欲しい方角は浜松城の方ではなく、秋葉山の方角だったと思います。





不思議な形の常夜燈。



この案内板、6年前に来たときはちゃんと設置台に掛かって文字も読めた記憶があるのですけど、現在は朽ちて下に落ちてしまっています。
よく見ると、絵の部分にただごとならぬ記載があるぞ。つまり、『圖繪』が「光明山大権現」とした箇所が「本殿」とされており、本堂(三満殿)のあるべき場所が「観音堂」と書かれているのです。そういえば誰も注釈してくれてないですけど、行基菩薩がこの寺を開基したときに彫った三体の仏像のうち、十一面観音の像はどこにいってしまったんだ? 仁王門(楼門)ももう一つの案内板の絵と建っている位置が違う。



下の説明書きも、解読してみますね。
「森林のおいたち学習林
光明山は西暦717年、高僧行基が開創した明鏡山光明寺により発展し、寺院周遊には数百年を経過した見事な森林が広がっておりましたが、昭和6年に発生した火災により、寺院及び森林は灰と化してしまいました。その後寺院は山東へ移転再興致しましたが、石垣を残すのみとなった寺院跡周辺の森林は、地域の人達により分収林(一種の借地造林)が設定されることとなり、そこに杉・檜などの植栽が行われる様になりました。
当時は林道も整備されていないため、下刈り・枝打・間伐などの保育作業は大変でしたが、地域の人達は荒れた山道を徒歩で幾度となく通い、熱心に作業を行い、現在の様な立派な森林が蘇り、古えの光明山美林が再現されたのです。
その後、林道の整備が進められ、また平成三〜四年度には、生活環境保全林事業が実施され、森林リクレーションを目的とした遠方からの来訪者で賑わいをみせております」

なんと! 寺院の案内板かと見せかけて、周囲の樹木の繁茂具合を観察しよう、という趣旨の案内版となっているわけですね。山火事があっても人が住まなくなってたった80年で森はこうなるよと。この木の案内板も、あと数年で字が全く読めなくなると思います。20年近く経った物だと思いますけど、残念なことだ。



ありがたい休憩舎があります。こんな天気の日でも入れるようになっており、とても助かる。藤の花が綺麗ですが蜂がたくさんいます。中に、自由に持って行ける山歩きの地図が用意してあり、これがなかったら私はとても困っていたでしょう。(持っていったタブレットは使えなかった)。簡素な小屋ですが、山の写真や山の紹介などもあり、明治41年にブラジルに渡った“移民の父”平野運平(掛川出身)の「平野植民地」(サンパウロ州)に、「平安山光明寺」の額が掛かっていたことを知りました。

さて、そこから奥の院へ行きます。
以前来たときは、奥の院に行かずに帰ってしまったのです。あの日も今日のような天気だったと思う。



休憩舎のところに貼ってあった地図の一部拡大。(この地図はいただけます)
この地図には書いてないんですけど、奥の院のすぐ近くには「鏡石」というものもあるそうです。この鏡石が、この山が「光明山」と呼ばれている名の由来(だと思われる)なのです。これが一番見てみたい。(天狗と関係ないですけど)
地図中の一番太い線が林道(車で通れる道)。これ見ると、奥の院はとても近いんですよね。歩いて行っても容易でしょうが、わざわざ車で近づいていっても良い感じの表記ですので、そうすることにしました。地図を見ながら車を運転し、それっぽい箇所を発見し、藪の中に入り込んで歩き回って探索しました。うーーん、どれだ? 建物等はそこに無いことは知っているので、奥の院っぽいところ、いわくありげな岩っぽいのを捜してみるのですけど、素人にはどうもすべての場所が全部それっぽく見えるのです。わたし眼的に一番神秘を放っていたこの岩を「鏡岩」(磨けば光りそうだよね)と認定し(付近に他に表面が平らな石は無い)、また良さそうな平地や水たまりもあるので「ここが奥の院だ」と決めつけて、帰途に着きました。



ところが車をしばらく走らせると、少し行った所に「この先奥の院」の看板が。・・・なんだ遠いやん。
しかたなく車を停めて、その坂道を登ることにしました。



延々とその坂を登っていきますと、着きました、光明山山頂に。
ってちょっと待ってっ、私は奥之院に行きたいのにどうして山頂に着いてしまっているのっ? しまったこの道はトラップだったか。ここから降りる道が下に続いてましたが、降りるって事は車に戻るには再び登らねばならぬってことなので、私はそこから一旦車に戻ることにしました。うひー。おそらく奥の院はここから凄く近いと思うんですけど。皆さん、奥之院には罠がたくさんありますからね、気をつけて!

車に戻ってもっと奥之院に近い便利な入口を見付けるために車を走らせますと、見つかったのがコチラ。



なんだよー、道じゃないじゃん。さっきからの歩きで私の靴とズボンは水でぐっしょりです。と思ったんですけど、草が繁茂しているのは入口のところだけで、あとは快適な歩道で、すぐに奥之院に到着しました。皆さん、入口のこの見た目はただのトラップですから気をつけて。





ここで撮った写真のほとんどがピントが合ってません。とても疲れてたんだと思います。
一番肝心な、「奥の院が建っていた場所の信じられないくらいの狭さ」が一目で分かるような俯瞰写真を私は一枚も撮っていませんでした。なんてこったい。
すごく大きな岩があり(これが「鏡岩」なんでしょうね。先程私が認定した「鏡のようだと言えなくもないと主張しようとした表面の岩」とは桁違いの大きさだ)、その影に隠すようにしてある小さな平地が奥の院。
ここに来る前に見てきた新・光明寺の奥の院の摩利支真天堂は、もともとここに建っていたんです。
昭和6年の大火事では伽藍は燃え尽きましたが、少し離れた位置にあった奥の院は無事でした。それをそのまま、山東の新・光明寺の上の方に持っていって移したんですって。
こんな暗くてジメジメしたところにあんな立派な建物があったなんて信じられないね。
その当時の写真が「出かけよう!北遠へ」さんにあります。すごいね。

ついでにもう一つ、旧光明寺にあった伽藍を考察するに当たって避けられない資料に、14代将軍家茂の頃に描かれた五雲亭貞秀という人の版画があるんですけど、これも「出かけよう!北遠へ」さんにとても素敵なカラーの写真があります。(奥の院ではなくてさっき行った光明寺遺跡の方の図解です)
が、これを見るとここには60年前に兵藤庄右衛門が描いた天狗台が無く、この広々とした敷地に奥の院にあるはずの「兜入摩利支天」の堂が建っていたことになるので頭を抱えてしまうのです。もちろんこんな所に建物が建っていたなら、昭和6年の大火事で焼け伸びているわけがありません。先に述べたように(←述べてないが)「家康の兜入」摩利支天は盗難に遭って70年が経過しています。本堂も少し手前にありすぎる気がします。

ここに来て分かったこと。
結局の所、「奥の院」と「家康隠れ岩と「大権現」と「鏡岩」は、ひとつのものを指していたのでした。
すごい立派な岩なのですけど、奥の院から見て、この岩は裏側なのです。
「この岩を表側から見なければいけない」と思いました。裏から見てゴツゴツな大岩は表から見たら鏡のようなのかも知れない。
裏から見ても、この岩には不思議な穴がいくつか開いています。



私にはムリでも30代のすごく痩せていた頃の家康ならこの穴に隠れられたのかも知れませんが、表側にはもっと隠れやすそうな穴があるのかも知れない。

少しだけ危険な道を反対側まで降りてみます。





すごい。すごすぎて足場が悪すぎてこの巨大な岩の全体図を写真に撮れない。



赤豆坂合戦で「家康の隠れた岩の穴」とはコレでした。
イヤン、30代の家康様って私が想像していたより痩せていてペラペラだったのね。
私だったらこれを見て「柳生天狗の一刀両断岩」と名付けそうです。

さて、問題となるのは『遠江古蹟圖繪』の記述です。
「光明山となづくる事、この山の山頂に鏡石有りて、朝日出づる時は光明さし光輝き、南海へ光差して漁猟なし。ゆゑに漁人の難儀なりとて、この石を深く埋めて巌窟へ隠すと云ふ。今に奥の院の後の山に鏡石を埋めたる所有りて、後世に残る。また、西の方に天狗塚有り。人行くこと叶わず」
この巨石そのものは「鏡石」じゃないのか? いやいや、この岩のたたずまいから見て、この巨石こそが霊岩のはず。(ごつごつしていて全然鏡面じゃないですけど、クレンザーでごしごし磨けば光り輝くのではないか)。あまりにでかすぎたので行基は「深く埋め」ようとして挫折したんだと思う。
大事なのは、「山頂の少し下に、遠州灘から見えるほどの光り輝く岩があった」ということです。(今は高い杉が生い茂ってここから海を見ることはできませんが)。アルプス山脈の「光岳」と同じ謂われを持っているんですね。そして、「光岳」にも天狗伝承があります。文中にある「西にある天狗塚」とは明星谷の森のどこかだと思います。行基が山頂で祈ったとき7千5百人の天狗が涌いて出た場所。(記されてませんが、行基に寺の今後のことを任されながらいつのまにか逐電し、15年後に天狗となって再出現した僧最伝もその一人だったと思います)

この日はこれで満足して、家に帰ることにしました。
林道を下ると道の駅「いっぷく処横川」のすぐ近くに出ます。
一応覗いていきますと、天狗ソースと一緒に先日買えなかった「天狗煎餅」が売られていました。
やったっ。



喜び勇んで、「天狗山椒煎餅」(155円・税込)と「秋葉山名物火坊巻き」(432円・税込)、「秋葉山名物げんこつ生いもこんにゃく(遠州の小京都森のこんにゃく)」(150円・税込)と、それから「秋葉山天狗サンショウ」(210円・税込)を購入しました。



サンショウは瓶入りの物(280円)と粉のものと粒のものがあったので(山椒は粒で採れるということを知らなかった私は ←葉を粉にして食べるのだと思っていた。家の庭に生えていた木の葉の臭いが凄かったので)、面白そうだから粒の物を買おうとしたところ、念のためにお店のお姉様にこの山椒の粒の使い方を聞いたところ、料理をしない私にはとてもハードルの高い説明をされた。やべー、思わず私には途方に暮れる用途の物を買ってしまうところだったぜ。粉にしてある山椒だったらこんな私でもいろいろ使い途がありますからね。鰻にかけるとか煎餅にまぶすとか。(どなたか山椒の粉の活用方法を教えてください ←賞味期限が短い)









さっそく家に帰って食してみました。



む、醤油があまじょっぱいのに全体的には甘くない。またまた山椒の風味は強くは感じない。(私はいい加減嗅覚がおかしくなっているんじゃないか)。お酒に良く合う煎餅です。(こればっか)。おいしい。また買ってきましょう。

火坊巻は秋葉の門前でよく売ってあるやつですよね。ひっくり返してみてみたら、製造メーカーが春野の会社ではなくて、浜北に隣接する笠井町のメーカーだったので一瞬がっかりしたのですけど、念の為に買ってきました。そういえば先日寄ったいきいき天狗村にも、前に挙げた3店舗以外の「大天狗饅頭」(280円)が売られていたんですけど、これもまた笠井のこのメーカーの物だったので買うのを止めてしまったのでした。でもこれは、笠井に天狗メーカーがあるってこと? ・・・調べてみたら、違いました。まぁいいや。



火坊巻き、中に白いクリームが入っていると思うでしょう? これは硬くて白い飴なのです。天狗の鼻をイメージしているのですね。
こんにゃくはまだ食べていません。賞味期限長いし。


日を改め(5/18)、再び春野町へ向かいました。



気田川は今日も美しい。



今日は秋葉山の奥の院の竜頭山の八尺坊を見に行くつもりだったんですけど、その前に、反対方向なんですが、熊切川をさかのぼってその上流にある村々を見に行くことにしました。
北遠の天野遠景の御子孫の歴史はなかなか変で、そのうち纏めますからね。

限りあれば八重の山路をへだつとも心は空に通ふとをしれ。

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油壺水族館のニシキアナゴ。(2013.7.4)
ニシキアナゴを飾っている水族館はたくさんあるんですけど、私がこれまで見た中ではここのが一番長く伸びたと思う。
ここに行ったのもう一年も前なんだなあ。また旅行に行きたいなあ。



思い立って失業してはや6ヶ月半。
のんべんだらりと無職生活をしてきましたけど、「せっかくだからヒマを活かしてたくさん旅行に行こう」と思ってた当初の予定とは裏腹に、そもそも先立つものがあまり無くて、思うようには行動ができず、なんと伊豆にも一度も行かなかった。
本当はもっと早く再就職するつもりだったので、「限られた時間の間にあるお金は全部使ってしまおう」と思っていたのですが、少し計算違いが生じてしまったのです。というのは、私は「失業保険というのは失業した日から3ヶ月後に貰える」と思っていたのですが、2月近くになっていそいそとハローワークに申請に行くと(失業したのは12月末日)、「では最初の支給日は5月20日ね」と言われたのです。「申請した日」から3ヶ月後だったのね。私は貧乏性なので、「一回ぐらいは貰えるもんは貰っとかないと」と思う性格で、だから3月に一回だけ支給を受けて、4月ぐらいにスピード再就職をして、ゴールデンウィークにはバリバリ働いている心づもりだったのです。それが私の思い違いで手持ちの金で2ヶ月も長く延命をしなくてはならなくなった。

というわけで、私の計画は大いに崩れ、1月に一回近江に遊びに行ったきり、その後は近くの秋葉山ぐらいにしか出かけられなくなりました。
伊豆に・・・ 伊豆に遊びに行って再就職先は伊豆で見付けるのもいいと思ってたんですけど・・・(そこに行く貯金がもう無かった)

そうして奥浜名湖に逼塞する日々を送って半年、とうとうお金が尽きてしまったので(念願の失業保険は1.5回分貰った)、忸怩ながら再就職をしました。
(就職難だと言われる昨今ですが、田舎は労働者不足が著しいので、真面目に求職すればすぐ決まる)
なんと、半年前に逃げ出してきた舘山寺にある、別の喫茶店(鰻も売ってる店)が新しい職場と決まってしまいました。ううう〜、伊豆に帰るつもりだったのに〜。まぁいいか、舘山寺だって大好きな場所ですしね。伊豆はまた次に失業したらにしましょう。(引っ越しをするのにお金が一番掛かるので、貯蓄をしないと)

ま、おかげで本はたくさん読めたんです。
慮外に患った痛風のお蔭で、ビールを飲む習慣が無くなり、健康を崩すことも無かった。(焼酎はたくさん飲みますが、私は焼酎って全然酔わないんですよね。私は焼酎をペプシコーラで割るんです。毎日1.5?のコーラを2本飲みますが(本当だよ)身体は異常なし。子供の頃「コーラは歯と骨が溶ける」と言われて育った世代なんですが、全く嘘だったと分かりました。歯は元々弱いですけど)

思ったよりこのブログもたくさん書けたのも満足です。(最近また書かなくなりましたけど、別のことを別の場所でやってます)
昨年は不慮の事故(水質悪化)で2/3の稚魚を死なせてしまったメダカは、今年はつきっきりで世話をしているせいか50匹の大所帯(もともとは8匹)に。そんなに増やしてどうする。
戦車ゲームは現在チャーチルMk.?の中盤後半でして、ぜひとも暇のあるうちにスーパーチャーチル(エドワード黒太子)まで行きたいと思ってたんですけど、わたしはどうも戦略性のあることが苦手で、どうしても次のステップに行ける自信が無いな。
新しい就職先の決め手は、「一日勤務時間7.5時間、残業なし、宿直あり」の条件でした。
このご時世に残業の無いサービス業なんてあるのが信じられませんけど、そう謳ってあったんですもん。前の職場は残業し放題だったので、当然給料は前よりも減ることになりますが、前の仕事はメチャクチャで逃げ出してきた身としては、もはや金なんていらない、本を読む時間が欲しい。
というか、残業なしなので給料はかなり減りますけど、基本給は前の職場よりも多くしてくれてるよ。(伊達に歳を取ってますからね)
というわけで、この日記を今後も私が書き続けるられるかどうかで、どうか浅子さん、私の近況を測って欲しいと思います。前は平日に日記を書く気力なんて全く無かったですからね。

とはいえ、やはりこの業種(24時間営業喫茶店)で「残業なし」なんて事は基本的にあり得ないと思う。
絶対に「ハロワ詐欺」だと思う。
「現実は最初の目論見とどう違うのか」。そういうのを観察するのも私は大好きなので、頑張って仕事を楽しみたいと思います。
旅行だって、ちゃんと社会に貢献している身で行った方が楽しいさ。


自分へのお祝い(笑)に、カーステレオを新調しました。
十年来ずっと「MD機器」を愛用してまして、車の中に500枚ぐらいのディスクのライブラリを用意してあったのですけど、最近になってとうとうもうどのお店に行っても「MDステレオ」は売ってなくなっちゃったんですね。(2年前は売ってた)。壊れたのはMDだけなのでCDは聴けるのですけど、CDって収録時間が短いし、運転中にディスク交換することの面倒臭さったら。
MDが便利でコンパクトで収録時間も丁度良くて良かった〜。なんでこんな良い物が廃れるのだ。
でも泣いていても仕方が無いので、泣きながら「USBステレオ」を頼んで付けて貰いました。1万7千円ぐらいの安いやつです。

「また最初から録音作業のやりなおしか」とげんなりしながら(私の蒐集したCDはほとんど浜北の実家に置いてきてある)、USBメモリへの編集作業を始めたんですけど、ななな、意外にいいじゃんUSB(何を今さら)。
たまたま16GBのメモリが何本かあったのでシューベルトとモーツァルトのピアノ曲集を何枚か入れてみたら、なんと16GBのメモリにCDを23枚も入れることができた(だから何を今さら)。何より、私は貧乏性なので、CDからMDに移し替える時、「少しだけ劣化する」と聞いてイヤな気持ちになっていたのですけど、今度はそのままWAVファイルで車で聞ける。WMA形式で圧縮すれば16GBでCD何百枚も入るって言うんですけど、いやいや私は23枚で十分です。
つまり2本あればヘンデルの歌劇の存分に堪能できるものが作れるってわけですな。
ただ、これまでみたいに「今度はあの曲を聴こう」と考えながらするドライブができなくなるわけですが。
1本の小さなメモリの中に20枚も曲が入っていると、どれにどれが入っているのか管理することはできないだろう。
おそらく膨大な量の音楽をランダム再生することになるのだろう。
(1GBのメモリを何本も作れば解決なのですけど、私は貧乏性なのでそんなことできない)


また、パソコンで作成するので、曲のタイトルを入れるのが容易ってのもいいですね。前のMDの文字入れの面倒くささったら。(おかげでほとんどタイトルを入れることなんて無かった)。今度のプレーヤーは安物なんですけど、タイトルを日本語表示できる物を選んだんですよ。
という「今さーら何を言ってるの」というお話でした。
気賀から舘山寺まで片道15分の通勤で、この大容量をどうやって活かすのか今は見当もつきませんけど、さっき浜北へ帰ってCDを200枚ほど(総数は2千枚ぐらいだと思う)持ってきたので、ずっと聴きまくって音楽への憧れが増大しています。クラシックっていいですよね。

車のために。

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油壺水族館にいたフグ。(2013.7.4撮影)


今日が初出勤日(説明日)です。
そのためにがんばって車で聴く用の音楽コレクションを2本作りました。
なんと、2本作るだけで一日かかった。
というか、時間が掛かっているのは「タイトル入れ作業」で、音楽のコピーはCD1枚当たり3分もかかんないんですけど。

最初のコレクションはこれです。

「シューベルトとモーツァルトのピアノソナタ集」
収録した23枚のCDの内訳は、
 (1)〜(14).シューベルト ピアノソナタ集
    (ピアノ;ミシェル・ダルベルト【デンオン】)

 (15)〜(19).モーツァルト ピアノソナタ集
    (ピアノ;クリスティアン・ツァハリアス【EMI】)

これだけだと余白ができてしまったので

 (20).モーツァルト レクイエム
    (ホグウッド指揮、古楽アカデミー【オワゾリール】)
 (21).モーツァルト 大ミサハ短調
    (フリッチャイ指揮、ベルリン放送交響楽団【グラモフォン】)
 (22).モーツァルト 2台と4手のためのピアノ作品集
    (アルゲリッチ&ラビノヴィチ【テルデック】)
 (23).大バッハ パルティータ第2番&イギリス組曲第2番
    (アルゲリッチ【グラモフォン】)


まずはこれを作って、引佐の尉ヶ峰にドライブに行ったんです。
ずっとランダム再生にして聴いていたんですが、どうも面白くない。
それは、ずっと似たような曲ばかり続くからですね。
1時間や2時間なら我慢はできましょうけど、これが20時間以上つづくとなるとゾッとする。


というわけで、2本目の16GBはこうしてみました。

タイトル「秋の日のブルーベリー森」
 (1).プロコフィエフ オラトリオ《イワン雷帝》
       (ゲルギエフ指揮、ロッテルダム・フィル【フィリップス】)
 (2).ヴォーン=ウィリアムズ&エルガー管弦楽集
     トマス・タリスの幻想曲、グリーンスリーブスの幻想曲
     エニグマ変奏曲、威風堂々第1番
       (バルビローリ指揮、フィルハーモニア管他【セラフィム】)
 (3)(4).チャイコフスキー 交響曲第4番、5番、6番
       (ムラヴィンスキー、レニングラード管【グラモフォン】)
 (5)(6).ブラームス ピアノ三重奏曲全集
     プラームス1〜3番&シューベルト2番
       (ルービンシュタイン&シェリング&フルニエ【RCA】)
 (7).フォリア集
       (サヴァール&ハイペリオン???【アリアフォックス】)
 (8).ベートーヴェン 《英雄》、第1番
     (ブリュッヘン指揮、18世紀オーケストラ【フィリップス】)
 (9).モーツァルト交響曲全集19
     交響曲第54番、37番、40番(第二稿)
     (ホグウッド指揮、古楽アカデミー【オワゾリール】)
 (10).シベリウス交響曲全集4
     交響曲第5番、ペレアスとメリザンドから4曲、交響曲第7番
       (バルビローリ指揮、ハレ響【EMI】)
 (11).ショスタコーヴィチ ピアノ五重奏曲、ピアノ三重奏曲
       (ピアノ;レオンスカヤ、ボロディン四重奏団【テルデック】)
 (12)(13).ヘンデル オラトリオ《復活》
       (ミンコフスキ指揮、レ・ミュジシャン・ドゥ・ルーブル【アルヒーフ】)
 (14).ビゼー交響曲第1番、ウェーバー交響曲第1番
     (スウィトナー指揮、ドレスデン州立管【デンオン】)
 (15).ドヴォルザーク《アメリカ》、シューベルト《死と乙女》
       (スメタナ四重奏団【デンオン】)
 (16)〜(18).メンデルスゾーン 弦楽四重奏曲全集
       (メロス四重奏団【グラモフォン】)
 (19).ロッシーニ スターバトマーテル
       (フリッチャイ指揮、RIAS響【グラモフォン】)
 (20).シューマン ピアノソナタ第1番、幻想曲
       (ピアノ;ポリーニ【グラモフォン】)
 (21)〜(23).ヘンデル 歌劇《アグリッピーナ》
       (ヤーコプス指揮、ベルリン古楽アカデミー【ハルモニアムンディ】)


私の最近の室内楽趣味を反映してこうなりました。
脳内ではプーランクやパガニーニなどの「軽い」ものも適度に織り交ぜるつもりだったのに、「容量の関係で」(←なんてことだ!)入りきらなかった。
これを作って、長篠城までドライブに(片道1時間)行きました。
いいじゃん! ランダム再生すると「変な組み合わせ」になるのが面白い。
ヘンデルの「復活」と「アグリッピナ」が続けて交互に再生されたりすると、とても幸せだ。
ヘンデルは、ほんと大天才ですよね。
こういう「(再生上の)ハプニング」はMDではやろうと思わなかったですものね。

ポイントは、「変な音楽を入れること」です。
良く聴く大好きな音楽と、あまり聴かない曲を入れたらおもしろい。
上のリストで言うと「フォリア集」や「シベリウス」や「エニグマ」などが私にとっては「あまり聴かない曲」なのですけど、ドヴォルザークのアメリカや死と乙女も、大好きだけどほとんど手に取る曲では無いですよね。でも、そういうディスクは実はほとんど浜北の実家に積んだままになっているので、今はここに入れられる様な物が無かったのでした。
家に帰れば「変なCD」はたくさんあるのに。


新しく買ったカーステレオでは、タイトルを日本語表示できるのです。
これまでのMD機器でも(アルファベット表示で)出来たのですけど、入力がやたらと面倒で、したことがなかった。なので、聴いている途中、「これって何の曲だっけ?」とか「誰が演奏しているディスクだっけ?」と混乱することが往々にあった。手書きで情報をシールでディスクにぺたぺた貼ってあったのですけど、ディスクを取り出さないとそれを見られない。
今日からは入力が簡単になりました。

とはいっても、ディスプレイ部分に最初に表示されるのは15文字ほどで、ここが大事なのです。「チャイコフスキー交響曲第5番ホ短調作品64第2楽章アンダンテ・カンタービレ」なんて打ち込んでも、最初に出てくる文字は「チャイコフスキー 交響」ぐらいなのです。それじゃ運転中に全然役に立たないので(いやチャイコフスキーぐらいならタイトルなんて見なくてもわかるけどさ)、識別用に「チャイコ響5ホ短-2」みたいに打ち込むことにしました。私が分かれば良いですからね。
私のステレオは、最初の15文字を10秒ぐらい固定して表示したあと、後は流すように残りの文を表示するのです。ですから、タイトルの冒頭だけが暗号文になった。ベートーヴェンは「ベー」、モーツァルトは「モ」、ピアノ三重奏曲は「ピ三」、ヴァイオリンソナタは「ヴァイ奏」。ショスタコーヴィチは「鮹」でヴォーン=ウィリアムズは「RVW」ですね。シューベルトとシューマンはどちらも「シュー」なのですけど、いいや、この二人は聴けば即座に判別できるから。
「モ響37ト長K.444第2楽章アンダンテ・ソステヌート(※本当はミヒャエル・ハイドンの作)(ホグウッド)」。なんのことやら。前半は文字数をできるだけ圧縮しないといけませんが、後半は短縮しなくても電光掲示板のように文字が流れるので、これでいいのです。(とはいえ、45文字以上は打ち込んでも省略されるようです)。
意外と「K.444」の部分が重要でして、マニアっていうのはこういう意味の無い記号を無駄に覚えて悦に入りたいものなのですね。(私も若い頃はたくさん記憶していたものなのですけど)。またこういう遊びができるのは非常に楽しい。ドライブしながら視界の片隅でこういう情報を得られるのですから。

で。
CDっていうのはまことに親切なもので、レコード会社の人が親切に各トラック毎にタイトルを打ち込んでくれてまして、コピーするだけでそれが自動にパソコンに取り込まれるわけですが、今さらになって気付いたんですけど、これって意外とイイカゲンなものが多いですね。
「いいかげん」というより「間違っている」ものが多い。
(そういえば昔、レコード芸術を愛読していた頃に「トラック情報に誤記があるので注意」とかいう記述をよく目にしましたな)

たとえば、ヘンデルの場合、『復活』と『アグリッピナ』の両方が、2枚目のディスクに1枚目の情報が誤って記載されているのです。(違うレーベルなのに何でだろう? まだこの2曲しか確認してませんが、ヘンデルは他の曲もこうなっていたりして)。ロッシーニのスターバトマーテル(グラモフォン)なんて、「Pergolesi;StabatMater」と書かれていた。おいおい。ま、どうせこんな部分なんてほとんどの人は見ないから?
解せないのは、交響曲にしろピアノソナタにしろ、クラシックの曲は3楽章とか4楽章の曲が多いのですが、各楽章の説明のうち、「スケルツォ」楽章のみ「スケルツォ」と書かれているものが多いのです。何が変なのか分からないかもしれませんけど、グラモフォンやフィリップスやデンオンなど会社が違うのに(一緒なのか)、なんでスケルツォの文字だけどのディスクにも書かれてるんだ。これを打ち込んでいるバイトの人が同じ人で、その人が「スケルツォ楽章」に非常な愛着を持っているのかね。(あと「フィナーレ」の文字も書かれていることがスケルツォほどじゃないけど多い)

それから、輸入盤のディスクは、当たり前ですけど書かれている情報は英語かイタリア語です。
私は日本語しか読めませんので、当然日本語に直してカーステレオに表示させたいんですけど、意外にその作業が大変。今回家から持ってきた『アグリッピーナ』はルネ・ヤーコプス盤(輸入盤)だったんですけど、ガーディナー盤(日本発売盤)にしとけばよかったよ〜。
どなたか、外国語作品をすべて翻訳して、簡単に読めるようにしておいてくれてないかしら。(オペラ対訳プロジェクトの『アグリッピーナ』はまだ途中だった)


あと、恥ずかしながらモーツァルトのピアノソナタなんてここ十数年真面目に聴いていなかったんですが、このたび調べ直したら、私が「第15番」だと思っていた「k.545」の有名なソナタって、今は「第16番」になってるんですか? イ短調のソナタは「第9番」でk.311が「第8番」?(最近のヘブラー盤ではそうなっている)。何を今さらって? だって知らなかったもん。
なのにウィキペディアを見ると「交響曲第37番k.444(※実はモーツァルトの作品ではない)」だけは「第38番以降の交響曲はいずれもモーツァルトの代表作であり、曲そのものと番号とが強く結び付けられて記憶されているため、番号の繰上げ変更がなされることはなく、交響曲第37番は欠番となった」ですって。なんだそりゃ。

泣いてもいいですか。

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バックアップされていた中で最後の写真、深萩町の火穴古墳(2011.6.25)

ごめんなさい。
この一ヶ月間の私は波瀾に満ちていました。
電信柱に突っ込んで愛車が大破し、
パソコンが突如起動しなくなり、
そんなことが無くてもずっと金欠で、
新しく入った会社ではなぜか女子に嫌われ(ているような気がする)
野外での肉体勤務なので、自分で鏡を見ても「誰だコレ」と笑ってしまうくらい真っ黒に日焼けし、
でも汗に弱い体質なので、肌が、酷くビロビロに爛れてしまった。

ようやく、お給料をいただけたので(15日締めのうちの会社では、勤務初月の先月の給料は半月分だった)、新しいパソコンを購入することができました。
10万円、、、、 お金がなかったので前と同じマウスコンピューターの似た機種にしたんですけど、
3年前に(エイデンで)12万円で購入した前機種より10万円(ベイシア都田店価格)だとほんの少しスペックが落ちてる。
(新しく買ったのはWindows7、i5-4430(3.00GHz)、8GBメモリ、2TBハードディスク、NIVDIA GeForce GTX650(1GB)というものなのですが、3年前に買った旧機種はほぼ同性能で、CPUだけがi7-2600(3.4GHz)だった)。なんで10万円も払って前よりも劣るものを買い求めなきゃあかんねん。(泣いてもいいですか)
10年ぐらい前の、1年ごとにパソコンが驚異的に進化していたあの時代は、もう終了していたのね。

今回のパソコンの不調は、よくわかんないんですが、つい先日世間を賑わした「ウィンドウズの自動更新による起動不具合」だと思うのです。ブルースクリーンとエラーメッセージの内容がよく似ていたし。ただ解せないのは、ニュースでは「8月13日の自動更新が原因で」諸問題が発生したと言っていたのに対し、わたしのは8月1日前後の自動更新がきっかけでパソコンが動かなくなったことです。最初はセーフモードではなんとか起動していたので、ハードディスクの中のあれこれを保存しとこうと奮闘していたのですが、セーフモードですら固まる事態が頻出してそれが果たせず、そのうちセーフモードも起動しなくなりました。
8月18日頃に「セーフモードでする対処法」が発表されたのですけど、もう遅かった。
くそぅ、俺は前のパソコンで非常に満足していたのに。ばかやろー。

というわけで、結局金がないので、私の「ビール生活への復帰」はまだ少し先です。
いましばらく「二階堂のペプシ割り生活」で満足していることにします。(もう十分焼酎体質に身体が変わってたりして)
パソコンが無い1ヶ月間は、サムソンのギャラクシータブに頼らざるを得なかったのですが、なんだこの不便な機械。こういう不測の事態のために買った代用品のはずなのに、タブレットはパソコンの代わりにはほど遠い、ということが実感できました。(※huluで映画ばっかり見ていたら、またたくまに通信制限というのが掛かりやがった。そういえば購入時にそういう説明されたっけ)。でもそもそもこれってそういう用途に使うもののはずだろう



まあでも、というわけでめでたくパソコンが復活したので、久しぶりにラーメンを食べに行きました。


◎8月31日 横濱家系 藤井商店(西区イオン志戸呂店)


日曜日の志戸呂はすごく人が多くラーメン屋も沢山の待ちがあってうんざりしたが、他に行くのもめんどくさくて、ここで待って食べました。
豚骨醤油玉子(700円)。



おおお、そういえばここって生キャベツが上に乗っている店だったっけ。
覚えてたら「モヤシ&キャベツ増量」(150円)してたのに。(モヤシは要らんが)
でも、わざわざタマゴを追加しなくてもデフォルトで半個のタマゴが乗っておりました。
タマゴ1.5個分になってしまいましたよ。

◎8月30日 てん丸(旧引佐町金指)


パチンコ屋の隣りにあるお店。私の家から6分。
家族連れやらカップルやら姐さん連れのおっちゃんやら、雑多なお客さんがいました。
町のラーメン定食屋という雰囲気でしょうか。

チャーシュー麺(820円)とギョーザ(320円)を注文。



なんとも、想像したとおりのラーメンでした。味はしっかりしている。
このチャーシューはお酒を飲みながら食べたいチャーシューだなぁ。歩いては来られない距離だなあ。





餃子も熱々で美味しかったですよ。


◎8月29日 身空(西区坪井町)


すげー。19時頃ついたら、狭い空き地は車でいっぱいで、でも、ダイハツムーブが1台ぐらい停まれるスペースがあったのでそこに車を止めて、ヘンテコな店内に一人ぐらい座れる席があったのでそこに座ろうとしたら、店主に「たくさん人が待ってるので外で待ってて、今、2人、1人、2人の順です」と言われた。私には待っている人が見えなかったのですけど(記帳台も無かったし)、みなさん車の中で待ってるんですって。
「店頭に並ばせないと外から来た人には分かんないし、なにより車の中にいられても店の人にもわかんないでしょ?」と思ったんですけど、席が空くたびに店長さんが出てきて車に呼びに行く。それ以前に新しいお客さんが何台も入って店長に追い返されて車に待ちに戻る。なんだこの無駄なオペレーションは。と思いました。
でも、自分の番が来て席に座って注文して、待ちながらずっと店長さんを眺めてたんですけど、この人、一杯一杯にすごく時間をかけて作ってるんんですね。たとえば、3人連れが来て3杯ラーメンを注文されたとしても、3杯一緒じゃなくて1杯ずつじっくり時間をかけて作る。
だから待ち客がたくさんいて当然だし(店の中には必要最小限の人しか入れないから)、スープが煮出される間(本当に注文を受けてから魚のスープを煮出しているんです)、敷地に止まっている車に店主が次の客を呼びに行く余裕は十分にある、と感心しました。



メニューは数種類あるのですが、どれもが気になるものです。
今回は初回なので、「醤油+鰹アゴ」(800円)を注文してみました。
店の中も十分ヘンテコだったのですけど、出てきたラーメンも十分ヘンテコでした。
粘度のあるスープ、なぜか大量のテンカス、そして目立たぬように潜む油揚げ。「なんだこのラーメンは!」と思いました。
が、一口食べて、あまりにも私の好みのスープだったことにびっくりしました。こんなに魚を主張しているのに全然すっぱくない。濃い。でもくどくない。アゲカスがとてもよい口触り。麺の口触りも堅くて独特。こんな店内とあんな作り方と水の紙コップでこんなラーメンが出てくるとは思わなかったので、わたくし、あまりにもびっくりしてアゴをカツオヌスしてしまいました。チャーシューはもう入ってるとはいえないくらいとろけて粉々になっていました。
・・・旨かったのでまた来よう。
10日前の夏真っ盛りの頃は、この店内どうしてたんでしょうね。冬はどうするんでしょうね。そういうことが気になります。





◎8月28日 山岡家(東区有玉店)


木曜日の21時頃、蔵前家に行ったら「麺が無くなった」と言われた。
この店は22時までやってることになってるという公称だけど、実質はどうなってるかは気になるところだね。
途方に暮れて、豚骨醤油の胃の気分になっていたものだから次に有玉へ。遠い。
豚骨醤油気分バリバリで店に着いたのですけど、店頭に期間限定メニューの看板があったので、心揺さぶられることとなりました。「二番勝負! えび醤油!」ですって。私はえびアレルギー持ちなのですけれど、山岡家の限定メニューは過去、微妙だったこと半々、美味しかったこと半々。食べてみずればなるまいと思って、注文しちゃいました。えび醤油ラーメン(810円)に味付玉子をトッピングした900円(税込)。

山岡家に来ることも、1年ぶりぐらいじゃありませんかね。
券売機で券を購入したのですけど、以前は機械で「濃さ、油の量、麺の柔らかさ」を入力するようになっていたのに、いつのまにか機械画面での選択が廃止され、店員が訊く方式に戻っていたことが気になった。確かにめんどくさいから機械の画面ではスルーして口頭で言う客が多かったんですかね。



うをう。スープを嗅ぐと、ダイレクトにかわわろエビせんのかをりがする。
だがしかし、食してみたらこれは意外に良いのではないか。
山岡家の限定メニューは微妙だったり美味しかったりした経験が半々なのですが、今回はアタリだったと思いました。



麺が通常のものとは違い、全粒粉の太麺なんですって。私は普段の山岡家の極太麺が大好きなのですけど、この限定麺には非を言う箇所がなかった。ゴワゴワすぎて旨い。これを、全国の山岡家の地下では無数の河童たちが日を惜しんで重い小麦の石臼を挽き続けて作ってるんですね。ほろり。
「えび醤油」と名乗ってましたが、山岡家の「塩豚骨」でした。背脂が浮いている。
今日は若いにーちゃんばかりが麺を作っていたが、私が店を出る頃、あのおっちゃんが店に入ってきた。
一時期の有玉店はやたらと油が多かったのだけれど、今日のそれはそうでもなかった。
あのおっちゃんのおかげで有玉店が正常になってるんだとしたら、すごいんでけど。


◎8月27日 坊屋(西区馬郡町)


「折角だから行ったことの無い店に行こう」と思って、浜名バイパスの辺鄙なところにある「身空」を目指したのですが、やってなかった。「あれ? 木曜定休じゃなかったけ」と首をかしげながら、後で家に帰って調べたら、私の記憶が勘違いしていただけで、身空の定休日はちゃんと火・水曜日でしたよ。(かつての私は各店の定休日と営業時間を全部覚えていたのにね)

仕方が無いので、すぐ近くの坊屋へ。
坊屋は、勤務先の舘山寺からたった25分です。以前住んでいた浜北からは1時間だたので、格段に来やすくなったのに、意外とこれまで来ていなかった。これからは心を入れ替えてちゃんと通います。

初心に返って、「黒坊」(720円)を注文。「切りたてチャーシュー(3枚)」(220円)をトッピング。



これは、きのう貴長で食べた「マー油豚骨」と構成が同じなのです。
なのに食べてみますと、全く正反対と言っていいくらい味わいが違った。
ます、きのう食べた貴長では「味わいの重し」の役割を果たしていた黒油が、ここでは若者のような攻撃性をもって振る舞う。
なぜだか辛い。ラー油に由来するような辛さがマー油の中にあった。でもマー油にラー油なんて使うはずが無いから、何だったんだろうあの辛さは。そして、きのう貴長ではラーメンを食べた後にチャーハンを食べることを欲した(マー油がそれを促した)んですが、今日の私はマー油と豚骨のせいでへろへろでした。なんて重い重量を持ったスープなのだ。
いつかこの店で、「ラーメンと一緒に信州名物ソースカツ丼を食したい」という野望を持っているのですけど、今の私にはとうていムリです。信州人の胃袋は何によってそんなに鍛えられているのかしらね。かつての(若かった頃の)私は「はやたろうグループの中では坊屋が一番洗練されている」と思い込んでいて、だから大好きでそれは今でも変わらないのですけど、今日の私はきのうの貴長のラーメンをなつかしく思い出しながら、帰途についたのでした。



◎8月26日 貴長(旧細江町気賀)

気賀の町のランドマーク「City2」の建物が取り壊されている前を通った。なんと。
あそこは気賀の一等地なんですけど、跡に何が立つのかな。(何も建たなかったりして)



貴長は気賀で唯一のラーメン屋です。
だからよく来るんですけど、一押しは塩ラーメン。でもメニューは豊富で、でも食べるべきはひたすら塩ラーメン。
ただし、限定メニューがあるときは例外なのです。



前回来たとき(いつか忘れたけど)は、この「Ninja」を食べたんですよね。(日記には書きませんでした)
荒野のラーメンの「伝説の塩」・・・じゃなくてタンメン?を模したものでした。



今日選んだのは、乱心したのか「マー油豚骨」(700円)。
かなり前に「豚骨ラーメン」(650円)が登場したときにそれを食べたことがあるのですが、そのときは「貴長で塩ラーメンを食べなかった自分はどうかしてる」と思ったのでした。そのときはまだ「マー油入り」は無かったと思う。



やたらと早く提供されます。
が、期待に反してなかなかいいじゃないか。
これが800円だったらがっかりしただろうが、700円だったらいいぞ。
マー油は意外にもなかなか偉大なのです。ラーメン食べてるって気になります。
おそらく業務用の豚骨スープなのでしょうけど、カップラーメン食べるより倍ぐらい満足度がある。
この店が近所にあったらふと食べたくなって通う。
この店は近所にあるので、おそらくまた小腹が空いたときに私は食べに来るのでした。

でも、あまりにもスルスル食べられてしまって、腹が6分目ぐらいだったので、
これも注文してみました。



「なんじゃこりゃチャーハン」(850円)。
「夏限定」という言葉に惹かれて。
ラーメンよりも手間暇かけて調理している気配がした後、提供されました。
なんと、ただサラダがのっけてあるチャーハンなのかと思ったら、チャーハン本体が冷たかった。氷で冷たくしてあるチャーハン。厨房で鍋で飯を煽っている音はしていたのですけど、これをパラパラ感を維持してどうやって冷たくするんでしょう? 確かにありそうで無いチャーハンでしたが、私は家で作りすぎて冷めたチャーハンをよく食べているので、風味に意外性はそれほどなかった気もするのでした。




◎8月26日 来々軒(西区伊左地町)


車が、車がぁ欲しぃい。(愛車のアウリスは長期入院中)
今の私の車は代車のダイハツ・ムーブ。軽自動車嫌ーい。

「お給料が入ったらラーメン食べに行こう」と楽しみにしていたのですが、あいにく今日は火曜日で、家に最も近い蔵前家も荒野のラーメンも定休日だった・・・
なので久しぶりに、以前の私の超お気に入り店だった来々軒に行ってみました。
(それよりも私の家に近いところに「荒野のラーメン」が出来てしまったので、来々軒へは2012年11月に行ったのが最後の記録)

来々軒は舘山寺街道沿いにあるのですが、生活が全く変わってしまって舘山寺街道を通るのも久しぶりです。
平日火曜日の13時ぐらい。私の家からは20分ぐらいでしょうか。
お店に入ると2人連れのサラリーマンが一組いたのですが、私が入った後にまた数組入ってきた。相変わらず繁盛してるのね。
ところが席に座ると、「今日は豚骨スープが売り切れてしまった」と言われました。
マジですかい、平日の13時だぜ。ネギ忍者を食べにはるばる来たというのに。

仕方が無いので、基本に戻ってチャーシュー麺(800円)を注文しました。



黒いなぁ。
このラーメンを食べるとき、私の体調によっておいしかったりおいしく感じられなかったりしたことがあったので、今日もおそるおそる食べてみたのですが、今日の私には抜群に旨かった。見た目に反して、なんと優しい醤油の味であることよ。結局この黒い色の正体は何なのだろう。攻撃性をどこかにしまってきたような醤油の味。今日の私には好みです。でも同じこのスープでも、きっと30歳だった過去の私には美味しく感じられないのだろう。



店長は私の記憶の中にある人と印象が違ったんですけど、人、変わってませんよね?

暇だったので、帰りに浜松航空自衛隊の広報館に寄っていきました。
私は自衛隊が大嫌いなのです。(だからたまには行かないと)
兵器には魔力があるよね。高価で性能の良い渋くてかっこいい新機種を手にしたら、意志の弱い日本人なんかはあまりよく考えずに異人に対して使いたくなってしまうかもしれないよね。
でもね、私は戦車は大好きだけど、飛行機には全く関心が無いので、全く何も楽しくなかったのでした。あはは。・・・三ヶ日あたりに戦車博物館作るといいですよね。


対空機関砲VADS?(ヴァルカン・エア・ディフェンス・システム)

英国は各人が各人の義務を果たすことを

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ようやくの事、ただのチャーチルからスーパー(超)チャーチルに進化できました。
長かった。

これはゲームの話なんですけど、
チャーチルという戦車はひたすら堅いことだけが取り得なんです。
だが、戦車の世界には「ひたすら堅い奴を打ち破ることを取り得とする戦車」が存在するんですね。虎とか豹とか。正直言ってゲームの世界では「チャーチルが堅い」なんてほんの戯れ言です。鬼戦車T-34(ソ連製)に一発打ち込まれただけで容易く完破です。
そういう「ひたすら堅いのを誇る戦車を打ち破る事を自慢する戦車を踏みつぶすことを目的として英国が満を持して開発したとした繊細な戦車」が超(スーパー)チャーチルなんですね。これが実在の英雄ウィンストン・チャーチル好みなのです。別名を「ブラックプリンス」。14世紀百年戦争のクレッシーの戦いで仏国軍を翻弄したエドワード黒太子の長弓隊にあやかっています。
(※さっきウィキペディアを見ましたが、最近の教科書ではブラックプリンスはこの戦いに大した関与をしなかったことになってるんですかね。英国史的には“黒太子”は大英雄なはずです)

月の繭。

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ターンAガンダムの最終回は何度見ても泣ける。
私は常々「ガンダム好き」とは言っていても、ヘビーローテーションで見てるのは「V」と「∀」と「00」ぐらいなんですね。少し前にhuru(※失業期間中に加入した)で「Seed(種)」と「ビルドファイターズ」が見られるようになったんですけど、私にはあまりにつまらなすぎて逆に「00」の素晴らしさに慄然とした。



ソシエおじょうさーーん!! 、、、って、ソシエってこんなキャラだっけ?
(ソシエ・ハイム嬢についてはウィキペディアの記事が秀逸で、こういうのがたまにあるからウィキペディアもなかなかいいんですね。要は、ターンAガンダムの主人公は初回からローラ・ローラ嬢ではなくてソシエ嬢だってことです。)

レゴンギズダ(国土の回復)。

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「どうせ貧乏だし、もう買うのやめちゃおうかな」としばらく悩んでいたのですけど、結局新しいデジカメを買ってしまいました。実は、別に無くてもしばらく過ごせることは分かったのです。(私はカメラが無いと出かけない → 金を使わない → しめしめ)。
でも、折り悪く私は新入社員。いろいろな事を手で書いて覚えるより、カメラでパシャパシャとメモを撮る方が、ラクでよかったのでした。


前のカメラはどうしたのかと言いますと、会社にお泊まりで研修があった日の夜、さんざん酔い濡れて散歩に一人ででかけ、湖の畔の松の木の下で寝てしまい、気がついたら手の中に無かった(笑)

新しく買った機種はフジの「XQ1」。
4店舗ほどを見て回り、めんどくさくなって決めたのはプレ葉ウォーク浜北のk's電機。店頭価格が¥27,800(税抜)だったのが、展示品限りだったからか対応してくれた若いねーちゃんは¥26,000(税込)に負けてくれた。やったね。
上の写真は(本体は不慮の事故で失われたので)前機種の「FinePix F770EXR」の箱と一緒に撮った「XQ1」です。(撮ったのはサムソン・タブです)。
ファインピクスと比べXシリーズは上位の機種という位置づけなんですって。F770EXRを買ったのはたしか1年半ぐらい前でしたよね。ファインピクスの現行機種は「F1000EXR」で、それは19000円ぐらいで、それを買っても全然満足な気もしたんですけど、カタログで見る限りF770EXRとF1000EXRはほとんど性能が変わんない気がして、少し前に「10万円も払って前の機種とほぼ同じパソコンに買い換えなければならなかった」ことに「とても損をした」(本当は新しいパソコンはとても優秀になっていたのに)という思いを強くしていた私は、ほぼ同じようなファインピクスに買い直す事を避けてしまったのでした。
2万6千円は痛い出費のように思えますけど、私がはじめてデジカメを買ったとき(Windows95の頃だ)すごくチャちかったのに5万円ぐらいでしたからね。それを思えば隔世の感に涙が出ます。全然惜しくはありませんよ。よ。よ。
実はわたくしフジのカメラしか買った事がありませんで、F1000EXRを断念した時点で「フジ以外の新たな世界へ冒険する」という選択肢も無くなかったのですが、実際お店を巡ったらアレですね、結局これまでと同じ会社のを選んでしまいました。(だってカメラってメーカーによって操作方法が全然違うんだもん)。パソコンだったらかつて「NECの物しか買わない自分」がいて、でもいつのまにかそれから脱却したんですけどね。



さっそく試し撮りです。
カメラを買ったのは台風18号が過ぎ去った日(10/6)の昼。
台風一過で清々しい青空ですが、すごい事になっているであろう天龍川を撮りに行ってきました。
うひょう、予想通りすごい。
が、普段の天龍川と見比べないと、写真じゃ何が凄いのかわかりませんね。



天龍川と浜北大橋。
ファインピクスとXシリーズはシリーズが違うのに、操作方法はほとんど同じです。これは楽です。
ファインピクスでよく褒められるのは「青い空がとても綺麗に撮れる」ということですね。ほんととても美しい。



が、高くしたとはいえ所詮コンデジなので、撮れる写真はそんな変わらないです。



ただ、いくつかファインピクスには無かったオマケ機能があって、以前は専用のソフトでいろいろ遊んでいたHDR合成は、カメラが勝手にやってくれるようになりました。でもこういうのは自分で手間暇かけて作るから楽しいんだよなあ。いや、楽しいけど。



(今調べてみたらF1000EXRにも「アドバンスドフィルター機能」はあるそうでした)




ファインピクスのF770EXR以前は、「夕日を撮るのが苦手」という印象があったのですが、今回のこれはそこんところがかなり改善されている気がする。全く手を加えなくてこれですよ。



・・・そんなことなかったか。
どうせ私はフォトショップを使って下ぐらいに(過剰に)しちゃいますから良いんですけども。



加工後。うーーん、実際の目ではこのくらいに見えてますよね。



職場の喫茶店の窓から見える浜名湖。(元画像)



・・・加工後(なにやってんだか)。でも、新しいカメラの画像は加工が容易な気もする。(気のせいか)



翌日、曇天の浜名湖伊目の浜。
くもりの日は普通にのっぺりとしますね。



意外と、夜中が得意になったのか?
この写真は未加工ですが、実眼では月の形がくっきりと見える晩でした。



(少しだけフォトショップで加工)


で、私がカメラで記録する必要を最も感じているのは日々のラーメン画像なんですけど、



2日間の静岡研修というのがあって、たまたまその研修所の目の前に田ぶし静岡店があったので、2日間かけてラーメン研修もしてみました。
田ぶし、懐かしいなあ。伊豆に早く行きたいなあ。



おお、一瞬(気に入らんなあ)と思いましたが、とてもくっきり撮れている。
私が日頃、一眼レフ的なグルメ写真を毛嫌いしている事は浅子さんはご存じでしょうか。写真とは隅から隅まで丹念に撮れているのが至上なのです。わざわざボカすなや。XQ1はぎりぎりコンデジ性能ですが、が、が、これに比べればずっと満足していたF770EXRは単調に過ぎたんですね。(記録ですからそれで良かったんですけど)





が、ちょっと照準あわせに気を遣いすぎかな。(気に入らん)
田ぶしは美味しい。見た目的には「絶対に油っこい」と思うのに、全然そうではない。
魚の香りもとても控えめにしていて、全体的な突出しないバランス取りに全力をかけている。

一日目(10/9)は、本家田ぶしラーメン(730円)+チャーシュー2枚(150円)。
二日目(10/10)は、蔵造り味噌ラーメン(760円)+穂先メンマ(120円)。





うむー、写真じゃよく分からないと思いますけど、私は「本家田ぶしラーメン」よりこの「味噌ラーメン」の方が好きかもしれない。田ぶしの田は魚の田。どうしても魚の香りを本家田ぶしがやっきになって押さえ込もうとしている気が強くするのに対して、味噌はそれから解き放たれて自由にバランスを存分に謳歌して取っている。この味噌ってなんなんですかね。



が、このカメラ。
前を適当にボカせば適当に自分がオサレになってると思ってるのかよ。ぺっぺっ子供かよっ。たとえば俺が構図の片隅に海苔に乗ったネギを入れたいと思ったら、カメラの役割は脇役のそのネギまでくっきりと明晰に記録に残す事なんだよ。ああ気に入らん。お前はメンマだけ撮ってれば良いんじゃないんだよ。さぼるなボケ。(この機能って解除できないのかな)



駿府城の家康公像。
来年2015年は「家康公400年記念祭」だそうです。
岡崎市と浜松市と静岡市の三都市が共同で大々的にイベントをするんですって。
何の記念かといったら「家康が死んで400年目の記念」なんですけどね。先日完成した浜松城の大手門も、そのためのものだったんですね。
静岡市の駿府城にかける情熱は、浜松市の10倍は行ってる。浜松はこのままじゃ絶対に太刀打ちできないぞ。
(※静岡市も浜松市も「天守閣の再建」を夢の目標に掲げてますが、おそらく両方実現できたら双方遜色ないであろう。でも現在のところ静岡市の方が先を行ってる。現在駿府城は「2億円かけて失われた天守台の調査をしているところ」だそうですがね。天守台の残っている浜松城の方が有利な気もしますが、現在の浜松城の天守台には余分な物がありますからね。)

1週間前に(カメラの無い時期に)別の「静岡観光研修」があったのです。
なんと「仕事」という名目で久能山東照宮や駿府城東御門や焼津魚センターや掛川花鳥園を巡ったのですが、、、、 カメラを再び手にしてしまうと、あのときこそカメラが欲しかった。東御門の中にあった駿府城の天守閣の模型はそれはそれは見事だったので、再び写真を撮りに訪れたい物ですね。(今日の静岡研修は両日とも解放されたのが駿府城の閉門時間の後でした)



新しいカメラの最大の欠点はズーム。
前機種F770EXRは「20倍ズーム」で、それなりに活用していたものの、XQ1が「4倍ズーム」と聞いて、「正直20倍でも持てあましていたし、4倍もあれば全然いいんじゃない?」と思ってそっちを購入してしまったのですが、買ってみたらば「4倍しかできない」って思いっきり不便だ。まあ、対象が十分にはっきり写るように充分に近づけば良いだけの話なんですけどね。意外と歩き寄らねばならないので、思ったより疲れる。買った後で言うのも何ですが、やっぱり15倍ぐらいあったらよかったナ。



静岡駅前の家康公像。



竹千代君像。
うしろを見たら「400年記念のために建てた」と書かれてありました。(作られたばかりか?)
せっかくならネタ的にしょんべん小僧にすればよかったのに。(※竹千代君には駿府今川館で立ちしょうべんエピソードがある)
併せて浜松にもフンコロガシ像を作れば見事だったのにね。(小学生的発想)
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