
これは秋葉寺の何かよく分からない彫り物。
「永正15年6月1日、富士禅定の一行が突然の嵐に襲われて、13人もが遭難死した。---其の内に内院から大きな熊が出てきて先達3人まで喰い殺された。これは熊ではない。大鬼神(天狗)のしたことだという噂が立った。徳川幕府以前の富士登山は、それほど危険が伴っていたのである。その頃から富士の裏山小御岳の正真坊は、荒天狗として里の者達に恐れられていた」(知切光歳『圖聚天狗列伝』)
「富士講には独特の唱文の唱え方、加えて独自の文字まで作成していて、第三者には窺い知ることのできない口伝が多いので困るが、頂上の仙元大菩薩と北口中腹の小御岳正真坊を信仰の中心としているらしい。同書にある「小御岳太郎坊正真」という呼び方は富士太郎すなわち正真坊を指すものかと途惑わされるが、富士太郎坊は南口、小御岳正真坊は北側の天狗として別々に考えるべきである。そのことは他の史料で明らかである」(知切光歳『圖聚天狗列伝』)
「東方の小結、富士小御岳正真坊は、由緒・知名度その他の点で(西の小結・彦山豊前坊と比べて)たしかに若干の見劣りがするが、決して小粒ではない。しかも山の高さ、品位においては何といっても霊峯富士山の北口、山梨県側を司る正真坊である。正真坊は荒っぽいことでは定評がある。武田信玄の在世時代の前後百年のことを誌した都留郡の日蓮宗寺院の『妙法寺記』は富士山麓の農民の悲惨な生活をありのままに記録した貴重な民俗資料として珍重されているが、その『妙法寺記』に、富士山の中腹で多勢の天狗が鬨の声を挙げて騒いだのは不吉の前兆であるとか、天狗が突風を起して砂礫を飛ばし、岩石が降ってきて登山者が圧死したとか、北側の天狗の生々しい記録が残っている」(知切光歳『天狗の研究』)

五合目には5つぐらいの巨大なお土産売り場&休憩所があって、たくさんの人(主に外国人)がひしめいているのですけど、そのうちの一つが非常に天狗推しなのでした。

日本の天狗文化って、海外ではどういう説明をなされているのでしょうかね。
「天狗」を発明したのは中華の人たちでその歴史も古く、中華の天狗の姿は日本と較べても比べものにならないほど種類が多く多岐に渡っているのですけど、現在の中国では天狗は全く姿を消しているだろう。これは完全に日本独自の風習なはず。この独特な信仰形態を、ここにいる外人さんたちに知らしめてさしあげたいのですけどね。



店内には天狗の姿が各所にアピールされてあるのですけど、富士山土産としては天狗グッズはひとつも売られていないのでした(笑)
さて、順路が逆になってしまいましたけど、吉田口の登り口となるのが富士吉田市にある「北口本宮冨士浅間神社」です。

同じ「浅間神社」でも、山梨県の方は富士宮本宮の「冨士氏」とはほとんど結びつきはありません。
知切光歳尊師の説明によりますと、戦国時代~江戸時代にかけて角行とその一統(身禄、光清ら)が『富士講』を起こした時、富士宮側はあまりに冨士大宮司家と村山修験者(大宮司家の分家が長となっていた)の威勢が大きかったのであえてそれを避けて、北口からの登拝をするようにしたという。この北口の方が江戸から近くて便利だったので、江戸時代中期から富士講が大流行すると、富士宮口よりも北口(吉田口)の方が栄えたという。
一応簡単な位置づけを示しておきますと、
《静岡県側》
・山宮浅間神社(富士宮市)…「世界で最も古い浅間社」を名乗っているのがここ。第7代孝霊天皇の頃に起こった富士山大噴火の害を憂れいて第11代垂仁帝が浅間神を奉じた(推定紀元前27年)。その場所は「富士山の山足の地」というが、浅間大社の説明によると「山足」とは特定の場所を示す語句ではないという。日本武尊が駿河ノ国造たちに陥れられピンチに瀕したとき富士山に祈ったら運が開けたので、感謝のために現在地に磐座を設置した。(推定紀元後110年)。
・富士本宮浅間大社(富士宮市)…駿河國一宮。大同元年(806)に坂上田村麻呂が平城天皇の命を受け山宮を現在地に移した。大宮司家として君臨する冨士氏(和邇氏の係累)が坂上田村麻呂に伴って当地に来たのは801年。富士宮の浅間社の大部分は大社と深い関わりを持つ。(人穴浅間神社は違う)
・富知神社(富士宮市)…孝霊天皇2年(推定紀元前289年)創建。「富知」は「ふくち」と読む。大社を造ろうとしたときその場所にこの神社があったので、邪魔なので近くに移した。祭神は大山祇神だが「富知=福地」とは「恵まれた土地」を表す言葉で、大社への「土地譲り」は水の神から火の神への国譲りを示す出来事だという。
・富士根本宮村山浅間神社(富士宮市)…孝昭天皇2年(推定紀元前474年)に富士山中腹に建てられた社を、大宝元年(701)に役行者が現在地に移した。中世には"修験の霊地"として栄え、富士登山を行うものは必ずこの地で身を清めてから登った。神仏習合の最も理想的な形が見られた場所で、浅間大社との関係もおおむね良好だったという。明治以降は甚だしく衰微した。
・冨知六所淺間神社(富士市)…孝昭2年(推定前474年)創建。「冨知」は「ふじ」と読む。“四道将軍”のひとりの建沼河別命が強く崇めたという。延暦の頃、富士山の火害が著しかったので富士山山腹から現在地に移した。中世には「三日市浅間」と呼ばれるほど周辺で盛んに市が開かれた。地域では「どらヱモン神社」として親しまれている。(※参考)
・東口本宮浅間神社(須走浅間)(小山町)…延暦の大噴火は東麓からだったため、山を宥めるために大同2年(807)に創建。伝説では弘法大師はここから富士山に登ったとされる。
・新橋浅間神社(御殿場市)…「御殿場口」が整備されたのは他に較べて新しく(19世紀)、この浅間神社の興隆の歴史も新しい。(だが一説には源頼朝が御殿場で巻狩りをやった時に創建)。愛鷹山(瓊瓊杵命)と桜姫をセットで祀っていることが特長。
・須山浅間神社(裾野市)…景行天皇40年(110)創建。日本武尊がここを通りかかった時になにか(奇瑞)があって建てたそうで、そのあと400年後になぜか蘇我稲目もここで何か関係したみたい。御殿場口が開かれる前はここが「東口」だったが、現在は「南口」と呼ばれている。
《山梨県側》
・冨士山下宮小室浅間神社(富士吉田市)…大同2年(807)、延暦帝の東征の成功はここから冨士山に祈願したおかげだとして坂上田村麻呂が創建。「後に各村で浅間明神を一祠に祀るが、今も猶上吉田には子生まれて百日の後社参するに、先ず下宮へ参詣す」だそうです。神紋は「桜」紋。「神様が着るお召し物」としてたくさんの女性用の着物が飾られている。一番古いのは120年前の奉納物。大塔宮の首塚と雛鶴姫の遺跡がある。
・北口本宮冨士浅間神社(富士吉田市)…景行天皇40年(110)に日本武尊がこの場所のすぐ近くにある丘(大塚丘)に立って富士山を仰いだのが始まり。神社として本格始動(?)したのは北条義時の頃。江戸時代には長谷川角行、村上光清と関わりが深い。伊藤身禄は光清とは対立していたはずだけれど、なぜかここでは一緒に祀られている。
・冨士御室浅間神社(河口湖町)…北側で最も古い浅間社を名乗っている。文武帝3年(699)に二合目に建てた社が本宮で(石を立てて作った室だったので“御室”というのだという。その場所は現在「奥宮」となっている)。天徳2年(958)に現在地に里宮を建てた。「小室浅間」と「御室浅間」は兄弟的な関係。読みはどちらも「おむろ」。武田信玄が最も保護したという。
・新倉冨士浅間神社(三国第一山)(富士吉田市)…文武帝の慶雲3年(705)年の創建。延暦の大噴火を愁いた朝廷は大同2年(807年)に勅使し、鎮火の儀式を行ったのがここだという。このとき平城天皇は「三國第一山」の称号を与えた。もちろん三国第一は富士山そのもののことだが、いつしかこの神社の呼称となった。景色が抜群に良いため「外国人に最も人気のある富士山神社」だという。
・北東本宮小室浅間神社(大明見浅間)(富士吉田市)…崇神天皇6年(推定紀元前92年)の創建時は別の神社(阿曽谷神社)だったが、応神天皇の頃の富士山の噴火の時に応神天皇の第2皇子を迎えて浅間神社となった(らしい)。聖徳太子もここを訪れ「富士山北東國本宮阿座眞明神」という名を与えた。大明見(おおあすみ)の里は徐福伝説や『宮下文書』と関わりの深い土地だという。
・河口淺間神社(河口湖町)…この神社にも「三國第一山」の扁額がある。貞観6年(864)の富士山大噴火がおこると朝廷は駿河國の職務怠慢を責め、甲斐國側にも浅間大社を造営すべしとの勅を出す。甲斐ノ国の式内社で明神大社の格を持っているのはここだけである。…と、そのとき建てられた“大社”はどこかというと今では3つの論社があって、実はよく分からない。当然その“大社”は“甲斐ノ國・一宮”であるはずだけど、他の2社に較べて河口湖のここは一宮を名乗ってはいない。河口湖北岸は富士山登山口からは遠いが、「河口御師(おし)」は吉田御師と同じぐらい興隆していた。
神託を受けて体長が2尺~7尺に伸びたり縮んだりしたという甲斐側初代祝の伴真貞のミハカは河口浅間にある(らしい。笛吹にもある)。
・忍野八海浅間神社(忍草浅間)(忍野村)…大同2年(807)の創建。源頼朝が保護した。木花咲耶姫命と共に「鷹飼の神(邇邇芸尊)」「犬飼の神(大山津見命)」を祀る。伝・運慶作の金剛力士像もある。境内に「天狗社」として武甕槌神の祠がある。
・一宮浅間神社(市川一宮)(西八代郡)と甲斐國一宮浅間神社(笛吹浅間)(笛吹市)…西八代郡の方は景行天皇の御代、笛吹市の方は垂仁天皇8年(推定紀元前22年)の創建で、貞観6年の大噴火のとき朝廷の命で木花咲耶姫が遷座されたという。富士山からはちと遠いのは噴火の直接の害を避けるため。どちらも武田信玄が最も保護した。

こんなにある富士山周辺の浅間神社ですけど、天狗探求的に必ず訪れるべきなのが、富士吉田市にある「北口本宮浅間神社」なのです。
ほら、あんなところに天狗様が!


なんてステキな天狗さまでしょう!
「天狗の浅間」といわれるこの神社において明晰に天狗が飾られている場所は実はこれしか無いのですけど、参拝するに当たって一番要所となる位置(五合目の小御岳神社の天狗面と同じ位置)に天狗は飾られてござらっしゃる。