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赤い手は滅びのしるし。

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再来年の柴崎コウのNHK大河ドラマ『女城主直虎』を記念して、「遠江武将名鑑」を作ろうとしています。
『信長の野望』にも遠江の武将はほとんど登場しないし、私以上に「遠江武将」を熟知している人はそんなにいないと思われるから。
わたくし、熱心に働いている間はこのブログをほとんど書こうとできないのですが、また再び何度目かの無職になろうと思い始めてきましたので、今度こそしっかりできるはず!

でも、「絵もちゃんと描こう」と思い悩むと何も進まなくなる自分の性格もよく分かってますので、上の絵はたぶんこのままで良しとしようかと思います。



◎井伊谷三人衆の筆頭・近藤石見守康用(こんどう・いわみのかみ・やすもち)。



…ごめんなさい、「信長の野望に出てこない遠州の名将たち」をテーマにしようと思ったのですけど、最新作『信長の野望~創造~』のpk版を見てみたら、登場していましたね近藤康用。
なんで今まで出ていなかったのかが不思議なほどの人でしたから、順当な流れにホロリとしてしまうのですが(※しかしマイナー武将だから能力値がとことん低いのが泣ける)
井伊谷三人衆の残りの2人、菅沼忠久と鈴木重時、および康用以上の豪傑だった息子の近藤秀用(ひでもち)の信長の野望への登場はまだみたいです。
『戦国ixa』『戦国大戦』にまだ登場していない武将たちをテーマにするのがいいかもしれませんね。

「井伊谷三人衆」というのは変な名称なんです。
北浜名湖地域の井伊谷(いいのや)にいた「井伊氏」は平安時代後期の「武家八介」(三浦介や上総介や秋田介や大内介や狩野介とか)に数えられる名族で、それどころか古墳時代の北浜名湖の古墳群や弥生時代の三遠式の銅鐸の作り主も井伊氏だった可能性が高いと思うのですけど、当然その本拠地だった井伊谷周辺には重累の家臣も多いし一族の層も厚くて団結力も高かったはずなのです。
(南北朝時代にはどんなに劣勢になろうが粉々に打ち砕かれようが宗良親王を熱烈に支持し続ける頑固な人たちだったのが井伊氏でした)

ですが、「井伊谷三人衆」の3人は井伊谷には住んではおりませんでした。
近藤康用は三ヶ日から宇利峠か瓶割峠を隔てた参州・宇利城の城主。鈴木重時は井伊谷から炭焼田トンネルを超えた参州・山吉田城の城主。(ここを超える峠道は昔はあったのかな?) 菅沼忠久だけが北遠州の都田に領地を有していたのですが、彼もまた参州の山奥に強大な勢力を誇っていた菅沼家の分家で、参州の威衰を大きく受けていました。

永禄11年に徳川家康が遠州侵攻を始めたとき、その先導を果たしたこの三人のことを「井伊谷三人衆」といいますが、どうして井伊谷に住んでもいなかったこの三人が「井伊谷三人衆」と呼ばれるのかと言いますと、この3人は井伊谷の外に住んでいながら井伊谷の井伊氏に対してそれなりの忠誠を表明していた、忠実なる与力だったからでした。
大河ドラマで克明に描かれると思いますが(…といいな)、遠州井伊氏はとことん悲運で不幸な一族なのです。井伊氏は桶狭間直後のいわゆる「遠州忩劇」においてほとんど根絶やしに近い状態になってしまいまして(だからこそ女城主直虎が出てくる)。絶望の極みのとき井伊谷には直虎が一人しかいなかった。そのとき突如出てくるのが井伊谷三人衆で、この3人はあくまで主家の井伊家を大事に思っていて、それがゆえに、頑固であるがゆえに、外から異訪神としての徳川家康を招く。
康用は権謀術策に長けた脇役っぽい頑ななじいさんだったに違いないです。



ここからは愚痴になるのですけど。



9月の26日と27日に私が心から愛する歌枕直美氏が和歌劇『直虎』を上演してくださるのです。
わたくしは5月にはそれを知っていたのですけど、休日出勤続きのわたくしはその日にピンポイントに休みなんか取れるかどうか分からなかったから、でも万事調整を尽くして「その日は絶対に休む」と宣言したのです。なのにその両日は満席になってしまったんですって。
それはNHKが余分なことをしたから。
だって前回まで当日いきなり行っても入れたんですよ。
後悔して初めて万事を知る自分の性格が恨めしい。
歌枕直美氏で気賀で直虎なんて、まるでわたくしだけのためにある作品なんですよ。
なのにこのわたくしがそれをのがすなんて。
中日新聞で9月8日に「歌枕氏がまさにどんぴしゃな直虎を」という記事が載って、それで翌日に殺到して即日だったそうな。
歌枕氏も「タイムリーなことになったことにびっくりしている」とおっしゃってるそうです。
おまえら浜松人、そんなに歴史と和歌に興味なんてないだろうがーッ


でも嬉しいのは、こんなに盛況だったので歌枕氏は11月に気賀で追加公演を決めてくださったそうなのです。それを知った今日、慌てて予約しましたよ。昨日までの疲れ切っていた私は10日後に歌枕氏の美麗を浴びて堪能して気力を補完するつもりだったので、それが11月まで延びてしまい慚愧の強怖しい鬼に胆囊を細々に切り刻まれておるのですけど、でも勢いに任せて11月の私(たぶん無職)は歌枕氏との15名限定の食事会(5000円)も申し込んでしまったのです。わたくし新参のファンなのですけどよいのかしらん。でもいろいろと質問したいナ。怖いけどな。

荒野のラーメンで徳島ラーメン。

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前記事に書いた「無職になる予定」ということ、
少し変更がありまして
「系列の他部署へ転属」ということで決着しました。よかったよかった。

8月の初めにとても大切にしているカメラが無くなってしまったのです。
「やべー、どこかに飲みに行った時に酔っ払って置いてきてしまったのかな」(←以前やった)と凄く忸怩したのですが、そういえば最近の私は極度の貧困でどこにも飲みに行ってませんのです。どこで無くしたんやろうか、今の私には新しいカメラなどとうてい買えんぞ。ととても暗い気持ちでやさぐれてました。8月の半ばに実家から「お前のカメラ家にあるぞ」という報せがあって「ああ」と安心したのですけど、なんでそこにあるんだよ。忙しかったので8月の末になりようやく回収に行けましたのですけど、一ヶ月間カメラの無い生活で良しとしてしまっている現在の私って如何なのか、私は趣味だけのために生きる類いの人間じゃなかったのかて思って、それがすごいわだかまりとなりました。本を読みたい。人としての生を満喫したい。
そういうのが細々としたところにあらわれていたのだと思います。

9月の初めに「自分はもうだめだ」と思って「退職させてください」と言ったら、昨日会社は「他部署へ行ったらどうか」と言ってくださった。断る気持ち満々で「それもいいかも」と思った。だってわたくし貯蓄がほとんど無いから無職期間が無いというのはありがたい。
ちゃんと緩衝的な提案を、こんなくだらない社員にも提示できるこの会社は、とてもいい会社だったんだな少し思いました。こんな低賃金長時間労働じゃなかったら、誰もがこの会社で喜んで働くんでしょうけどね。
この半年の私は「愛想のいい人」をこころがけていたんですけど、あまりの激務にどうしても心を病んでしまうんです。そうするとすごくたくさんの人がこれでもかというくらい温かい言葉を私にかけてくださるのです。死ぬなよがんばれよって。
いい会社なんですよね、それなりに。そうしてみんなが死んでいったんですよね。
というわけで、来月の私は浜松市の中心部の別施設で働いていると思います。
すぐやめちゃうんだろうとも思いますけど。(金貯めたらね)。次の職場はビジネス喫茶店なので、何も考えずに自分の幸せだけを追求し次こそ余生を満喫していけたらばと思います。
でも浜松市街に通うにはやはり金貯めて気賀から引っ越さないといけないのかな。
…ここ、いごこちよすぎて引っ越したくないんですけど。



◎9月21日 荒野のラーメン(西区大山町)


最近全く来てませんけど、新居を決めてこの店が遠くなるのは痛いな。
半年ぐらい前に、荒野のラーメンは昼の「荒野のラーメン」と夜の「夕陽のラーメン」の二部制となると発表されたんです。
わたくし的に来やすいのは夜の部でして、夕陽のラーメン(@唐辛子)も好きなんでいいんですけど、昼の部には昼の部しか無いメニューがあるのです。すりごま甲賀とかネギ忍者とかね。
「夕」と「昼」を検証したく思って。
……と思って行ったんですけど、今日は限定メニューがありました。



徳島ラーメン、800円。
なぜに荒野で徳島なのか。もともと忍者系には「土佐っこ」がデフォであったのですけど、四国に対する何か特別な思いが忍者の人にはあったりしますんでしょうかね。



調べると期間限定の徳島ラーメンは8月からやっていたそうなのですが、好評につき延長なされたとか。

エディ。

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新しい職場になり、通勤時間が片道1時間ぐらいになるので(これまでは10分だった)往復の時間を充実させるための新たな音楽の選定にアタフタしているわたくしです。
そんな折りに、オランダの雄なるブリリアント社から新たな「ヘンデル・マスターワークス」が発売されると聞いたので、ついつい気になってしまいました。
2015年9月12日発売(・・・ですが遅延があり届いたのは10月14日)、65枚組、10,302円(税込み)。

血気盛んなるブリリアント社からは過去2回もヘンデルのマスターワークス(巨匠の仕事の概覧)が発売されているのです。
どちらも私の宝物となっておりますけど、ブリリアント社の特徴として、ヘンデルという偉人の偉業の中核をなす「オペラ」を不当に無視するんですよね。ヘンデルの生涯においては「オペラ」と「オラトリオ」は完全に異質のものです。代表作のことごとくを収録しないでもベストCDをたやすく40枚も構成できるほどの大家なんてそうそうには存在しません。なのにブリリアントにおけるヘンデルは、エッセンスであるオペラ作品を排除してもなお25枚も追加して、このたび65枚組のCD集を発売してしまうというのです。
「いらねー」と思いつつも、やっぱり(愛好家ですからね)買ってしまわずにおられましょうか。




各マスターワークスの収録作品を比較してみますね。

もろもろの谷は高くせられ。

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歌劇《アレッサンドロ》(1726年)
すばらしい。
ジョルジュ・ペトルー指揮、オルケストル・アルモニア・アテネ(2013年)
とりわけ冒頭部分の攻城戦(ペルシャの高位貴族であるオクシュアルテス(←ロクサーネの父)が篭もったソグドの砦をアレクサンドロス大王が攻めた)がすばらしい。
以前の記事で「意図的に削除されている」と書いた「壁の崩壊」の後半部分もバッチリです。(【7:18】の部分から)。音楽がこの部分だけとても緊張している。なによりこの映像は脇役が全員美形です。主役はなよなよしいけどな。(現代のヘンデル作品上映の宿命です)。アレクサンドロス大王が英雄っぽいのは最初だけで、あとはずっとうじうじした男です。主役が史上最悪の惰弱なのに、現れる音楽がことごとく「かっこよさ」を追求しているのがこの時期のヘンデルの特徴です。


学生の頃は「画質なんてどうでもいいよ観れれば」と思っていたわたくしですけど(若い頃録った8mmビデオコレクションは(もう観られないけど)今でも大切に取ってあります)、今じゃもう何でも「ブルーレイで欲しい」だ。何もかもブルーレイにしてほしい。当然すでにYouTubeの画質などには満足など到底できませんけど、「いまげんざいYouTubeで全曲を見られるヘンデルのオペラのリスト」を作っておこうと思います。

ヘンデルのオペラは42作品あるのですけど、わたくしの中でのトップ5を挙げるとしたら、《アグリッピーナ》(1709年)、《テーセオ》(1713年)、《エジプトのジュリオ・チェザーレ》(1724年)、《ロンゴバルドの女王ロデリンダ》(1725年)、《アレッサンドロ》(1726年)、《アリオダンテ》(1735年)です。5人いるのに四天王。6人いるのに五大老。



歌劇《リナルド》(1711年)
リナルドはヘンデルにとっては畢竟を目指した大作でした。装置が凄かったのがリナルドですが、とりわけ凄かったのが馬でした。


歌劇《アルチーナ》(1735年)
この動画はエロい。
アルチーナは「ヘンデルのオペラの中で随一音楽構成が充実している作品」と言われるのですが、この動画のせいで(わたくしも何種類もDVDを所持したのですけど)、他の動画は「えろくないやん」と評価を下げるきっかけとなっとしまったのでした。

絵で見る名誉革命。

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浜松駅の付近で働くようになってはや十日。
せっかくここで暮らすことになったんですから(※住んでいるのは気賀ですけど)、折りを見て周辺各所をうろつきまわるようにしているんですが、「へんな町だなー」という思いが日に日に大きくなってきております。

今日は「第2回家康公祭り」の日でした。家康公祭りは第2回ですが(1回目は来ていない)、同時開催の「浜松パワーフードの祭典 家康楽市」(春秋開催)は第8回目なんですって。そっちは以前一度行ったことがある。
今年はももクロの人が来るそうで、せっかくなので見に行ってきました。なんせわたくし大のももクロ好きだから。(そうだっけ)



でもやっぱり人で一杯で、私のカメラ(←ズーム機能を捨てている機種)ではほとんど撮影はムリでしたよ。とほほ。



初代しげのぎょうざ。

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最近ふたたび夢中になっているのが、餃子めぐりです。
ラーメン屋で食べる餃子ではなく、いわゆる浜松ぎょうざが好きなんだなわたしは。
一時期の浜松の餃子ブームもそろそろ終焉だと思うのですけど、ネットで調べると取り上げられる浜松の人気店ってほぼ固定してるんですよね。でも餃子ってそもそも普通に美味しい食べ物なのだから、行列なんかできない店でも普通に美味しい店がたくさんあるはず。
一時期の浜松餃子のブームは私も「異常だ、そこまでもない食べ物なのに」と思っていましたけど、やっぱり“一度に何個でも食べられる”浜松ぎょうざというのは浜松にしかないものなのだから、わたくしたちだけでも永劫に食べ続けていきたい、そう思いました。もはや絶滅の道しか無いウナギ屋の後は追いませんように。

るんるんのぎょうざ。

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放置してあるように見える記事でもちゃんと完成させますからね!

新宮のぎょうざ。


井伊谷宮(いいのやぐう)。

富士山を賞めるな。

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餃子記事にまだ手を付けてもいませんのに後免なさい。
連休をもらったので伊豆に行ってきました。2年ぶりだよ2年ぶり!
かつて私がこれほど伊豆と離れていたことがあるだろうか!

今回の目的地は松崎町です。



が、西伊豆に行くには伊豆の国市を通らないとならないため、仕方の無いことですけどいつもおきまりの聖地巡礼をしてしまうのです。これは儀式です儀式。大好きな物はいつまでもその場所にあるかどうか確認しとかなくてはならない。

まず行ったのは沼津市の狩野川の河口にある我入道(がにゅうどう)と牛臥山(うしぶせやま)。牛臥山っていつも脇から見ているのに、そういえば行ったことがありませんでした。



今回の松崎行きを思い立ったきっかけは2つあるのですが、その1つはこの本を読んだからでした。



伊豆半島ジオパーク推進協議会・監修『Izu 伊豆半島ジオパークトレッキングガイド 伊豆の山歩き海歩き』(静岡新聞社、2015年)
わたくしが伊豆を去った直後ぐらいから、ジオなんとか的な本がぽつぽつと出版されるようになりました。私の伊豆に関する興味はあくまでも歴史で、ジオなんとかについては知識も関心も無く、でも生物史には少しだけ興味があるから手には取ったり取らなかったりしていたのですが、今年の1月ぐらいに出版されていたコレ。凄く伊豆に行きたくなる一冊でした。
伊豆は基本的に岩だらけですからどこにいっても崖がむき出しになっているのですが、その岩はだ一つ一つにも歴史があるということになると、そんな話。



牛臥山は牛が寝ているような形に見えるからこの名前なんですが、遠景撮るの忘れちゃった。



新しく設置されていた看板が素晴らしい。なんとわくわくする説明か。



こんな景色も伊豆じゃよくあるものだから以前はなんとも思わなかったのだろうけど、溶岩がどういう風で吹き上がればこんな形で何十万年後に残るんでしょうね。(この屏風的な溶岩の壁の向こう側にはむかし大山巌の別荘があったそうで、そっちのプライベートビーチ的な雰囲気の方が明治好きの好奇心をそそりますけど)



牛臥山の反対側にある大朝神社。さっきの看板には「日蓮聖人が津波退散の祈祷をした」と書かれていて、それに由来して“潮留明神”と呼ばれているそうですけど、そんなことよりこの神社は「式内大朝神社」の論社の一つである極めて古い神社だったのでした。(そのものズバリな名前であるに関わらずこの神社が“論社のひとつ”(Wikipediaによると有力候補が別にある)扱いなのは、すぐ近くにある楊原神社(延喜式では明神大社)とこの神社が密接な結びつきを持っていて、こっちの神社の方が完全に従属するものと見なされているせいか、もしくは楊原神社の祭神が大山祇・磐長媛・木花咲耶媛なのに対してこっちは大日靈賣(=天照大神のこと)なのが却って中途半端だと思われるからでしょうかねえ)。由緒ありそうな神社なのに境内には説明案内が全く無く、何が大きな朝なのか、詳細が分かりません(そもそも私は「源頼朝に関係があるんじゃないか」と思ってここを訪れたのでした)。思うに日蓮伝説以前から地形的に、津波があった時などに牛臥山に登る道(登れる道があるのかどうか知りませんけど)の入り口にあるところに作られた神社でも水や岩と深い結びつきのある物なのじゃ無いでしょうか。日蓮は正嘉2年に富士市の實相寺に遊びに行った時(←円珍の手になる一切経を見に行ったという)、途中沼津の村々が津波の被害で苦しんでいるのを見て、何ヶ所かで津波避けの祈祷を行ったという。大朝神社のすぐ近くに「日緬寺」という名前の日蓮宗のおもしろそうなお寺があって、「ミャンマーと何か関係がある?」と思ったんですけど、中に入らなかったのでよくわかりません。(←※サイトを見るとやはり日蓮とビルマとお酒が関係あるお寺のようです)



そこから富士山を見に狩野河原へ。沼津市から見る富士山は、手前にある愛鷹山が邪魔をしてよく見えないもどかしい感じがもやもやと募るのですけど、愛鷹山だって実はとても素晴らしい霊山なのです。いづれ体調を整えて登ってみたい。



我入道の岸辺。脇にある小山に変なお城みたいな小さな建築物があったので「なんだあれ?」と思って近くまで歩いて行ったら、これはこれで由緒のある八幡神社の本殿だったりしました。これも昔は津波の待避所の所に建てられた神殿に違いない。我入道の渡しの付近は独特な味のある建物に溢れていて、沼津市の中できちんと貴重な観光資源になり得る場所だと思いました。


そこから韮山の反射炉へ。



ホロリ。いまいちよく意味の分からない韮山の観光の目玉だった反射炉が、こんなに人のごったがえす場所になってしまうだなんてなあ。世の中ってほんと意味が分からないよなあ。わざわざこんなの遠くから見に来て楽しいだなんて普通は思わないもんなあ。・・・もう世の中のもの全てを世界遺産に認定してしまえばいいのに。
久しぶりに来た世界遺産・伊豆韮山の黄金の反射炉は、脇にあった土産物屋は撤去されて駐車場になっており、駐車場からも良く反射炉のカメハメハ大王のような威容を眺められるようになっていました。隣接していた「地ビールレストラン蔵屋鳴沢」の施設は土産物屋が移転してきており、すさまじい人でごった返しておりました。「あれ、あの美味しい地ビールレストランは!?」と一瞬焦ったのですけど、土産物屋の奥でひっそりと営業してましたよ。・・・また時政御膳を食べに来たいな(あるかな)。

で、一番確認したかったのは、近くにあるあの変な太郎左衛門像です。



あった! あったよ9年前のままだ!



よかったよかった。

そこから山道を登って少しの所にある「頼朝の一句石」へ。



こちらは記憶にある物より少し姿が変わってしまっておる。(ツタが切り払われているだけか)
説明看板が朽ちて割れ落ちてしまっていますね。
そういえば「頼朝の一句石」って言いますけど、伊豆の頼朝伝説蒐集の集大成である『伊豆の頼朝~史跡と伝説~』(静岡県田方地区文化財保護審議委員等連絡協議会編、昭和54年)には、この岩のことは載っていないのでした。松尾書店の『史話と伝説 伊豆・箱根』と小山枯柴氏の『伊豆の伝説』にも載ってませんね。何に書かれてたんでしたっけ?

そこから韮山の時代劇場にある「韮山の英傑ステンドグラス集」へ。



こういうモニュメントは、効果的に作れば観光の目玉になれるはずなのに、全くじみーなのは逆に好ましい。韮山地区にはこういうのに溢れています。



そしてそこから昼食へ。



私がいつからラーメン好きだったのかよく分かんないんですけど、確実に一匹の鯨はその成立に関与してるんですよね。大仁の前に住んでいた下田でも宝来家とか吉田家とか大好きだったし、九州に住んでいた頃も久留米のラーメンとか平戸のアゴとか好きだったんですけど、一匹の鯨やさんって開店して9年なんですね。もっと前からあると思ってた。
開店直後に、「サッカーワールドカップで日本が勝ち続けている間は100円キャンペーン」というのをやっていたのを思い出しました。恥ずかしげも無く清貧だったわたくしは何度も100円ラーメンを食べに行ったなあ。そうそう、あの頃はかわいい娘さんがラーメンを作っていたんだった。



R30ラーメン(750円)と東京タコライス(280円)を注文。
一口目を食べると不思議に甘いんですけど、次第にどんどん生姜の味が口内を刺激してくる、それがとても美味しい生姜ラーメン。むかしに比べるとネギが多くなっててそれがジャマに感じ、また昔の写真と比べると春菊の量があからさまに減っているんだけれど、やはり9年の間にいろいろ試行錯誤して葱と春菊はこの量に落ち着いたんでしょうなあ。(茗荷と春菊はもっと多い方が嬉しい)。でも生姜の後味は鋭さを増していて、むかしより心地良い。



麺も思い出の中にあるのと少し変わっている気がしますけど(おそらく気のせい)、一匹の鯨の麺には独特な香りがあって、とても懐かしい。
一匹の鯨の一番素晴らしいのは後味で、じんじんした感じがこのあと松崎に着くまで続いたのでした。


そこから船原峠を通って西伊豆を目指します。
南国生まれのわたくしはついつい伊豆も浜松も気候が似たようなものだと思ってしまうクセがあってそれは9割方そうなんですけど、観光資源的に一番似ているのが紅葉についてなんですよね。伊豆も浜松と同じぐらい紅葉しない。(局部的な場所を除いて)。そんな伊豆の中で局所的な例外の一つが船原の峠だったことを思い出しました。船原峠の紅葉はとても綺麗でした。でも高速度で運転してたので写真が撮れませんでした。
そこから船原峠を土肥に向かっていく下り道の険しい山容もとても美しい光景だと思います。(すでに船原以下は南国なので紅葉は殆ど目立ちませんけど)。ここの光景も「写真に撮りたい写真に撮りたい」といっつも思ってるんですけど、やはり高速運転で駆け抜けるための道なので、十年来写真に撮る機会が無いのでした。船原の旧道から伊豆スカイラインに入ったところにある「頼朝の運試し石」も「8年前と同じ場所にあるかな」と確かめたく思って旧道に入ってみたんですけど、旧道のどこかで崖崩れが起こったみたいで「土肥には抜けられません」と書いてあったので、引き帰さざるをえませんでした。残念。

そこから一気に南下して、懐かしい西伊豆町仁科に入る直前に、右に入って浮島(ふとう)海岸へ行く。
西伊豆へ足繁く通っていた頃、この浮島海岸が一番大好きな地形と景色なのでしたのよ。



崖に挟まれた狭い海岸で、見る方向毎に景色が全く違って見所多いところが好き。
何年か前の秋に伊豆に大きな台風が来たとき、たまたま私はこの海岸にいてボーっと海を眺めてドラマチックな思いをしていたことがあったんですよ。






昔の絵(写真)はがき風に画像処理。



上空? この上に? この上に海底の火山があってそれがすべて波によって洗い流されたって話ですよね?
気の遠くなる話だ。



でも、こんな岩の模様にまでいちいち注意を持って眺めたことはありませんでした。

そこから小道をたどって田子の町へ。
田子の町は極めて複雑な形をしています。道を知らなかったら私の車ごときでは絶対進退に困る。その分味のある空気があるので、いつかくまなくゆっくりと巡ってみたいと思っていたのでした。だから今日の私は車の中に自転車を積んできてあります。(今日は松崎の町を巡るにして)明日は懐かしい田子の町の探索をしよう、と心に決めました。ついでに、浮島海岸から崖を伝って歩いてくる道の途中に承久の乱で伊豆に逃れてきた宮方の貴人の子の塚(“五輪様”という)もあると聞くので、それも見てみたいと。(・・・でも実際は翌日は時間が無くなってできませんでした)







田子はカツオの町なんですよね。浜松人はカツオが大好きなのです。田子には丸ちゃんの工場があって、そこも仕事で良く通っていました。だから今でも私はマルちゃん製品を愛好してるんだな。





そこから松崎の町へ。
今回松崎行きを決めた理由はコレでした。



少し前にhuluでこのドラマが配信されたのです。「懐かしいなー」と思って一気に観て、それで一気に松崎町に行きたくなった。
私は小さい頃からテレビドラマを見るのが大好きなのですけど、なぜか私の脳内ではこのドラマを観たのは1995年ぐらいのつもりでした。(作中の年代が1986年ぐらいだからだ)。でも本当は2004年の作品だったんですって。そんなに最近だっけ。

まずは牛原山に登る。
牛原山は236mですから登るのはそんなに大変じゃ無いですけど、頂上付近まで車で行くことが出来ます。仕事で松崎に通っていた頃は、この山にも毎週(仕事で)登ってたんでした。
牛原山と牛臥山って何か関係があるんですかね。伊豆って赤牛伝説の豊富な土地だった覚えが。



が、この山、車用の道路は長くて、麓から足で登ってくるのは意外と大変ですぞ。足で登る用の近道が別にあるのかな。


そこから松崎港へ行って車を停め、愛車のトリクロロメタン号(折りたたみ自転車)を取り出して松崎の町の中を走り回ります。



瀬嵜神社。
小さな神社で何の神社かの説明板も無いのですが、社頭の額に「正一位瀬嵜神社」と書かれています。
「正一位とは大きく出たな」と思ったのですけど、家に帰って調べてみたら、お稲荷様のおやしろだったのでした。
お稲荷さんだから正一位なんですね。
ウィキペディアによると、「本社(伏見稲荷)と関係が深い稲荷は全部“正一位”を付けて呼べ」と命じたのは建久5年の後鳥羽天皇だったそうで、それは伏見稲荷に相伝された伝説に基づくと言います。でも松崎のこの瀬嵜神社、おきつね様を思わせる物が全く見えません。



浜丁橋。



















やべえ、松崎の町、ものすごく楽しい。
特になまこ壁の家が無造作に点在する様は下田市を上回っているのではないでしょうか。松崎町の素晴らしいところは、細部のささやかな物に対して再開発される必要がまったくなされなかったという所です。さすが伊豆の僻地。浜松だったら悪い意味でどんな奥地でも即座に破壊されていただろうものばかりです。
TBSのドラマも当たり前の事ですけど、ノスタルジックに見える箇所だけを選んで撮影しているので、あのドラマの中にある町並みがそのままイコール松崎だってわけでもありません。だって、個性的な松崎近辺の海辺の景色って、殆ど出てきませんでしたしね。別に松崎だから成立したノスタルジックなドラマ、というわけでは無いようです。
そもそも松崎には鉄道が走ってませんし。
(松崎や土肥で「駅」って言ったらふつうバス停のことを指す、って以前言ったことがあるな。そういえば「土肥駅」は臺灣料理屋に変貌してしまっていました)
むしろ普通の家々の中に古くさいなまこ壁が取り残されるように点在している、それが住みやすい町かどうかは別にして理想的な景色となっている。
松崎の町はつくづく楽しい。
10年前の私の記憶の中にある町とほとんど同じなんですよね。



そして、町が運営する博物館的な施設である「明治商家 中瀬邸」。



たまたま自転車で走ってたら行き会ったから入ってみただけなんですけど(入館料100円)、ここがひたすら楽しかった。
「中瀬邸」と言いながら正式名称は「旧・依田直吉邸」だそうで、どうしてこの建物のことを「中瀬邸」と言うのか誰も知らないそうです。
「中瀬」というのは地名でも無いとか。
松崎で依田氏といえば「依田勉三」「依田左次平」「依田四郎」などが聖人としてあがめられていて、由緒正しい支配者の一族なのですけど、この「中瀬邸」の依田直吉はおそらく庶流で明治の初めに成金になったみたい。そういう成金的な事情が随所に感じられる建物の細部の意匠がとても楽しい建物だったのでした。(豪華で堅牢な防火蔵の作りが一番おもしろかった)
個人的には依田さんには富士市のあたりでたくさん会ったことがあるので、富士的なイメージの強い名字だったのですが、松崎町の依田さんは源義仲の末裔を名乗っていて天正10年に江尻湊から移ってきたという伝承を持つそうです。(※信濃の依田さんはふつう源為公(みなもとのためとも)の裔を名乗る)。浜松とゆかりの深い依田信蕃とは同族の別流らしい。
で、この中瀬邸の離れが「松崎町ロケ地資料館」になっていて、そこに(おもに『世界の中心で愛を叫ぶ』の)いろいろな作品の小物の展示をしていました。もちろんわたくしは同作が目当てで同町に行ったのですけど、松崎を舞台にした作品って他にもたくさんあるんですね。家に帰ってからhuluに佐藤健の『とんび』もあることを知って、一気に観ました。(『世界の中心』以上に西伊豆が舞台であることに意味があまりない作品でしたけど、この日ふと行った牛臥山の大山巌の別荘跡地が主要なロケ地だったことを知って、びっくりしてしまいました。惜しいことをした、もっと写真を撮っておけば良かった)



で、中瀬邸に付属している豪華なコテ絵のある蔵は、「ジオなんとかの案内所」(※無人)になってまして、これも内部は見応えがありましたよ。


ちょっと巡っただけのつもりで1時間半が経っていました。予定より時間が経つのが早いです。
これは全然時間が足りませんわ。
残りの探索は明日に回すことにして(←果たせませんでした)、一旦宿に向かうことにしました。

本日宿にすることにしたのは、町営の「伊豆まつざき荘」です。海に面していて景色がとても良さそうだったから。
宿泊費は一泊10,260円(税込)。



まつざき荘は「夕日のよく見える宿」だそうで、部屋に入って外を眺めますと、さすが。



で、窓から右下を見ると、「弁天島」という名前の小山があったので、そこに行ってみたくなりました。
弁天島はむかしは島で「巨鯛島(こだいじま)」と言ったんですって。



島は小さいのですけれども、さまざまな形の石が組み合わさっていて、とても見所が多いです。
ぐるりと一周して歩ける遊歩道が作られていて、とても楽しい。このような島も伊豆には何ヶ所もあるものですけど、ジオなんとかなんてものには私は興味を持ち合わせていなかったからかつては「伊豆っぽい景色だなー」ぐらいしか思わなかったな。
ジオヘリテイジに興味を持つようになると、小さな岩ひとつひとつの形が非常に面白い。
・・・が、すでに光量の足りなくなる時間にさしかかっていたので、(写真はたくさん撮ったんですけど)ほとんど私のカメラは役に立たなくなっておりました。あの洞窟の写真が欲しかったのに、残念。



この細かい石が固まってできたような巨岩(こういうのもさざれ石と言うのかな)がこの島の構成物で、見た限り触ったらぼろぼろと崩れてしまいそうに見える岩ですが、実際はすごく硬い。またこういう岩とは別に巨岩もごろごろしていて、「こりゃ確かに信仰対象になりそうな島だ」と思いました。ちなみにこの島の別名が「巨鯛島(古代島)」というのは、ここが黒鯛釣りのスポットであるからのようです。



島の裏側(まつざき荘のある側)からは99段の石段があって、それを登ると大永5年(1525)に勧請されたという厳島神社があります。この山の頂上付近の景色も足下の岩の様子もこれまた面白い。(本当は植生も面白いのだそうですが、それは現在の私でも全く興味が無い)



もう暗くてブレブレですけど、とても面白い形をした神社です。
こんな変な形の神社ってある? 拝殿(?)前には白い玉石が敷き詰められています。
また、軒先には(よく見えませんでしょうけど)変な飾りが。




伊豆まつざき荘から見る夕日は、確かに見事でしたよ。





(・・・つづきます)

西伊豆の伝説の中にいる源頼朝の正体。

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12月1日・2日に行った松崎旅行の日記の続きです。

まつざき荘は元・国民宿舎でまた、宿泊料金も安かったのです。
そして、公式サイトおよび館内案内はやたらと追加料理推しなので、「こりゃ夕食の量が少ないんだな」と思いました。
ま、わたしはもともと小食な方なので、「その方が夜中に飲みに行けるからいいやな」と思ったのですが、念のために調べてみたら、松崎って飲み屋ってあるの?と心配になるくらい居酒屋情報が少ない。隣町の仁科にまで歩いて行けば、懐かしい串特急があるんですけどねえ。
「こりゃ、夕食時間をできるだけ早くして、夜の早い松崎の町のどこかで一人二次会をしよう」と思ったのですけど、16時前ぐらいに宿に着いてチェックインしてみたらば、この宿の夕食時間は18時一択で所要時間は約2時間なんですって。終わっちまう、そんなに時間を掛けていたら松崎の夜は終わってしまう。

・・・というわけで、夕食の前に一人二次会を試みることにしました(笑)



行きましたのは「西伊豆唯一の回転寿司屋」だというこちら。珍しい地魚の握りがたくさんあるというので。
わたくし魚好きなんですけど、マグロが比較的好きではなく、あんなに好きだった鰺も最近あんまり食べなくなっている。

5時開店(それまで懐かしい松崎の聖地エル・ピーノで時間を潰していました)。本日のメニューはこんな感じでした。



正気の歌。

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斡離不(オリーブ)と粘没喝(ネメガー)。悪ぃい子はねめガー。

職場の人に『岳飛伝』(2012)のDVDを貸してもらって観てるんですけど、これ目茶苦茶おもしろい。
私、田中芳樹の小説『紅塵』が大好きでしたからね。精恐なる大金帝国の英傑の数々と、それに抗する「抗金名将」の人たちの活躍を長々と(全69話)見ていられるのはとんでもなく楽しい。
(いま45話目ぐらいを観ています。)
ただ、(そもそもわたくしこの時代にそんなに詳しいわけじゃなかったけど)私の知っている物語の流れと若干違うのがこれまた面白い。
例えば小説『紅塵』では主要な登場人物として満ち足りた余生を送っていたはずの"太鼓を打ち鳴らす美女"の梁紅玉が、ドラマでは「こんなところで殺してしまってどうするの?」という場面で死んでしまうのです。また"宋の中興の名君"とされている「南宋の高宗」がドラマではとんでもなく愚帝。(もともとそういう評価だっけ)
ああ、楽しい。



この人は大金帝国第3代皇帝・熙宗となる完顔合刺(ホラ)の太子時代。
もっさりとした見た目だけど、完顔阿骨打の大太子(ターターツ)の完顔繩果(ヒェンガ)の子。つまり金の太祖の嫡孫。金の諸将には舐められまくってるけど物語次第で意外といい帝王になるんじゃないか。(最後に殺されるけど)
で、Wiki情報だと完顔粘没喝(金で一番強い人)は合刺を擁立して立った側だと思ってたのに、ドラマではわざわざ合刺と対立する。そして"二太子"完顔斡離不ととことん仲が悪い。(本当は仲が良いはずなんですけどね)。名将・斡本(オッベン="斡"の字があるのに太祖阿骨打の「庶長子」で“太子”ではない)は出てこないです。金の名将・撻懶(ダラン)は出てきたかもしれないけど、私が借りたのは26話以降なので(前半は面白く無さそうな気がする)見た記憶が無いですね。



(わたしは金の側に肩入れして観ています)
このドラマの主役は"四太子(スーターツ)"完顔斡啜(オットー)、別名;"からす天狗うじゅ"で、この人中国史上有数の名将のはず(※田中芳樹調べ)なんですが、変な人たちばかりに囲まれて、もうとんでもなくかわいそうな人としてしか見れなくなりましたよ。
ああ、金の全盛期の頃の人たちとモンゴル帝国の人たちが戦ってほしかったなあ。




さてさて、読み貯めている本の、気になる一節の抜き書きの続きです。

●2015/08/18 20:07
「肉体の美しさは肉体のすべての部分が相互に調和を保たれて配置されていなければありえないが、しかし「醜さ」は、そのいずれか一つの部分がうまく配置されないだけで作られる。逆に言うと、「醜さ」は多くの原因から様々な仕方で生じるが、「美しさ」は唯一の完全なる原因からできあがる」(聖トマス・アクィナス『君主の統治について』)


●2015/08/18 18:29
「道の両側ではいつも人が殺し合っていた。人が人を殺す数は、疫病が人を殺める数や邪神が行う殺戮よりも遙かに多かった。市がおこり家々が埃の中に建ち並んだが、砂漠はいつも元の砂漠に還り、安息所を乱したとみればその最後の残りかすまで、あますところなく砂の下に流し込んでしまった。そして人は殺し続けた。やがて、人が獣どもを使役する代わりに鉄の獣を創り出してそれを使役する時代にやってきた。その後も、霧の中で人は人を殺し続けていた。いつか殺戮が彼らの欲望を超えるようになったとき、殺戮者の手によってもたらされた世界に平和という物が生まれ、人は人を殺さなくなった。すると突然、安息に倦んだおかた(=マアナ・ユウド・スウシャイ)のことでペガーナにどよめきが起こり、終末が近づいていることを人々は知った」(ロード・ダンセイニ『ペガーナの神々』)


●2015/08/08 19:51
「桓公は老いて半引退していた管仲に訊いた。「次の宰相として豎刁(じゅちゅう)はどうか?」 管仲は答えた。「彼はいけません。人は本能で自動的に自分の為に最善になるように吟味に吟味を重ねて仕事を組み立てるものです。ところが豎刁という男は、わが君が異常な女好きでとことん嫉妬深いと聞いたから、去勢までして君に気に入られるようにして後宮の長になりました。でも、自分の身を大事にしないような者が主君を大事にすることなどありましょうか」」(『韓非子』)


●2015/04/28 00:44
「夷人(=ペルリ)は、もしこのたびの国書を受け取らないようであれば必ず乱暴狼藉を尽くしてから引き上げると申しておるらしゅうございます。それが伝わっているので下曽根殿などは、家来二人に決死の覚悟で来るようにと通知されたとか、また奉行の戸田殿はまさかのときに夷人の手にかかるのは無念なので寺で自害するからと、寺の掃除を命じられたと聞きます。しかし、とてもだめだと思うときには、寺などに行かれるよりは、奉行屋敷に火をかけて自殺される方が良かろうと私は思います」(佐久間象山『海防論』)


●2015/04/26 03:15
「越王の勾践は呉に降伏して敵軍に仕えることとなり、低い身分である“洗馬”となって、兵卒として自ら呉軍の先陣で戦った。そして呉王夫差をまた姑蘇で殺した。周の文王も、殷の紂王に玉門で囚われ激しく罵られたとき顔色を変えずにそれを受け入れた。だから息子の武王は牧野で紂を擒としたのである。強に対して強く対せず、下手にでて柔らかく向かうことが強に勝ることはあるのである。越王の覇は宦するを病(うれ)えず、武王の王たるや、罵られることを病えなかった。聖人とは、普通なら憂いとすることを憂いと思わないので、憂いが全く無い人なのだ」(『韓非子』)


●2015/02/23 15:26
「事実を確実に握らぬうちそれを説明をすることを避けようする慎重な態度はとても大切なことです。私はそのことを、滅多に話したことのない一人の婦人から学んだのです。数人の紳士が集まって、支那人の靴だろうと思われる物を手にとって、裏返し表返しして熱心に調べ、「一体これはどのように履くのか」「そもそも履けるものなのだろうか」と互いに論じ合っていたとき、この女性は慎ましやかに言ったのでした。「みなさま、でもこれはそもそも本当に靴なのでございましょうかしら? そのことを先に解釈しなければ駄目でございましょう!」、と」(『フランクリンの手紙』)


●2015/02/19 19:24
「吉田はよく外交の場にもユーモアを利用した。戦後、東南アジア諸国は一斉に日本から戦時補償を求めたが、インドネシアのスカルノ大統領を迎えた吉田はいちはやく大統領訪問の主目的を察知し、微笑しながら切り出した。「閣下のおいでを待っておりました。インドネシアはいつも台風を送ってくださるので、われわれは大被害を受けています。ぜひ補償をしていただきたいと前から御来日を心待ちにしていたのです」。そこで大笑いをしたので、さすがのスカルノも毒気を抜かれ、補償問題を持ち出せなかったそうである」(リチャード・ニクソン『指導者とは』)


●2015/01/17 01:47
「袋のネズミとなっている敵を撃ち取るには?」
「策を立てぬことです。実際当たってみて、その場で一番良い計を採りましょう」
(『孫臏兵法』)


●2015/01/16 14:19
「文章を大別して韻文と散文に分けると、多くの国にはまず初めに韻文があった。文字のない時代、語り部の人が記紀を語り継ぐのに、韻を踏み、一定のリズムに従って語れば誤り少なく語ることができたからである。(中略) そういうわけで、詩は各民族の母国語であると言われている。韻文必ずしも詩とは限らず、詩、歌、詞など全てを含む。 (中略) ドイツ語の詩は目で見たときの視覚的要素もむろんたいせつにされるけれども、何よりも音の効果が重んじられる」(小塩節『ドイツ語とドイツ人気質』)


●2015/01/16 14:01
「伝統的な評議会は通常七人からなる。まず頭目オーランスがおり、三柱の神と三柱の女神がそれに加わる。すなわち、農夫バーンター、牛飼いヴォーリアフ、狩人オデイラ、大地母神アーナールダ、羊の母アイリーサ、穀物の女神エスローラである。さらに雨の神ヘラー、戦いの神フマクト、嵐の雄牛ウロックス、商人ハースト、山猫インキンなどが含まれることもある。
また、首領のオーランスはさまざまな「息子なるもの」に補助されていることも珍しくない。すなわち、冒険者、戦士、良き声、轟くもの、など。これらもよくまとめて「雷鳴の兄弟」として評議会に加えられる」(グレッグ・スタッフォード『グローランサ年代記』)


●2014/12/29 12:40
「駿府で浄土と法華の論争が起こり、いよいよ対決に及ぼうとしていた。案じた君はまず法華の僧を召して問うた。「明日の宗論でお前が勝てば大変な名誉である。勝った場合負けた者をどうするか?」。法華の僧(日経上人)は答えた。「首は刎ね、その宗を根絶やしにすれば、今後このような騒擾の起こることは無いでしょう」。君は次に浄土宗の僧を召して同じ事を訊いた。浄土の僧(廓山上人)は何も答えず、君が返答を強要すると、「宗派の間で論争が起きるのは、それぞれの開祖を強く愛しているためです。負けたとしても咎めるに及びません。放っておいてよいでしょう」と言った。君の機嫌は悪くなった。「私は切実に問うておるのだ。お前は本心を言わないのか」。僧は困り「ならば、負けた側は宗派の名誉を汚したという咎で袈裟を脱がせましょう」。これを聞いて君の機嫌が直った」(『東照宮御實紀附録』)


●2014/12/29 11:38
「日本を囲繞したさまざまの民族でも、死ねば途方もなく遠い遠い処へ旅立ってしまうという思想が、精粗幾通りもの形をもっておおよそは行き渡っている。ひとりこういう中においてこの島々にのみ、死んでも同じ国土を離れず、しかも故郷の山の高みから永く子孫の生業を見守り、その繁栄と勤勉とを顧念しているものと考え出したことは、いつの世の文化の所産であるかは知らず、限りもなくなつかしいことである」(柳田國男『魂の行くえ』)


●2014/12/29 10:31
「セプールベダは、生け贄などの不正な死から人々を守ること、圧政から弱者を解放することの点から、エルナン・コルテスのアステカ征服を正当化した。(中略) 2つの悪が存在する場合、最小悪は許容されねばならないとラス・カサスは反論した。すなわち、(1).戦争では救われる弱者より多い無辜の人々が犠牲になる (2).戦争では無実な人と罪人の区別が困難である (3).インディオが犯している生贄の罪は「弁解しうる不知」によるもので、人間によって裁かれるものではない」(染田秀藤・他『もうひとつのスペイン史~中近世の国家と社会』)


●2014/12/10 00:05
「徳川人はみんな小さいのだ。何しろ、権現様に敵うものがありゃしない。天下の経綸などということはみんな権現様ひとりでするのさ。他に何も相談する必要がない。それでごく正直な手堅い人ばかりを用いたものだ。本多佐渡だけが僅かに多少相談に預かったようであるが、あれはサギ師だから、ほんの僅か事を言うただけさ。よく歴史を御覧な。誰が家康に意見を言ったものがあるエ。あらしまい。信長などは、それと違って才子を用いた。それで末路がアアさ。権現様などは才子は要りはしない。何でも自分一人で考えるよ」(『海舟座談』)


●2014/12/09 21:28
「ダンセイニ卿の視点はあらゆる時代の文学において最も宇宙的と呼べるものである。この著者は劇的効果や個々の言葉や細部の意味に対してポウのように感受性が鋭く、ジェイムズ王の欽定訳聖書の散文に基づく単純な叙情詩風の文体によって修辞的にはポウをしのぐ。(中略)、完璧な調和や均質性を犠牲にすることなく東洋の色彩・ヘレニズムの様式・チュートンの憂鬱・ケルトの沈思が豪華に混じり合った、混成され折衷された幻想的な流れを生み出しているのである」(H.P.ラヴクラフト『文学における超自然の恐怖』)


●2014/11/30 19:08
「王は一人で密かに政策を策定すべきである、とバーラドゥヴァージャは言う。というのは王の顧問にはさらなる顧問がおり、さらにそれにもさらなる顧問がいる。これら一連の顧問たちが機密の漏洩の危機となるから。秘密の漏洩が一番損うものとは王の安寧と官吏の権限、すなわち政府機能である。それゆえ、政府の者は王の意図をいかなる場合も知るべきでは無い。補佐官達は王の計画が始まったとき、あるいは完遂したときに国王の企図を全て知るべきだ。
一人では政策は決定できない、とヴァーシャーラクシャは言う。国王の活動は直接知と間接知と推論にもとづく。あらゆる可能性や未だ知られざる要因の検討などは、補佐官の助けなくしてありえない。王はいかなる人をも軽蔑せず、全ての人の意見を広く聞くようにせよ。たとえ子供の意見であろうとも、一番理にかなった説を採用せよ」
「とりわけ厳しい難事に直面したとき、気の合う二人だけで話し合っていても結論に達しない事が多い。また、唯一の右腕というものはやがて勝手気ままに振る舞うようになることも多い。
王が二人の顧問を定めて共に協議する場合、その二人が結託すれば王は圧倒されるし、また二人が争えば王国の滅亡の原因となる。
勢力の拮抗した3人か4人の合議制になるとこの危険性は限りなく小さくなる。しかしもしそれが起こったとしたら、もはや王国は危険の段階を越えている。
人が5人以上集まると、逆に物事の決定に支障が出るし、機密の保持も極めて困難になる」(カウティリヤ『実利論(アルタシャーストラ)』)


●2014/11/17 23:52
「臨時閣議の席上、私は極秘の電報を報告し「これで満州が戦禍を蒙る心配はなくなった」と述べた。すると敵であった高橋農商務大臣は卓を隔てて私の真向かいにいたが、わざわざ卓を一巡りして私の所へ来た。そして両手で私の手を握りしめて「よかったよかった、君が頑張ってくれたので日本は救われた。もし我々が主張したように張作霖を日本を援助していたら、大変な事になって列国にも顔向けが出来ず、我々は進退に窮せざるを得なかっただろう。これで日本の利権は保全され、日本の信用は維持せられる。こんな愉快なことはない」。高橋是清という人はこんな人であった。先刻までは憂国の一念で私と激論を闘わしていた人なのだ。それが時局の好転を聞いて自分の立場とか面目に拘泥せず、かえって自分の主張が行われなかったことを喜ぶという」(幣原喜重郎『外交五十年』)


●2014/11/17 21:45
「ユーモアは嫌われるのに慣れてしまい、どんなこともかゆくなくなってしまった。ユーモアは自分自身すらも、ユーモアで扱う事がある。ユーモアは不滅だ」

合唱「不滅だ!」

独唱「ユーモアは賢い!」

合唱「賢い!」

独唱「そしてすばしこい!」

合唱「そしてすばしこい! どんな物、どんな人の中も抜けていく!」

独唱と合唱「だから、ユーモアに栄光あれ! ユーモアは勇気ある人間だ!」

※「ユーモア」とはイソップやナスレッディン・ホジャやきっちょむさんや果心居士のことです。
(イェフゲーニ・エフトシェンコ『バービ・ヤール』)


●2014/11/16 01:30
「古代エジプト人が星空に不変なものを求めていたのに対してメソポタミア人は天空上で変化するものに注意を払っていました。天空上での変化とは、日食や月食、掩蔽や彗星の出現、さらには天空で複雑に運行していく惑星の動きなどに重大な関心を持ち、古くから詳細な記録を残していました。古代メソポタミアでは天空は神々の司る世界であり、天空の変化と地上での人間界の動きは相関があると信じられていたのです。そして天空上の変化は地上の社会と動きとともに記されました。 (中略) 古代エジプトでは不変を重要視したので皆既日食の記録さえ残っていません」(近藤二郎『星座神話の起源 古代メソポタミアの星座』)


●2014/11/15 23:03
「曹操の『新書』では「われらと敵の戦力差が2対1なら、兵を2つに分け、片方を“正兵(正面攻撃軍)”とし、片方を“奇兵(遊撃軍)”となせ。もし5倍の兵力差があるのなら、5分の3を正兵、2を奇兵とするように」と述べています。でも曹公以前に孫武が言っています。「戦さはすべて奇・正によって決まる。だが奇正の変化は極める事はできぬ。奇と正が互いに絡み合う様子はまるで転変が円を描いているが如しなのだ。何人にもそのしくみを極める事は出来ぬ」と述べています。私は孫武の方を真実だと思います」(『李衛公問対』)


●2014/11/15 03:01
今日の尊良親王「建武二年内裏千首哥の中に、九月盡を 
「さりともと 猶やしたはむ けふにのみ かぎらぬ秋の わかりなりせば」 
(大意)そうは言ってもますます彼が恋しくなっちゃいますよ、こんな気持ち今日だけじゃないですよ、だって彼と別れたのは秋だったんだもん」  (※秋は特別な季節)
・・・尊良親王の歌って非常に多いんですが、その大部分が「建武二年内裏千首哥」での作品なんですね。この歌会は、父の後醍醐天皇の治世の絶頂期に2回に分けて開かれたものですが、その一ノ宮である尊良親王はひたすら、弟の大塔宮護良親王を慕った歌ばかり詠んでいる。(実はその1ヶ月前に足利直義によって弟が殺害されているからです。) この歌会に弟の宗良親王は参加していなかったみたいです。


●2014/11/15 02:18
「「新聞には面白い事は何も載っていないのかい、ワトスン君」と彼は言った。もちろん彼の言う「おもしろいこと」とは犯罪絡みのことに限定されるのは私はよく承知していた。確かに最近革命や戦争が起こりそうだとか政権交代が迫っているなどというニュースはたくさんあったのだが、こうした話題は全くわが友の眼中には無いのだった。私の見たところ、犯罪に関するものはありふれたつまらぬ事件しか無かった。ため息をついて、ホームズはまたせかせかと部屋の中を歩き始めた。「ロンドンの犯罪者ときたらまったく退屈な連中ばかりに成り下がってしまったね」とホームズはぼやいた。(『ブルース-パーティントン設計書』)


●2014/11/15 00:31
「(伊邪那美の命は)火を産んで保登を焼いてしまい、病床につきました。身体は灼熱し苦しみ悶えて吐いた物の中から金山毘古と金山毘売が産まれました。伊邪那美の女神は言いました。「愛しい人は私に会いたいと言うが、私は今の姿を見られたくは無い。彼は上津国(現世)を治めるが良い。私は下津国(地界)を治べることとしよう」。でも黄泉平坂まで歩いて来たとき「私は夫の知ろしめす上津国に荒ぶる息子(=カグツチのこと)を置いてきてしまった」と思いました。彼女は再び道を戻って、更に子供を産みました。伊邪那美が屎から産んだ神は埴夜須毘古と埴輪夜須毘売、これは土の神です。次いで尿から産んだ神は弥都波能売、これは水の神です。また天吉葛(あまのよさづら)と川菜(かわな)も産みました」
「私の荒ぶる子(火のカグツチ)が暴れたら、水の神は瓠(ひさご)、土の神は川菜をもって鎮めなさいよ」と母はこまごまと子たちに教え諭しました。その荒ぶる息子の火産霊神(亦の名は火之迦具土)は埴山毘売と見合いをして稚産霊(ワクムスビ)を産みました。更にその子が豊宇気毘売(トヨウケビメ)なのです。結局、伊邪那美の命は火産霊(ホムスビ)を産んだ事が原因となって亡くなりました」(平田篤胤『霊の真柱』)


●2014/11/14 03:33
「アレクサンドロス大王の事を批判する人は、批判に値すべきことだけを取り上げて言挙げすべきではない。大王の全ての業績を列挙し、その上で、己自身がどんな人間なのか、自分がどの程度の運を手にしているのかをとくと考量してかかる必要がある。あなたは文句なしに両世界に君臨する王者となり、至るところにその盛名を轟かせた、人間として最高の幸運に恵まれた人物の人間性を批判することなどできるのか」(アッリアノス『アレクサンドロス大王東征記』)


●2014/11/14 03:05
「シルフィウムは焼いた肉にかけるソースなどに入れられたが、とくに彼らのお気に入りであるこってり味の肉料理、ことに胃袋や乳腺、雌豚の子宮などの料理に愛用された。「ワインをすすりながら」と古代のグルメ詩人アルケストラトスは書いている。「クミンときつい酢とシルフィウムでマリネにした胃袋か茹でた子宮、あるいは旬の鳥の柔らかい内臓などのちょっとした美味な料理を供しよう」。だがこの詩人もシルフィウムを魚料理に使う事には難色を示した。「新鮮な魚を調理するとき、シラクサ人やイタリアに住むギリシャ人を近づけてはならない。連中は何にでもチーズを乗せ、水っぽい酢と酢漬けのシルフィウムをかけて台無しにしてしまう」(アンドリュー・ドルビー『スパイスの人類史』~シルフィウム、絶滅したスパイス)」


●2014/11/13 19:43
「第十条、座の場での論争の果てであっても、あるいは酔ったはずみであっても、不慮に相手を殺してしまった者は死刑か流罪とし、所帯は没収される。ただしその父や子は事件に無関係であるならば罪に問われるべきではない。
故意の刃傷についてもこれに準ずる。
ただし、子や孫が、父祖の誰かのかたき討ちと称して殺人を犯した場合はその限りではない。その犯罪は、父や祖父に仮に知らされずに行われたものであったとしても、その父や祖父の怒りのためにおこなわれたものだからである」(『御成敗式目』)


●2014/11/13 19:13
「六つめ、悪をこらしめ善を広めることは古来からの良いならわしです。人の善は埋もれさせるべきではなく、悪は見たら必ず退治するべきことです。へつらいやあざむきは国家を覆すための道具で、人民を絶つ鋭い剣となります。上司に部下のあやまちを告げ口し、他方で部下にはさかんに上司の過失をそしる者は、君に忠なく、民に仁なき人とみなされます。これは国土の大乱の元となります」(聖徳太子『十七条の憲法』)


●2014/11/13 18:42
「鬼が兇悪な威嚇の表情を持ち始めるのは仏教の影響によるものと思われるが、「鬼門(艮=うしとら)に居座するゆえ」という語呂合わせ的俗説も捨てがたい。(中略) この「うしとら」の方向を、牛と虎の要素より造形されていく鬼の塑像の原因に当てた俗説は、多分に結果論的ではあるが、おそらく貴重この上ない虎皮の美への瞠目と、それをまとう者が持つであろう圧倒的な力への空想がなさしめたものとしておもしろく思われる」(馬場あき子『鬼の研究』)


●2014/11/13 04:11
「城壁と堡塁はわたしがかつてキリスト教国で見たことがないほどいとも白く明るく輝いていました。というのは彼らは石灰に砂を混ぜず、わざわざその用途専用に作られた真白な紙とだけ混ぜるからであります。すべての家屋と堡塁は、それまで私が見たうち最も美しく快い瓦で掩われ、瓦は黒色で指二本の厚さがあり、一度葺けば4、5百年は保ちます。都市とも呼びうるような城の街路を進むと、地上の楽園に踏み行ったかと思うほどいとも清らかで白く、道路と家屋はまさに今日できあがったのかという印象を受けるほどでした。私はその宮殿(多聞山城=松永霜台久秀の居城)を見物するために中に入りましたが、そのただ一部だけを記すだけでも多くの時間を要するのは確かでしょう。それほどこの建築物は完璧でした」(ルイス・フロイス『日本史』)


●2014/11/13 03:45
「およそ政は拠るところに立ち、禍いは安んずる所に生じる。わが国の場合、拠るところとは海、安んずるところとは外患である。頼みにすべき物が頼りにならないのならば、安んずべきものも安んずることはできない。無根拠に安堵したふりをして太平を唱えていてはならない」(渡辺崋山『慎機論』)


●2014/11/13 03:41
「西洋諸国の土地を考えてみると、北極から70度から始まって45度の地点で終わる。55度以下のところが最も多い。これをわが国と比較すれば奥蝦夷あたりであり、人は多くなく、土地も広くない。耕しても食うには足りない。織物も着るには足りない。だから肉を食い、皮を被り、必死に働き、寒さを畏れない。やがて北から南に向かって移るようになり、ついに中から英傑の君主が出て、今の隆盛に至った。つまり西洋の繁栄のみなもとは、土地の豊かさでも人口の多さでもないのである。それはただ勤勉か怠惰かによった」(渡辺崋山『慎機論』)


●2014/11/13 00:12
「私(アルメイダ)もその日、地位の高い熱心な2人のキリシタンに会うためある城に赴きました。彼らは大いなる喜びと愛情を持って私たちを迎え入れてくれました。私たちは2時間にわたって彼らがデウスに対する義務について語らいました。彼らは日本の習慣に従って用意された飲食物で大いにもてなしてくれました。辞そうとするとその主人は、もし差し支えなければ、日本中で最良で最美の城である多聞山城という城をお目に掛けたい、と言いました。それは彼らが仕える弾正殿(松永久秀)の居城でした。 (中略) 弾正ははなはだ巧妙・裕福・老獪な人物で、公方様や三好殿も彼が欲する事以外はなしえません。しかも彼はデウスの教えの大いなる敵なのです」(ルイス・フロイス『日本史』・・・この流れでアルメイダは本当に多聞山見物に行ってしまう)


●2014/11/12 14:09
「物事は自然に倣うのが最もよい。自然はあらゆる場面で最善に働くからである。自然の中ではすべての統治を一者が司る。たとえば身体の諸部分は心臓が全て動かすように。霊魂の諸部分を理性が主として支配するように。蜂に単一の王が存在し、全宇宙に万物の創造主にして支配者である唯一の神が存在するように。したがって、人間の集団の場合も一人の人間によって統治されるのが最善である。このことはまた経験に照らしても明白である。というのは、一人の人間によって統治されていない領国あるいは都市は、分裂に悩まされ平和を知らずに混乱するのが常だからである」(トマス・アクィナス『君主の統治について』)


●2014/11/12 07:41
「てめえ、○○してやるぞ」といって恐喝した場合、言っただけで何もしなかった場合には、それを実際にした場合の罰金の半分を課す。仮に彼に責任能力が無かった場合や、または怒り・酩酊・精神錯乱が明らかに認められた場合には一律に12パナの罰金が科されるべきである。彼が被害者に対して明確な敵意を持ち、また実際に被害を与えられる能力があるのならば、裁判の場において被害者の今後の終生の安全を誓わねばならない。出身国や出身地を侮辱したなら最低限の、身分(カースト)や職業(サンガ)を侮辱したならそれなりの、神や聖地(チャイティヤ)を侮辱したなら最高の額の罰金を課す。(カウティリヤ『実利論』、紀元前4世紀)

●2014/11/12 02:38
「舎利弗(サーリプッタ)さん、かの国には実に不思議な鳥々が棲んでいます。白鵠、孔雀、鸚鵡、舎利、迦陵頻伽、供命の鳥などです。鳥たちは、毎日昼夜の6時にそろってまことに和やかで雅な声を奏でます。その声は五根五力七菩提分八聖道分の法を語ります。その国に住んでいる人はこの鳥の声を聴いて、仏を思い、法を慕い、僧を尊ぶのです。舎利弗さん、これらの鳥は人の罪を戒めるためにそんなことをしていると思ってはいけませんよ。なぜならその国(極楽浄土)にはそもそも三悪(地獄・餓鬼・畜生)の趣味が無いからです。それらの悪はその名すらありません。このもろもろの鳥たちは、阿弥陀様が音でもって世界をきれいにしようと思って仏自らが変化した仏の化身なのです」(『阿弥陀経』)


●2014/11/10 05:37
「サヨリの下顎は小魚の時から長いのではない。生まれて間もない頃の下顎はほとんど普通の魚のようなのだが、成長とともにだんだんと長くなり、体長5㎝程で最も長くなり、以後それが幾分短くなって落ち着くのだそうである。(サヨリは40㎝ほどになる魚)。 (中略) ダツの稚魚も4㎝ぐらいまで下顎が長くサヨリの稚魚にそっくりだが、ダツはやがて上顎も成長し同じ長さになる。 (中略) サヨリは水槽で飼育するには難しい魚である。下顎が伸び始めると、下顎を水槽壁に突き当て、変に下顎の曲がったみっともないサヨリになってしまうという。 (中略) 槍のように突き出たカジキの上顎は餌を突き刺して食べるのに役立つし、上顎・下顎ともに長いダツの口は、食物を挟むのに有効に働く。ところがサヨリのこの長い下顎は、なんらの役もしないそうである」(末広恭雄『魚の博物事典』)


●2014/11/09 20:43
「ミジンコが新しい外骨格を作るのに必要なエネルギーはどの程度かを調べた論文があります。それによると、体長2㎜のミジンコが一回の脱皮によって捨てたエネルギーは卵2個分の生産量に匹敵し、体長4㎜のミジンコの場合は17個の卵の生産量に相当する、とのことです。これはミジンコにとってもとても大きな負担だと考えられます。ところが、脱皮をする事がミジンコにも大きな恩恵を与えている面もあります。脱皮をすることで、殻の形(体型)を短時間で変える(尖る)ことができるということです」(花里孝幸『ミジンコが教えてくれること』)


●2014/11/09 12:16
「トロウルの社会は女系制で構成されている。 (中略)  トロウルの男性は横暴な妻のせいで(妻の目の届かないところで)乱暴になったり逆に哀れな臆病者になったりすることがある。かかあ天下で、配偶者に恐怖で支配されているトロウルは確かに多いのである。もっとも妻と穏やかに愛し合っている者はもっと多いのだが。妻はねぐらを支配するが、男が家の中で奴隷だというわけではない。家の中でも男は自分の思うように行動している。ただ、何かを「しとくれ」「しないどくれ」と言われたときに妻の言葉に従うだけである。トロウル社会では常に女は男の上位にあるが、ルーン王レベルの男性は入信者レベルの女性よりは上位である」(グレッグ・スタッフォード/サンディ・ピーターセン『トロウル・パック』~「ウズの書」)


●2014/11/09 11:49
「勇敢な軍隊は、勇敢な兵士がそこにいるからそうなるのではなく、規律があってよく守られるからそうなるのだ。というのも、仮にわたしが第一列隊の一員であるとして、わたしが突破されたら何処に退却し誰があとを引き継ぐかが分かっていれば、常にわたしは勇気を振り絞って戦うだろうし、すぐ後ろの援護兵はわたしを見てくれているわけだ。もし私が第二列隊にいて、第一列隊が押されて退却してきても、怯えはしないだろう。それもわたしの予測の範囲内であり、わが主人に勝利をもたらすのは自分であろうと望みもするから」(ニッコロ・マキャベッリ『戦争の技術』)


●2014/11/09 00:12
「明治以降の日本の食物はほぼ三つの著しい傾向を示していることは争えない。その一つは温かい物が多くなったこと、二つには柔らかいものの好まるるようになったこと、その三にはすなわち何人も心づくように、概して食う物の甘くなってきたことである。 (中略) 昔も飲食の温かいというのは馳走であった。神や仏への供物の中でも何か一色だけは湯気の立つものを供えようとしたのだが、儀式手続に時間がかかるために、晴の食物はどうしてもこれを冷やしがちであった。温い物を勧めるという事は料理人の工夫であり亭主の心入れのしるしでもあったはずだが、昔はかえって尊敬する賓客の前にはその誠意は表しにくかった。その理由は至って単純で、つまり昔の我々は皆が一緒に飲食するということを、温かい食事よりもなお重んじたのである」(柳田國男『明治大正史 世相篇』)

天狗連盟。三人ヒョロガリ。

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10月に職場を改めてから半年が経ちました。
今の職は拘束時間はやたら多いしサービス残業も過多だし給料も安いし通勤時間もひたすら長いのですが、休日は週二日確実にあるのです。(前の職場とは段違いだ)。今の私の生活は非常に満ち足りています。休みがあるってなんとすばらしい。私は休んでいる間に生きている人間なんですよね。
休みの間に何をしているかって言ったら、もちろん私の場合は読書です。再び私は過去このくらいは無いってくらい読書に勤しんでいるんじゃないかしら。本っていいよね。

富士山を誉めるな。

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浜松市でもうひとつの「天狗の凧の町」といったら上西町ですが(←三組町もあるけどネ)、凧はともかく上西町の屋台は天狗とは全く関係が無いらしいのです。上西町の凧は「富士山の天狗のウチワ」でそれは町の鎮守・富士神社の神紋に由来しているというのです。





でも、上西町の富士神社に行っても全く天狗要素は感じられなくて、がっかりしてしまいます。
そもそも富士神社の神紋は「天狗のウチワ」に似てはいますが本当は「棕櫚(シュロ)の葉」で、似てはいるが天狗の羽団扇では無いというのが大日本天狗黨の公式見解です。



棕櫚(しゅろ)っていうのは静岡県では陽光と風の強い広い場所によく植えられている南国っぽい植物ですが、実はかなり昔に日本に入ってきていて、『枕草子』にも「見た目は悪いが、舶来な感じがして格の低い家の植物とは思えない」と書いてあるそうです。どうしてそんな棕櫚が富士神社の神紋となっているのかというと、奈良時代から静岡県側の冨士浅間神社の大宮司を勤めている「冨士氏」の家紋であるからであって、棕櫚は「神の依り代となる木」と見なされていたからなんですって。上向きに広がるシュロの葉の形が、霊々しい神の光の顕現だとされてもいたようです。富士山と棕櫚はイメージ的に合わない気もしますけど、決して天狗のウチワとは似て非なる物なのだそうです。
じゃあ、天狗の持ってる本物のウチワって何でできてるのかというと、あれは「山鳥の羽」もしくは「天狗自身の羽根」、もしくは「八つ手の葉」なんですって。
でもそれはあくまで建前で、知切光歳の言うには、中世の冨士氏は天狗信仰をかなり前面に押し出していたみたい。



知切光歳の言うには、そもそも冨士氏はシュロの葉を天狗のウチワとみなして神紋としたそうです。(そんなことを明言している文献はひとつもないんですけどね)。でも確かに、シュロの葉なら「葉団扇」と言うのが本当なのを、冨士氏の紋は、棕櫚の「羽団扇紋」という名称なんですよね。棕櫚の葉団扇を浅間神社では表向き「天狗のウチワとは違う」と言ってはいますが、最初からシュロの葉を「天狗のウチワ」としている神社も少なからずあって、それは「富士山の(!)小御岳神社」「加波山神社」「妙義神社」だそうです。

現在の富士山の天狗信仰ってどうなってるんだっけ?
面白く思って、浅間神社巡りをしてみることにしました。



まずは富士宮市の「富士山本宮浅間大社」。
じつは富士山の周辺には20ぐらいの浅間神社があるのですが、全部が密接に結び合っているわけではなくて、ほとんどが「たまたま祭神が同じ」で「たまたま名前が同じ」「だって眼の前にこんな立派な富士山があるんだから、同じような神社がたくさんあるのはしょうが無いじゃん(進化の収斂)」「うちが本当は本物なんだぜ」ぐらいの関係です。「駿河國一宮」である「富士山本宮」も少しだけ影響力が抜き出でてはいますものの、この地に数ある浅間神社のうちのひとつなのです。
で、「富士山大宮司家」の「冨士氏」が本拠地としていたのがここ富士宮なのですね。
つまり「富士山天狗の棕櫚の羽団扇紋」の本拠地でもある。



境内を適度にぶらついて・・・
ショックを受けましたのは、無い! 無い!
棕櫚の木が一本も生えてないのは想定内でしたけど、神紋すらほとんど無いですやん。
(唯一、拝殿正面の一番目立つところに“棕櫚紋”が存在をアピールしてましたけどね)



これが浅間大社の羽団扇紋。
世の他の棕櫚紋の数々と比べて、本家の神紋はシュロの葉よりも「幹」を強調しているのがよくわかりますね。
なお、現在の浅間大社にはシュロの木は(おそらく)一本も生えてませんけど、こちらのサイトさんによると、数ある「富士参詣曼荼羅」のひとつにシュロの木が生えている様子を描いた物があるらしい。だから実際ここにシュロの木が生えていた時代もある可能性があるってことです。が、今回はその場所(廃仏毀釈で撤去された三重の塔があった場所?)には行かなかったので、現在そこがどうなっているか見てきませんでした。あの社務所っぽい建物がいくつもあった区画ですよね。
なお、上記ブログさんの記事で「葵紋と棕櫚紋が交互に描かれている」とされている本殿上部の“大棟”の部分の紋は、現在ではただの菊の御紋です。



浅間大社の本殿は二階建てなのが特徴で、こういうのを「浅間造り」というのだそうですが、あの二階部分には何の意味があるんでしょうね。何かがおわすんでしょうね。天狗みたいな。(←寝不足的な発想)




さて、今回の旅の目的は、「富士山の太郎坊大天狗の探求」です。
ずっと京都の愛宕山の太郎坊の研究を続けているのですけど、なんか血迷って「京都の太郎坊と富士山の太郎坊って実は同一人物なんじゃないか!?」と悩んでしまうまでになってきてしまったので。
だから、富士宮の浅間大社から、修験の聖地・村山浅間を経て、高鉢山を横目に眺めながら御殿場の「太郎坊」に向かおうと考えていたのですが、実はこの日はあまり天気が良くなく(前日まで雨が降ってましたからね)、富士宮まで来てみても雲が厚く、富士山はまったく見えなかった。「空気が抜群にきれいで景観にすぐれている」と評判の御殿場口五合目の「太郎坊」にこの天気の下で行くのは惜しい気がしたので、(明日は晴れだという予報だったし)予定を変更して、人穴の仁田四郎忠常遺跡を北上し、逆回りで富士山を巡ることに決めました。
で、「魔界の牧場」「朝斬り高原」を通りながら「人穴ってこの付近だよね」と思いつつ運転していると、なんか「富士山の芝桜まつり」みたいなものをやっているようで大渋滞。辟易しつつ精進湖までやってくると、ようやく道路は快適になり、ついでに雲が晴れて富士山がよく見えるようになった。「あれ、人穴ってどこだっけ?」と思って慌てて地図を見ると、遙か前に通り過ぎておりました(笑)。なんと、あの「魔改の牧場」の近くでしたよ。(この道路(国道139号線)沿いにあるものだと思っておりましたよ。←途中で県道71・75号線に入らないと行けなかった)
まぁ、通り過ぎてしまった物は仕方が無いので、次なる目的地を目指します。
鳴沢村の「魔王天神社」です。
鞍馬山の魔王尊サナート・クマラや長命寺の大魔王・太郎坊など、大天狗ってなんか「魔王」という言葉が好きなんですよね。

あやしうこそものぐるをしけれ。

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これは秋葉寺の何かよく分からない彫り物。

「永正15年6月1日、富士禅定の一行が突然の嵐に襲われて、13人もが遭難死した。---其の内に内院から大きな熊が出てきて先達3人まで喰い殺された。これは熊ではない。大鬼神(天狗)のしたことだという噂が立った。徳川幕府以前の富士登山は、それほど危険が伴っていたのである。その頃から富士の裏山小御岳の正真坊は、荒天狗として里の者達に恐れられていた」(知切光歳『圖聚天狗列伝』)
「富士講には独特の唱文の唱え方、加えて独自の文字まで作成していて、第三者には窺い知ることのできない口伝が多いので困るが、頂上の仙元大菩薩と北口中腹の小御岳正真坊を信仰の中心としているらしい。同書にある「小御岳太郎坊正真」という呼び方は富士太郎すなわち正真坊を指すものかと途惑わされるが、富士太郎坊は南口、小御岳正真坊は北側の天狗として別々に考えるべきである。そのことは他の史料で明らかである」(知切光歳『圖聚天狗列伝』)
「東方の小結、富士小御岳正真坊は、由緒・知名度その他の点で(西の小結・彦山豊前坊と比べて)たしかに若干の見劣りがするが、決して小粒ではない。しかも山の高さ、品位においては何といっても霊峯富士山の北口、山梨県側を司る正真坊である。正真坊は荒っぽいことでは定評がある。武田信玄の在世時代の前後百年のことを誌した都留郡の日蓮宗寺院の『妙法寺記』は富士山麓の農民の悲惨な生活をありのままに記録した貴重な民俗資料として珍重されているが、その『妙法寺記』に、富士山の中腹で多勢の天狗が鬨の声を挙げて騒いだのは不吉の前兆であるとか、天狗が突風を起して砂礫を飛ばし、岩石が降ってきて登山者が圧死したとか、北側の天狗の生々しい記録が残っている」(知切光歳『天狗の研究』)



五合目には5つぐらいの巨大なお土産売り場&休憩所があって、たくさんの人(主に外国人)がひしめいているのですけど、そのうちの一つが非常に天狗推しなのでした。



日本の天狗文化って、海外ではどういう説明をなされているのでしょうかね。
「天狗」を発明したのは中華の人たちでその歴史も古く、中華の天狗の姿は日本と較べても比べものにならないほど種類が多く多岐に渡っているのですけど、現在の中国では天狗は全く姿を消しているだろう。これは完全に日本独自の風習なはず。この独特な信仰形態を、ここにいる外人さんたちに知らしめてさしあげたいのですけどね。







店内には天狗の姿が各所にアピールされてあるのですけど、富士山土産としては天狗グッズはひとつも売られていないのでした(笑)


さて、順路が逆になってしまいましたけど、吉田口の登り口となるのが富士吉田市にある「北口本宮冨士浅間神社」です。



同じ「浅間神社」でも、山梨県の方は富士宮本宮の「冨士氏」とはほとんど結びつきはありません。
知切光歳尊師の説明によりますと、戦国時代~江戸時代にかけて角行とその一統(身禄、光清ら)が『富士講』を起こした時、富士宮側はあまりに冨士大宮司家と村山修験者(大宮司家の分家が長となっていた)の威勢が大きかったのであえてそれを避けて、北口からの登拝をするようにしたという。この北口の方が江戸から近くて便利だったので、江戸時代中期から富士講が大流行すると、富士宮口よりも北口(吉田口)の方が栄えたという。

一応簡単な位置づけを示しておきますと、

《静岡県側》
・山宮浅間神社(富士宮市)…「世界で最も古い浅間社」を名乗っているのがここ。第7代孝霊天皇の頃に起こった富士山大噴火の害を憂れいて第11代垂仁帝が浅間神を奉じた(推定紀元前27年)。その場所は「富士山の山足の地」というが、浅間大社の説明によると「山足」とは特定の場所を示す語句ではないという。日本武尊が駿河ノ国造たちに陥れられピンチに瀕したとき富士山に祈ったら運が開けたので、感謝のために現在地に磐座を設置した。(推定紀元後110年)。
・富士本宮浅間大社(富士宮市)…駿河國一宮。大同元年(806)に坂上田村麻呂が平城天皇の命を受け山宮を現在地に移した。大宮司家として君臨する冨士氏(和邇氏の係累)が坂上田村麻呂に伴って当地に来たのは801年。富士宮の浅間社の大部分は大社と深い関わりを持つ。(人穴浅間神社は違う)
・富知神社(富士宮市)…孝霊天皇2年(推定紀元前289年)創建。「富知」は「ふくち」と読む。大社を造ろうとしたときその場所にこの神社があったので、邪魔なので近くに移した。祭神は大山祇神だが「富知=福地」とは「恵まれた土地」を表す言葉で、大社への「土地譲り」は水の神から火の神への国譲りを示す出来事だという。
・富士根本宮村山浅間神社(富士宮市)…孝昭天皇2年(推定紀元前474年)に富士山中腹に建てられた社を、大宝元年(701)に役行者が現在地に移した。中世には"修験の霊地"として栄え、富士登山を行うものは必ずこの地で身を清めてから登った。神仏習合の最も理想的な形が見られた場所で、浅間大社との関係もおおむね良好だったという。明治以降は甚だしく衰微した。
・冨知六所淺間神社(富士市)…孝昭2年(推定前474年)創建。「冨知」は「ふじ」と読む。“四道将軍”のひとりの建沼河別命が強く崇めたという。延暦の頃、富士山の火害が著しかったので富士山山腹から現在地に移した。中世には「三日市浅間」と呼ばれるほど周辺で盛んに市が開かれた。地域では「どらヱモン神社」として親しまれている。(※参考
・東口本宮浅間神社(須走浅間)(小山町)…延暦の大噴火は東麓からだったため、山を宥めるために大同2年(807)に創建。伝説では弘法大師はここから富士山に登ったとされる。
・新橋浅間神社(御殿場市)…「御殿場口」が整備されたのは他に較べて新しく(19世紀)、この浅間神社の興隆の歴史も新しい。(だが一説には源頼朝が御殿場で巻狩りをやった時に創建)。愛鷹山(瓊瓊杵命)と桜姫をセットで祀っていることが特長。
・須山浅間神社(裾野市)…景行天皇40年(110)創建。日本武尊がここを通りかかった時になにか(奇瑞)があって建てたそうで、そのあと400年後になぜか蘇我稲目もここで何か関係したみたい。御殿場口が開かれる前はここが「東口」だったが、現在は「南口」と呼ばれている。

《山梨県側》
・冨士山下宮小室浅間神社(富士吉田市)…大同2年(807)、延暦帝の東征の成功はここから冨士山に祈願したおかげだとして坂上田村麻呂が創建。「後に各村で浅間明神を一祠に祀るが、今も猶上吉田には子生まれて百日の後社参するに、先ず下宮へ参詣す」だそうです。神紋は「桜」紋。「神様が着るお召し物」としてたくさんの女性用の着物が飾られている。一番古いのは120年前の奉納物。大塔宮の首塚と雛鶴姫の遺跡がある。
・北口本宮冨士浅間神社(富士吉田市)…景行天皇40年(110)に日本武尊がこの場所のすぐ近くにある丘(大塚丘)に立って富士山を仰いだのが始まり。神社として本格始動(?)したのは北条義時の頃。江戸時代には長谷川角行、村上光清と関わりが深い。伊藤身禄は光清とは対立していたはずだけれど、なぜかここでは一緒に祀られている。
・冨士御室浅間神社(河口湖町)…北側で最も古い浅間社を名乗っている。文武帝3年(699)に二合目に建てた社が本宮で(石を立てて作った室だったので“御室”というのだという。その場所は現在「奥宮」となっている)。天徳2年(958)に現在地に里宮を建てた。「小室浅間」と「御室浅間」は兄弟的な関係。読みはどちらも「おむろ」。武田信玄が最も保護したという。
・新倉冨士浅間神社(三国第一山)(富士吉田市)…文武帝の慶雲3年(705)年の創建。延暦の大噴火を愁いた朝廷は大同2年(807年)に勅使し、鎮火の儀式を行ったのがここだという。このとき平城天皇は「三國第一山」の称号を与えた。もちろん三国第一は富士山そのもののことだが、いつしかこの神社の呼称となった。景色が抜群に良いため「外国人に最も人気のある富士山神社」だという。
・北東本宮小室浅間神社(大明見浅間)(富士吉田市)…崇神天皇6年(推定紀元前92年)の創建時は別の神社(阿曽谷神社)だったが、応神天皇の頃の富士山の噴火の時に応神天皇の第2皇子を迎えて浅間神社となった(らしい)。聖徳太子もここを訪れ「富士山北東國本宮阿座眞明神」という名を与えた。大明見(おおあすみ)の里は徐福伝説や『宮下文書』と関わりの深い土地だという。
・河口淺間神社(河口湖町)…この神社にも「三國第一山」の扁額がある。貞観6年(864)の富士山大噴火がおこると朝廷は駿河國の職務怠慢を責め、甲斐國側にも浅間大社を造営すべしとの勅を出す。甲斐ノ国の式内社で明神大社の格を持っているのはここだけである。…と、そのとき建てられた“大社”はどこかというと今では3つの論社があって、実はよく分からない。当然その“大社”は“甲斐ノ國・一宮”であるはずだけど、他の2社に較べて河口湖のここは一宮を名乗ってはいない。河口湖北岸は富士山登山口からは遠いが、「河口御師(おし)」は吉田御師と同じぐらい興隆していた。
神託を受けて体長が2尺~7尺に伸びたり縮んだりしたという甲斐側初代祝の伴真貞のミハカは河口浅間にある(らしい。笛吹にもある)。
・忍野八海浅間神社(忍草浅間)(忍野村)…大同2年(807)の創建。源頼朝が保護した。木花咲耶姫命と共に「鷹飼の神(邇邇芸尊)」「犬飼の神(大山津見命)」を祀る。伝・運慶作の金剛力士像もある。境内に「天狗社」として武甕槌神の祠がある。
・一宮浅間神社(市川一宮)(西八代郡)と甲斐國一宮浅間神社(笛吹浅間)(笛吹市)…西八代郡の方は景行天皇の御代、笛吹市の方は垂仁天皇8年(推定紀元前22年)の創建で、貞観6年の大噴火のとき朝廷の命で木花咲耶姫が遷座されたという。富士山からはちと遠いのは噴火の直接の害を避けるため。どちらも武田信玄が最も保護した。



こんなにある富士山周辺の浅間神社ですけど、天狗探求的に必ず訪れるべきなのが、富士吉田市にある「北口本宮浅間神社」なのです。
ほら、あんなところに天狗様が!





なんてステキな天狗さまでしょう!
「天狗の浅間」といわれるこの神社において明晰に天狗が飾られている場所は実はこれしか無いのですけど、参拝するに当たって一番要所となる位置(五合目の小御岳神社の天狗面と同じ位置)に天狗は飾られてござらっしゃる。

北になし南になしてけふいくか富士の麓をめぐりきぬらむ。(『新葉和歌集』)

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これは次回予告。ちゃんと書き切れるかな。(まだ私はあきらめてはいませんぞ)



5月の初めに行った富士山旅行の日記の続き。
そこから再び静岡県に入り、御殿場口五合目の「太郎坊」へ向かいました。



ぼくのなつやすみ。

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やっぱり私は未完成記事は完成できないみたいですね。悲しい。
決して暇が無いわけでも意欲がなくなっているわけでもないのに、どうしてなんだろう。
…といいますと。
いいわけをいいますと。
今の私は、ヒマが適度にあって、なおかつ二日に一度は仕事で他に泊まってる、というのが悪いんだと思います。小さい頃からの性分で、何かをやる時はさまざま調べ込みたいんです。で、時間はあるから、調べたいことの毎に次から次へ本を読むんです。それはそれは本をたくさん読んでいるのです。でも二日に一度は家にいないので、きちんとした文章にまとめる手間が取れないのです。
過去の自分に較べて非常に充実した生活を送っているので不満は無いのですけど、調べたことをそのまま形にせずに流しているだけになっているのが、少し悲しい。
どうも、書いていないことの方が面白いことがたくさんあってるんですよ。
雲見では磐長姫の山に登ったんですが富士山は見えませんでした。波勝崎ではサルよりもおっさんの方が面白かった。松崎の帰一寺の御住職からは毎月ありがたいはがきが送られてくるようになりました。(たまたま暇そうだった御住職から一山一寧についてのおもしろい話をたくさん聞いたので記帳したら、「強制的に毎月はがきを送るようになりますよ」と言われた。ありがたやありがたや)。山の上の宝蔵院には行ったが暗くなりすぎて安良里の大聖寺には行けなかったのでまた行きたい。富士宮の村山浅間では2000円もする姫様の護符を買ったのですけど、あまりに大きすぎてA3の額を買ってきたのに入らなかった。いまでも丸めて部屋の隅に置いてある。人穴浅間では、「車でくぐると必ず事故に遭う」と評判の鳥居にわざと車で通ったら、翌日本当にウチの会社の駐車場で構造物が破壊される“事故”が起こった。(私自身には何もありませんでしたが)業務上お客さんに“数十万”の修理代金を請求せざるを得ませんでしたが、あれってわたしのせいだよな。人穴でとてもおもしろい案内人の人に出会ったこと。「清さん」には必ず話を聞いた方が良いです。すごくおもしろい方です。人穴には「芝山浅間」という知られざるもうひとつの浅間社がある。戦時中ここが陸軍の演習場になって村人は強制的に移住をさせられ、人穴浅間は芝山というところに移転した。戦争がおわっても村人の大半は故郷に戻ることを拒否し、(それほど人穴地区は貧しい土地だったってことです)人穴の大事なものは今でも芝山にあるんだそうです。いつかそこにもいかなきゃね。ていうか許すまじ日本軍。仁田忠常遺跡に砲弾を撃ち込むつもりだったのかよ。(※私は自衛隊大嫌い主義の偏見を持っている人です。戦争はすべてを破壊するから。悲しみしか生み出さないから。ガンダム大好きだから) 人穴の洞窟は去年から立ち入り禁止になってるんですけど、度重なる自然の災害のせいで崩落の危険を感じた清さんたちが補修の必要のためにカメラを持って調査写真をたくさん撮りまくって穴から出たら、その間に県によって「立ち入り禁止」の柵が設置されていたという。(連絡は全く無かったそうです)。だから清さんは人穴内部の明晰な写真をたくさん持っているそうです。あくまで今の入洞禁止は一時的な措置で、必要な費用を確保でき次第(それが一番難しいのだけど)ちゃんと補修して入洞できるようにしたいのだそうです。なんといっても人穴は信仰の重要な聖地ですからね。仕事柄清さんは富士講信仰についてとても詳しいです。このとき私は村山浅間で見た“大棟梁権現”を富士講の角行さんだと勘違いして思い込んでいて“天狗つながり”でここを訪れたんですが(※正解は“大棟梁権現”は末代上人)、だから清さんと私の話は非常にかみあわなかった。清さんは村山浅間のことをとても嫌いみたいでした。6月はふたたび京都の愛宕山に登りに行きました。天狗好きの人は愛宕山へは月参り(できるかっ)。長慶天皇と後亀山天皇の御廟と楠木正行と足利義詮の首塚(…おい)と豊臣秀頼の首塚を巡りました。「伊豆の宝鏡院の謎めぐり」を今でも私は忘れてはいませんよ。松尾大社の天狗岩を見てきました。浜松の守護神・松尾社の御神輿もちゃんと見に行きました。松尾大社の“お酒資料館”(無料)はちょうど16:30の閉館時間で目の前で閉められました。いやん、また来るぞ。愛宕(おたぎ)の念仏寺は五百羅漢が有名なのですけど、なかにひとつだけ“天狗の羅漢”があったのですよ。この天狗を見つけたら人は羽が生えるほど絶対のしあわせになれまから、行った人はさがしてみてくださいね。



と、全部を流しておいて、7月の休暇は富戸海岸へ行きました。
一ヶ月に一回は伊豆へ行くのが今の私の目標です。(今回は三ヶ月ぶりです)
今回は三ヶ月前に泊まった民宿にまた予約を取りました。




今回の伊豆高原行きの目的はこれです。
この本には全部で139の伊豆の頼朝伝説の遺跡のリストが載っていて、わたくしも折を見ては訪問を繰り返して、いずれは探索全制覇したいと思ってはいたのですが、昭和54年編纂という比較的最近の本なのに、今ではどこにあるのかさっぱり分からなくなっている場所が多い。
それが、ネット上で八幡野の「蹄石」について記述しているサイトを見つけたので。
地図もバッチリ

で、139もの頼朝を挙げている「伊豆の頼朝」では、対島村の「頼朝の馬蹄石」については記事が重複しているのです。

(21).馬足石(伊東市八幡野)
「伊東市八幡野から、赤沢に至る山道の右側に、馬足明神と称へられる小祠があるが、此小祠の傍に馬蹄形に似た跡を印した石があるのを、俚俗に、頼朝の馬足石と呼んでゐる。これは、昔、源頼朝が、馬蹄を此石に留めた痕跡だといふことで、不思議にも今に摩滅しないで存してゐる。(『伊東栞』)。本郡、馬蹄石といふもの、中郷村松本、川西村小坂、戸田村戸田、西豆村八木沢、函南村丹那、韮山村寺家、田中村三福、上狩野村湯ヶ島、下大見村下白岩、中大見村冷川、封馬村八幡野・赤沢、及び賀茂郡にて、城東村白田、朝日村田牛、南崎村下流など、その他に分布されてゐる。(『伊豆の伝説』)」

(26).馬足石(伊東市八幡野)
「伊東市八幡野から赤沢に至る山道の右側に、馬足明神の小祠があるが、その傍に馬蹄形に似た跡のある石がある。昔、頼朝が馬蹄をこの石に留めた其痕だといふ。(『伊豆の伝説』)」



上のサイトで見た写真を手がかりに、探索へ向かいます。



場所は「椎の木三本」のすぐそばだそうです。
この道路は「海沿いの抜け道」(私は“上の道”と呼んでいた)と呼ばれる細い道で、伊豆で働いていた頃は毎日のように通っていた道だったんですけど、そんな場所あったっけ?と怪訝に思いながら行ってみますと、おお! 看板があった。わかりやすい!
椎の木三本だって看板ができたのはつい最近(私が浜松へ引っ越したあと)ですから、それと前後してこの看板が作られたのでしょうかねえ。
伊東市の人たちが頼朝遺跡の保全に積極的なのは、とても喜ばしいことだと思います。なんといっても『平家物語』『源平盛衰記』では伊東市の人々は主役?から見て敵役の側にあたるのですからねえ。そういう人たちを救う『曽我物語』という素敵な(?)ものがたりもありますのが面白いところなのですけど。(とはいえまだ場所が不明なものも数多い)

ともかく「頼朝の蹄石」はおかげでとてもわかりやすくなっておりました。



案内板より。
★頼朝の馬蹄石★
「平治の乱の後、伊東祐親支配下の伊東に流された頼朝に因んだ史跡はこの地に多くある。ここ下田街道東浦道に面する小さな祠の前に露出した石は頼朝の馬蹄石といわれるものである。岩に刻まれた馬の足跡は頼朝の愛馬生月(いけづき)のものと言われる。
文化12年(1815年)伊能忠敬指揮する測量隊がこの街道を通った際に残した測量日誌にも頼朝公馬蹄石と記されている。近くには股野景久と真田与一が投げ合ったという巨石があるほか頼朝が狩りの時に幕を張ったという大幕山や頼朝が鬢(びん)を洗ったという鬢水の伝えも残されている。
伊東市健康保養地づくり実行委員会・伊東自然歴史案内人会」

看板・案内板は新しいものだとしても、この祠自体は私がびゅんびゅん車をかっ飛ばしていたあのころには当然存在していたのですよねえ。おそらくは江戸時代からこの場所にあったのです。ゆっくり辺りを見回しながらのんびり歩くことの重要性も思い知ります。



が、上記サイトの古写真(印刷して持ってきていた)と見比べてみると、なんか雰囲気が違います。石の形が違うし、構図も違う。
案内板には「小さな祠の前に露出した石」と書いてあるからこれだと思ったんですが、本当にこの石なのかな。
岩に刻まれた跡も「馬蹄」というにはやけに形がハッキリしない。



うーーむ、できるだけこの古写真に構図を似せて写真を撮ろうとすると、こうなります。



小祠は作り替えられているようで形が違うのですが、こう見ると、右側に少し露出したとがった岩がその石なんじゃんか、と思ってよくよく見てみると、その石もなんか違う。この石は馬蹄石なんかじゃ無い。



こんな(古写真に載ってるような)細長い岩はこの付近には無いぜ。
古写真の方をよくよく見てみると、木が生えているし、木と小祠の間が少しぼやけておるので、「もっと引いた場所から撮った写真じゃないの?」と浅子さんは当然思うと思いますけど、振り返ってみるとそこはもっと巨大な岩がごろごろころがっている登りにくい場所で、その転がる岩群はそれこそどれが馬蹄石なのかもっと迷ってしまうような様相です。昭和10年に生えていた木が今も同じ状態であるわけがないじゃない。(意外にもここは住宅地)



そもそも案内板には「小さな祠の前に露出している」と書いてあるんですからね。



一応うしろの崖にのぼって撮ってみた写真。あんなに祠が小さくなってしまう。
結局の所、最初に撮った写真が馬蹄石だと思うしか無い。という結論に至りました。



とはいえ、この岩だってあるのは祠の正面じゃ無いんだけどな。
いいんですっ。探索完了っ。
きっと昭和10年から少し場所が移動したんだよ。



上の地図のうち、カッコ付きの黄色い文字で書いてある遺跡が、また私が場所を確定できてないものです。まだまだ先は長い。定期的に伊豆高原には通わなければなりませんなッ。


現在、情報収集中。


(7).法泉庵釈迦堂(伊東市川奈)
「伊東市川奈区字東小路にある。建久年間頼朝が伊豆を遊覧された時、川奈村の海に光明が輝いた。不思議に想はれて村里のものに海底を探らせた所。石の釈迦尊が出た。そこで安置すべく一宇建立の仰せがあり、建造されたのがこの堂守である。(『小室村誌』)」

…法泉庵は現在は場所が不明なようです。


(37).鬢水(びんみず)(伊東市赤沢)
「大幕山の山麓の、とある岩角の小孔から、涓涓として流れ出づる清水を、俚俗に呼んで、頼朝の鬢水と言ってゐる。昔、源頼朝、此処を通られ、鬢の毛を刷らふと思はれて、水を索められたけれども無かったので、薙刀の石突をかりて、そこの岩面を衝かれたところ、不思議や、其処から、冷水迸り出でたので、用を辨じ終った。今鬢水と呼ばれる小孔の清水がそれで、今に至る迄、涸渇しないのだといふことである。(口碑)
『伊豆誌』には「平井村(※田方郡函南村平井)の東方、鬢の沢に、鬢田の泉あり、源頼朝用ゐて鬢水とす」といふ記事が見え、此地方の口碑には、頼朝蛭ヶ小島より、心願があって、伊豆山権現に参詣のため、此辺(鬢の沢の地、熱海街道に沿ひ、太場(だいば)を去ること二里余の地。今地蔵堂があり、鬢田山法伝寺と号してゐる)を通られた時、とある地蔵堂(今の鬢田山法伝寺)の堂の傍に、泉井があるのを見られて立ち寄られ、休息の後、鬢の乱れを掻き上げた事などあったと言はれてゐるが、別に「法伝寺縁起」といふものには、其折、戯れに、懐中から、柳楊枝を取り出されて、「我心願成就すべくば、此柳根を生ぜよ」と仰せられて、鬢水の側に押されたところ、後に、此柳、根を生じて繁茂した。で、世に、これを逆柳と言ってゐた、とあるものも、百年前に、既に跡かたもなくなり、泉井も、又埋れて、現時は、天明年間の再建といはれる堂があるばかりだといふことである」

…赤沢の「大幕山」がどの山なのかわからない。


(58).御屋敷(伊東市)
「肥田の西部の中央に、鎌倉時代鞠を以て頼朝に侍した肥田八郎直宗の屋敷趾がある。又、この字に二ツの小さな塚があるが、これは肥田八郎直宗、同次郎景明の墳墓であると伝えられ、中古、この塚の近傍から刀剣器類を掘出した。この近傍の小字に、下屋敷、城ノ腰、城関、馬場、殿藪等ある。(『小室村村誌』)」

…肥田氏の故地は函南の「仁田」の隣りだと思ってたんですけど、頼朝の頃には八幡野に移っていたんですって。八幡野の肥田ってどこ?


(120).大幕山(伊東市赤沢)
「大幕山は、伊東市の赤沢にある高山であるが、昔(安元2年)伊東入道祐親が、奥野の狩座の時、こゝに、大幕を張つたといふので、此名があると言はれてゐる。(口碑)」

…大幕山ってどこだよ。って思ったんですけど、赤沢と伊豆大川の境にある天国的な赤沢別荘地の一角に「大幕」っていう地名があるらしい。だとするとここは「遠笠山」のかなり下の方です。そもそも「巻き狩りがよくされた奥野」っていうのがよく分かって無くて、今では伊東中心部を流れる松川の上流に「奥野ダム」というのがあるので自動的に「奥野の巻き狩りがあったのはココ」とされているのですけど、この巻狩りにまつわる遺跡がたくさんあるのは山を挟んだ八幡野の付近だという。(一方で反対側に少し行った「柏峠」にもこの時の遺跡がある。奥野の巻狩りはとても広い範囲でされたってことです。)


(121).手投石(伊東市八幡野)
「対島(たじま)村八幡野の石脇畠に、高さ六尺、広さ八尺余の大石を、手投石と呼んで、俣野五郎と真田与一とが、力を試みるために投げた石だと言ひ伝へ、今は、神に崇め、小祠を立てゝゐる。(『大日本風土記・伊豆』)
『伊豆志』は、このこと、「仮説なるべし。」と言ひ、『増訂豆州志稿』は、「尚、倉骨沢に、同称の石三個あり」と言つてゐる。或は『曽我物語』の、滝口の三郎が、「青めなる石の、高さ三尺ばかりなるを、(中略) 右の手をさし伸べて、後ざまに押しければ、大石は押されて、谷へどうと落ちて行く。海老名の源八これを見て、東八箇国のうちに、男子持ちたらん人は、滝口どのをよき物肖(ものあやかり)にせよ。器量といひ、弓矢とりては樊噲張良なり。あつぱれ侍や。」と讃められたといふことを、附会して言ひ次ぎ語り伝へたのではあるまいか。(『伊豆の伝説』)」

…実在していたらこれが一番見つけやすそうなのですけど、「馬蹄石」のところの案内板を読むと、近くに実在するらしいな。石脇畠ってどこ? 「倉骨沢」だけが現在も存在している地名です。


(122).拝松(一名御座松)(伊東市八幡野)
「対島村八幡野区岡の路傍にあり。伝曰往事頼朝公が奥野の狩猟の際八幡来宮神社を遙拝せし処にして、今存するもの当時のものなりと云ふ。虬枝偃蹇数畝を蔭す又延命松の称あり。(『田方郡誌』)」

…岡ってどこ?(八幡野は広義に「岡」地域と「浜」地域の二部分に分かれていたそうです)


(127).八幡三郎行氏遺蹟(伊東市八幡野)
「八幡三郎行氏について、増訂豆州志稿には、名迹志に然云へりとして中大見村八幡ならんとし、豆州志稿原本の八幡野(対島村)説を誤謬なりとせられしが、大見地方には之に関する口碑も伝説もなきに反して、八幡野地方には、宅址墳墓と称するもの現存するを思へば、豆州志稿原本の説可なるに非るか、八幡野村誌に八幡三郎宅址は八幡野区西方畑地字天神にあり、往年甕を掘り出す、内に古銭数貫を満たす、又押印を得、三郎の鎮守神として祀りて天神と称す、社木の根株今尚存す、而して墳墓は八幡野塔の前と云ふ所にありと記せり。而して又大見八幡二人にて河津三郎を射る時、「八幡三郎大見に向て云けるは、いざいざ脇道を駆け抜け、先きにて相待ち、物陰より一矢射んと思ふは如何と云ければ、尤かなとて谷の細橋、木樵の通路を是かしこと走りぬけて、赤沢山の麓八幡山の南の尾崎に到て、小松陰より椎木三本楯に取て、鋒矢番ひ今や今やと待つ云々。」と云ふ記事によれば、八幡の方地理に詳しきかが如し、之れ亦参考とするに足らん。椎木三本は河津三郎の墓の西方によき矢頃の距離にあり。其の太さ凡そ二丈余、根株は一本にして樹梢三本に分る、現今は一本のみ存し、他二本は枯死せり。(『田方郡志』)」」

…八幡の三郎については、中伊豆町の大見郷の中心地・八幡がその所領だという説もある。
中伊豆の八幡は「はつま」と読み、伊豆高原は「やわたの」なんですけどね。
この記事を読むと「八幡野」説の方が有力な気もしてきますが、大見小藤太と八幡三郎は伊東祐親に敵対する工藤祐経の側の人で、工藤祐経はおそらく伊東市の北半分を領していたはずなので、八幡野はむしろ祐親の与党の方が強い地域だったんじゃないかとも思う。


さて、今回泊まったのは富戸駅のほどちかくにある小さな民宿です。
泊まるのは今回2回目なんですけど、すでに「ぜったい常連になろう」と誓ってしまっているくらい気に入っている宿。何が気に入っているのかと云ったら、料理の素晴らしさです。



…この写真を見てひょっとしたら浅子さんが「どこが?」と思ってしまうんじゃないかと危惧しますが、本当にすばらしいのです、魚尽くしが。宿泊代は9700円(税別)。しょぼくれたおっさんの一人旅でも歓迎してくれる。



今回も「魚だけで腹をいっぱいにしたい」と思って旅行を決めましたからね。ワンダホー。



メインの魚はイサキでした。伊佐幾は気賀のマックスバリューでも良く売ってますが、めったに買うことは無い。(釣り人のための魚だと思っているから)。でもビールにめちゃくちゃ合う魚ですなや。
鶏魚うめー。

(ちなみに前回来た時はタイでした。来る度に違うのかな)


(※これは1月の富戸の魚)

魚についてはいろいろ詳しく聞きました。



マグロは興味がないのでスルーしようとしましたが、左奥の赤身、これは「大好きなカツオだ」と食べて思ったんですけど、実は本マグロなんですって。手前はキハダマグロ。なんと、私はマグロと鰹の違いも分からないようになっちまったか。伊豆で本マグロって獲れるんでしたっけね。(※どこにでもいる魚です)



いか、やや堅くこりこりしていて非常に美味しい。
「何イカなんですか?」と訊いたら「普通のイカだよ」と言われた。
今の時期の伊豆の普通のイカって何なんだろう。
アオリイカやヤリイカだったらそう言うでしょうし、さっきたまたま行ったスーパーナガヤで売られていた「ソデイカ」かな?(ソデイカも高価なイカだという。)



これ! 非常に美味だった!
訊いたら鈴木ですって。鈴木は浜松だったらクラスの10人は鈴木君だったというくらい誰でも大好きな魚ですが、私が食べてるのはいつも浜名湖産の汽水の鈴木康子さんだからなぁ、磯の濯ぎさんは知ってるのとは全然違った。もっちりこりこり。もちスズキ。



で、これが全然分からなくて、ねっとりまとわりつく脂がとっても特徴的なので、「もしかして深海系のなにか?」と思ったんですけど、訊いたらサワラの刺身なんですって。えええー。まるでトントロをバーナーで軽く炙って胡椒を振ったかのような味わい。



伊豆と言ったら金目鯛の煮付け。もちろん文句の付け所が無いくらい美味しい。



この葉っぱはモロヘイヤですって。ナゼ?



伊豆高原でアサリってどこで採るんだろう?(浜名湖的優民思想に害されている)



サザエさん! サザエさん!
これ絶対旨い栄螺じゃねぇか。
奥浜名湖でサザエって何で採れないんだろうな。
関係ないけど、、 心配しておられる方もいるでしょうのであへて言っておきますが、現在奥浜名湖地域で起きている『浜名湖連続バラバラ混浴湯けむり殺人事件』において、被害者は私じゃないですよ! まだ生きていますよ!
ついでに心配してらっしゃる方もおられるでしょうから言っておきますけど、犯人も私じゃないですよ! わたくしその日はちゃんと伊豆の城ヶ崎の吊り橋にいました! 証人もちゃんといます! 輝くトラペゾヘドロンのかけらなんて伊豆高原のアンモナイト博物館とかで手に入れてなどいませんったらッ。(←いま、『闇のトラペゾヘドロン』という本を読んでいたりして。星の智慧派って今は南アルプスの周辺に勢力を張っているんですって)。で、バラバラ遺体の首が発見されたのは私の家から徒歩2分のところなのです。警察はまだ私の所には来ていません。ここは戦国時代に数百人の気賀の村人が家康によって虐殺された場所なので、「あ~~、とうとうまた起こったか」という感じです。真の犯人は家康と康政と崇伝和尚です。

天皇制度についての妄想。

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君の格の高低によって民の幸せは乱高下するという。
これは小説的な世界である。
善帝の治天であれば民は災など全く危惧すること無く天下の栄上のおこぼれをあませずあずかれるはずだが、君の才覚が天の期待を満たせぬと、天地は災厄の数々に瀕し、絶望の世界となる。
平成の世になって、どれほどの災厄があったか。
全部、今の君の神格に何らかの問題があって、天が君に多大の罰を与えているのだと、わたくしは思わないでもなかった。
天皇の霊的な格がきちんとしていれば、災厄など決しておこらないはずであるから。
現天皇は、とてもかわいそうな人だった。
治世の間に、これほどの災厄にみまわれた治天の君はいただろうか。
災厄史的にいったら今の天皇は歴史上最も天に嫌がられていた天皇である。
でもこの人は、28年の長きにわたって、投げ出さなかった。
それが、このたび、健康上の理由によってそれを放棄するという。
それは歴史的に許されることなのだろうか。
先帝は、あれほどの災厄に遭って、退位しなかったんだよね。
「一世一元」。
すごく大事な言葉だと思う。
でもこれをないがしろにする彼に、歴史的に何の価値があるの?

次の皇太子殿下の意味を全くなくするしうちじゃんね。
…と言っているわたくしは、史上例の無い「愛子天皇」の誕生を心待ちにしている心からの左的主義者なのでした。
皇室典範なんてそもそも意味ねーし
これによって逆に「平成院政」が教科書に載るような事態になったらそれはそれで凄いと思うけど。



『ベルサイユのばら』より
“革命の大天使”(ルイ・アントワーヌ・レオン・ド・サン=ジュスト)
「天皇は、天皇であること自体が罪なのである」

夜は自己嫌悪でいそがしいんだ。

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しまった20000文字で終わらなかった(笑)
もう少しゆたゆた続けます。ついでに読書記録も。

宝筺院では誰かに詳しいお話を聞きたかったんですけど、誰も人がいませんでした(受付の人に聞けば良かった)。前に書いたこととほぼ同一のこととなってしまいますけど(つまりこの10年間でほとんど新しく知ったことが無い)、宝筺院でもらったパンフレットの文章をコピーしておきますね。

「宝筺院」 白河天皇開創 楠木正行・足利義詮 両菩提所
《略史》
「平安時代に白河天皇(1053~1129)により建てられ、善入寺となづけられた。南北朝時代になり夢窓国師の高弟の黙庵周諭禅師が入寺し、室町幕府の二代将軍足利義詮の保護を得て伽藍が整備され、これ以後は臨済宗の寺となった。貞治6年(1367)、義詮が没する(38歳)と、善入寺はその菩提寺となり、義詮の院号に因み寺名は宝筺院と改められ、足利幕府歴代の保護もあって寺も隆盛であったが、応仁の乱以後は経済的に困窮し次第に衰退し、明治の初めには廃寺となったが、五十数年をへて復興された」
《小楠公首塚由来》
「正平3年・貞和4年(1348)正月、河内の国の南朝の武将楠木正行は四條畷の合戦で北朝の大軍と戦い討ち死にし(23歳)、黙庵はその首級を生前の交誼により善入寺に葬った。後にこの話を黙庵から聞いた義詮は、正行の人柄を褒めたたえ、自分もその傍らに葬るようにと頼んだ。明治24年(1891)塚の由来を記した石碑『欽忠碑』が建てられた」
《伽藍復興》
「大正6年(1917)楠木正行の菩提を弔う寺として宝筺院が再興された。屋根に楠木の家紋・菊水を彫った軒瓦をもちい小楠公ゆかりの寺であることをしめし、古仏の木造十一面千手観音菩薩立像を本尊に迎えた。現在は臨済宗の単立寺院」
《楠木正行・足利義詮墓所》
「石の柵に囲まれて二基の石柱が立つ。五輪塔は楠木正行の首塚(首だけを葬ったから)、三層石塔は足利義詮の墓とつたえる。墓前の石灯籠の書は富岡鉄斎の揮毫。「精忠」は最も優れた忠。「碎徳」は一片の徳、即ち敵将を褒めたたえその傍らに自分の骨を埋めさせたのは徳のある行いだが、義詮の徳全体からみれば小片にすぎない、という意味で義詮の徳の大きさを褒めた言葉」
《歌碑(楠木正行辞世の歌)》
「かえらじと かねておもへば梓弓
   なき数に入る 名をぞ 止むる」
《庭園》
「書院から本堂の周辺は白砂・青苔と多くの楓や四季折々の花のある回遊式の庭園が広がり、晩秋にはみごとな紅葉を見せる」



京都の寳篋院においては宝筺院殿(義詮公)よりも小楠公正行(しょうなんこうまさつら)の方を高位に置いているのがよくわかると思います。宝筺院という寺名なのに宝筺院殿の御墓は宝篋印塔ですらないし。
わたしが何を問題としているのかというと、「足利幕府第二代将軍である義詮公は「宝筺院殿」という号を死後に贈られたが、その“宝筺院”の由来がはっきりしていない」ということです。もちろんこの「はっきりしていない」というのは、史料が全く無いということではなくて、田舎者のただのおっさんが手に入れられる本にはその理由が書いてない、というだけの話なんですけど。専門家の人による立派な専門書にはどこかに「宝筺院殿の建てた宝筺院というのがどこなのか」ということがバッチリ書いてあるに違いない。私はそれを探さないとならないのです。もしかしたらそれは宝筺院殿が少年の頃に活躍していた関東地方の入り口にある伊豆三島の「宝鏡院」なのかもしれない。
室町・江戸の将軍達の「院殿号」というのは、その人が生前にゆかりのあった“菩提寺”に由来していると思うのですけど、義詮の場合はその墓所のある当・宝筺院が「後世になって義詮の院殿号にちなんで寺名が改称された」となっているのがわたくし的に問題なんですね。じゃあ、もともとの宝筺院はどこにあるんだと。
太平記の義詮の葬儀の記述を見ますと、「天下は久しくこの将軍のたなごころにあって、この方の恩を戴き徳を慕う者は幾千万もいた。歎き悲しむ者は多かったがもうそれはどうしようもなかった。泣く泣く薨礼の儀式をいとなむため、義詮公の遺体を衣笠山の麓の等持院に奉遷。5日後の12月12日の午刻に、荼毘の規則を調えて、仏事の次第を厳粛におこなった。鎖龕(さがん)は東福寺の長老・信義堂、起龕(きがん)は建仁寺の沢竜湫、奠湯(てんとう)は万寿寺の桂岩、奠茶(てんちゃ)は真如寺の清ギン西堂、念誦は天竜寺の春屋妙葩、下火(あこ)は南禅寺の定山和尚がおこなった」とあって、ここには「宝筺寺」の人が出てこないので、「そもそもの宝筺院など無かったのだ」という考え方もできる。どうなんでしょうね。関係無いかも知れないけど人形寺として有名な上京区の宝鏡寺はここに出てくる真如寺と関わりが深く、義詮の死後1、2年後くらいに建福寺という名を「宝鏡寺」という名に改めたとされています。



宝筺院には寺宝として楠木正行の木像と非公開の足利義詮の肖像画があるのですけど、Wikipediaによると、この義詮像は将軍の肖像画としてとても貴重な物なのだけど、最近の説では実はこの肖像画は義詮ではなくて尊氏であり、神護寺にある「伝・藤原光能」の像が義詮のものであるという人がいるんですって。おもしろいね。ご存じのように有名な「足利尊氏騎馬像」が本当は高師直で、神護寺の伝・源頼朝像が実は足利直義で、平重盛が足利尊氏だとされているそうですからね。もう誰が誰で、何が何なのだか。藤原光能というのは誰だったのだろう?
実は宝永2年(1705年)刊の『山城名勝志』には宝筺院について不思議なことが書いてある。
「善入寺 大指図 清涼寺西南の勝蔓院の東にあり、開基は黙庵和尚
義堂和尚語録によると、黙庵和尚の十三回忌は善入寺で行われ、埀語があった。永享日録によると永享7年11月9日に嵯峨の善入寺が郁子(=むべ、アケビ)を献じた」
「寶篋院 天龍寺の東南にあり黙庵が諭す場所だった。宝筺院義詮公が○○する為に開創する所なり
補菴京華後集(文明9年丁酉に宝筺院で拈香仏)によると、謹みて按ずるに延文戊戌の年、大居士は初め鈞軸に乗ったとき(※秉鈞軸=権力を握るの意? 延文3年は足利義詮が征夷大将軍に就任した年)たまたま善入の黙菴が本寺にいたので、政務の暇を見て台駕を入れて、山チ訽ス法要チ咨ス。(=恥ずかしがらずに何でも相談した、の意?)」

現在の宝筺院は天龍寺の東北・清涼寺の西南にあるのですから、今は「宝筺院=善入寺」なのですけど、宝永2年の時点では「善入寺」と「宝筺院」は別々の寺だった?「天龍寺の東南」とは、現在の京福電気鉄道嵐山本線嵐山駅付近の外国人がごったがえす小洒落た土産物外のあたりだったのでしょうか。



化野念仏寺のすぐちかくにある後亀山天皇の御廟。
後亀山天皇は長慶天皇の弟で名前は熙成(ひろなり)。勝手ながら兄の長慶天皇とはなんだか仲が悪かったような印象を持っている。「熙成」って名前は「ほそかわごき」っぽいのですよね。この帝も生まれながらにかなり不遇で、最期付近の境涯がまたよく分かっていないのですけど、陵墓は長慶天皇のよりもさらに立派で、とても安心した。うしろの木立がとても圧倒的で、かなり観察した思い出がありますけど、写真にはほとんどその威容が撮れてはいませんでした(笑)。後亀山天皇は愛宕山の麓に隠棲したという伝えがあるのですよね。




●2015/12/15 18:12
「法は私を廃するためにあります。令が良く広まれば自分勝手な人はいなくなります。個を顧みることは世が乱れる元になります。岩窟に棲んで学問をするようになると、人を説得するためか法と行政の悪口を言い、世の常識とは逆らう事を言うようになります。法は世を治めるためにあり、私はそれを乱すためにあると言っても過言ではありません。ところが現代では、聖人とか知者とか言われる人たちが集まって勝手な言葉を並べ立て、上に対して不遜な態度を取るのに上の人たちはそれを禁止せず、却ってそういう言論を追いかけて賞を与えたりして喜んでいる。これでは自分で自分に従わず法も守るなと言っているようなものだ。そして賢い人が在野にいることを喜ぶようになり、姦人は賞金によって富むのです」(『韓非子』)

●2015/10/22 15:58
「景虎公は晴信の戦術を批判した。武田晴信の弓矢は最後に勝つことを重視したもので、確かにそれは国を侵して獲る秘術かもしれぬ。しかし我らは国を取ることは構わない。何度も繰り返し戦うこともしない。攻めたら一気に勝負をかけて一戦を決めるのだ。源義経が弓矢の名手だったことは有名だが彼の知行は伊豫國ただ一国、しかし弓矢の名はまさに日本を統治した相模入道(北条高時、もしくは北条義時、あるいは源頼朝?)を遙かに上回っていた。それは、せずにすまされぬ戦さを、決して退かず間隔を置かずしておこなったことにあるのだ。そう言って即座に武田晴信と戦う準備を始めた」(『甲陽軍鑑』)

●2015/10/22 14:21
「偉大な人物とは、自分の偉大を自覚しそれを信頼する課程で、奴隷根性を持つ人のみを支配すること、コロポックルの群れの中で自分だけが巨人であろうとすることを良しとはしません。彼は自分が支配しようとする相手を価値のないものと考えることはしないのです。そのような人間は、自分の周りの堕落を目撃して一種の圧迫を観じ、人を尊敬できないことに一種の悲哀を感じるのです。同胞たる人類を向上せしめ、高尚ならしめ、一層立派な光に照らして見得るようにすることが、彼自身の高邁なる精神に快感を与え、彼の最大の享楽となるのです」(フィヒテ『ドイツ国民に告ぐ』)

●2015/10/21 21:24
「大王が病兵・老兵を国に返すと発表したとき、アイガイのエウリュロコスが自分は病気だから還してくれと願い出た。のちにそれがウソだと分かり審問にかけられ、実は彼はテレシッパという女性に恋しその人が海の方へ去るので、その女についていくためにそう懇請したと告白した。次第を聞いて大王はそれはどういう女なのかと尋ねた。すると、職は下賤な水女ではあるが身分は自由人であるという。アレクサンドロスは言った。「お前の恋は俺が取り持ってやる。相手が自由人だと分かった以上、言葉で口説くか物で口説くか、どっちが良いかお前はわかるよな」。・・・大王がこんな手紙を友人たちに書く暇が良くあったものだと驚くほかはない」(プルタルコス)

●2015/10/15 20:31
「シュポーアもまがりなりにもオペラ化したが、それはゲーテの『ファウスト』、クライストの『ハイルブロンのケートヒェン』、クリンガーの『ファウストの生涯、行為、地獄落ち』などの戯曲のアマルガム的な台本にもとづいており、純粋にゲーテにのっとっているとは言いがたい。ワーグナーもオペラ化しようとして果たせず、リストも《ファウスト交響曲》として管弦楽化するのがやっとだった。一方フランスやイタリアなど、ラテン系の国々ではベルリオーズをはじめ、グノー、ボーイトなどが相次いでこれをオペラやカンタータにしている。それらは今でも一般に知られ、またよく上演され、ドイツに大きく水をあけている。ラテン系の作曲者たちは物語的な面白さでこの素材に接し、気軽にそれをエンタテインメントに仕立て上げている」(喜多尾道冬「シューマンの“ファウストからの情景”の成立」)

●2015/10/07 23:10
「クチャ(狩り小屋)でも仮小屋でも、昔の人は裸になって背中あぶりをしたんですよ。背中をあぶるっていうのは身体が一番温まるんです。寝る時は厚着はできるだけしないんですよ。たくさん着たら駄目です。いったん着るものを上から温めると、着てるものが温まるだけなんです。そしたらふーと楽な気持ちになって寝込んでしまうんです。そうすると寒くなって目が覚める時には着てるものが全部冷え込んでしまっていて、寒さを感じ取ったときにはもう火が消えています。これでは風邪を引きます」(姉崎等・片山龍峯『クマにあったらどうするか』)

●2015/10/07 22:54
「韓国人をアイルランド人ーーさらに広く、イギリス諸島に住んでいるケルト族と比較してみた。ケルト族はイギリス人とくらべて一面情緒的で気持ちがあたたかいと普通思われているが、反面また情熱的でけんかっぱやいところもある。早い話が、ちょっと一杯ひっかけただけでもたちまちメートルが上がるといったふうで、言葉をかえれば個人主義者。国のことよりも、自分や家族、あるいは部族の方を大事にする。イギリスのように力を合わせて外敵を追い払うことができない。内輪の争いに気が行きすぎている」(ピーター・ミルワード『イギリス人と日本人』、昭和53年)

●2015/10/05 18:33
「ボノボがチンパンジーの亜種でなく独立種と認められるようになったのは、皮肉にも第二次大戦の結果であった。1944年ミュンヘンに近いヘラブルンネルが連合軍の空爆を受けた。町の動物園は幸いなことに直撃弾は受けなかったが死者は出た。動物たちの何匹かが近くで降り注いで炸裂する大型爆弾や間断なく発射される高射砲の轟音で、極度の恐慌に陥り死んだのだ。翌朝、飼育係達たちは死んだ動物たちを収容しながらあることに気づいた。チンパンジーで死んでいたのは小さな亜種とされたチンパンジー(実はボノボ)ばかりだったのだ。そういえば小さなチンパンジーは常に臆病で、大きな兄弟を常に避けており、両種は決して交わることが無かった。この報告を受けてボノボの心理学的・行動学的研究がなされることになった」(今泉忠明『進化を忘れた動物たち』)

●2015/10/05 17:58
「ロマン派時代のオペラは結末は大抵悲劇で、男女ともに没落する。ヘンデルの時代ではそうはしないが、ヘンデルの場合最高潮の場面でもっと微妙に悲劇的なことが起こる。犠牲となるはずだった男性は危うく難を逃れ、予定通りにハッピーエンドで幸せなカップルが誕生するのだが、しかしヘンデルを動かしているのは魔女(蠅ではなくて蜘蛛)なのである。ヘンデルは自分のオペラにおいて常に魔女(超自然の技を使うにかかわらず彼女が望む愛を常に得られない存在)に最上の音楽を与えるのである。台本作者にとっても聴衆にとっても魔法オペラは見て楽しいおとぎ話であるが、ヘンデルはそれを悲しい愛の物語に変える」(ウィントン・ディーン『ヘンデル オペラ・セリアの世界』)

●2015/10/03 16:28
「この裁判記録で興味深いのは、グーテンベルクが鏡職人とされていることである。このころ聖地アーヘンでは7年おきに聖遺物の御開帳がおこなわれていた。十字架にかけられたキリストの腰布や洗礼者ヨハネの首を包んだ布と称するありがたい聖遺物を、巡礼者が凸面の手鏡に映して故郷に戻れば、その功徳によって愛する者の病が全快すると信じられていた。たまたま次のアーヘンの御開帳が1439年だと計算したグーテンベルクは、手鏡製造事業の共同出資者を大々的に募ったらしい。ところが彼は計算が苦手で、実は御開帳はこの翌年であったので、出資者たちは激怒してグーテンベルクに激しく迫った。裁判を起こした原告たちをなだめるためにグーテンベルクが内々に披露したのが活版印刷の秘密の技術だったという」(髙宮利行『グーテンベルクの謎~活字メディアの誕生とその後~』)

●2015/10/03 00:59
「宍道湖に佐陀江という場所があり、ここは鮒や鯰がたくさんいる地点で良い場所でしたから、ある人が銀子20枚の運上金で買い受けたいと申し出ました。奉行はここは交通の要衝だから開ければ藩に良いことだと思い報告したのですけど、堀尾吉晴は許可を与えませんでした。のちに家臣の小瀬甫庵がどうしてかと藩主に尋ねました。吉晴は答えました。「土地が栄えるのはいいと思うし望む人がいるのならば応えた方がいいに決まってるんだがね、ただ佐陀江は私の愛しい家来たちの憩いの場所なのだ。鮒と鯰がたくさんいるんだよ。私がもしなにかあった時に真っ先に「死んでくれ」と言わねばならない者たちの、平時に心の癒しとしている場所を簡単に銀子に変えるわけにはいかんのだよ」、と。」(『名将言行録』) ・・・堀尾吉晴には茶の湯などよりも釣りの方を趣味の上位に置いていたふしがある。

●2015/10/03 00:33
「王の前に連れていかれたテミストクレスは平伏したあと黙っていました。王は通訳を通して名を名乗れと言えといいました。彼は答えました。「王よ、ここに来ているのはアテナイのテミストクレス、祖国に追われた亡命者です。私はかつてペルシャの人々に多くの害を与えたゆえ怨まれておりますが、ギリシャを安全にしたのちはこちらが必要以上にペルシャに報復することを止めましたから、貴国にとっても害以上の益を与えた男でもあります。王よ、私がペルシャの人に施した恩恵の証人として私の政敵を引き合いに出して今の私の不運を使って恨みを晴らすよりも、あなたの徳を示すようにしてください。あなたが私を助ければ命乞いをした者を助けることになり、私を殺せばギリシャの敵となった者を殺すことになるのです」」(プルターク『テミストクレス伝』)・・・テミストクレス伝おもしろすぎ

●2015/10/01 10:02
「大阪府立大学の篠田統教授によると、「昔から太平の世には辛口、乱世には甘口の酒がはやる」という。筆者にはまだそれほどの確信はもてないが、あるいは乱世には酒不足のため少量で満足のいく甘口、酒のふんだんにある太平の世にはいくらでも飲めて飲み飽きのしない辛口が要求されるという解釈もなりたつのかもしれない」(坂口謹一郞『日本の酒』)

●2015/10/01 09:15
「マタイ書では「彼は多くの仕事を行わなかった」と書かれた部分がマルコ書では「彼は何も奇蹟をすることができなかった」となっている。それは決してモーシェが力を欠いていたということではない。そう思うことは神への冒涜である。奇蹟の目的とは教会に人びとをつけくわえることで、つけくわえられるべき人びととは、神があらかじめ選んでおいた人びとなのである。従ってモーシェは自分の力を、かれの父が拒否しておいた人びとの改宗には使う事ができなかった」(ホッブス『リヴァイアサン』)

●2015/09/23 21:25
「阿波の太守・蜂須賀家政はときどき家来を呼んで言いました。最近寒いな。足が寒いだろう。だからお前に私の古い靴下をやろうと思ったんだけど、でも靴下っていつも片方だけ無くなってしまうんだよな。今も探したんだけどやっぱり半分しか無い。とりあえずこの片方だけ気持ちだと思って取っといて、と。後日ふたたびその者を呼び出し、「靴下の残りを与えよう」という。このとき、律儀に前の靴下を取ってあった者には、公は賞賛して昇進させるかまたは昇給させたといいます。ただし稀に、前に与えた古い靴下を無くしてしまったりしていた場合には、蜂須賀公は以後その者にそれはそれは冷たく当たったと言います。これは公が家臣を試すためにやっていたことでした」(『名将言行録』)

●2015/09/22 23:14
「口に妙法をよび奉れば、わが身の仏性もよばれて必ず顕はれ給う。梵天・帝釈の仏性はよばれてわれらを守り給う。仏菩薩の仏性はよばれて悦び給う。されば「もししばらくも持つ者は、われすなはち歓喜す。諸仏もまたしかなり」と説き給ふはこの心なり。されば三世の諸仏も妙法蓮華経の五字をもつて仏に成り給ひしなり。三世の諸仏の出世の本懐、一切衆生皆成仏道の妙法といふはこれなり」(日蓮『法華初心成仏鈔』)」

●2015/08/23 20:37
「「即身成仏」ということも、正法というものを明らかにしていく人間が「即身成仏」した人間というような考え方になっていくんじゃないですか。だから27年間の説法が全部「即身成仏」という形になって出て行く。だから芸術的なものはそこから出てこないですよ」「例のヒゲ曼荼羅というのはやはり空海に対抗しようとしたものでしょうね」「しかし、日蓮宗の寺の庭を見ても、建築を見ても、彫刻や絵画を見ても、それは真言や禅系統の寺に較べれば、芸術性というのはいちばん希薄なのではないですか」「それだけ正法に対する情熱というものはきびしいわけです」」(紀野一義・梅原猛『永遠のいのち〈日蓮 〉』)」

●2015/08/23 20:08
「メガマウスザメは鰓孔(えらあな)がとても小さい。同じプランクトンを主食にしているジンベエザメとウバザメは鰓孔はとても大きく、特にウバザメの鰓の穴は喉から背中まで大きく開いている。ウバザメの食事法は単純で、大口を開けたままプランクトンの中を泳ぐだけ。泳ぐと自動的にプランクトンが口の中に流れ込み、水だけが大きな鰓孔から流れ出していく。プランクトンは口の中にある鰓耙という装置で漉し取られるので、あとはまとめて飲み込めばいい。一方ジンベエは、巨大な口と鰓を使ってプランクトンを大量に口の中に吸い込む。では、大きな口を持ち小さな鰓しか持たないメガマウスザメはどうなのだろうか」(仲谷一宏『サメ ~海の王者たち~』)

●2015/08/19 00:49
「堀尾吉晴が言いました。中村一氏が駿河国を賜ったのは小田原攻めで山中城を落とした功によるもので、それができたのは渡邊勘兵衛了が配下にいたからだ。ところが一氏は個人的な事情で了を解雇してしまった。私も今は出雲と隠岐の二国を預けられている。その恩を返すには、了のような名士がぜひとも必要だ。出雲の国土の中で島根郡が一番良い地である。風光明媚の宍道湖を南に、蒼海を北にしていて、娯楽が非常に多い土地なのだ。この地(2万石相当?)を与えると言えば、彼も喜ぶに違いない。と言って使者を使わしたのですが、伊予の国の藤堂高虎と(2万石の)先約があると言って、渡邊勘兵衛了には断られてしまいました」(『名将言行録』)

●2015/08/18 22:14
「この計画の持つ巧妙な間接性は地理上の迂回にあるのではなく、その兵力配分と作戦指導の構想にあった。ドイツ軍は予備部隊と実働部隊を混用することによって初戦の奇襲をおこなう。使用可能な72個の師団のうち53は旋回する集団にあて、ヴェルダン要塞に面する旋回軸を構成するのに十個師団を充当し、フランス国境に沿った左翼にはわずか9個師団しか割り当てなかった。左翼の兵力を最小限にしたのは、まさにその左翼の弱さによって集団の旋回能力を大きくすることを抜け目なく計算したものでもあった。もしもフランス軍が戦力の一番薄い地点のロレーヌでドイツ軍を攻撃した場合、そこでのフランス軍の勢いが深ければ深いほど、ベルギーを通過して行われているドイツ軍の主力の進軍を押しとどめることは困難になるのである」(リデルハート『戦略論 ~間接的アプローチ~』)

宝鏡院の足利義詮の墓(その2)。

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9月の夏休みには三島市に行きました。
三島の図書館に、川原ヶ谷町の宝筺院殿の墓の説明の記述を読みにです。
(※前回の記事京都へ行った記事


<新しくなってた! ・・・でも宝筺印塔ではない>


『新版 伊豆の伝説』(小山枯柴/静岡県の伝説シリーズ⑤羽衣出版、2000年)
「三島町から東へ賀茂川を渡って一町ほど歩くと、右手に宝鏡院がある。寺のうしろ一町ばかりの所に、足利二代将軍義詮の墓地がある。義詮は法名を宝筺院殿道樹端山大居士といい、寺は彼の死後に建てられた。寺号も法名によったといわれる。寺の南にある畑地の墓地に立派な墓石があったというが、今はその跡さえ無い。分骨を葬ったのであろう。その場所は大字河原が谷である。(『日本伝説叢書』)」
「河原ヶ谷にしょうとう塚(勝幢塚)がある。堀越公方政知の法号、勝幢院殿従三位左兵衛九山大居士によったものである。墓地は義詮の墓地に並ぶ五輪塔石だという。これも分骨であろうといわれる。(『同上』)」

…宝鏡院については松尾書店の『史話と伝説 伊豆・箱根』にも『東海道名所圖繪』にも記述は無くて、私の手持ちの本では『新版 伊豆の伝説』が唯一なのですが、記憶の中では宝鏡院にある宝筺院殿の位牌の写真とか見たことがある気がします。三島市のサイトとかだったかな。羽衣出版の『新版 伊豆の伝説』は昭和18年刊の本の現代語訳だそうで、小山枯柴氏の本は、更に先立つ時代の諸本の蒐集です。
今になって読むと、「宝鏡寺のうしろの一町先に義詮の墓地がある」という記述が気になりますね。一町というのは約109mだそうです。現在寺の裏にある義詮の墓とは別の場所にまた墓地があったことになります。山田川を渡った今はマックスバリュ三島谷田店のあるあたりの場所かな。「賀茂川」は現在は「大場川」となっているようです。
勝幢院殿の五輪石は10年前から(昭和18年から)ずっと同じままみたいです。



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