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Channel: オセンタルカの太陽帝国
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アンジュー伯夫人マチルダ(元・神聖ローマ帝国皇妃にしてイングランド人の女君主)。

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実はいまだにずっと買い続けておりました、デアゴスティーニの『隔週刊 コンバット・タンク・コレクション』という立体雑誌。
買い始めた頃は「たしか80巻ぐらいで完結だっけ」と思っていたのですけど、やがて100巻まで達し、そこを超えてもなぜか本屋に行くたびに出ている続刊があって、「これっていつが止めどきなんだろう?」とそろそろ思い始めていたところに、ようやく出ました! 第119号にしてようやく「マチルダⅡ」!! やったぜ! 買い続けた甲斐があったぜ!!
長かった!! (チャーチルⅦを買ったのは2年半も前。その後めぼしい戦車はありませんでした・・・)

わたくしはそれなりの戦車好きだと自分では自負していますものの(←それは鼻が長くて天狗に似てるからですね)、実を言いますと本当は英国車と倭国の国産車にしか興味が無かったりする。
群雄割拠たる戦車の世界、120巻も続いておいて英国車の登場は4回か5回くらいじゃなかったですかいね。
ただ、「マチルダⅡ」は意外と人気車種らしくて他にも手に入れられる模型例は多く、わたくしが真に欲しいのは「マチルダⅠ」だったりする。この雑誌が300号までつづいたりすれば、いつかは旧ザクたる1号目のマチルダさんも手に入れられたりするのかしらねぇ。



マチルダⅡ。“砂漠の女王”。



「マチルダⅠ」はこれですって。かっこわるーーい(笑)。それが好き。旧ザク旧ザク、ブグブグ。






「マチルダ」という人名はもともとゲルマン語系で「力」という意味があるんですって。
それが現在「貴婦人」っぽい意味で表される事も多いのは、歴史上に“カノッサの屈辱”の女主人公のトスカーナ女伯マチルデとかオットー大帝の母マチルダ・オブ・イングランド(ザクセン公ハインリヒ獅子公の妃)とかウィリアム征服王の后マチルダ・オブ・フランダースとかアフリカの“自由の国”リベリアの伝説的女傑マチルダ・ニューポートとかがいたからですが、そのイメージの一端に1940~1943年の「砂漠の戦い」で名を馳せたこの“戦場の女王”マチルダⅡがいたことも関係なくありますまい。

わたくしは、「どうしてこの戦車がマチルダと呼ばれるのか?」ということにずっと関心を持っていたのです。
どうせ「開発者の奥さんの名前がマチルダで、彼は新作の名を献身した奥さんに捧げた」とか「初期の英国空軍にマチルダという名の女性士官がいた」とか、そういうことなんじゃないかなと思っていたのですけど、それを書いてある本はこれまでありませんでした。

それが、このたびの立体雑誌の附録の小冊子に、

「最初のマチルダ(歩兵戦車Mk.Ⅰ)は1930年代中頃に歩兵支援用として開発された。この戦車の開発を一番熱心に訴えたのは、イギリス陸軍における戦車運用の先駆者、ヒュー・エルズ中将であった。」
「マチルダというのは、当時人気があった漫画に出てくるカモの名前である。試作段階の車両を見たエルズ中将が「カモに似ている」と言ったことが、命名の由来らしい。マチルダの名前はすぐに定着した」

と明記してありました。
そうか、鴨だったのか。凄くスッキリとしました。
当然この鴨はマチルダⅠのことですけど、姿が全然違うマチルダⅡも鴨っぽい。
家鴨のドナルドとか鵞鳥のモルテンとかじゃなくて本当に良かった。







チャーチル一輛とマチルダ4輛が隊列を組んで進行ですって。凄すぎるな。(ゲームではふつうマチルダは他の車に着いて行けない)





粘り強さは英国の伝統。
チャーチルが司令官たることを十二分に確認できる動画。
・・・が、マチルダさん達が他の戦車さん達と併走しまくっていることに違和感バリバリ。
マチルダの足の遅さをこの人達は舐めまくってんじゃないか。マチルダは貴婦人だからドレスを着まくってるんだよ!
トヨタ車ばりに走れるわけないじゃん。



滅茶苦茶ウマい人のマチルダⅣのゲーム動画。
って、Ⅳって何だ? 黒太子か?(違います)
ともかくこの動画のように、マチルダはとにかく足が遅いので、前線での初戦がひととおり終わったあとで散開している敵軍を、ひとつひとつ見つけてチクチク刺していくのが理想的な戦い方になるのです。なかなかこういう戦い方はできないですけどね、マチルダで戦うのはちくちくしていてとても気持ちいい。

・・・いやいややっぱり違うね、
マチルダⅣはソ連に貸与されたマチルダだそうでして、ソ連に行った時点でロシア的火力強化がされて英国っぽくなくなる。マチルダ機は紳士の機体なのに、ロシアの熊はそういう情緒を持ち合わせてはいない。



こっちの(本来の)マチルダの方が凄い。
結局のところマチルダで遊んでいて何が楽しいかといったら、「射撃速度が速いところ」「射撃が正確なところ」「チマチマと敵にイヤミな損害を与えられるところ」なのですけど、私のマチルダは、この動画の人ほど敵の動きに自分の照準を合わせられん。



こんなこと言われたことねーーや。ゲーム怖い(笑)



最近はプレステでも戦車ゲームできるんですね。(ゲーム画面がだいぶ違っていて、私はパソコンで遊ぶ方が良いんですけど、やっぱりゲーム専用機の方は臨場感が凄い)


私の次の課題は、「1930年代にイギリスで大流行していて、マチルダ機の命名の由来となった鴨の漫画とは何か?」を探求することですね。戦車の世界で「家鴨(アヒル)」のアダ名を持っている人は別にいます(アメックス40)。マチルダ(鴨)より脚が速い。


大河ドラマって凄いね。

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「言ったことは必ずやらない」ことに定評のあるわたくしですけど、2017年は、天狗の絵をいっぱい描く!

さて、今年の初参りは、わたくしの心の守護神である宗良親王に詣でに井伊谷宮に来たんですが、あまりに長い行列が出来ていたので、入り口で引き返してきてしまいました。すげぇ。宗良親王のお墓の眼前まで行けるのは正月3日間だけなんですけど、しょうが無いね。

2017年の大河ドラマは「とてもつまらない作品になる」ことは85%ぐらい保証されているのですけど、実は、他の地域の人には想像も付かないでしょうけど、浜松の人は「大河ドラマから今年受けられるであろう大河ドラマ効果の恩恵」に、浮かれに浮かれまくっちゃっているのですよ。日銀静岡支店が試算した2017年の「直虎効果」は、179億円だといいます。アホちゃうか。だったら私の安月給も直虎効果で179円ぐらい上がればいいのに。そんな莫大な効果があるんだったら、大河ドラマなんて毎年やっちゃえば良いのに。(やってるか)

で、浅子さんは「クッシーまんじゅう」や「ヒバゴンまんじゅう」のことをご存じでしょうか?
どこかの地域で「ヒーロー」が突如誕生した時に、地から湧きいでて名を高らかに叫ぶのが「○○まんじゅう」というものですが、さっそく浜松にもたくさんの「直虎まんじゅう」が出現していて笑った。5種類とか6種類とかじゃないんですよ。凄いんです、種類が。クッシー饅頭やヒバゴン饅頭は、日本人がクッシーやヒバゴンが何なのかを知らなくなっても、未だにご当地では売られていて、そこを訪れた人が求めて買っていくのです。まあ、そういうのは表面的な経済効果と言うんでしょうけどね、英国米国にも「ネッシーパイ」「ビッグフッドピザ」「モケーレ=ンベンベ弁当」なんてものがあるとも聞きます。
せっかく隣町(気賀)に引っ越したのですから、地の利を生かして「直虎まんじゅう」をいろいろ追求してみたいと思いました。(…が、買い切れないほど種類が出ている)



まずは「遠州浜松の地酒 出世城」(浜松酒造)と「おかげさまで85周年 心の通う菓子作り 株式会社マルヤス」のコラボの「井伊直虎酒まんじゅう」。
8個入り760円。
「出世城」は近年の「出世大名ブーム」で最も神恵を蒙って最も出世したメーカーさんだと思いますけど(でも一昨年に浜松酒造は『喜平』グループの傘下に入ったという)、ここに書いてあるように創業は明治4年で創業当初から酒名は「出世城」なのです。家康くんに続いて出世に縁遠い直虎までも征服をもくろむとは貪欲だな、と思ったのですが、浜松酒造と井伊直虎には「県内唯一の女性領主(女性杜氏)」という共通点があるそうです。っていうか、出世城って女性が作っていたのか。(知らなかった)。





開けてみますと、
おお、模様も焼き印も無い。シンプル。やや無骨。
お酒を造っているのが「おんな出世城主」と知らなかったら、「どこに直虎要素が」と悩むところ。



食べてみますと、皮もアンコも全然柔らかかったりモチモチしてない。過度でない。適度に乾燥していて、甘さも中庸。甘さの後味が良い。そして後味に酒っぽさがほんのり上蓋のあたりに来る。おお、酒まんじゅうってそもそもこういうものだったな。ぼそぼそかと思ったらそうでもなく、甘くないと思ったらそうでもなく。これは意外と酒に合うんじゃないでしょうか。(だから酒まんじゅうって本来そういうものなんだって)
浜北生まれのわたくしは「花の舞」酒造を愛飲しているので、口触りが正反対の「出世城」は正直好みからちょっとずれているような気がしていたのですが、このお酒はとても好みだと思いました。おんな杜氏、ばんざい。


かわいいじゃねえか。


続きましては、「御菓子司 こぎく」の「おとめ桜」。6個入り、1000円。

ジプシーが輪になって舞う。

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1年くらい片道約50分かけて通勤する生活をしているので、また再び音楽を熱心に聴きまくる生活になっています。非常な充実。
最近とても気に入っているのがハイドンのピアノ三重奏曲全集で、どの曲を聴いても全ての曲が同レベルに楽しいのがハイドンてほんと凄いと思う。(後半の方がより楽しいのはしょうがないですけどね)。私が持ってるのはフランスのボーザール・トリオの安い全集なのですけど(9枚の中に全45曲入っている)、好きが高じていろいろ家でもパソコンで動画を観るまでになったんですけど、ハイドンってどうして45曲しか作らなかったんですかね。少なすぎる。104曲ぐらいピアノ三重奏曲を作らなかった理由は何なんでしょうかね? こんなに全ての曲を楽しんで作ってるのに。

で、一番好きになったのが上の動画です。
ジプシー風っていうからには、このくらい前のめりにならなくてはね。おねえさんがとても魅力的。



でも、この曲って別に三重奏曲じゃなくってもいいんじゃね、他の2人はいらねんじゃね、と思うのがこの動画。
ハイドンてすごいね。



これでもいいですね。やっぱり3人は要る。凄いんだよね、ピアノとヴァイオリンはほぼ同じなんだよ! チェロがむしろすごい。



これはアルゲリッチさんがピアノを弾いている演奏ですって。



フリッツ・クライスラーさんの1945年の演奏。
クライスラーは正直時代遅れなので私は全然わたくしの魂的に好まないのですけど、この曲とかタルティーニのディドーとか悪魔のトリルとかまさに私のどんぴしゃで笑ってしまう。


すみれの花咲く頃。

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一説によるとこの曲はわれらが浜松市に関係ある歌であるということですよ。
(白井鐵造が天狗で有名な春野町の出身であることから)



わたしの妹は2人の娘に「三浦環」と「ヴィオラ(桜すみれ)」という名前を付けたんですが、すごくセンスあると思う。
ただ、兄の私は妹が宝塚に興味があるとは聞いたことがない。





大好きなアーリーン・オジェーの「すみれ」があった。
やっぱり私はこの曲に関しては昔風の歌い方が好きだと思ってしまうなあ。



エリーザベト・シュヴァルツコップフ。  コップフ!
学生の頃私が所持していたのはこの人のとエリー・アメリンクであった。





聞き比べてみるとバーバラ・ボニーとか白井光子もいいなあ。



白井光子って『女の愛と生涯』しか聞いたこと無かったんですけど、宇野功芳のせいだ。
そんな宇野功芳も、もう亡くなってしまわれたんだなあ。といえよう。



リタ・シュトライヒ。



キャスリーン・バトルくらいになると(わたくしの趣味的に)「ちょっと違う」と思う。
抜群に上手いけど。






これが、これまた大好きな『ルイーゼが不実な恋人の手紙を焼いたとき』では、不思議とあんまり気に入れる動画がない。こっちはもっと近代的に歌った方が面白いと思うんですけどね。






高潔なる騎士、アンネ=ゾフィー・フォン・オッター



アーリーン・オジェー。





全然関係が無いんですが、3つ上の動画のなんかめちゃくちゃかっこいいおにいさんによるヨハン・シュトラウス2世のオペレッタ『こうもり男爵』の何かのアリア。シュトラウスは父ヨハンもリチャードも全く興味が無いので、この歌知らないんですけど、俄然興味が湧いてきた。

黒後家蜘蛛の会。

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5年前に私を熱狂させた『メリーウィドウ(陽気な後家さま)』が、ネットで全部観れるようになってる。(DVD持ってるけど)。こういうのどうなんだと思いますけどね、dvdを機器に設置するより容易に観れますし、でもブルーレイで欲しいです。

とにかく主演のダグマル・シェレンベルガーさんは、個人的にいえば、私の好みからしてみたらきつい感じのする美人で本来なら敬遠したい感じなところが、物語が進めば進むほどどんどん魅力的な感じが進んでいって、とてもまいってしまった記憶があります。まあ、要は一目惚れしてしまったってことだ。指揮は、フランツ・ヴェルザー=メスト。

そして太郎がそこにいる。

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3ヵ月半ぶりに連休をもらったので、久しぶりに伊豆に帰ってきました。
やれやれだぜ。もっと頻繁に伊豆に行きたいのにな。

前回(11/16~17)の行き先は西伊豆・松崎だったので(※この日記には記事を書いてない)、今回は東の方です。朝7時に家を出て、新東名を使って三島・長泉で降り、まず最初に向かったのは箱根と小田原です。(わたくしの勝手な定義では箱根は伊豆の一部です)

まず向かったのは、箱根と小田原の境目辺りにある「秋葉山量覚院」。



ほら、あんなところに立派な天狗様が!



このお寺に行きたいと思ったのは、2014年に田村貞雄氏の『秋葉信仰の新研究』(岩田書院)という素晴らしい御本を買ったから。「小田原の量覚院には秋葉の火祭りの最も古い形が保存されている」と書かれている。

秋葉山三尺坊を調べるのに欠かせない本に、雄山閣出版の民衆宗教叢書31巻『秋葉信仰』(1998)がありましてこれはいろんな人が秋葉を語った論文をまとめてあって図書館で読むととても便利な広範な本なのですが、現在は絶版で古本価格は非常に高価でとても私には買えない。
その監修者である田村氏が15年を経て新たな研究成果を示してくださったのが本書。田村氏は昭和12年生まれ(80歳)だそうで、ネット上で読める文章を見るととても偏屈な方のような印象を受けるのですが、一方でとても公平な方で、氏の論文のほとんどはネット上で公開されている。『秋葉信仰の新研究』の文章のほとんどもネット上で読める。(と思ったら小田原の量覚院の火祭りに関する当該の記述を簡単に見つけることができなくなっていますが)、でもこの本は秋葉山天狗の愛好家は是非とも買っておく本だと思います。
とりわけ私は、江戸時代後期の秋里籬嶌による人気図書『東海道名所図絵』(寛政9年)とそれに次ぐ藤長庚の『遠江古蹟圖繪』(享和3年)に「秋葉権現は小国神社の祭神と同じ(=オオナムチ=大國主命)」と書いてあって単純に「へぇ~そうなんだぁ~」と思っていたのが、田村氏が明快に「そんなわけあるか、秋葉山大権現は秋葉山大権現だ」と論証していたのにとても衝撃を受けた。内山真龍の『遠江風土記伝』(寛政元年)の意味の分からない「秋葉権現=岐気保神」説にも明快な解答をくださってる。

「秋葉山三尺坊というぐらいだから秋葉山にいるんだろう」と安易に思うことが出来ないのがこの問題の大変な所でございまして、端的に言えば遠州秋葉山山頂の秋葉神社には現在は秋葉山三尺坊はいない。公式には明治に袋井市の可睡斎に三尺坊が移ったことになっているが、古くは

ブリジストーン。

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道了尊の足はこうやってお狐さまに固定されてるんですよ。この蛇はどこから生えてるんでしょう? 道了様の足にも青スジが立っていることを見ると、キツネと道了さんが共同作業で生やしているのかもしれない。


3月の6日・7日に行った伊豆旅行の日記の続きです。(前回

毛玉風情が。

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(これは予告記事です)

天狗アニメの傑作に『有頂天家族』(2013年)というのがあったのですが、DVDを揃えようと思っても市場では長らく高値で売られておられてなかなか買えず、忸怩たる思いをしておりました。それが格安のブルーレイボックスが3月24日に発売されることになり、「ぜひ買おう」と思っていたところに、加入していたDアニメストア(月額400円でガンダム見放題)で2月ぐらいに配信が始まって、どうしようかどうか非常に迷ってしまった。調べてみたら、4月9日から第2期アニメ『二代目の帰朝』が始まるから、そのキャンペーン上での大判振る舞いなのですね。
でも結局、天狗愛好家としてはブルーレイで持っとるべきですよな、と思い直して購入を決意しました。(さっき届いた)。定価18000円(税別)ですが、私はアマゾン価格で14457円(税別)の格安で購入しましたよ!(と有頂天になっていたら、今日のアマゾン価格はそれより800円ぐらい安い。アマゾンは発売前注文よりも発売日に注文するのが吉ですね)

というわけで、4月の春休みには私は京都(と近江)へ天狗旅行に行きます!
「毎月伊豆に行きたい」と言っていたのはなんなんだと自分に言いたくもなりますが、別にいいじゃないか京都も広義の意味では伊豆だ(・・・などと意味不明の供述をいたしており)

バンダイチャンネルでは有頂天家族の第一話だけ視聴無料だそうなので、ぜひみてみてください。京都へ行きたくなりますよ。寺社と街並みの描写がキレイ!
このアニメの主人公は如意ヶ嶽薬師坊という伝説的な大天狗なのです。その堕落、失墜と高慢と失意と最低と再生の物語。極めて良く出来た天狗物語です。脇役で小活躍する下賀茂弥三郎坊というやつが善人な好人物すぎておっさんな私は涙が出る。如意ヶ嶽薬師坊という天狗は天狗経の大日本四十八天狗の栄光あるひとりなのですけど、伝わっているエピソードはひとつもなく、名のみ高い大天狗という地位を恣にしてきました。(48天狗のほぼ半数が同様ですが) その如意ヶ嶽薬師坊を、ここまで魅力ある人物に造形したというのが、このアニメの功績です。そのアニメの如意ヶ嶽薬師坊は天狗の理想像そのままです。高慢でプライド高く、かつ無様なのに誰よりも高く空を飛ぶ。このアニメを観て「如意ヶ嶽に行ってみねば」と思ったけど、どうせ行っても何も無いと分かっているから気が楽だ。(無名な大天狗様なのです) 余裕があれば隠居して2代目に譲った金光坊様のいる岩屋山にも行ってみたいと思っています。(こっちの方が見るべきものがあると『圖聚天狗列伝』に悪口が書いてあります)

  (※参考)
  ★




日本の大天狗の地図
href="https://drive.google.com/open?id=1yLO2RQ97306kigXk4oD0dlm9d30&usp=sharing"" Target="_blank">西日本の天狗の地図
  ★東日本の天狗の地図


  すべての地図が未完成なのですけど、30年計画で死ぬまでに充実させるつもり。

ベートーヴェン作曲 『戦争交響曲(ウェリントンの勝利、あるいはヴィットリアの戦い)』。

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変な動画を見つけてしまったので思わず日記。
偉大なる聖ベートーヴェンが自身の渾身たる9作の交響曲のうち、最も自信ある作品として挙げていたのが珍品の『戦争交響曲』だった、というのは有名なはなしですが、その戦争交響曲を実際の軍楽隊の行進の中で演奏してしまったらどうなるかという、逆に「なんで今までなかったのか」という動画です。

私の長らくの愛聴版は1969年のカラヤン版なので、聞き比べてみてくださいね。わたくしはカラヤンは嫌いな人ではない。



戦争交響曲は明らかに愚作ですが、音楽史において、ショスタコーヴィチの3曲の「戦争交響曲」とプロコフィエフの3曲の「戦争ソナタ」に結びついたという点においては、決して無為だったというわけではないのですよね。ついでに言うと、私は愚者なので、ベートーヴェンの戦争交響曲が死にたくなるくらい大好きです。カラヤン盤で[12:41]のところから、「12分頑張ったからその分充分なパワーがもらえるよっ」と変な興奮感を覚えるのです。

私を泣かせてくださいね。

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最近めっきりまた音楽に疎くなってしまったので、とても嬉しいです。
ジョイス・ディドナートは、実はよく知らなかったのですけど、
ヘンデルもたくさん歌っているんですね。
これはたくさん聴かなければ。
(アラン・カーティスの《ラダミスト》と《アリオダンテ》で主役を歌っていた人だ)


やさしい歌い方ですねぇ。


オンブラ・マイ・フ。


《アレッサンドロ》の「図らずも心を照らす光」。
(なるほど、この歌うときの表情がダニエル・ドゥ・ニース嬢と似ているんですね。確かに!)


《セルセ》の「恐ろしい深淵の怒れる野蛮」。


《アリオダンテ》の「黒い夜と邪悪」。


《エジプトのジュリオ・チェザーレ》の「この胸に息のある限り」(動かない動画)


ヘンデルって、ほんとうに素晴らしいですねえ!


鬼が哭く山に赤子の泣く犬。

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3月の6日・7日に行った伊豆旅行の日記の続きです。ようやく最終回。
(前回までのあらすじ

騒擾の大地。

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「Inkarnate」という架空の世界の地図が描けるサイトというのがあって、便利で簡単だというウワサだったので、試しにアランシア大陸西北部を描いてみました。アランシアは『ファイティング・ファンタジー』(FF)というゲームのシリーズの舞台となる世界です。

おお、たしかに簡単だ!
なかなか豪華で手を掛けて描いたもののような見た目にできますけど、実はそんなに大変じゃなかったですよ!
(しかしgooにアップロードするとひどく劣化する。なんでだろう?)

アランシアには『タイタン』(1990年、社会思想社)という傑作設定資料集の文庫本があるのですけど、わたくしはこの本を読むたびにめちゃくちゃ興奮するとともに不満を覚えるのです。なんて世界は狭いのだって。(上の地図でアランシア世界の1/4を描いている)。大陸って広くてなんぼじゃないですか。国の数だったら小国を含めて127ヶ国は最低はあるのが妥当じゃないですか。ここはなんて狭い大陸なのだ。
だがしかし。
架空地図っていうのは、それらしい思わせぶりな描写を適度に散りばめられれば最上なのでありまして。このサイトのコレはそれが抜群に優れていると思いました。

例えばこの地図で言えば「トロール牙峠」。
この地域を設定した作品として、偉大なる聖スティーブ釈尊の『トロール牙峠戦争』(1989年)という小説があるのですが、わたくしはまだ読んでいません。(2009年に同人誌で日本語訳が出ているそうだ)
トロール牙峠は交通の要衝で、狭く閉ざされたアランシアに入る唯一の入り口だそうですけど、一方で、だからこそ古来から戦争の舞台であり、現在ではトロール牙峠を通ろうとする旅人は一晩で何万もの幽霊の出現に悩まされるそうです。アランシア世界の幽霊・亡霊の数々は非常に技術点が強い。
でも、地図を見ると、北に迂回すればゼンギスの方は全然安全そうじゃないですか。なんてわざわざ危険なトロール牙峠を通ろうとするのか。トロール牙峠とゼンギスってそんなに離れてないんですよね。・・・というわたくしの疑念(不満)を解決してみようと描いてみたのが上の地図でして。
ゼンギス付近もなかなか面倒くさい場所なのです。ここにはむかしゴールドラン王国という国があったのですが、300年前におきた「魔法大戦争」という大争乱で、真っ先に混沌の大軍勢に襲われて陥落してしまった。ゼンギス付近にある「ガル・ゴールドラン」という遺跡がその王国の首都の故地なのだそうです。でもFF作品で「ゼンギス」の周辺って一度も舞台として出てきたことがないので、この地図の表現は誇張されたフィクションなのですけどね。わたくしの地図の中では「ゼンギス付近を交易行するのもなかなか面倒」ということにしておきたい。ゼンギス王国は現時点では“謎の国家”なのですから。
だからやっぱり旅人たちはトロール牙峠を通るしかない。
でも、またここでわたくしの不満が爆発するのですが、アランシアの人が危険なトロール牙峠を通って行っても、フラットランドの先には美味しい交易ができるような文明地が何も無いんですよ。実を言うとアランシア大陸は大都会ポート・ブラックサンドただひとつですべてが成り立っているかのような大陸です。アランシアの逞しい隊商達は悩ましい亡霊達の恐怖の呪いをくぐり抜けてまで、一体どこに向かおうとしているのか。一応、フラットランドは横断しようとすると隊商速度で二週間ぐらいかかるくらいの広さだそうですけど。

真昼の魔女。

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3月の7日に行った日金山の鬼探しと、4月の10日に行った如意ヶ嶽薬師坊・三井寺の道了尊捜し、琵琶湖博物館のお話の続きはもう私は書かないようですね。残念なことです。
6月のお休みは、伊豆の下田に行きました。鵜嶋城のあじさい祭りが最高潮だと聞いて。(※でも実は去年もこの時期に鵜島城に来てあじさい巡りをしていたので、結局今回は下田城には行くのをやめちゃいました)


伊豆急の線路越しに見る寝姿山の下田城。こっちの下田城ももう何年も行ってないなあ。


結論からいうと、今回の下田旅は不首尾でした。
今回の下田行きの一番の目的をわたしは、何年か前に南伊豆町の図書館で見た『吉佐美古記録』をふたたび読むこと、としたのです。朝の6時ぐらいに気賀の家を出発したまでは良かったのですけど(いつもは早朝に出発しようと思っても、結局うだうだして出発は昼頃になる)、新東名の清水付近で猛烈な水泳選手に襲撃されて仮眠。目が覚めたら11時ぐらいになっていました。清水から三島長泉までは30分ぐらいで着くのですが、三島から南伊豆まではやっぱり2時間弱かかる。南伊豆の図書館に着いたのは14:30ぐらいだったかな。それから1時間半ぐらい本を読みまくって、結局「『吉佐美古記録』はここにはない」と気づいたのは16時頃でした。あれ見たの何年も前でしたからなあ。そもそも『吉佐美古記録』は地元の研究家があしらえたような簡単な軽い装丁のものだったし、誰かが借りているのか、もうどこかに隔離されてしまったのか。(吉佐美の八幡神社の碑文によると、のちに神秘家となった進士氏が昭和18年に書いて図書館に寄贈したものだそうですからね)
「南伊豆に無いのならば下田に行けばいいじゃん。吉佐美は下田市なのだから」と思ったのが16:15頃。急がねばいけません。実はこの日(6/11)は日曜日。一般的に月曜になるとどこも図書館は休みですからね。南伊豆の図書館は17:30までの開館だったので、下田も一緒だとすると、ここから10分で下田まで行っても30分で広い図書館の中でその本を見つけるのはムリだと思ったので、ここは無念を飲んで受付の人にその本が無いか訊ねよう、と(←儂はいつでも自分で見つけるのが好きだ。人に聞くのは嫌いなのじゃ)、でも下田の図書館に着いてみると、こっちの図書館は平日の開館時間は17:00までですが日曜日は特別に16:00までだそうで、もう閉まってた! なんてやる気が無いのだ下田の図書館! 日曜日こそ開館時間を長くするのが普通だろお! むかし下田に住んでいた頃、一度もこの図書館に来たことの無かったわたしは、とても憤りました。当然明日(月曜日)は下田の図書館も休みですとよ。とっぺんぱらりのぷっぷくぷう!


<翌日に行った吉佐美八幡宮の「源三位頼政命霊爾 室菖蒲前命霊爾」>

というわけで南伊豆図書館では目当てを見つけることができなかったのですが、1時間半ここに篭もったことにことによる収穫も全く無かったわけではありませんで

 (1)『三位頼政考』(渡辺庄三、平成4年)
 (2)『田牛郷土史』の「遠国嶋の記」についての記述



一般に吉佐美地区に伝わっている源頼政の伝説に関する本は何があるのかと言いますと、松尾書店の『史話と伝説 伊豆・箱根』と中野貢氏の『源頼政・菖蒲御前伝説とその回廊』にそれぞれちょろっと説明が出てきますけれど、その大元となるよりどころは、寛政12年に秋山富南が書いた『豆州志稿』を、明治21年になって萩原正平が補修をほどこした『増訂豆州志稿』にある記述です。吉佐美の碑文にある記述も大きく考えて『豆州志稿』にある記述と関係あるものと思われる。
でもしかし、先日コメントをくださった鈴木さんの家に伝わるとおっしゃるのものと、今回読んだ『三位頼政考』で著者が見たと言っているものは、その吉佐美八幡にある伝説とは別個のものであると思われるのです。

まず『増訂豆州志稿』の説明を簡単にまとめますね。
(巻13<流寓 人物 烈女 僧英>)
「源頼政 ○旧記に曰く、久安5年(1149年)8月に(=治承の挙兵の31年前)、賀茂郡の金山(=大賀茂?)に流され、仁平2年(1152年)に吉佐美村に移る。(※吉佐美村清水谷にある八幡宮は久寿元年(1154年)に頼政が勧請したという「三所」のうちのひとつだと伝わっており、ここには頼政が奉納したという文書3、4通が所蔵されている。諸書には頼政の物語についていろいろな事が書いてあるが、当州の者はそれとは異なる数多くの言い伝えと古蹟がたくさんあると言い張っている。ゆえに記録を残しておくが、頼政の筆になるとは考えられぬものもあるし、誤写と思われる写しもある)。(増訂)案ずるに、頼政が伊豆に流されたと云う事実が史書にないところから考えると、この地の伝誦は何らかの牽強であり、頼政の文書と伝えられているものはあるが信ずることはできず、もしかしたらこの地に伝わる菖蒲御前の古蹟に関連して附会されたものではないか」

(巻13<流寓 人物 烈女 僧英>)
「菖蒲 (増訂)伝承ではむかし殿上人が伊豆に流され、古奈に蟄居して妾を作って菖蒲を産む。菖蒲が7歳のとき父は許され、娘と一緒に京へ帰り、彼女が成長すると宮女とした。(『伊豆名述誌』『伊豆日記』『禅長寺記』など)。頼政がたまたま菖蒲を見て、懸想してかなりの年月が経った。鳥羽院がこれを聞いて彼女を彼に賜った。(『源平盛衰記』『太平記』)。治承4年に頼政が宇治で戦死すると、菖蒲は当州の古奈に帰住し、のちに内浦の河内に閑居をつくって剃髪し、西妙と号したという。菖蒲は架空の人物と思われるが、当州においては遺蹟や口碑がたくさんあるのでここに記録することとする」

(巻13<流寓 人物 烈女 僧英>)
「井ノ早太 伊豆玄龍という人の子がもしかしたら伊豆の早太ではないかと言われている。(『頼政記』)。平家物語には、頼政がもっとも信頼する郎党・遠江国の住人猪ノ早太とある。一説に猪ノ鼻ノ早太高直(または井ノ早太)は遠州猪鼻を領し、多田源氏太田伊豆八郎廣政の子であり、仲政の養子にされたのだという。 (増訂)この人を当州の人とする確証はないと思う」

(巻3<村里(下)>)
「吉佐美村 (増訂)下田町の西25町50間、青市村の東33町、田牛村の北1里4町、大賀茂村の南23町 (増訂)18里20町7間 (増訂)天正18年の検地帳、豆州賀茂郡吉佐美ノ郷と。税祇簿ではきさ見。廃・佛岩寺の応永8年作の金鼓の銘に吉佐美村とあるのが一番古い。
○昔は朝日ノ里・月吉村といっていたが、源三位頼政がこの地に謫居したとき吉佐美村と改めたと『頼政記』にある。(案ずるに蚶(キサ)がこの付近の海浜に非常に多いので、キサミとは蚶海の意味だと思う) 和歌あり「今日迄は 角て暮しつ 里人は ■てキサミの 神に任せん」 宝永年間に三嶋大社の后神の宮がこの地に鎮座したことによる称とも言う」

(巻9<神祇(下)>)
「八幡宮(吉佐美村) (増訂)村社八幡神社、祭神不詳。相殿三島社には阿波咩命を祭るという ○若宮が配祀されている。この神は源頼政が石清水八幡宮から勧請し地名を改めた(と「村里の部」に書いてある)。この若宮は最初多田見川の上流の三島の林にあったが、源頼政が現在地に移した。この神は若宮八幡ではなく三島神に従う若宮である。寛永6年の札に、源頼政が吉佐美郷清水谷村と刻した金鼓を吉佐美八幡に奉納したとある。この金鼓の内には小鈴と2寸ばかりの金舌があり、それに前中宮菖蒲と刻まれている。また久寿元年9月に頼政が奉納した歌に「神世より 光をとめて 朝日なる 鏡の宮に うつる月影」「神さびて あはれ幾代に 成りぬらむ 浪に馴れたる 朝日の宮」「かくてのみ 止む可き者か 千早振 土生の社の 萬代を見む」「さりとては 頼むぞかくる木綿襁 我れは朝日の神と思へば」「石清水 流の末を うけつぎて 今は吉佐美の 神に仕ふる」 
(増訂)案ずるにここに書いてある頼政のことはすべて附会であると思われる。流寓部を参照すべし。また金鼓に中宮菖蒲と記されてあるというが、菖蒲は中宮になったことはない。菖蒲は鳥羽法皇が頼政に赦し賜ったとされているが、中宮を臣下に賜うことなどあるはずもない。
(増訂)海若子伊豆日記に、八幡宮の社を守っている人の家に行った話が書いてある。主人の老人が身を清め塗り籠めの中から白木の箱を取り出し文机の上に置いた。うやうやしく開いてみると、八幡宮祭礼執行の文が一枚、神前に奉る歌十首、この里の人の系図が一枚。そこには頼政がこの国をさすらって3年後にこの地に落ち着いた次第が書いてあった。久寿元年九月という頼政の署名があった。また菖蒲の前が八幡宮に奉納したという直径9寸ほどの小さい鰐口には、表に吉佐美八幡宮源頼政これを奉ると彫ってあって、その上に小さな穴が開けてあり、その鍔にはとても小さな鈴がつり下げられてある。舌には長さ1寸幅5分ぐらいの真鍮の短冊があって、表に前中宮、裏には菖蒲と書かれている。よく見ると鰐口は新しい時代の物である。頼政の作だという歌の数々も、意味がよく分からぬ最近作ったような拙いものばかりであったが、しばらく見ているとゆかしいような感じもしてきてしまった。すべて拙いものばかりで、これはいつの時代の誰が見ても欺される者はいぬだろう、どんな痴れ者がこれを作ったのだろうとはなはだ興ざめした、云々。
○末社12、祠域の経蔵に大般若経の残本がある。禰宜は進士氏。
(増訂)相殿の三島社は式内竹麻神社の三座のうちの一つである。手石村月間神社の條参照すべし。この神を昔から十七番の御神と呼んでいる。按ずるに、神階帳賀茂郡神社のうち、月まの明神(すなわち式内竹麻神社)を三座と数えるときは、この神がちょうど17番目に当たるからではないか。また、吉佐美の村は后宮(きさみや)の略なのかもしれない。もとは深田という字のところにあったものを、明治11年に合祀した。
○白鬚神を配祠している。源頼政記いわく、豆州十七番の御神、神尾山御倉山の麓多田見河の上流に座していた朝日郷月吉村の土生大明神で、その正体は人皇6代(孝安天皇)頃の興津彦と興津姫である。((増訂)源頼政については前述した通りである)。この神はおそらく式社であると思うが、祠典何の神であるかはよくわからない。もしかすると多祁美加々命神社ではないか。多田美河という地名は訛誤があったのかもしれない。((増訂)この説は間違っている) 三島明神と称しているのはむかしこの祠域に若宮祠があり、この若宮は三島明神に従った若宮であるからである。伊豆納符」

ムガール大帝。

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現在のわたくしは、また何度目かのヴィヴァルディ熱に襲われているのですけど、それは少し前に大島真寿美氏の素晴らしく可憐な小説『ピエタ』を読んだからです。車用に四季と調和の霊感の聞き比べディスクを作りたくなって、32GBのスティックに4種のイ・ムジチとトレヴァー・ピノックとビオンディとイル・ジャルディーノ・アルモニコとクレーメルとホグウッドの詰め合わせを作ったら、あまりの素晴らしさに泣き出したくなった。
が、夏も冬も素晴らしいけど、私がヴィヴァルディの膨大な作品の中で本当に大好きなのは、イ・ムジチの「アンナ・マリアのための協奏曲集」(RV.248、229、363、260、349、267の計5曲)と「ムガル大帝」RV.208なんですね。
小説『ピエタ』の中のアンナ・マリア嬢はとてつもなくけなげ。聖職者のヴィヴァルディと共に恋も知らない(?)40年を過ごすのですけど、ヴィヴァルディが死んでから必死になって師の作品が忘れ去られないように調和の霊感ばかりを演奏しまくろうとする。でもすでに時代は移り変わっていて、ヴィヴァルディの作品は時代遅れになっており、何の工夫も無い彼の作品が生き残るすべはなかったのですのよね。・・・という文章を読んでいて、「あぁはかないなぁ」と思う私のパソコンではまさにヴィヴァルディの調和の霊感が鳴っているのですから、「あれ?」と思う。まさに歴史小説の醍醐味です。忘れ去ったと思うものは忘れ去られてはいない。

ヴィヴァルディは演ずる人によって音色がかなり変わると思う人です。
ビオンディやホグウッドが好きな私には上の(動かない)動画が一番気に入っている映像ですが、この動画動かないので、



この曲はこんな編成で演奏しているのかと思う。(という驚きはありますが演奏が穏健すぎる)



こっちの方が迫力があって好きですが、それでもなお私の好みではない弾き方です。
全然確証はないけどこの曲は可憐な天才少女アンナ・マリアのために書かれた曲だと思う。10歳の天才少女アンナ・マリアはきっとこの動画のように弾いたと思うけれど、私はあまり好きではない。というすてき。なんなんでしょうね。

この曲について以前書いたことがあったなと思って、どうせたいしたこと書いてないいつもながらの未完成記事だ書き直そうろうと思って読み返してみたら、ちゃんと書いてあってびっくりしました。10年前の私の文章の書き方については言いたいこともありますが、今日の私が記事を書いても同じ事を言うだろう。がんばれよ、10年前のわたし。

山神オコゼ魚を好むということ。

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6月11・12日に行った下田旅行の日記の続きです。

二代目が3人帰朝した。

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寺門派総本山、近江の園城寺(=三井寺)にある天狗杉。
足柄の道了尊はこの樹の頂から東に向かって飛び立ったのですよ。
大津はとても好きな町です。京都へ行く際はすべてこの町を起点としたい。この日(2017.4.6)桜の木の花は半開きでしたが、これまで全国的に寒さが続いて各地で桜祭りの類は大童だったのにこの日は異様に暖かく、翌日に大津の町を巡ったら桜は満開だった。自然って凄いな、と思いました。

琵琶湖料理もとてもお好みなのです。そういえばこの時初めて東横インに泊まったのですよ。極めて鮮烈な体験でした。ああ、琵琶湖大好き。





鮒寿司ってみずから進んで食べようって普通は思わないでしょ? でも大津のお店で食べたら滅茶苦茶おいしいんですから!




さて、読書の記録をば。

●2016/04/18 17:12
「宝暦の初めのころ参州矢作橋の普請が行われ、江戸から大勢の役人や職人がやってきた。ある日一人の人足が川を眺めていると、板に乗った人形みたいなものが流れてくるのを見つけた。ああ子供が遊んで流したんだな、でも、その人形が子供が作ったとは思われぬほど見事だったので、彼はそれを面白く思って持ち帰って宿所に飾った。するとその夜しきりと、変な、夢なのか夢でないのかよくわからないものを見た。明日はこんなことがあるよ、誰かは明日寝込むよ、誰かは明日あそこへ行くよ、と。夜中だったので凄く面白かった。朝起きて彼は思った。これが世に言う外法かと。翌日懐にそれを入れて歩くと、終始それはそんな調子だった。最初は面白かったが、次第にうるさく邪険に思った。でも、こんなもの容易には捨てられない。思い余ってそれを知人に打ち明けると、こう言われた」
「彼はすごくおののいて言った。変なもの拾うんじゃないにー。儂も遠州の山の方でそんなものを流すと云うことを聞いたことがあるだら。でも、それ捨てたら禍を受けるというだに。おまえ馬鹿だら。・・・今さらそんなことを言われても、と江戸の若者が途方にくれていると遠州の老人は言った。きにすんなきにすんな、そんなもん元のよう板に乗せて子供が流したようにしたらエエだら、できる限り川の上の方に行って後ろを向いて放ればええでえ。誰も気にせんに。投げたら絶対そっちを見たらいかんで(罪悪感が出るからな)。そう言われたので、若者は大いに喜んで老人に言われたとおりにすると、とてもすっきりした」(『耳囊』巻3)


●2016/04/17 09:08
「貞観2年に太宗が封徳彝に言いました。「世の安寧はすべて政治に有用な人材の有るか無いかに懸かっている。先般お前に賢才をできる限り推挙するように命じたのにお前はいまだ一人も推薦してこない。天下は重いのだぞ。お前には朕の重責を分かち合って貰いたいのだ。お前が言ってくれなければ朕は何を頼りにすれば良いのか」。封徳彝は言いました。「一生懸命探しているのですけどなかなか見つからないのです」。太宗は言いました。「名君は決して人を過去や未来に求めたりはしない。みな当時に実在する人の中から選ぶのだ。殷の高宗が夢によって傅説を得たとか周の文王が釣りの途中の太公望に会ったとか、そんな奇跡を待っていたら現代の賢才を得る機会を逸してしまうよ」。封徳彝は赤面して御前を退した」(『貞観政要』)


●2016/04/17 08:27
「関ヶ原後、公は大久保治右衛門忠佐に2万石を与えて三枚橋の城主としたが、渡辺忠右衛門(=槍の半蔵)は殿の近習に向かい、たびたび声高に不満をぶちまけていた。皆は治右衛門を武功の者と言うが、奴はこの忠右衛門を見て逃げた情けない者だぞ、と。この話を聞いて公は治右衛門を召して言った。私は聞いている。三河の一向一揆の時、渡辺兄弟が弓を持ちその配下の七人が鉄砲を持って待ち構えている前に、お前は立ちはだかって「一対一の勝負なら手並みを見せてやろうが、飛び道具だらけの大勢に一人で向かうのは犬死にだ」と大音声を放ってから退いたのだと。お前の方が正しい。渡辺のような馬鹿を言う奴は今後取り合わず、捨て置くべきだぞ」(『常山紀談』)


●2016/03/08 23:11
「彼は自分を「敏感な気むずかしい性格」だとしている。晩成型であった彼の身体的精神的人格が完成される様は、我々が「精神感性の釣り合い」と名付けたもので、細長型分裂気質の実に典型的な形態であった。少尉時代には背長身痩躯のモルトケの行動は均衡を欠き、この男が立派な軍人となることは非常に難しいと思われたが、その後、この敏感性は押し出しの立派な自制力のある簡潔な言動に覆われて目立たなくなった。晩年のモルトケは、動きが少なく、非常に真面目で寡黙で硬い彫刻のような顔つきをしていた。危機に瀕した戦争の瞬間ですら氷のような冷静さを保ったことは天下周知のことであり、この冷静さが周囲にも感応して、彼は反射的に人々を指導し統制することができたのである」(クレッチマー『天才の心理学』)


●2016/03/08 16:23
「むかし周の武王が殷の紂王を誅そうと兵を起こしたとき、厚い冬の空がどんよりと天を隠し重い雪が丈高く降り積もっていました。武王は心細く思ったのだけど、突如、五輪の車と二頭の馬に乗る人が門の外に現れて言ったそうです。「紂を誅すに、努め怠けなかれ!」。武王は不思議に思って人をやって調べさせると、雪の中に車馬の跡はありませんでした。それで海神が天の使として来たのだと知って、紂を誅する決意を得たのだそうです。漢の高祖は韓信の軍に囲れて危険だった時、天がいきなり霧に覆われて闇になって、間一髪で逃げられたそうです。これらはみな人の為に恵を成した英傑に、天が加護を与えたのです。木曽殿はいかがでしょうか」(『源平盛衰記』巻34)


●2016/03/08 15:42
「それはとにかく、われわれの子供の時分には、火の玉、人魂などをひどく尊敬したものであるが、今の子供らはいっこうにみくびってしまってこわがらない。そういうものを怖がらない子供等を少し可哀想な気もするのである。こわいものを沢山にもつ人は幸福だと思うからである。可怖いもののない世の中を淋しく思うからである」(寺田寅彦『化物の進化』、昭和8年)


●2016/03/08 15:24
「ナポレオンの“攻勢防御”の神髄を物語るのに、フランス革命以前にギベールが予想したやり方以上のものは誰も考えられない。「新時代にふさわしい将帥は、敵前において頻繁に移動し、不断に敵の決心を動揺させ、敵を欺瞞し、故意にわが無防備の地点を敵に暴露することによりここに導入、敵の主力を引き寄せるように努める。これによって将帥たちは、敵に対する反撃作戦要領を生得できるようになる」ということである。ギベールの言った戦闘理念の真意と柔軟性の効果は、その直後にナポレオンが出たからこそ私たちも明確に思い描くことが出来る。ナポレオンについては筆者はこれを「投げ網」または「流動する水銀の塊」だと言いたい」(ベイジル・リデルハート『ナポレオンの亡霊~戦略の誤用が歴史に与えた影響~』)


●2016/03/04 22:05
「人が幸福になれるかどうかは、今現在の状態をしっかり把握してそうなった原因ととるべき態度をしっかり熟慮し、それにもとづいた精神状態に自分を保てられるかにかかっていて、運の変転というのはそれほど重大な浮沈の原因にならない。今お前は喩えようの無い悲しみの際にいるが、今お前を訪れる人たちの目に浮かぶ悲しみの涙や言葉などに慰めを期待してはならない。それはそういう習慣になっているから人はそうしているだけで、不幸に見舞われた人がいたらそうするべきだからそうしているだけの事だ。それよりはお悔やみに来た人々の目に、お前が子供のため、家のため、そしてお前の今後の生き方のために、相変わらず羨ましいほど立派だと映るように、ということを念ずるべきだろう」(プルタルコス『妻を慰める手紙』 ~息子を失った自分の妻に送った手紙)


●2016/03/03 03:27
「家康が塩市口まで7、8町ばかりまで逃げてきた時、敵勢も迫って甚だ危険な状況になった。正成は息子の彌九郎に言った。「お前、殿の代わりになる気はあるか?」 彌九郎は「望むところですぞ」と答えた。正成は言った。俺が引き返し殿の代わりに討ち死にすれば話は早いのだけれど、後に残す殿の近習は若者ばかりなのだ。今はただ殿を逃げきらすことがわが方の勝利条件なのだけれど、若い奴らは北(にげ)ることを嫌がるからな。私が死に、若者ばかりになったら殿は危なくなるだろう。だが迎え討つべき場所はここなのだ。本当は俺が残りたいのだがな。それを聞いて彌九郎は引き返した。顧みて父を見たその顔には愁い色があった。彌九郎は競い掛かる敵に馳せ合わせ突き退け、ついにここで討ち取られた。家康はその後浜松の城に無事入城した」(『名将言行録』~内藤正成)


●2016/02/29 17:20
「フン王はテオドシウス2世に対し、ローマ帝国に仕えている多くのフン人を引き渡すように要求した。皇帝はこれに対し全く聞こえぬふりをした。フンの傭兵はローマ軍の中で最も優れた精鋭であったし、ローマのフン人たちもフンには帰りたがらなかった。逃亡者とみなされている彼らがフンの軍隊に戻ればどんな運命が待ち構えているか明らかだった。磔刑か、でなければ串刺し。(中略) 443年に皇帝はアッチラに屈して5日行程ほどの広大な領土を割譲した。国境の都市は灰燼に帰し、住民から見捨てられ、無人の土地と化した。徒歩の者はもはやこの領地を横断できなかった。アッチラが望んだように、これがフン人たちの脱走を阻む領土の柵となったのである」(ルイ・アンビス『アッチラとフン族』)


●2016/02/29 10:12
「皆さんうろたえてはダメ、こんなことぐらいで。またルーアンが奪われたけど悲しむことはないわ。済んだ事はいくら嘆いて悔やんでも悩みは消えたりせず悔恨は増すばかりだから。あの気違いトールボットはしばらく威張らせておいて、孔雀のように尻尾を見せびらかすままにしておきましょう。あんなの引っこ抜くの簡単なんだから。殿下と皆さんがこれから私の言うとおりにしてくれるのならば」
「われわれはこれまでもお前に従い、お前の策略を決して疑ったことは無かった。一度不意打ちを食らったくらいで信頼が消えたりはしないぞ」
「ではいいこと、ジャンヌの考えはこうよ。もっともらしい理屈に甘い言葉を混ぜて、バーガンディ公爵を言いくるめて誘うの。トールボットを捨てて私たちにつくように」
「それがいいぞ、かわいい乙女よ」
(シェイクスピア『ヘンリー6世』)


●2016/02/26 13:52
「四季折々の季節の変化がいちぢるしいように日本の人間の受容性は調子の早い移り変わりを要求する。それは大陸的な落ち着きを持たないと共に、はなはだしく活発であり敏感である。活発敏感であるがゆえに疲れやすく持久性を持たない。しかもその疲労は無刺激的な休養によって癒されるのではなくして、新しい刺激・気分の転換等の感情の変化によって癒される。癒された時、感情は変化によって全然他の感情となっているのではなく、依然としてもとの感情なのである。だから持久性を持たないことの裏に持久性を隠している。すなわち感情は変化においてひそかに持久する」(和辻哲郎『風土』)


●2015/12/23 12:10
「この2人は百年戦争という薄氷の上で自分達が立つてゐる基板がいつフランス軍の手によつて打砕かれるか解らぬといふ危険を半ば意識しながら、そして半ばそれを忘れながら、一口に言へばすべてを見ぬ振りをしながらあたかも諜し合せたかの如く王位を守る者と奪う者といふ内乱劇を演じてゐたと言へよう。『リチャード2世』は作者が恰もその間の事情を見抜いてゐたかの様に書かれてゐる。リチャード2世は被害者の役割を、ヘンリー4世は加害者の役割を意識してゐるばかりか、更にそれぞれに相手の役割まで理解しながら行き掛り上あくまでゲイムとしてそれを演じ通さねばならぬと思つてゐるかの様である。それは必ずしも近代的な解釈とのみは言ひ切れない」(福田恆存『私の英国史』)


●2015/12/16 09:12
レオポルド「デモクラテスさん、私の理解する限り野蛮人に対して現在のスペインがやっている戦争は正しい意図のもとに行われてはおりません。つまり、戦争とは大概のところ結果的に戦利品としての金や銀を暴力的に得ることを目的として行われていて、現在のスペインの行為もその例に違わないのです。聖アウグスティヌスは言っています。「戦は決して犯罪ではないが、財貨を求めて争うのは罪である」。聖アンブロシウスも言っています。「たとえ相手が悪人であろうが、その財産を没収するために相手を追い詰める行為は悪である」。スペインの戦争は野蛮人にとり甚だ有害かつ残忍な物であり略奪行為です。法の下では盗人でも道ゆく人から奪った物はおとなしく当人に返却しなければならぬように、スペインは奪った物を野蛮人に返却する義務があります」

デモクラテス「レオポルドさん、君主や国家が総合的に臣下や人民を支配しているからといって、おのおのの総督や執政官が犯している罪がすべて国家が認めているものだとみなしてはいけません。たとえ多くの実例があろうとも、邪悪で不正な総督やら執政官やらが異国で犯した卑劣な行為が、本国にて君主や廉直なひとびとが策定している政治の結果だとみなしてはならないのです。君主がしなければならないのは不正を阻止すること。「正されぬ過ちは是認されたことであり、擁護されぬ真理は抑圧されたも同義である」というインノケンティウス3世の尊い教えは有名です」(セプールベダ『第二のデモクラテス~戦争の正当原因についての対話~』)


●2015/12/15 18:45
「男女のオシャレはこの60年間で2度も3度も目に立って変わった。それは決してお化粧の進歩ではなく、男の方でも“男らしさ”というものの基準そのものが昔のものとは比べようもないものになってしまったのだ。だがオシャレという物は常に現在の物が最も正しく、振り返ってみれば過去の物はみな少しずつおかしい。(中略) われわれの着る衣服が時代を追ってその材料を増加し色や形の好みも目まぐろしく移っていきながら、必ずしもまるまる前のものを滅ぼしてもしまわず新旧雑処して残っていたということは、乱暴なようだがまた好都合なことでもあった。仮に各人が自分の境遇、風土と労作との実際に照らして遠慮無く望むことを表白しうるようになったとしたら、もう一度改めて真に自由なる選択をして末にはめいめいの生活を改良する望みがあるからである」(柳田國男『明治大正史・世相篇』)

この子は鷹だ。とんびが鷹を生んだのだ。

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6月16日に行った沼津旅行の日記の続き。写真は全然関係はありません。(ここまで書けたらいいな)

魔法の国ザンス。

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9月の20日と21日もまた伊豆に行ったのです。
今回の目的はまた大仁と韮山の図書館に行って『吉佐美古記録』を捜すことだったのですが(←やっぱり見つからなかった)、代わりに韮山の図書館で『房総の頼朝伝説』(冬花社、2013年)なる本を見つけてしまいました。おおおおお、私はこの本を8年前に欲しかった!
(良く通っていた伊豆長岡町の図書館は老朽化が理由で平成28年の4月に閉鎖してしまったそうです。伊豆の国市に3つあった図書館はそれぞれ蔵書が違ってどれもに行くことが貴重だったのに。私は伊豆長岡の図書館で故・中野貢氏に『源頼政・菖蒲御前伝説とその回廊』を(直接には会わずに)譲って貰ったのでした)

家に帰ってAmazonで検索してみたら、あっさり買えてしまいました!(今日届いた)



『房総の頼朝伝説』 笹生浩樹・著、1300円(税別)。
個人的になぜか房総半島はVガンダムのイメージがあるので、1/300のVガンの人形と並べて撮ってみました。このVガンは昨日買ったのです。ガムが入ってて食玩扱い(500円)なので(バンダイ製なのに)住吉町のマックスバリュで(笑)。さすが500円なのでVガンダムはクォリティがそれなりなんですが(ヴィクトリーはこんな色では無い!)、ガンイージはめちゃくちゃかっこいいです。500円でこんなのが買えるなんて日本て何てスバらしい!

わたくし、頼朝伝説を求めて2009年に房総半島を旅したことがあるんですが、あの時かなり調べ込んでから(←それはどうだったかな)房総に行った記憶があるんですけど、あの頃は調べてもこんなに情報量は無かった。(それでも全部廻りきれなかったのに・・・) この本を片手にまた房総半島に頼朝巡りに行きたいですねえ。半島って素敵ですねえ。
確かあのとき、「伊豆半島の頼朝伝説は20年間かけての伝説の蓄積だから、変な伝説やらささやかな伝説やらがてんこ盛りだけど、房総半島の頼朝はたった半月で広い半島を駆け抜けたから、“駆け抜けた爆走伝説”が主である」と書いた記憶があるのですけど、この本を読んでみるとけっして左右(そう)ではありませんね。ああまた房総に行きたいぬ。・・・ていうか、私は8年前にこの記事を完結させてないのですね。仁右衛門島の奥のお宅で土肥氏に関する面白いお話を訊いたりしましたのに。あぁまた新たに頼朝様の記事を書きたい。


せっかくなので、google地図で『房総の頼朝伝説の地図』も作ってみたいと思いました。

  ★そうか、まかだなあ★ ・・・まだ10年前に自分が行った場所のみですけどね。
       10年計画で充実させます。


ついでに、10年前に作っていた『伊豆の頼朝伝説』の地図。
私は最初これをBingの地図で作っていたのですが、Bingがどんどんどんどん不便になっていったので、諦めて地図製作をgoogleに移した苦い経験がある。で、10年ぶりに改めてBing版を見てみましたら、極めて魅力的な見た目に戻っているじゃありませんか! (なんと、ピンの隣りに項目名が表示されているのです。これはgoogle地図より機能的に優れている点です) でもしかし、他のいくつかの機能がgoogleより劣っている。(ピンの形が選べない点とか、写真が表示できない点だとか、リンクを貼れない点だとか)。10年前のBing地図は写真はいくつでも表示できたし、大きな写真は拡大できたし、文中にタグを多用すらできたんですよ!
自分的に言えば、10年前に本を沢山読んで調べたことは、今ではほとんど忘れてしまっているので、この手の情報が蓄積されているページは非常に便利でありがたい。ほんとうにしょうがないので(自分のために)『伊豆の頼朝伝説の地図』も改めて作り直すことにしました。

  ★(bing版)『伊豆の頼朝伝説』 ・・・(※表示されない、、、)
  ★(google版)『伊豆の頼朝伝説』 (今のところまだ少し)



おそらくすべての記事は書き下ろしになるだろう。
・・・私はこの手の物を作成しても完成させたことがないし、「いいかげんにしろ!」「もっと他にすることがあるだろ!」と思わなくも無いのですが、でも、どこかへ行く度にその都度その都度本を読んで調べ直すのも大変なので、こういう風にメモしておける場所は(自分的には)大切なのです。
10年前のBing版とこれから充実させる予定のgoogle版を見比べると、たぶんかなり食い違っているだろうと思いますが、これは10年前の私と現在の私の蓄積された情報量の差です。この10年間で私は伊豆の源頼朝公についてかなり詳しくなってるという錯覚がありますが、それでもまだ行ったことの無い場所や見つけてない場所があるし、知らないことも随分ある。すべてはまたこれからの10年計画です。(そろそろまた私は伊豆に再び引っ越す計画を本格的に検討していますよ!)





さて、ついでなので6月~8月までに行った下田旅行のことは一旦置いて、9月の大仁旅行のことを先に書いてしまいたいと思います。(こっちの方が簡単に終わりそうだから)

ここのところ、10時ぐらいに気賀の家を出て、新東名の浜松サービスエリアのスマートインターから高速に入って、2時間くらいかけて昼頃に伊豆に着くのが定番になっています。そうすると着く頃に程よい具合に小腹が空いているから。・・・しかしこの日は早くに空腹に目覚めてしまい、森のサービスエリアでそばを食べた。



つけとろミニかき揚げ丼、980円(税込)
とろろ(じねんじょ)にそばを浸けるとこんなにうまくなるとは知らなんだ!

そこから飛ばしに飛ばして伊豆に着き、まず目指すは韮山の図書館。


韮山時代劇場。この巨大建築物の一棟に韮山図書館がある。

ところが着いてみますと、入り口には「本日休館日」の張り紙が。
なんでや、今日は水曜日じゃぞ。定休日は月曜日でしょ?(・・・なんでも伊豆の国市では休館日をずらすために、大仁の図書館の定休日は月曜日、韮山の図書館の定休日を水曜日にしているらしいのでした)。でも前から私はこんなのばっかり。こんなに本好きなのに図書館ってほんとに相性が悪いのです。

失意のまま向かったのは、韮山町と函南町の境の奈古谷地区にある天長山国清寺。



このお寺も来るのは10年ぶりぐらいですね。懐かしいですね。
この巨寺は室町時代には「関東十刹」のひとつだったこともあるほどのお寺なのですけど、現在は無住。隣接する高岩院(国清寺の末寺)の人が主に手入れをしていると思われるんですが、その高岩院の方も入り口に「山門不幸」の札がかかげられていて、悲しくなってしまいました。

メンデルスゾーンの交響曲第1番。

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ナタリー・ストゥッツマンがメンデルスゾーンの第1番を指揮している動画を見つけました。
ステュットマン(よくわからない)って女性歌手ですよ。私はこの人のシューマンの歌曲集を何枚か持ってます。ついに歌手が指揮にまで手を出す時代になったか。と思って聴いてみましたら、まぁ、なんて、心地いい。感極まった。メンデルスゾーンとシューマンは同時代人ですからね。シューマンの歌曲が得意な人はメンデルスゾーンも得意なのね。2013年製だそうです。

10年ぐらい前に「わたくしの好きな交響曲ベストテン」という記事を書いたことがありまして、第1位=メンデルスゾーン第1番、第2位=シューマン第4番、第3位=ベルリオーズ幻想交響曲、第4位=ベートーヴェン第5、第5位=蛸5、としたんですが、この順位は今も変わりません。メンデルスゾーン第1大好き。


ただし、チューブ状生物上で検索したら上のものよりもっとパーヴォ・ネルヴィの方が私的には最も理想的な演奏としてしっくりしました。
みずみずしい。

ルーグナ城の秘密。

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