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「嫌い」と「好き」で物を語るな。

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ゴルトベルク変奏曲、グレン・グールド、1981年。

わたくしは「大バッハ」が嫌いなのです。大嫌いです。
「クラシック好き」を任じてましたので、若い頃にはたくさんCDを購入し、なるべく親しもうと努力もしましたが、長じて偉大なる「変ヘンデル」の魅力に目覚めるにつれ、「大バッハ」が嫌いになった。「こいつなにが楽しくてこんな栄養もカロリーも効用も何も無いこんにゃくみたいな音楽を大量に作っているの?」「苦痛だ」って。「ブリタニアの幸いなる大ヘンデルは鰤であり鯛であり鯱であるのにこいつはなんなの!?」って。
小さい頃はあんなに大好きであったロ短調ミサ曲もマタイ受難曲もブランデンブルク協奏曲群もうるさく感じるようになり、30を超えると大バッハの曲で聴くのは「ゴルトベルク」と「パルティータ第2番」と「音楽の捧げ物」ぐらいになってしまった。

翻りますが、大バッハの「ゴルトベルク変奏曲」って誠にいい曲ですよね。
古今の作品のうち、ここまで均衡に選り研ぎ澄まされた曲ってありましょうか。聴いたらひどく興奮する。建築的な香りがする。ドイツみたいな燻製された腸詰め肉の焦がれた感じがする。さすがクラシックです。クラシックばんざい。私は大バッハは大嫌いなんですけど、多分この曲は別次元線の別バッハが作った物なのでしょうね。

私の初ゴルトベルクは記憶が疎かなんですけど、若い頃住んだ九州長崎で、初めて買った20枚のクラシックの初コレクションには含まれてはいなかったと思う。何かの本で「バッハはグレン・グールドが凄い」と読んでから買った。わたくしの初ゴルトベルクはグレン・グールドの81年盤でした。マタイ受難曲のリヒター盤は高校生の時から聴いていた。
長崎にはどこにも丘の上に華麗な教会があった。(リアスの港の奥々には魚面の民が潜んでいそうな深い淵の数々がありました)。隠れキリスト教に多大な興味を抱いていた私は教会群を遠くから眺めることがとても好きで(結局一回しか中に足を踏み入れることが無かったけど)、私の記憶の中の長崎県の思い出の景色にはゴルトベルク変奏曲('81年)が大音量で流れている。っていっても、30年も経ってるので記憶がもうかなり薄くもなっちゃってるんですけど。私の記憶の大バッハといったら長崎の九十九島と松浦半島とハウステンボスと富士市なんだが。(富士市に住んでいたときグレン・グールドの30枚組のバッハ全集を買ったから)

で、ゴルトベルク変奏曲といったら私にとっては81年のグレン・グールドとかあり得なくて、それ以外は聴いたことが無いのです。大全集に含まれているので1955年盤は持ってはいますけど、ほとんど聴いたことが無いのです。で、今の時代、捜してみるとあるんですね。動くグレン・グールドの映像が。凄いですね。(探してみたことはなかったので)今さらながらにびっくりしています。さすがに1955年のグールトの動く映像は無いでしょうね。


(1955年盤)
81年盤とは正反対の雰囲気だと思い込んでいましたけど、今聴いてみますとそんなに違和感ないですね。もっと駆け足風の演奏だと思ってた。


若い頃の私はグールド以外は聴こうとは思わなかったのですが、唯一お店に行くたびに探していたのは、吉田秀和だか宇野功芳だかがどこかの本で紹介していた(何の本だっけ)「弦楽三重奏版の」ゴルトベルク変奏曲で、(ネット通販なんて無い時代だったから、結局見つけることはできなかった)、でも現在はネットの世界で聴き比べ放題なんですね。確か探していたのは、ドミトリー・シトコヴェツキー、ジェラール・コセ、ミッシャ・マイスキーの3人の演奏だったと思うけど。


(これはアケミ・メルセル-ニーヴェーナー、ディルク・メルセル-ニーヴェーナー、ウルリッヒ・ホーンさん)


あった(驚き)。1985年。

騒擾の大地。

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「Inkarnate」という架空の世界の地図が描けるサイトというのがあって、便利で簡単だというウワサだったので、試しにアランシア大陸西北部を描いてみました。アランシアは『ファイティング・ファンタジー』(FF)というゲームのシリーズの舞台となる世界です。

おお、たしかに簡単だ!
なかなか豪華で手を掛けて描いたもののような見た目にできますけど、実はそんなに大変じゃなかったですよ!
(しかしgooにアップロードするとひどく劣化する。なんでだろう?)

アランシアには『タイタン』(1990年、社会思想社)という傑作設定資料集の文庫本があるのですけど、わたくしはこの本を読むたびにめちゃくちゃ興奮するとともに不満を覚えるのです。なんて世界は狭いのだって。(上の地図でアランシア世界の1/4を描いている)。大陸って広くてなんぼじゃないですか。国の数だったら小国を含めて127ヶ国は最低はあるのが妥当じゃないですか。ここはなんて狭い大陸なのだ。
だがしかし。
架空地図っていうのは、それらしい思わせぶりな描写を適度に散りばめられれば最上なのでありまして。このサイトのコレはそれが抜群に優れていると思いました。

例えばこの地図で言えば「トロール牙峠」。
この地域を設定した作品として、偉大なる聖スティーブ釈尊の『トロール牙峠戦争』(1989年)という小説があるのですが、わたくしはまだ読んでいません。(2009年に同人誌で日本語訳が出ているそうだ)
トロール牙峠は交通の要衝で、狭く閉ざされたアランシアに入る唯一の入り口だそうですけど、一方で、だからこそ古来から戦争の舞台であり、現在ではトロール牙峠を通ろうとする旅人は一晩で何万もの幽霊の出現に悩まされるそうです。アランシア世界の幽霊・亡霊の数々は非常に技術点が強い。
でも、地図を見ると、北に迂回すればゼンギスの方は全然安全そうじゃないですか。なんてわざわざ危険なトロール牙峠を通ろうとするのか。トロール牙峠とゼンギスってそんなに離れてないんですよね。・・・というわたくしの疑念(不満)を解決してみようと描いてみたのが上の地図でして。
ゼンギス付近もなかなか面倒くさい場所なのです。ここにはむかしゴールドラン王国という国があったのですが、300年前におきた「魔法大戦争」という大争乱で、真っ先に混沌の大軍勢に襲われて陥落してしまった。ゼンギス付近にある「ガル・ゴールドラン」という遺跡がその王国の首都の故地なのだそうです。でもFF作品で「ゼンギス」の周辺って一度も舞台として出てきたことがないので、この地図の表現は誇張されたフィクションなのですけどね。わたくしの地図の中では「ゼンギス付近を交易行するのもなかなか面倒」ということにしておきたい。ゼンギス王国は現時点では“謎の国家”なのですから。
だからやっぱり旅人たちはトロール牙峠を通るしかない。
でも、またここでわたくしの不満が爆発するのですが、アランシアの人が危険なトロール牙峠を通って行っても、フラットランドの先には美味しい交易ができるような文明地が何も無いんですよ。実を言うとアランシア大陸は大都会ポート・ブラックサンドただひとつですべてが成り立っているかのような大陸です。アランシアの逞しい隊商達は悩ましい亡霊達の恐怖の呪いをくぐり抜けてまで、一体どこに向かおうとしているのか。一応、フラットランドは横断しようとすると隊商速度で二週間ぐらいかかるくらいの広さだそうですけど。








せっかくなので「マイ・架空地図」も描いてみました。
題して「十四太陽の國の地図」です。
楽しいな。

これは中学生の頃、T&T用に作った地図(まだノートが取ってあってとても懐かしい)が元になっています。
私はこういうのを描くのがとても好きだったんですよね。T&Tというのはギャグ表現を主体としたRPGだったので、「幽霊屋敷」や「秘境」や「最強王国」をたくさん作った思い出があります。こういうのは意外と大事に(心の中に)保存してある物で、大人になってからも(4年ぐらい前に)この国を舞台にして「小説家になろう」で長編小説を書いてみたりもしたのですが・・・(とうぜん未完)
懐かしいな。

聖王都の近くに「異世界十王の國」というのがあって、これは異世界からの転成者たちが建国した王国なのですが、これ、真面目に中学生の頃の私が考えたんですよ。30年も前に私は「なろう」を先取りしてたんだな(笑)。ただし私の(中学生の頃の)かんがえたさいきょうのものがたりせっていでは、「2万年くらい前に聖王国を建国した創世王は(←メルニボネ王国が1万年の歴史だから、私は2まんねんにしたんだった)、実は双子で、長い遍歴の末に太陽神の神の都の遺跡を発見し、兄の方が聖王家の祖となるのですが、弟は異世界へ征服戦争へ出かけ、3000年後に10人の勇者を連れて帰ってくる」という話だったんですけどね。
私は何よりも「架空の地名」を考えるのが大好きな子供でした。

中学生の頃のゲームでは「キルディア交易男爵領」(・・・とその富を狙って襲来する盗賊王たち)が舞台だったのですが、大人になると主要な舞台は“超大国”サグネリ大公国になります。
この小説、ちゃんと最後まで考えてあるんだけど、もう私は続きを書かないのかな。もう4年も経っちゃったんだな。(実は4年前の私は長い失業生活を送っていて、だから「小説でも書いてみよう」と思ったんですけど、また失業でもしないと小説なんか取り組めないですよね。意外と時間がかかった思い出が)。

4話までだと全く片鱗も出てきませんけど、この物語は「架空戦争歴史物語」で、『紅衣の公子コルム』のフォイ・ミョーア戦みたいな展開を構想してたんですよ。第一部が全7話で、第三部から戦争が始まる(笑)のですけど。ああ、また失業したい。・・・老後に期待しましょうね。
でも、この小説、自分で言うのもなんですが、ひどく退屈な展開の作品です。(だって「くどい表現を追求してみよう」とこの頃の私は思っていたんですもん)。いいんだもん。書いている私だけが楽しければそれでいいんだもん。(私は常にこのスタンス)


で、「Inkarnate」ですけど、「国境線」と「街道」を描くのが難しい。地図を書くのは大好きなので修行しますね。

真昼の魔女。

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3月の7日に行った日金山の鬼探しと、4月の10日に行った如意ヶ嶽薬師坊・三井寺の道了尊捜し、琵琶湖博物館のお話の続きはもう私は書かないようですね。残念なことです。
6月のお休みは、伊豆の下田に行きました。鵜嶋城のあじさい祭りが最高潮だと聞いて。(※でも実は去年もこの時期に鵜島城に来てあじさい巡りをしていたので、結局今回は下田城には行くのをやめちゃいました)


伊豆急の線路越しに見る寝姿山の下田城。こっちの下田城ももう何年も行ってないなあ。


結論からいうと、今回の下田旅は不首尾でした。
今回の下田行きの一番の目的をわたしは、何年か前に南伊豆町の図書館で見た『吉佐美古記録』をふたたび読むこと、としたのです。朝の6時ぐらいに気賀の家を出発したまでは良かったのですけど(いつもは早朝に出発しようと思っても、結局うだうだして出発は昼頃になる)、新東名の清水付近で猛烈な水泳選手に襲撃されて仮眠。目が覚めたら11時ぐらいになっていました。清水から三島長泉までは30分ぐらいで着くのですが、三島から南伊豆まではやっぱり2時間弱かかる。南伊豆の図書館に着いたのは14:30ぐらいだったかな。それから1時間半ぐらい本を読みまくって、結局「『吉佐美古記録』はここにはない」と気づいたのは16時頃でした。あれ見たの何年も前でしたからなあ。そもそも『吉佐美古記録』は地元の研究家があしらえたような簡単な軽い装丁のものだったし、誰かが借りているのか、もうどこかに隔離されてしまったのか。(吉佐美の八幡神社の碑文によると、のちに神秘家となった進士氏が昭和18年に書いて図書館に寄贈したものだそうですからね)
「南伊豆に無いのならば下田に行けばいいじゃん。吉佐美は下田市なのだから」と思ったのが16:15頃。急がねばいけません。実はこの日(6/11)は日曜日。一般的に月曜になるとどこも図書館は休み。南伊豆の図書館は17:30までの開館だったので、下田も一緒だとすると、ここから10分で下田まで行っても30分で広い図書館の中でその本を見つけるのはムリだと思ったので、ここは無念を飲んで受付の人にその本が無いか訊ねよう、と(←儂はいつでも自分で見つけるのが好きだ。人に聞くのは嫌いなのじゃ)、でも下田の図書館に着いてみると、こっちの図書館は平日の開館時間は17:00までですが日曜日は特別に16:00までだそうで、もう閉まってた! なんてやる気が無いのだ下田の図書館! 日曜日こそ開館時間を長くするのが普通だろお! むかし下田に住んでいた頃、一度もこの図書館に来たことの無かったわたしは、とても憤りました。当然明日(月曜日)は下田の図書館も休みですとよ。とっぺんぱらりのぷっぷくぷう!


<翌日に行った吉佐美八幡宮の「源三位頼政命霊璽 室菖蒲前命霊璽」>

というわけで南伊豆図書館では目当てを見つけることができなかったのですが、1時間半ここに篭もったことによる収穫も全く無かったわけではありませんで

 (1)『三位頼政考』(渡辺庄三、平成4年)
 (2)『田牛郷土史』の「遠国嶋の記」についての記述



一般に吉佐美地区に伝わっている源頼政の伝説に関する本は何があるのかと言いますと、松尾書店の『史話と伝説 伊豆・箱根』と中野貢氏の『源頼政・菖蒲御前伝説とその回廊』にそれぞれちょろっと説明が出てきますけれど、その大元となるよりどころは、寛政12年に秋山富南が書いた『豆州志稿』を、明治21年になって萩原正平が補修をほどこした『増訂豆州志稿』にある記述です。吉佐美の碑文にある記述も大きく考えて『豆州志稿』にある記述と関係あるものと思われる。
でもしかし、先日コメントをくださった鈴木さんの家に伝わるとおっしゃるものと、今回読んだ『三位頼政考』で著者が見たと言っているものは、その吉佐美八幡にある伝説とは別個のものであると思うですのよね。

まず『増訂豆州志稿』の説明を簡単にまとめますね。
(巻13<流寓 人物 烈女 僧英>)
「源頼政 ○旧記に曰く、久安5年(1149年)8月に(=治承の挙兵の31年前)、賀茂郡の金山(=大賀茂?)に流され、仁平2年(1152年)に吉佐美村に移る。(※吉佐美村清水谷にある八幡宮は久寿元年(1154年)に頼政が勧請したという「三所」のうちのひとつだと伝わっており、ここには頼政が奉納したという文書3、4通が所蔵されている。諸書には頼政の物語についていろいろな事が書いてあるが、当州の者はそれとは異なる数多くの言い伝えと古蹟がたくさんあると言い張っている。ゆえに記録を残しておくが、頼政の筆になるとは考えられぬものもあるし、誤写と思われる写しもある)。(増訂)案ずるに、頼政が伊豆に流されたと云う事実が史書にないところから考えると、この地の伝誦は何らかの牽強であり、頼政の文書と伝えられているものはあるが信ずることはできず、もしかしたらこの地に伝わる菖蒲御前の古蹟に関連して附会されたものではないか」

(巻13<流寓 人物 烈女 僧英>)
「菖蒲 (増訂)伝承ではむかし殿上人が伊豆に流され、古奈に蟄居して妾を作って菖蒲を産む。菖蒲が7歳のとき父は許され、娘と一緒に京へ帰り、彼女が成長すると宮女とした。(『伊豆名述誌』『伊豆日記』『禅長寺記』など)。頼政がたまたま菖蒲を見て、懸想してかなりの年月が経った。鳥羽院がこれを聞いて彼女を彼に賜った。(『源平盛衰記』『太平記』)。治承4年に頼政が宇治で戦死すると、菖蒲は当州の古奈に帰住し、のちに内浦の河内に閑居をつくって剃髪し、西妙と号したという。菖蒲は架空の人物と思われるが、当州においては遺蹟や口碑がたくさんあるのでここに記録することとする」

(巻13<流寓 人物 烈女 僧英>)
「井ノ早太 伊豆玄龍という人の子がもしかしたら伊豆の早太ではないかと言われている。(『頼政記』)。平家物語には、頼政がもっとも信頼する郎党・遠江国の住人猪ノ早太とある。一説に猪ノ鼻ノ早太高直(または井ノ早太)は遠州猪鼻を領し、多田源氏太田伊豆八郎廣政の子であり、仲政の養子にされたのだという。 (増訂)この人を当州の人とする確証はないと思う」

(巻3<村里(下)>)
「吉佐美村 (増訂)下田町の西25町50間、青市村の東33町、田牛村の北1里4町、大賀茂村の南23町 (増訂)18里20町7間 (増訂)天正18年の検地帳、豆州賀茂郡吉佐美ノ郷と。税祇簿ではきさ見。廃・佛岩寺の応永8年作の金鼓の銘に吉佐美村とあるのが一番古い。
○昔は朝日ノ里・月吉村といっていたが、源三位頼政がこの地に謫居したとき吉佐美村と改めたと『頼政記』にある。(案ずるに蚶(キサ)がこの付近の海浜に非常に多いので、キサミとは蚶海の意味だと思う) 和歌あり「今日迄は 角て暮しつ 里人は ■てキサミの 神に任せん」 宝永年間に三嶋大社の后神の宮がこの地に鎮座したことによる称とも言う」

(巻9<神祇(下)>)
「八幡宮(吉佐美村) (増訂)村社八幡神社、祭神不詳。相殿三島社には阿波咩命を祭るという ○若宮が配祀されている。この神は源頼政が石清水八幡宮から勧請し地名を改めた(と「村里の部」に書いてある)。この若宮は最初多田見川の上流の三島の林にあったが、源頼政が現在地に移した。この神は若宮八幡ではなく三島神に従う若宮である。寛永6年の札に、源頼政が吉佐美郷清水谷村と刻した金鼓を吉佐美八幡に奉納したとある。この金鼓の内には小鈴と2寸ばかりの金舌があり、それに前中宮菖蒲と刻まれている。また久寿元年9月に頼政が奉納した歌に「神世より 光をとめて 朝日なる 鏡の宮に うつる月影」「神さびて あはれ幾代に 成りぬらむ 浪に馴れたる 朝日の宮」「かくてのみ 止む可き者か 千早振 土生の社の 萬代を見む」「さりとては 頼むぞかくる木綿襁 我れは朝日の神と思へば」「石清水 流の末を うけつぎて 今は吉佐美の 神に仕ふる」 
(増訂)案ずるにここに書いてある頼政のことはすべて附会であると思われる。流寓部を参照すべし。また金鼓に中宮菖蒲と記されてあるというが、菖蒲は中宮になったことはない。菖蒲は鳥羽法皇が頼政に赦し賜ったとされているが、中宮を臣下に賜うことなどあるはずもない。
(増訂)海若子伊豆日記に、八幡宮の社を守っている人の家に行った話が書いてある。主人の老人が身を清め塗り籠めの中から白木の箱を取り出し文机の上に置いた。うやうやしく開いてみると、八幡宮祭礼執行の文が一枚、神前に奉る歌十首、この里の人の系図が一枚。そこには頼政がこの国をさすらって3年後にこの地に落ち着いた次第が書いてあった。久寿元年九月という頼政の署名があった。また菖蒲の前が八幡宮に奉納したという直径9寸ほどの小さい鰐口には、表に吉佐美八幡宮源頼政これを奉ると彫ってあって、その上に小さな穴が開けてあり、その鍔にはとても小さな鈴がつり下げられてある。舌には長さ1寸幅5分ぐらいの真鍮の短冊があって、表に前中宮、裏には菖蒲と書かれている。よく見ると鰐口は新しい時代の物である。頼政の作だという歌の数々も、意味がよく分からぬ最近作ったような拙いものばかりであったが、しばらく見ているとゆかしいような感じもしてきてしまった。すべて拙いものばかりで、これはいつの時代の誰が見ても欺される者はいぬだろう、どんな痴れ者がこれを作ったのだろうとはなはだ興ざめした、云々。
○末社12、祠域の経蔵に大般若経の残本がある。禰宜は進士氏。
(増訂)相殿の三島社は式内竹麻神社の三座のうちの一つである。手石村月間神社の條参照すべし。この神を昔から十七番の御神と呼んでいる。按ずるに、神階帳賀茂郡神社のうち、月まの明神(すなわち式内竹麻神社)を三座と数えるときは、この神がちょうど17番目に当たるからではないか。また、吉佐美の村は后宮(きさみや)の略なのかもしれない。もとは深田という字のところにあったものを、明治11年に合祀した。
○白鬚神を配祠している。源頼政記いわく、豆州十七番の御神、神尾山御倉山の麓多田見河の上流に座していた朝日郷月吉村の土生大明神で、その正体は人皇6代(孝安天皇)頃の興津彦と興津姫である。((増訂)源頼政については前述した通りである)。この神はおそらく式社であると思うが、祠典何の神であるかはよくわからない。もしかすると多祁美加々命神社ではないか。多田美河という地名は訛誤があったのかもしれない。((増訂)この説は間違っている) 三島明神と称しているのはむかしこの祠域に若宮祠があり、この若宮は三島明神に従った若宮であるからである。伊豆納符」

・・・文中にある「海若子の伊豆日記」というのは文化7年(1810)の伊豆旅行の日記だそうで、つまり秋山富南が豆州志稿を完成させた寛政12年(1800)には書かれていなかった。海若子は「富秋園海若子」とも名乗っているので「秋山富南の変名か?」とも思ったのですが、実は富南翁は文化5年に85歳で亡くなっているのでした。じゃあ海若子とは誰なのかというと、三河口輝昌という江州生まれの幕臣で、寛政年間には代官として八丈島に住んでいたそうな。文化7年には68歳。若くはない。が、幕臣で「富秋園」という名乗りから見て、おそらく富南翁とは知己で江川太郎左衛門(英毅)から伊豆志稿を見せてもらって、興起されて伊豆の各地を見て回ったんでしょうね。(・・・かな?)


で、八丈島の悪鬼たちが襲来して多々戸浜で猪早太たちと戦った話も豆州志稿のどこかに書いてあるはずなんですけど、見つけることができなかったので(笑)、戸羽山瀚氏の『史話と伝説 伊豆・箱根』(昭和45年)から。

「八丈島の悪鬼と戦った多々度浜・・・ 「伊豆の吉佐美村(下田町)と宇久須村(賀茂村)の八幡神社に、八丈島から押し寄せた戦争を描いた額がある・・・」と八丈実紀に書いてある。その額は今ないが、吉佐美地理往来(明治11年、進士一仙)に次のように見える。
「多々度の浜は、往古、久安年中(1145~50)の古戦場である。この時、八丈島から悪鬼どもが押し寄せた。これを迎え討ったのが、藤原近信、井の早太、進士、佐々木、石井、加藤、土屋・・・ 田牛の渡辺、青市の進藤、其の外、手石、日詰等々近隣の村々から馳せ集った68人。鬼どもは敗走して大島へ逃れた」
この戦は、貧しい八丈島から倭寇のように、略奪に来たのであったろう。今、多々度浜は海水浴場で、外人の別荘や旅館などがある」



で、今回見つけた『三位頼政考』の要約。

・伊豆の知行主である源頼政と、伊豆の豪族のひとりである北条時政はかねてから交流があり、頼政の挙兵は時政がそそのかした。
・南伊豆?に源頼政が鳥羽院から賜ったという御衣と刀(獅子王)をそれぞれ伝えている家がある。著者はその家に御衣を見に行ったことがあり、何度も断られたが、ようやく見せて貰ったそれはとても見事な物で、とても偽物だとは思われなかった。平家物語では御衣は何なのかの説明はないが、正しくは絹地の陣羽織である。ただし現在その家は「御衣はすでに失われた」と説明しており、その家はどこにあるのか言わないこととする。
・頼政は妻(仲綱の母)と仲綱の妻子を丹波五箇ノ荘と若狭に逃し、自分は死の痕跡を残した上で仲綱と共に伊豆に逃げてきた。
・古文書があって、伊豆の吉佐美の月吉の土地に、百年前の東北の争乱の時に新羅三郎義光の孫の相模守義業の子の判官義高が逃れてきて住んだ。義高は土地の長者の婿となった。頼政はこの家を頼って月吉までやってきて、刑部左右エ門という者の家にかくまわれた。頼政は左右エ門の娘との間に吉子姫という子をもうけ、この子はやがて成人して「宗明」となった。頼政はその後青野川沿いに移りそこで没した。南伊豆にむかしあった「源左湯(げんすけゆ)」は「源三」に由来している。
・南伊豆の地名、都殿・一条・二条・三条・九条・加納・大賀茂・下賀茂・賀茂川・賀茂橋等はすべて頼政の命名である。都殿が頼政の終焉の地?
・獅子王の鍔と以仁王の令旨を入れた衣の小袋というものを所持していた老人があった。刀の本体はむかし人に乞われて貸し出したが、帰ってこなかった。この老人の先祖は慶長・元和の頃に大阪から伊豆に移ってきた。(どうしてこの人が獅子王を持つようになったかは語られていない)。この人は頼政の墓(のうつし?)も見つけ出して、ひとりで守っている。墓は現存していて、「猛山義勇信士」「寛延四年八月十九日」と刻まれている。この人は関口氏と言ったが、昭和37年に亡くなった。この人が言うには頼政終焉の地は南伊豆町石井だったという。

学研の本で東京国立博物館蔵の獅子王の写真を見たことがあるのですけど、あれはなんだったのでしょう。“源氏重代の”「薄緑」と同じく、獅子王も何振りもあるものだったのかな。




さて、16:30になってしまったので本日の宿へ。
(奥の茶色い方の宿ですよ。手前の青い建物もビジネスホテルみたいですけど、じゃらんにはあったようななかったような)
朝食付きで¥6000だったんですけど、今時禁煙・喫煙室の区別がなされておらず、エレベータもなく(2階だったけど)、冷蔵庫も備え付けもなく、トイレもウォシュレットではなく、給茶機が廊下にあって、テレビの下にはVHS-デッキが置いてあってエロVHSがずらっと並べてあり、「さすが下田!」と嬉しくなってしまいました。(褒めてるんですよ)。こんなレトロな宿、下田ぐらいに来ないともうお目にかかれない。(そんなことはないか)。だけど(ビジネスホテルなのに)お風呂は源泉掛け流しなんですって! 大浴場はなく、小さめのユニットバスなんですけど、ステキです。
実は数年前に下田を旅していたとき、飛び込みで駅近くの宿に宿泊したとことがあったんです。その頃の自分はネカフェ行脚が趣味で、ネカフェが無いような土地では車中泊が常だったのですが、どうしてその時の自分がビジネスホテルなどに泊まろうと思ったかはよくわかんない。(下田には今も昔もネットカフェなんか無いが)
で、その時のビジネスホテルも「100%観音温泉のお湯」とか言ってたんです。今回、じゃらんでこの宿を予約したとき、数年前に泊まったあの宿と同じ宿だと思い込んでいたのですが、来てみたら違った。あのとき泊まったホテルは「下田ステーションホテル」でしたが、じゃらんでは宿泊プランが無かった。(飛び込み専門なのだろうか)

さて、部屋で一息ついたあと、お散歩です。
今日の一番の目的はこのお店!



今でこそわたくし普通なみのラーメン好きですけど、若い頃の私はそれほどでも無くて、東北地方とかドライブ中にどさん娘やうまいラーメンうまいをみつけたら入る程度だった。そんな私がラーメン好きになったきっかけがこのお店(ラーメン倶楽部 宝来家)だったのです。
20年ぐらい前の私は大賀茂に住んでいたのですが、このお店は吉佐美の136号線沿いにあった。私は仕事終わりにこのお店に寄るのが好きで、特にこのお店のチャーシュウが好きで、やがて、週2週3ぐらいで通うようになった。(黒船ホテルの近くにも今は無いが古いラーメン屋があって、焦げたような醤油の味が好きでそっちもよく行った)。その頃私は「家系」という言葉を知らず、伊東で「究極のラーメン 吉田家」を食べたとき、同じ味なことに心底びっくりしたものです。誰かの話によると吉田家は六角家(近江源氏)の家系で、ラーメン倶楽部の方は吉村家(藤原南家)の血を引いているんですって。ところがやがてこのお店は吉佐美大浜に移転したり、マイマイ通りに移転したり、自分も引っ越してしまったけど折を見て何度かそちらにも行ったりもしたのですが、やがていつの間にかどうなってるのか分からなくなってしまった。ところが数日前にGoogle-Mapを眺めていたら下田市役所のすぐ近くに「宝来家」の文字があって、「おっ!?」と思ったものの、Googleのストリートビューで見るとその建物はどう見ても廃墟で。来てみるまでドキドキであったのです。

あったよあった!
「公式サイト」によると今年の3月の25日に移転オープンであったようです。
おっちゃんは私の記憶の中にある人よりおっちゃんになってて(当たり前だが)、美人で奥床しかった奥さんもイメージ変わったおしゃべりな奥方様になってましたけど、なんだか懐かしいな。



「らーめん」(750円)に「チャーシュー」(200円)をトッピング。
浜松に越してきてから蔵前家(近江源氏六角家系列)の味が家系の味の私の基準になってしまっていて、1度か2度マイマイ通りにあった頃のラーメン倶楽部にも行った事があって、そのとき「ちょっと淡くなった?」と思って、「20年間もラーメンを食べ続けたから私の味蕾は破壊され味覚が変わっちゃった?」「そうだとしたら悲しい」と思ったりして、今回も不安がなくもなくはなかったりもしたのでしたが、やっぱりうまいぞ!
濃い目にした蔵前家のラーメンはめちゃくちゃ洗練されていてうまいと思うのですけど、吉田家や宝来家で食べるとき、昔ながらの家系には蔵前家にはない独特の強い香りがあると思うのです。これがわたくしにはとても懐かしいものに思えて。今回食べた宝来家のラーメンは20年前に食べた吉佐美のラーメン倶楽部と同じ感慨がありましたぞ。もやしはむかしはあったっけな。



麺は酒井製麺ではないというが、スープが飲みたくてラーメン屋に行きたくなる私としては炭水化物の塊なんてどうでもいいので、どうでもいいや。チャーシューは味のない(少しある)噛みでのあるもので、私の一番好み。



レンゲに取った時点で香る懐かしい香り。この限定された幾店舗かの家系だけに存在する香りの正体は何なのだろう。そして、吉田家とラーメン倶楽部の決定的な違いもわたくしは思い出したのでした。吉田家はごりごりの生キャベツがおいしさの正体だったのですけど、ラーメン倶楽部は刻んだタマネギがスープに絶妙な感じで煮込まれていて、20年前の私は「いろんな味がする」と感激していたんですよね。浜松の麺匠家では無料の生タマネギを入れ放題できますけどあれとは違うし、玉葱がもっとクタクタにされていてもまた違うと思うのですよね。わたくしを感激させラーメン好きにさせたラーメン倶楽部のラーメンの秘密とはタマネギだったのか。
しゃりしゃりするスープの中のタマネギが無性においしくて、20年ぶりにわたくしはまた感激しました。
わたくしの記憶の中ではラーメン倶楽部よりも伊東の吉田家の方がスープがより塩ょっぱいという記憶があって「地頭と泣く子はしょっぱい」と悪口を言ったことがありましたけど、なかなかどうしてラーメン倶楽部もしょっぱいぞ。最初は淡いんだけどどんどんしょっぱくなります。そのしょっぱさも合わせて、とてもおいしくいただくことができました。しょっぱいと美味いは同義なんですね(錯覚)。ごちそうさまでした。
下田に来たら、ラーメン倶楽部はまた必ず寄ろうっと。

・・・というのは私の思い出補正による感想なので、世の玄人のラーメン好きさんにはラーメン倶楽部は必ずオススメできないお店です。家系のスープに刻んだタマネギが入ってるなんて一般的にはあり得ないじゃんかね。私にはそれが世界一美味しいんですけどね、記憶の中に思い出のおいしい味というものがあるということは、個人的にはとても幸せなことです。ああ一匹の鯨と松福にもまた行きたい。

そのあとは、下田の町を歩き回りました。
実は私、むかし下田に5年ほど住んでいたのですよね。最初の3年は大賀茂であとの2年は西中(にしなか)だった。ところが、20年経ったいま、大賀茂に住んでいたときのことは事細かに思い出せるのですけど、西中はまったくそうではない。わたし、あのころなにをしていたのでしょう?
タブレットを片手に東と西の中(なか)の周辺を歩き回ってみたけど、結果としてここはまったく見知らぬ町であったのです。・・・わたし、本当にここに住んでたんだよな?(2年も)
どうやってどういう道を通って稲生沢にあった職場まで通い、どこで食料品を買って、どういう食生活をしていたのか。そういう記憶が全く今の私には無いのです。かすかな記憶をたどって、むかしわたくしが住んでいたと思われるアパートまで行ってみました。えっ!? 全然見覚えの無いアパートだぞ。いやいやそうでもないかも。このやたらと狭い入り口付近の通路には見覚えがある(かも)。私の部屋は中ほどにあったのですが、手前の部屋の通路に大きな洗濯機があって、私の洗濯機と冷蔵庫を運び込むのに苦労した思い出(だけ)がある。この頃のアパートは狭い表通路に洗濯機を設置するのが普通だったのかしら。で、今回見に行ってみても、洗濯機の搬入搬出の困難の記憶しか甦らなかったことに笑った。たしか2DKで、次に大仁でアパートを借りたときより安かった記憶が。直接山奥の大家さんの会社に家賃を払いに行くシステムで、よく滞納していたのだけれど(今では考えられないが)やさしい大家さんは(関係者だったので)笑って許してくれていた。そもそも私はそのころ公務員で金には全く困って無くて(余剰金は全て趣味の歴史の本につぎ込んでいて)、家賃を滞納していたのは、ただ「行くのが面倒くさくてついつい」だったからなんですけどね。今では考えられない若い頃の自分の過去です。あの頃の大家さんの奥さん迷惑掛けてゴメンナサイ。
でもここ、伊豆の南部では河津町と並んで「また住みたい町」の筆頭となりました。(宝来家に近いから)

そうそう、思い出したんですけど、部屋の目の前に小さな居酒屋が一軒あったんですよね。ずっと気になっていた(こともずっと忘れていたんですけど)今回行ったらそのお店は健在でした。実は長崎で下宿生活をしていた頃も家の裏手に怪しげなスナックがあって、その時の記憶とごっちゃになってたんですけど、2年も住んでいたのに部屋の目の前のその居酒屋に私は一回も行かなかったんですよ。一人居酒屋巡りを趣味としている今の私には考えられないことです。折角だから今回一人で入って見ようとちらっと思ったんですけど、無いはずの当時の記憶が頭をよぎって、今日も入るのをやめてしまいました。・・・近いうちに、この居酒屋に入ってみることを目的に下田にまた来よう!(と、わたくしは心に小さく誓いました)




夜のマイマイ通り。
どうして下田の町の一番の繁華街のことを「まいまい通り」と呼ぶのかというと、下田が誇るオシャレ生物「シモダマイマイ」を偉大なる大提督マシュー・カルブレイス・ペリーがこの場所で発見して米国に持ち帰って「下田舞い舞い」と名付けたからなんですよ。・・・と大いばりで言おうとしましたが、わたくしカタツムリの歴史には疎いもので、検索して数多くのカタツムリの写真を見比べても、シモダマイマイが他のカタツムリと何が違うのかさっぱりわかんないや。
カタツムリなんて私の知ってるカタツムリは全部同じ種だと思ってたら、実は日本には8百ぐらいのカタツムリの種類があって、地域差が激しいんですって。というのはカタツムリはそんなに移動しない動物なので、広範囲な種の交流が起こらないから。
そもそも「まいまい」というのは日本語だそうで。(英語かと思っていた)。柳田國男の『蝸牛考』によるとカタツムリの一番古い呼び名は「ナメクジ」で(エッ)、「カタツムリ」というのは関東地方と四国地方の方言であり、中部東海と中国地方では「まいまい」と呼ぶのが普通なんですけど、「でんでんむし」と言うのが最も新しい呼び名で、主に近畿で使われたのだとか。
じゃあ、下田で見られるカタツムリが全部シモダマイマイなのかというとそうでもなくて、伊豆半島には約35種類のかたつむりの仲間がいるそうです。(ただし下田で最もよく見られるカタツムリはシモダマイマイ)。でも写真で見比べても、浜松にいるハママツマイマイ(そんな種は無い)と見分けることは私はできないだろう。
で、ペリーは下田で珍しい動植物をたくさん採集して、それを米国に持ち帰って研究したら新種だったので「シモダマイマイ」と名付けられたというのですけど、シモダマイマイの学名は「Euhadra peliomphala simodae」というそうで、「マイマイ」要素がない(笑)。そもそもペリーはこのカタツムリは他とのものと違うと思って採集したんでしょうかね? それとも日本のカタツムリの代表種だと思って持ち帰ったんでしょうかね? 下田市のホームページには変なことが書いてあります。「ペリーの来航により、この種が日本に上陸した」。それだとシモダマイマイは外来種だということになるわけで、おかしいじゃん。・・・と思ったのですけど、検索すると同じ説明がけっこういろんなサイトでされています。というのは、あるカタツムリの種は狭い地域にしか分布しないことになっているのに、シモダマイマイは伊豆半島南部から海を隔てた北部の伊豆諸島にもいっぱい見られるからで、これを「伊豆半島はむかしムー大陸の一部だった」と見るか「伊豆に来る前に小笠原諸島に寄ったペリー艦隊が、新種を伊豆半島に持ち込んだ」と見るかによると思うのです。で、シモダマイマイというのはカタツムリの中でも特に個体の差異が大きく、同じシモダマイマイでもみんな殻の模様がかなり違うんですって。
・・・そんなおもしろいカタツムリだと知ってたら、マイマイ通りに行ったときカタツムリを一生懸命捜してみるべきでしたよ。6月なんてカタツムリ捜しに一番良い時期だったのに。
でも、ペリーがこの時持ち帰った動物で新種だったのは「シモダマイマイ」だけでは無かったそうで、新種のモノアラガイや新種のモスソガイ(ペルリ法螺)とかもいたそうです。よかった「マイマイ通り」が「ホラ通り」とか「スネール通り」という名前にならなくて。(※私の部屋のメダカ水槽には一時期大量のモノアラガイが湧いたんだけど、丹念に取っていったらモノアラは出なくなって、でも代わりに小さなラムズホーンが沢山でるようになり、スネールとは違ってラムズホーンは水草の苔を食べてくれるので放っといたら、現在水槽の中には100匹前後の赤子羊角がいる(笑))



さて、暗くなったので晩酌をできるお店を探す。
適当にぷらぷら歩いて、なんとなくまいまい通りに近いあじさい通りの有名店「なかがわ」さんに入る。
なかがわはとても有名なお店なので、きっと私も一度くらいは入ったことがあるだろうと思ってたけど、2階に上がってみると全然知らないお店でした。(お店は2階と3階部分にある)。そうか来たことがなかったか。定食物がメニューにずらっと並んでたんですけど、さっきラーメンを食べたばかりだったのでそんなに炭水化物を食べられる気もせず、元気なおばちゃんに「あんまり食べられないんですけど、お魚だけ注文してもいいですかー」と聞いたら、「もちろんですよ!」とニコニコしながら言ってもらえた。ええお店や。

お刺身の盛り合わせは2000円、3000円、5000円のものがあったんですけど、ひとりじゃそんなに食べられないので、2160円の盛り合わせとサザエのつぼ焼(1100円)を注文。

お刺身。


わお!
真鯛と伊佐木。それからサザエとメジとハマチですって。
めちゃくちゃ美味い。
お店に入ったときは客は私一人だったんですけど、(座敷の方にはいたかもしれない)、ちらほら旅行者らしいお客さんや地元の人も入ってきて、次第ににぎやかに。



いやー、ビールがウマイ!



そして、サザエの壺焼き。
勝手に「1000円だからサザエ一個だろうな」と思ってたら、大きなのが3つも出てきた。そうでした、下田はサザエが安いんでした。



サザエ大好き!
お腹に余裕があったらもっと追加注文しようと思ってたんですけどとうていムリで、1時間ぐらいのんびりしてから、お店を後にしました。
でもお腹はいっぱいだがアルコール分の入る余地はまだあるぞ!

(・・・続きます)

ムガール大帝。

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現在のわたくしは、また何度目かのヴィヴァルディ熱に襲われているのですけど、それは少し前に大島真寿美氏の素晴らしく可憐な小説『ピエタ』を読んだからです。車用に四季と調和の霊感の聞き比べディスクを作りたくなって、32GBのスティックに4種のイ・ムジチとトレヴァー・ピノックとビオンディとイル・ジャルディーノ・アルモニコとクレーメルとホグウッドの詰め合わせを作ったら、あまりの素晴らしさに泣き出したくなった。
が、夏も冬も素晴らしいけど、私がヴィヴァルディの膨大な作品の中で本当に大好きなのは、イ・ムジチの「アンナ・マリアのための協奏曲集」(RV.248、229、363、260、349、267の計5曲)と「ムガル大帝」RV.208なんですね。
小説『ピエタ』の中のアンナ・マリア嬢はとてつもなくけなげ。聖職者のヴィヴァルディと共に恋も知らない(?)40年を過ごすのですけど、ヴィヴァルディが死んでから必死になって師の作品が忘れ去られないように調和の霊感ばかりを演奏しまくろうとする。でもすでに時代は移り変わっていて、ヴィヴァルディの作品は時代遅れになっており、何の工夫も無い彼の作品が生き残るすべはなかったのですのよね。・・・という文章を読んでいて、「あぁはかないなぁ」と思う私のパソコンではまさにヴィヴァルディの調和の霊感が鳴っているのですから、「あれ?」と思う。まさに歴史小説の醍醐味です。忘れ去ったと思うものは忘れ去られてはいない。

ヴィヴァルディは演ずる人によって音色がかなり変わると思う人です。
ビオンディやホグウッドが好きな私には上の(動かない)動画が一番気に入っている映像ですが、この動画動かないので、



この曲はこんな編成で演奏しているのかと思う。(という驚きはありますが演奏が穏健すぎる)



こっちの方が迫力があって好きですが、それでもなお私の好みではない弾き方です。
全然確証はないけどこの曲は可憐な天才少女アンナ・マリアのために書かれた曲だと思う。10歳の天才少女アンナ・マリアはきっとこの動画のように弾いたと思うけれど、私はあまり好きではない。というすてき。なんなんでしょうね。

この曲について以前書いたことがあったなと思って、どうせたいしたこと書いてないいつもながらの未完成記事だ書き直そうろうと思って読み返してみたら、ちゃんと書いてあってびっくりしました。10年前の私の文章の書き方については言いたいこともありますが、今日の私が記事を書いても同じ事を言うだろう。がんばれよ、10年前のわたし。

山神オコゼ魚を好むということ。

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6月11・12日に行った下田旅行の日記の続きです。
次のお店を求めて夜の下田の町を歩き回るのですけど、若い頃の自分は夜の町の徘徊がとても好きで、佐世保でも浜松でも下田でもシラフでよくやっていましたが、今となって思い返してみますと、悪趣味で不審なことこの上ありませんですな。今日の私は只の酔っ払いなので、反省はしません。



この日は月がとても赤くて丸かった。このホネホネの建物が移転する前の旧・ラーメン倶楽部の建物なのですけど、私が下田に住んでいた20年前のこの場所には九州ラーメンのお店があって、こんな見た目の建物ではなかった。九州出身のわたくしにはそのお店も嫌いではなかったのですけど(そんなに匂いがきつくなかった)、いつのまにか無くなっちゃいました。この裏に「なかがわ」があります。なかがわは20年以上前からここにあります。



(※上の地図、間違えちゃいました。「新下田橋」が通称“人魚橋”で、その下の橋は「みなと橋」でした)。
下田の町は、マイマイ通りとその先の了泉寺通り沿いにお寺がずらっと並んでいて、夜の徘徊にはちょうどよい。北から順に、福泉寺(=川路聖謨とプチャーチンの交渉の場)、稲田寺(とうでんじ=川路聖謨の宿舎。下田仮奉行所。お吉のつれあい鶴松の墓がある)、海善寺(=下田領主・戸田忠次の居住跡。将軍家茂の宿所)、宝福寺(=唐人お吉の寺)、下田八幡(=下田の町の中心)、大安寺(=薩摩十六烈士の墓がある)。















下田八幡宮まで来て、山門の両脇にある二体の仁王像にびびる。こんなのあるのすっかり忘れていた。写真だと明るいけど実際は完全な真っ暗闇で、「何かある」と思ってフラッシュ焚いてみたらこんなですもん。家に帰ってから調べて仁王像と知ったけど、こんなの悪鬼か山の鬼じゃないか。でも脇の説明書きを読むと、ペルリ提督の遠征記の挿絵にも、この両像はちゃんと描かれているんですね。






・・・で、歩いて次のお店を探したんですけど、2、3軒入ろうとしてみた結果、「もうラストオーダー」とか「今日は魚が売り切れている」とか言われてなかなか見つけられず、この時間(22時)の下田で全く開いてる店がないはずがないんですけどね、結果としてまさかの宿飲み(笑)



いや、ローソン駅前店で「インドの青鬼」売ってるの見つけてしまったから(笑)
わたくし「インドの青鬼」が大好きで、それは私が以前働いていた喫茶店が属していた会社で作っていたビールで社割りでよく買ってたからなんですけど、その会社を辞めてしまってからもいろんな種類を良く買っている。でもこの会社のシリーズのうち、「僕ビール、君ビール」というシリーズだけ飲んだことがなくて、なんでかというとこのビール、ローソン限定の限定シリーズだったからですって。(家の近くにローソンが無いので知らなかった)。今ローソンではよなよなセールをやってるそうで、伊豆から浜松に帰る途中にも何軒かローソンに寄ってみたら、どの店でも青鬼とこのビールを売ってました。ローソンではドラクエくじもやっていて、ビールを3本買ったらチューハイと缶コーヒーも当たった。



僕ビール、君ビール。
とても変わったビールでした。
インドの青鬼は何が好きなのかというと、ホップを大量に使っているせいで香り高く、そしてとても苦いのです。(アルコール分7%)。保存性を高めるためホップをふんだんに増やしたビールをインディア・ペールエールというそうなんですが、僕ビール、君ビールのコンセプトは、「香りの強調」。そのためホップをインドの青鬼の倍使っている。と、当然苦みも強くなるところところなんですが、独自の技術でその苦みをとりさっているんですって。結果、めちゃくちゃ独特な香りと爽快な飲み心地のものになっています。
僕ビール、君ビールには続編もあって、前作は苦みを抑えてみたものの香りが高すぎたこともあって、飲み進めていくうちに強い香りのクセにやがて強く幻惑されてしまうという特徴があって、それを、その香りすら抑えてみた(ホップの量は変えずに)、という作品だそうです。つまりインドの青鬼の倍のホップを使っているのに、インドの青鬼からは考えられないほど苦みも香りもない、という作品です。「そこまでホップにこだわる理由は何なのか」と思いますけど、これはこれでおいしい。

(・・・と説明したんですけど、この説明は誤っていて(酔っ払ってますからね)、検索してみたら、今年発売されてたのは「続編」の「続編」なんですって。初代はそんなにホップを使ってないそうです)

写真だと時計が6時23分を指してますけど、この時計間違ってます。というのはこのスタンドライトはコンセントを入れると時計が動き出すという仕組みになっているからで、つまりこのビジネスホテルは目覚まし時計をセットするのに、時計の針合わせもしないといけないというシステムです(笑)。
思いっきり酔っ払ったのちに知らないうちに寝てしまい、でもこの部屋思いっきりタバコ臭いので(だって禁煙室じゃないもん)安息に寝られるわけもなく(ぜんそくの吸入薬をたまたまカバンにいれてあって良かった)、苦しみつつ寝転んだりうつらうつらしていたら、朝になっていました。

朝ご飯です。


別館にあるレストランまで歩いて食べます。
最初に言いますが、この鰺の干物はかなり冷めています。だがしかし、この雰囲気はいい。鰺は事前セットされてるんですが、ご飯と味噌汁は私が席に座ってからよそわれます。それをやってくれるおっちゃんはすぐに新聞を読み始めて、それがとてもいい。下田大好き。
ただ、納豆ってなんなんですかね。朝、納豆など食べる習慣がないわたくしはとても苦心したんですが(私にとって納豆とは晩酌と共に食べるものです。酵素による栄養の吸収は寝る前の方が抜群じゃん)。なんで朝からネバネバせねばあかんねん。







2日目は下田の町のいろいろな所をとても精力的に巡ったのですけど、そのわりにはめぼしい成果がなかったので(とはいえ唐人お吉遺蹟の9割は巡った。4箇所だけ行ってないところがある)、詳細は後日に譲ることとして、食事の記録だけ。



昼食兼夕食は、『徳造丸』に行きました。
徳造丸はわたくしがまだ伊豆に住んでいた頃から猛烈に増殖しだしたいわゆる伊豆限定のチェーン店なのですが、わたくしは実は過去40年間行ったことがなかったのです。とにかく伊豆で徳造丸の存在感は強い。でも徳造丸と言えば金目鯛。「わざわざ下田まで行って金目鯛なんて食べてもなー」と思うじゃないですか。なのに短期間でこんなに僻地の伊豆でこんな急激な(ムチャとも思える)店舗展開をしているのにかかわらず、余り悪い評判を聞いたことも無い。これは怪訝なことです。「一度行ってみねばな」とわたくしはかねてから思っておったのでした。俺は一体何様なのだろうか。

徳造丸は稲取発祥の会社だったと思いますが、下田駅前店もかなり古いお店でしたよね。
わたしまけましたわ。結論から言いますと、「とても満足度の高いお店」でした。
まずいきなりつきだしで(居酒屋じゃないのに)、徳造丸名物『烏賊の山椒漬け』を出してくれるんです。小さい頃サンショウがあまり得意じゃなかったわたくしは、「山椒ってそんな匂いがあまりしないな」「山椒ってなかなかうまいじゃないか」って思っていたら、徳造丸名物のサンショウ漬けって、“山椒”じゃなくて“三升漬け”なんですって。どうりでウマイわけだ。(なんや。どういう意味や)
写真にあるヨーグレットみたいな変な錠剤は、実は紙おしぼりです。醤油差しのような物の中に入っている水をそそぐとムクムクとふくらんで一人前のおしぼりになるのですけど、私はついうっかり水をかけすぎておしぼりの用をなさないようになりました。



刺身や煮付けはよく食べてるけど、焼いたのはなかなか食べないので「金目鯛焼魚と刺身定食」を注文してみました。2100円(税別)です。焼き方を、「a.味噌焼 b.塩焼 c.味醂粕漬 d.西京漬」から選べるのですが、普通に「塩焼」にしてしまいました。味噌焼・西京焼きも気になりますね。ついでにサイドメニューの「トコブシの煮付け」(700円税別)も注文。



わお。トコブシは浜名湖にはいないのかなー。(※いない)
遠州灘にはいるんでしょうけど、遠州灘も砂漠だらけで岩場が少ないんで、なかなか見られないんじゃないんですかね。残念です。
トコブシの食感、大好きなんですけど、徳造丸のトコブシは「秘伝のタレ」とやらでとことん柔らかくなるように煮られ、味も甘い淡さでまるでハマグリを食べているよう(!)で、「ややっ?」と思った。でもおいしいです。トコブシの養殖事業は誰かが(静岡県が)手がけるべきです。



塩焼き、美しい。そして当たり前のように美味しい。
生でも煮ても漬けても焼いても干しても揚げても美味しいなんて、なんて素晴らしい。焼くしか手段のないウナギですら絶滅状態なのですから、キンメダイは絶滅しないでくれよ。
(このあとしばらく家で金目の干物を焼くことに夢中になりました)



刺身がなんだったか覚えてないのです。メジとカンパチだった様な気がするのですけど、写真でみるとカンパチ説には疑問が湧いてきてしまうし、この時期どこかで黒ムツを出してもらって食べた記憶があるんですけど、ここだっけ? でもカンパチだと言い張っても「そうだったっけ」と思ってしまう気もする。イカは「ソデイカ」だったことを良く覚えています。日本全国でスルメイカが獲れないことが話題になっている時期でしたからね。伊豆のイカ事情はかなり大変そうです。でもソデイカもモンゴウ大神君に似ていて非常においしい。
徳造丸下田駅前店、とにかくお姉様が明るく親切で、とても満足な印象のお店でした。




場所を沼津に移して、「沼津家」です。
5年ぶりぐらいじゃないかしら。
チャーシューメン、860円。



このラーメンの味も大好きで、よく食べに来ていたんですよねえ。沼津家の造りはある程度独特なのに、一部に吉田家や宝来家に共通するような香り(蔵前家にはない)があったりもし、ただチャーシューだけはめちゃくちゃ独特なのがとても懐かしい。とても美味しいです。
このお店のおっちゃんはとても寡黙で、客が入ってきても挨拶もしません。食券を買って注文をしても殆ど反応をせず、そのときしていた作業(皿洗いとか)をみっちり終わらせたあとに調理を始めるので、何も知らなかったら怒ってしまうでしょうが、出て行くときは凄い小声で「ありがとっしゃしたー」と言ってくれるので、あ、きっと私が入っていった時も聞こえないように「らっしゃっせ」ーって言ってたんだな、と合点するのです。私はこの店が嫌いではない。でも考えてみれば私がこのお店を知ってからでも15年、おそらく20年以上もひとりでこのおっちゃんはこのスタイルでお店を続けているんですよね。いつひょんな事情で無くなってしまってもおかしくはない。懐かしの味は自分だけで大事にしていきたい、と強く思いました。



本日の宿は沼津グランドホテルです。
朝食付きで5000円(税込)。破格に安いのに下田のゴールデンホテルと比べるとすごく立派で圧倒されてしまいます。恐らく建物自体はかなり古く、部屋の構造もひとむかしまえのものだと思われる物の、とても心配りの利いたものに手直しされており、しばらく前に泊まって感銘を受けた東横インとくらべても、かなり満足度が高かったです。やっぱり都会はすごいや。

しばらくベッドへ横たわってラーメンを消化させたあと、沼津の町を彷徨って夕食を食べる場所を捜します。



ところが、全然これぞ、というお店を見つけられない。わたくしも沼津の町は何度も来ていた気がしましたけど、そういえば一度も飲み屋とか行ったことなかった。おいしい沼津港のお魚を食べたいなんて欲を出していたら全然ピンとする場所に巡り会わず、沼津港まで行かないとダメなんですかね(そんなハズはない)。私が一番悪かったのはさっき宿で20時ぐらいまで寝ていたからで、やがてどんどん店が閉まりはじめ、結局『さかなや道場沼津店』に入ることにしてしまいました。沼津の町のお魚巡りは、いづれまた改めて来ましょう。
「さかなや道場」はチェーン店ですが、以前富士山に行ったときに「おさかな道場御殿場店」でお魚に稽古をつけてもらって、とても気に入ったんですよね。ところがなぜか浜松には道場は無く(同グループのはなの舞はあるのに。下田や伊豆長岡ですら道場が開かれているのに)、残念な思いをしていたので、だからついつい入ってしまった。(店舗の写真は撮り忘れました)



本日のお造り7種盛り、1390円(税別)。
見えない、よく見えない。こんなに見えないのはドライアイスをふんだんに使っているからで、さすがチェーン店はこういうのに力を入れるんですね。閉店間際のくたびれたおっさんの一人吞みなのに惜しみない。安いのに。



もう既に何の7種だったか忘れました。
おそらく、マグロ、カツオ、カンパチ、サーモン、イサキ、タイ、赤ムツ(ここで出たか?)、スズキ、アオダイ、ぐらいかな?(適当に言ってます)
アジとかイカとか無いんですよね。(不漁)
上の白い器がドライアイスの刺身(笑)
御殿場のお店でも少し感じたのですけど、このお店は氷をふんだんに使いすぎてお魚が少し水っぽくなってしまってる。冷たくておいしい。

続きまして注文したのは、



茶葉と地魚の天ぷら。(490円)
この“地魚”、ちゃんと聞いたはずだったのですが、もう忘れました。アジかな?(ですから不漁ですって)。うん、アジじゃなかったんじゃないかな。(てきとー)。



茶葉部分。お茶の葉っぱは美味しい、と知っているのは選ばれし静岡県民だけのはず。



そして焼き鳥5本盛り(790円)。
・・・カメラの中にこれだけしか写真が無いのですけど、この日私はこれしか食べてないんですっけ? 宿に帰って吞んだ記憶も無いし、いくら“小食”といつも言っていても、いつもはもっと食べてるんだけどな・・・(沼津家さんがまだ腹に残ってたんですね)
御殿場店もそうでしたが、このお店はお姉さん方がとても元気で魅惑的なお魚のお店だと思いました。




あとは適当に夜の沼津の町をうろつきます。



城岡神社。
沼津城の二の丸にあたる地点に建てられています。(ここが二の丸御殿から見て鬼門だったんですって)。
祭神は宇迦之御魂神。相殿に東照大権現と大國主之命がおられるといいます。



狩野川沿いの中央公園に「沼津城本丸跡」の碑が立てられていました。



へーー。
わたくし、沼津城(三枚橋城)ってよく知らないんですけど、沼津駅の三ツ目ガードを超えた先にある図書館の付近だと勝手に思っていました。(「三枚橋交差点」があるから)。確かその付近にあるちっちゃな神社にも沼津城ゆかりの何かがありませんでしたっけ?
・・・いまさら考えると、私、沼津の歴史についてほとんど何も知りませんね。むかし、さがみさんのために「香貫御前(←“土佐冠者”源希義の乳母?)と香貫長者について調べよう」と思ったのに、あれから10年経ってる。



川沿いにある「川廓(かわぐるわ)通り」というのが独特な感じで雰囲気があったのですけど、住宅地なので写真を撮ってませんでした。
中央公園にはこんな時間なのに若者がたくさんいます。



あゆみ橋(歩行者専用)から、御成橋。



あゆみ橋から御園橋と、香貫山。



あゆみ橋を渡った先にある香貫公園の八幡神社。


宿に戻って一晩寝てから、朝ご飯です。
このホテルは「朝食無料」と言っており宿泊者全員朝食付きです。最近ビジホによく泊まるようになったんですけど、朝食の扱いってホテルによって様々ですよね。「朝食が無料」って言われたら「おおっ」て自然とお得に感じて嬉しくなるけど、実際は本当に朝食が無料のはずがない。(部屋代に含まれているはず)。本音としては「サービスなんだから量が少なくても、会場が混んでても文句を言うな」という意味が込められていると思う。・・・というようなことは琵琶湖の東横インに行ったときに強く思いました。あの東横インは全体的には満足できる宿だったんですけど、朝食会場が酷かった。ごはんはちらし寿司でなかなか美味しかったと思うけど、めちゃくちゃ狭い場所に椅子がぎっしりならべてあって。そこに中国人の団体さんが大きな荷物をひいて次から次へと来るものだから、飯を食うどころではなかった。あれでは「今日は食べなくてもいいかな」「どうせタダだし」と思ってしまうし、そう思わせる作戦だったと思う。

といった個人的な思い出を念頭に置いての沼津グランドホテルです。



おおおお、とても感動的な朝食です。(無料ですから)おかずの種類がこれでもかと多いわけでないんですけど、なんと、焼きたてパンの種類がめちゃくちゃ多い。10種類ぐらいはあるんじゃないでしょうか。



実は行ったのが9時頃で、何種類かは売り切れてしまっているみたいですけど、それでもこの種類の豊富さはすごい。パンに力を十分に注いでいる朝食ホテルだったんですね。



実は廊下にこんな案内書きがあったので、どこか近くのパン屋さんで朝イチにたくさんのパンを焼いてもらって、それを並べているんじゃないかしら。だからこの日の私は運が良くて、日によっては9時なんかに行ったら全部売り切れてしまってパンが無い、という事態がありえたのかもしれない。だから当然焼きたてホヤホヤというわけでもなかったのですけど、どのパンも美味しくて、普段パンなどそんなに食べないわたくしも、たくさん食べてしましました。そういえば御殿場のホテルクニミもパンが美味しかったなー。パンの美味しいホテルって素敵だなー。あとは設置したホットプレートでずっと焼き続けているウィンナーも(おいしくて)衝撃でしたね。


さて、昨日気になった沼津城(中央公園)にもう一度行きます。





暗いときには気がつかなかった小さな大黒様と恵比寿様がいた。

このお城で一番印象的な部分は「川廓(かわぐるわ)」なんですね。川廓というのは、文字通り、本丸から見て狩野川に面した側の廓なのです。
沼津城は戦国時代には「三枚橋城」と呼ばれていて、天正5年に武田勝頼が建てたお城です。天正5年といったら長篠の戦いの2年後ですが、この城においては武田軍は敗けたことはなかった、不落の城でした。沼津には他に興国寺城や長浜城や戸倉城といった“名城”があったのですが、三枚橋城の出現によって駿東における武田の軍事力は強固な物になりました。
そんなお城の「大手口」はどこにあったかということが私の関心事です。




沼津城の見取り図です。
「三枚橋城」と「沼津城」は実はちょっと違ってて、1777年に廃墟となっていた三枚橋城の一部を利用して作られたのが沼津城だとのことですが、(「沼津城」は「三枚橋城」の3分の1ぐらいの広さしかなかったという)、ても、武田勝頼と高坂源五郎昌信の縄張りをある程度引き継いでいて、見れば見るほど面白いお城だと思いませんか?



川廓通りにあった案内板に「東海道分間延絵図」の沼津城がありました。
寛政~文化年間の沼津の図だそうです。天守閣はありません。

沼津という町はとても広い町ですから、わたくしたちは現在の沼津駅付近の繁華を思い浮かべて、東海道もきっと現在の国道一号のあたりを走っていたはずと、北条や徳川との戦闘を想定した三枚橋城の大手は北を向いてそちらに備え、現在よりも流量が多かったはずの狩野川は城の背後の堀を成していたはずと、勝手に思ってしまうと思うのですけど、実際はそうではなくて、沼津にとっては川が街道であり、城は川に向かって建っていたのですね。沼津の町の名前のもとになった狩野川河口の「沼」は寛政のころになってもまだ巨大な沼(=田)であったのです。
で、「東海道」はその「川廓通り」を通っていて、その狭い川廓通りと城の西側に江戸時代の「沼津の町」はあった。
現在歩いてみると、その川廓通りはとても狭くて路地みたいなので、面白く思うのです。



川廓通り。

私が沼津でいつも映画を観ていたジョイランドは、北側のお堀の中だったんですねえ。

おそらく勝頼が初めて城を建てた戦国時代にはここは人の住んでいないただの場所だったと思うのですが、(川を挟んだ香貫地区の方が栄えていたと思う)、位置的にはここは要衝で、武田氏が滅んだあと三枚橋城主となった大久保忠佐に嫡子が無くて廃藩となったあと、170年後に水野氏が新藩として沼津藩を起こし、沼津城を築城します。この間このお城は「廃墟」としてここにずっとあったんですって。江戸時代に廃墟として取り壊されもせず160年も放っておかれた巨城って、どういう状態になっていたんでしょうね。
『沼津藩の歴史』によると江戸時代にはこのお城は「ちっちゃな城」「おもちゃみたいな城」として有名だったそうです。

現在の沼津城の3倍の面積があったとされる三枚橋城は、漠然とした図しかなくて詳細がよく分からないのですが、中央公園にある案内板には「沼津城は三枚橋城の遺構の北側を利用して建てられた」と書いてあるので、狩野川の流れも少し変わっているのかもしれません。



静岡銀行沼津支店にある「三枚橋城の」発掘された石垣。
これは江戸時代のではなくて、武田時代の石垣なんですって。
武田勝頼は新府城でもやらなかった総石垣のお城を、ここに作ったことになる。(※新府城は平山城で、こっちは沼地の城だったからなんですけどね。)
でもすごい。



その先のリバーサイドホテルにある三枚橋城の石垣。
ホテルのデザインの一部になっています。
こう展示されている三枚橋城の遺構を見てみると、沼津の人々は江戸時代よりも武田時代の歴史の方を誇りに思っているようね。(※そんなことはない)



リバーサイドホテルの隣のナティ沼津の前にある、三枚橋城の石垣の石を使ったモニュメント。
この通りはこれだけではなく、変な造形のモニュメントが豊富な、アートな町でした。






さて、次は下香貫に移動し、「揚原神社」を目指します。
「揚原神社」は現在は「やなぎはらじんじゃ」と読むのですが、伊豆でも地元以外では殆ど知る人もない無名の神社だと思うのですが、実はなんと驚け! 延喜式の神名帳に「やきわらの明神」と記されているれっきとした明神大社なのです。しかも田方郡では唯一の大社!(※おとなり三島市に三嶋大社があるのですが、なぜか延喜式神名帳には三嶋大社は賀茂郡の名神として載っているので、伊豆の北部の明神はこの神様だけなのです!)

・・・ということを、以前我入道の大朝神社に行ったときに知って、とても興味を持ち、「ぜひ行ってみなければ」とずっと思っていたのですが、、、、 いざ来てみるとちっちゃいなー。普通の神社と規模は変わらないし、謂われとか書いた案内板も無い。この神社だってうまくやれば三嶋大社とか諏訪大社とか出雲大社とかと張り合えるぐらいうまく儲けられると思いますのに、、、、 (※明神大社とはいっても三嶋大社の神階は正一位で、揚原神社は従一位なのですが)

「名神大社」とは何なのかといいますと、Wikipediaによりますと、神々の中で特に古来より霊験が著しいとされる神に対する称号で、その土地や日本国全体に何か災いが起きたときに神を宥める「明神祭」がおこなわれる神社なのだそうです。「明神」と「名神」は同義。延喜式神名帳には伊豆國には5座の名神大社が載っていますが、揚原明神以外の4座はすべて三嶋大明神の関係者なので、それら4名以外ではこの揚原神のみが独自の地位を誇っているといっても良い。・・・・はずなのですが、来てみてもこの神がなんなのかよくわからず、なんかむやむやした気持ちに包まれるのみなのでした。

揚原神社の祭神は、「大山祇命」で三島神と一緒なのですが、一緒に「磐長姫」と「木之花咲耶姫」も祀られている。三島神とは別の系統で伊豆の火山や富士山を崇めた神なのでしょうかね。(※三島神は伊豆諸島の方から泳いでやってきた)


(・・・つづきます)

二代目が3人帰朝した。

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寺門派総本山、近江の園城寺(=三井寺)にある天狗杉。
足柄の道了尊はこの樹の頂から東に向かって飛び立ったのですよ。
大津はとても好きな町です。京都へ行く際はすべてこの町を起点としたい。この日(2017.4.6)の桜の木の花はこんな感じで半開きでしたが、これまで全国的に寒さが続いて各地で桜祭りの類は大童だったのにこの日は異様に暖かく、翌日に大津の町を巡ったら桜は満開だった。自然って凄いな、と思いました。

琵琶湖料理もとてもお好みなのです。そういえばこの時初めて東横インに泊まったのですよ。極めて鮮烈な体験でした。ああ、琵琶湖大好き。





鮒寿司ってみずから進んで食べようって普通は思わないでしょ? でも大津のお店で食べたら滅茶苦茶おいしいんですから!



琵琶湖博物館(750円)へ行きました。ここが滅法楽しくて、私たちが愛する浜名湖にも是非こういうのを作るべきだと思いました。濱名湖の多種多能の生物や芸能をこんなに網羅できる施設がわたくしたちも欲しいな。(ウォットがあるけど)



これは「アカントガンマルスビクトリイ」。なんだこいつは。
他に、「アカントガンマルスヘイレスティ」も展示されています。
本当はこれは琵琶湖に棲んでいる生き物では無いのですけど(←バイカル湖の生き物)、こういうのを平然と展示できるのも琵琶湖の凄いところ。琵琶湖は世界の「古代湖」の筆頭的な湖だそうで、世界の古代湖には古代湖同士の密接なネットワークがあるんですって。(※濱名湖は古代湖ではない)。わたくしたちの浜名湖が古代湖になるには何をどうしたらいいんだろうな。



本当は私はここには琵琶湖産ブラックバスの「バス天丼」(930円)を食べに行ったのでした。いやいや、めちゃくちゃ美味しいですよ琵琶湖名物黒鱸。濱名湖的うなぎ民族民としては更に「なまず天丼」(930円)も試してみたかったのですけど、実はわたくしこの直前に懐かしい天下一品の堅田店で一杯の天下一品を食べてしまっていたので、とうてい無理でした。南無三。





さて、読書の記録をば。

●2016/12/08 18:13
「フリードリヒ大王の時代には国家財政の良悪が戦争の帰趨にかなりの重みを示していたが、国民徴兵の制度が良く整えられた今日にあっては、金の力はそれほど大きな影響力を持たない。それはせいぜい1、2会戦分を賄えば足りる。英国が莫大な金を使って大量の兵士とその補助者をいくら作り上げようとも、フランスは祖国愛と名誉心で同じだけのものを作り、戦争を賄い得ることを実証したのである。力は黄金で蝕まれ、そしてなお自らをよく守り得ないであろう。歴史は、最も富裕であった国民が実は最強でも至幸でもなかったことを示している」(アントワーヌ・アンリ・ジョミニ『戦争概論』)


●2016/11/24 09:38
「・・・舎利弗は「眼は困る。何でそんなのを欲しがるのだ。もし私の力や財物が欲しいのならばそれをあげるよ」と言ったが乞者は言った。「助力や金なんかいらない。眼だ、眼が欲しいんだ。あなたは檀を行っているのならそれは与えられるだろ?」 仕方なく舎利弗は片目を出して与えた。乞者はそれを取ると匂いを嗅ぎ、嫌な顔をして唾を吐き、地面に棄てて足で踏んだ。舎利弗は思った。こいつは悪人だ。人の世には弊が多い。弊人は度せない。他の人の眼は確かに役に立たないけれど、わざわざ乞うておきながらここまですることはないだろう。私は頑張って人の世を離れるようにしよう。こうして彼は菩薩道を離れ、小乗の道に入ったのである。こういう例を「彼岸に到らなかった」と言う」(龍樹『大智度論』)


●2016/11/24 09:15
「むかし天竺で舎利弗が六波羅蜜を成就しようとして、5つまで終了し最後の壇波羅蜜(布施)に取りかかろうとしたところ、隣国から来たひとりの婆羅門が金を乞うたので与えた。次に衣を乞うたので与えた。次に妻と従者を乞うたので与えた。次に身体の毛を全てくれと言ったので、一本残らず抜いて与えた。次に「お前の目をくれ」と言ったので、舎利弗は困ったのだけれど、いま自分はそういう行をしているのだからと思って、自分で両眼をくり抜いた。すると婆羅門はそれを手に取り、「目って綺麗だけど顔から出すと汚いものだね」と言って地面に投げ捨て、足で踏みつぶしてしまった。それで舎利弗は「この野郎、目は身体の中で一番大事な部分なんだぞ」と(心の中で)少し怒ってしまった。すると彼がそれまでに積んだ五波羅蜜の行の成果をも一気に解けてしまったとのことである」(『太平記』)


●2016/10/22 13:26
「放置しておけないので高祖が親征したが、平城近くの白登山で匈奴の大軍に重囲されるという大厄難に陥った。陳平の奇計によってともかくも脱出することができはしたものの、「その計は秘す。世、聞くを得るなし」と史記の陳平列伝にあって、世に知られては高祖の恥辱となるような不名誉な策略によって助かったとしか思われない。こういう目に遭ったために、高祖は武力によって匈奴を征伐することに懲りてしまって、以後は匈奴の單于に一族の女を妻としてあたえたり、年々に一定額の匈奴のよろこぶ物資を贈ってきげんを取り結ぶという和親策をとることにしたが、それでもなおうまくいかないこともあった」(海音寺潮五郎『中国妖艶伝』)


●2016/10/22 11:39
「リッベントロープは9月にローマを訪れ、チアーノに「イギリスの国防は無いも同然だ。ドイツは一個師団で簡単に崩壊させることができる」と述べた。これは彼の無知を証明するものに他ならない。しかし実際に、20万のドイツ突撃隊が英国に上陸したらどうなるかと私はいつも考えていた。双方とも残虐で大量の殺し合いを行ったことであろう。血も涙も無い果たし合いになったことであろう。敵が恐怖戦術を用いてくれば、われわれは手段を選ばず対抗する覚悟であった。私は「各人がそれぞれ一人を道連れにできる」という標語を使うつもりであった」(ウィンストン・チャーチル『第二次世界大戦』)


●2016/10/21 11:04
「われわれにとって“和音”といえばたとえば「ドミソ」のことであるが、中世において「ドミソ」は不協和音だった。つまり「ミ(三度)」が入ってはいけなかったのである。ためしにピアノで「ドミソ」と「ドソ」を弾き比べてみてほしい。柔らかい前者の響きに対して、後者はどこか尖ってまろやかさを欠く。空虚なものに聴こえるはずだ。だが中世の人々にとっては、この(近代の和声法では「空虚五度」と呼ばれて禁則とされる)「ドソ」の響きの方が「正しかった」のである」(岡田暁生『西洋音楽史』)


●2016/09/10 18:31
「ごく一般には、革命家には極端なアンチ・フェミニストが多かったといってよい。にも関わらず革命の理想の寓意は多くの場合女性の姿で表現された。もちろん中には極めてローマ的な厳しさを持った女性の理想像もあったが、多くはローマ的よりもっと親しみの持てる身近な女性のイメージが多用された。人権宣言を子供に教育するという観念は、図象では若い女性で示されたり、自然や共和国を表現するのに豊かな胸をはだけた女性像がさかんに使われてきたのである。この矛盾はもともと男が女に抱いた意識と連動したことであろうし、崇めると同時に貶めるという長い歴史と無関係ではなかった。特にカリカチュアの世界では、男はせいぜいスカトロジーどまりだが、女はもっと露出的にエロチックに描かれる」(多木浩二『絵で見るフランス革命』)


●2016/08/31 07:28
「“アメリカ”=“自由”であると浅薄でない観察者は言う。この正当に尊重された原理は“ボルシェヴィズム”から“酒精分2.75%のビールを飲む権利”までのすべてと解釈されている。“チャンス”という語句もアメリカでは人気のある言葉で有り、「アメリカ」と「チャンス」が同義語であるということは、モンゴメリの『米国史の主要事実』を通じてエマーソンにより、多くの若者の頭に叩き込まれてきた。しかし銘記すべき事は、「アメリカ」を定義しているつもりのほとんどが、その特質をヨーロッパの源泉にまで辿りたがらないということである。彼らは自然発生が生物と同様に思想でも稀である事を悟ろうとはせず、アメリカが先立つ起源の無い孤立した現象であるかのように論じようとする。実は「アメリカ気質」は「アングロサクソン気質」の発展した物である」(ラヴクラフト『アメリカ気風』)


●2016/08/31 06:35
「サヴォナローラの審理は拷問によっておこなわれた。その拷問はあまり厳しくはなかったという。作られた報告書は比較的中立なものであった。その報告書にはサヴォナローラに対する誹謗中傷の文句は全く書かれておらず、彼の個人的性癖・秘密裏の政治的活動については全く触れぬ一方で、サヴォナローラの示した予言は決して神の啓示では無かったとしていた。それは教義と聖書の研究に基づいた彼自身の見解であったとする。彼の目的は教会で高い地位を得ることではなく、遍いた会議を開催して堕落した僧侶の世界を一新したい。その達成は教皇になるよりも高貴なことだと彼は考えた、とした。裁判の場でその報告書が読み上げられると、サヴォナローラは「言葉少なく」同意し、有罪が確定したという。その言葉は様々に解釈されよう」(グイッチャルディーニ『イタリア史』)


●2016/08/29 11:20
「戦いに敗けたマケドニア王ペルセウスが降伏した時、王が「執政官の元に連れて行ってくれ」と言ったので、逆に急いで執政官アエミリウスの方が会いに来た。ところがそのとき王が見苦しくもひれ伏し執政官の膝にすがりついて助命を乞うたので、アエミリウスは呆然として言った。「気の毒な人だ。あなたは神話の国の王なのだから、運命すら非難することができるのに、そんな態度をしたら、あなたの不遇は当然のもので、捕虜となることが当然で、栄光の帝王であったあなたの過去の方が不当な物だとなってしまう。どうしてあなたは自分がローマに立派な相応しい敵であったことを示そうとしないのです。卑怯はローマ人が最も軽蔑するものです」。こうして王は運命が失脚した人々から奪い取らない唯一の物、すなわち憐れみをも失ってしまったのである」(プルターク『アエミリウス・パウルス伝』)


●2016/08/19 12:48
今日の第六天魔王「ヴァジラーという尼様が托鉢の後に薄暗い森で休憩を取ろうとした。巨大な齧歯類が彼女に身の毛のよだつほどの恐怖を与えようとして語りかけた。「生者は誰が作ったのかな。生者は何から作られたのかな。生者はやがてどうなってしまうのかな」。
彼女は困った。
「誰が私に話しかけているのだろう。もしかして悪魔?」。
そう思って慌てて独り言を言った。
「悪魔さんは生きてるものがいると思っているのね。でもそれは間違っている。生物はただのパーツの集合ですよ。総合体の生きた物なんていうのはないのです。簡単に言うと“五蘊”の活動が「己は生きている」という錯覚を引き起こすんですね。だから苦しみが起こりとどまりそして滅びていく。苦しみ以外にはなにも生起しないし、他には何も滅びない」
・・・巨大な齧歯類は、「この女性はよく知っている」と思ってその場を去った」(仏典『悪魔との対話』)


●2016/08/19 04:45
今日の尊良親王 (冬の哥の中に)「おのづから まどろむほどに 氷るなり 泪(なみだ)ひまなき たへの袖」 
(大意)勝手にまどろむなかに、涙が勝手に流れて勝手に凍ってさらに勝手に涙が流れ、更に氷る。本当に袖が乾く間もないよ。(乾く前に凍るんだから)
 ・・・・・・極寒の中で戦いに負け続け、味方を失い続けていく自分の寒い身を歌っている。「おのずから」が「まどろむ」と「凍る」と「涙」と「ひまがない」と「たへ」のすべての語句にかかっているのがこの歌における親王の腕の妙なんですね。いや「たへ」とわざわざ仮名で書いているのは「妙」と「多栄」と「耐え」と「絶え」を掛けているのだろうから、「袖」とは父・後醍醐帝のことを言っているのかもしれないけど、まだこの時点で帝は死んでないので、やっぱり弟・護良親王のことを偲んでいるのかもしれない。今は亡き彼のことを考えると涙すらも勝手にバキバキと凍ってしまうって。


●2016/06/26 12:41
「細川忠興に、通の冑とはどういうものか尋ねた人がいた。忠興はみっちりと書いた極意をその人の使いに渡した。使いの人はそれをざっと読んで言った。立て物の下地は桐の木と書いてあるが、木だとすぐ折れてしまうじゃありませんか? 即座に忠興は憤怒した。お前は弓箭取りの使いとも思えぬな。いくさに臨む者が誰が生きて帰ろうなどと思うものか。ふたつ無き命なのだから兜の立物が折れることなど厭うべきものでもない。軽いのが一番だ。立物が折れるほど働く者に何の見苦しきことがあろうか。むしろ面目である、と言った」(『常山紀談』)


●2016/05/05 01:29
「私たちのために、宗教上の人物や神話に出てくる人物は姿を変えられてしまった。本当は宗教や神話の先師たちは、自分たちが何を話しているかを承知していた。その象徴的な言葉が改めて読めるようになれば、必要なのは、その教えが自然と耳に入るように神話等を集めるアンソロジストの手腕だけとなる」(ジョーゼフ・キャンベル『千の顔をもつ英雄』)


●2016/04/18 17:12
「宝暦の初めのころ参州矢作橋の普請が行われ、江戸から大勢の役人や職人がやってきた。ある日一人の人足が川を眺めていると、板に乗った人形みたいなものが流れてくるのを見つけた。ああ子供が遊んで流したんだな、でも、その人形が子供が作ったとは思われぬほど見事だったので、彼はそれを面白く思って持ち帰って宿所に飾った。するとその夜しきりと、変な、夢なのか夢でないのかよくわからないものを見た。明日はこんなことがあるよ、誰かは明日寝込むよ、誰かは明日あそこへ行くよ、と。夜中だったので凄く面白かった。朝起きて彼は思った。これが世に言う外法かと。翌日懐にそれを入れて歩くと、終始それはそんな調子だった。最初は面白かったが、次第にうるさく邪険に思った。でも、こんなもの容易には捨てられない。思い余ってそれを知人に打ち明けると、こう言われた」
「彼はすごくおののいて言った。変なもの拾うんじゃないにー。儂も遠州の山の方でそんなものを流すと云うことを聞いたことがあるだら。でも、それ捨てたら禍を受けるというだに。おまえ馬鹿だら。・・・今さらそんなことを言われても、と江戸の若者が途方にくれていると遠州の老人は言った。きにすんなきにすんな、そんなもん元のよう板に乗せて子供が流したようにしたらエエだら、できる限り川の上の方に行って後ろを向いて放ればええでえ。誰も気にせんに。投げたら絶対そっちを見たらいかんで(罪悪感が出るからな)。そう言われたので、若者は大いに喜んで老人に言われたとおりにすると、とてもすっきりした」(『耳囊』巻3)


●2016/04/17 09:08
「貞観2年に太宗が封徳彝に言いました。「世の安寧はすべて政治に有用な人材の有るか無いかに懸かっている。先般お前に賢才をできる限り推挙するように命じたのに、お前はいまだ一人も推薦してこないではないか。天下は重いのだぞ。お前には朕の重責を分かち合って貰いたいのだ。お前が言ってくれなければ朕は何を頼りにすれば良いのか」。封徳彝は言いました。「一生懸命探しているのですけどなかなか見つからないのです」。太宗は言いました。「名君は決して人を過去や未来に求めたりはしない。みな当時に実在する人の中から選ぶのだ。殷の高宗が夢によって傅説を得たとか周の文王が釣りの途中の太公望に会ったとか、そんな奇跡を待っていたら現代の賢才を得る機会を逸してしまうよ」。封徳彝は赤面して御前を退した」(『貞観政要』)


●2016/04/17 08:27
「関ヶ原後、公は大久保治右衛門忠佐に2万石を与えて三枚橋の城主としたが、渡辺忠右衛門(=槍の半蔵)は殿の近習に向かい、たびたび声高に不満をぶちまけていた。皆は治右衛門を武功の者と言うが、奴はこの忠右衛門を見て逃げた情けない者だぞ、と。この話を聞いて公は治右衛門を召して言った。私は聞いている。三河の一向一揆の時、渡辺兄弟が弓を持ちその配下の七人が鉄砲を持って待ち構えている前に、お前は立ちはだかって「一対一の勝負なら手並みを見せてやろうが、飛び道具だらけの大勢に一人で向かうのは犬死にだ」と大音声を放ってから退いたのだと。お前の方が正しい。渡辺のような馬鹿を言う奴は今後取り合わず、捨て置くべきだぞ」(『常山紀談』)


●2016/03/08 23:11
「彼は自分を「敏感な気むずかしい性格」だとしている。晩成型であった彼の身体的精神的人格が完成される様は、我々が「精神感性の釣り合い」と名付けたもので、細長型分裂気質の実に典型的な形態であった。少尉時代には背長身痩躯のモルトケの行動は均衡を欠き、この男が立派な軍人となることは非常に難しいと思われたが、その後、この敏感性は押し出しの立派な自制力のある簡潔な言動に覆われて目立たなくなった。晩年のモルトケは、動きが少なく、非常に真面目で寡黙で硬い彫刻のような顔つきをしていた。危機に瀕した戦争の瞬間ですら氷のような冷静さを保ったことは天下周知のことであり、この冷静さが周囲にも感応して、彼は反射的に人々を指導し統制することができたのである」(クレッチマー『天才の心理学』)


●2016/03/08 16:23
「むかし周の武王が殷の紂王を誅そうと兵を起こしたとき、厚い冬の空がどんよりと天を隠し重い雪が丈高く降り積もっていました。武王は心細く思ったのだけど、突如、五輪の車と二頭の馬に乗る人が門の外に現れて言ったそうです。「紂を誅すに、努め怠けなかれ!」。武王は不思議に思って人をやって調べさせると、雪の中に車馬の跡はありませんでした。それで海神が天の使として来たのだと知って、紂を誅する決意を得たのだそうです。漢の高祖は韓信の軍に囲れて危険だった時、天がいきなり霧に覆われて闇になって、間一髪で逃げられたそうです。これらはみな人の為に恵を成した英傑に、天が加護を与えたのです。木曽殿はいかがでしょうか」(『源平盛衰記』巻34)


●2016/03/08 15:42
「それはとにかく、われわれの子供の時分には、火の玉、人魂などをひどく尊敬したものであるが、今の子供らはいっこうにみくびってしまってこわがらない。そういうものを怖がらない子供等を少し可哀想な気もするのである。こわいものを沢山にもつ人は幸福だと思うからである。可怖いもののない世の中を淋しく思うからである」(寺田寅彦『化物の進化』、昭和8年)


●2016/03/08 15:24
「ナポレオンの“攻勢防御”の神髄を物語るのに、フランス革命以前にギベールが予想したやり方以上のものは誰も考えられない。「新時代にふさわしい将帥は、敵前において頻繁に移動し、不断に敵の決心を動揺させ、敵を欺瞞し、故意にわが無防備の地点を敵に暴露することによりここに導入、敵の主力を引き寄せるように努める。これによって将帥たちは、敵に対する反撃作戦要領を生得できるようになる」ということである。ギベールの言った戦闘理念の真意と柔軟性の効果は、その直後にナポレオンが出たからこそ私たちも明確に思い描くことが出来る。ナポレオンについては筆者はこれを「投げ網」または「流動する水銀の塊」だと言いたい」(ベイジル・リデルハート『ナポレオンの亡霊~戦略の誤用が歴史に与えた影響~』)


●2016/03/04 22:05
「人が幸福になれるかどうかは、今現在の状態をしっかり把握してそうなった原因ととるべき態度をしっかり熟慮し、それにもとづいた精神状態に自分を保てられるかにかかっていて、運の変転というのはそれほど重大な浮沈の原因にならない。今お前は喩えようの無い悲しみの際にいるが、今お前を訪れる人たちの目に浮かぶ悲しみの涙や言葉などに慰めを期待してはならない。それはそういう習慣になっているから人はそうしているだけで、不幸に見舞われた人がいたらそうするべきだからそうしているだけの事だ。それよりはお悔やみに来た人々の目に、お前が子供のため、家のため、そしてお前の今後の生き方のために、相変わらず羨ましいほど立派だと映るように、ということを念ずるべきだろう」(プルタルコス『妻を慰める手紙』 ~息子を失った自分の妻に送った手紙)


●2016/03/03 03:27
「家康が塩市口まで7、8町ばかりまで逃げてきた時、敵勢も迫って甚だ危険な状況になった。正成は息子の彌九郎に言った。「お前、殿の代わりになる気はあるか?」 彌九郎は「望むところですぞ」と答えた。正成は言った。俺が引き返し殿の代わりに討ち死にすれば話は早いのだけれど、後に残す殿の近習は若者ばかりなのだ。今はただ殿を逃げきらすことがわが方の勝利条件なのだけれど、若い奴らは北(にげ)ることを嫌がるからな。私が死に、若者ばかりになったら殿は危なくなるだろう。だが迎え討つべき場所はここなのだ。本当は俺が残りたいのだがな。それを聞いて彌九郎は引き返した。顧みて父を見たその顔には愁い色があった。彌九郎は競い掛かる敵に馳せ合わせ突き退け、ついにここで討ち取られた。家康はその後浜松の城に無事入城した」(『名将言行録』~内藤正成)


●2016/02/29 17:20
「フン王はテオドシウス2世に対し、ローマ帝国に仕えている多くのフン人を引き渡すように要求した。皇帝はこれに対し全く聞こえぬふりをした。フンの傭兵はローマ軍の中で最も優れた精鋭であったし、ローマのフン人たちもフンには帰りたがらなかった。逃亡者とみなされている彼らがフンの軍隊に戻ればどんな運命が待ち構えているか明らかだった。磔刑か、でなければ串刺し。(中略) 443年に皇帝はアッチラに屈して5日行程ほどの広大な領土を割譲した。国境の都市は灰燼に帰し、住民から見捨てられ、無人の土地と化した。徒歩の者はもはやこの領地を横断できなかった。アッチラが望んだように、これがフン人たちの脱走を阻む領土の柵となったのである」(ルイ・アンビス『アッチラとフン族』)


●2016/02/29 10:12
「皆さんうろたえてはダメ、こんなことぐらいで。またルーアンが奪われたけど悲しむことはないわ。済んだ事はいくら嘆いて悔やんでも悩みは消えたりせず悔恨は増すばかりだから。あの気違いトールボットはしばらく威張らせておいて、孔雀のように尻尾を見せびらかすままにしておきましょう。あんなの引っこ抜くの簡単なんだから。殿下と皆さんがこれから私の言うとおりにしてくれるのならば」
「われわれはこれまでもお前に従い、お前の策略を決して疑ったことは無かった。一度不意打ちを食らったくらいで信頼が消えたりはしないぞ」
「ではいいこと、ジャンヌの考えはこうよ。もっともらしい理屈に甘い言葉を混ぜて、バーガンディ公爵を言いくるめて誘うの。トールボットを捨てて私たちにつくように」
「それがいいぞ、かわいい乙女よ」
(シェイクスピア『ヘンリー6世』)


●2016/02/26 13:52
「四季折々の季節の変化がいちぢるしいように日本の人間の受容性は調子の早い移り変わりを要求する。それは大陸的な落ち着きを持たないと共に、はなはだしく活発であり敏感である。活発敏感であるがゆえに疲れやすく持久性を持たない。しかもその疲労は無刺激的な休養によって癒されるのではなくして、新しい刺激・気分の転換等の感情の変化によって癒される。癒された時、感情は変化によって全然他の感情となっているのではなく、依然としてもとの感情なのである。だから持久性を持たないことの裏に持久性を隠している。すなわち感情は変化においてひそかに持久する」(和辻哲郎『風土』)


●2015/12/23 12:10
「この2人は百年戦争という薄氷の上で自分達が立つてゐる基板がいつフランス軍の手によつて打砕かれるか解らぬといふ危険を半ば意識しながら、そして半ばそれを忘れながら、一口に言へばすべてを見ぬ振りをしながらあたかも諜し合せたかの如く王位を守る者と奪う者といふ内乱劇を演じてゐたと言へよう。『リチャード2世』は作者が恰もその間の事情を見抜いてゐたかの様に書かれてゐる。リチャード2世は被害者の役割を、ヘンリー4世は加害者の役割を意識してゐるばかりか、更にそれぞれに相手の役割まで理解しながら行き掛り上あくまでゲイムとしてそれを演じ通さねばならぬと思つてゐるかの様である。それは必ずしも近代的な解釈とのみは言ひ切れない」(福田恆存『私の英国史』)


●2015/12/16 09:12
レオポルド「デモクラテスさん、私の理解する限り野蛮人に対して現在のスペインがやっている戦争は正しい意図のもとに行われてはおりません。つまり、戦争とは大概のところ結果的に戦利品としての金や銀を暴力的に得ることを目的として行われていて、現在のスペインの行為もその例に違わないのです。聖アウグスティヌスは言っています。「戦は決して犯罪ではないが、財貨を求めて争うのは罪である」。聖アンブロシウスも言っています。「たとえ相手が悪人であろうが、その財産を没収するために相手を追い詰める行為は悪である」。スペインの戦争は野蛮人にとり甚だ有害かつ残忍な物であり略奪行為です。法の下では盗人でも道ゆく人から奪った物はおとなしく当人に返却しなければならぬように、スペインは奪った物を野蛮人に返却する義務があります」

デモクラテス「レオポルドさん、君主や国家が総合的に臣下や人民を支配しているからといって、おのおのの総督や執政官が犯している罪がすべて国家が認めているものだとみなしてはいけません。たとえ多くの実例があろうとも、邪悪で不正な総督やら執政官やらが異国で犯した卑劣な行為が、本国にて君主や廉直なひとびとが策定している政治の結果だとみなしてはならないのです。君主がしなければならないのは不正を阻止すること。「正されぬ過ちは是認されたことであり、擁護されぬ真理は抑圧されたも同義である」というインノケンティウス3世の尊い教えは有名です」(セプールベダ『第二のデモクラテス~戦争の正当原因についての対話~』)


●2015/12/15 18:45
「男女のオシャレはこの60年間で2度も3度も目に立って変わった。それは決してお化粧の進歩ではなく、男の方でも“男らしさ”というものの基準そのものが昔のものとは比べようもないものになってしまったのだ。だがオシャレという物は常に現在の物が最も正しく、振り返ってみれば過去の物はみな少しずつおかしい。(中略) われわれの着る衣服が時代を追ってその材料を増加し色や形の好みも目まぐろしく移っていきながら、必ずしもまるまる前のものを滅ぼしてもしまわず新旧雑処して残っていたということは、乱暴なようだがまた好都合なことでもあった。仮に各人が自分の境遇、風土と労作との実際に照らして遠慮無く望むことを表白しうるようになったとしたら、もう一度改めて真に自由なる選択をして末にはめいめいの生活を改良する望みがあるからである」(柳田國男『明治大正史・世相篇』)

この子は鷹だ。とんびが鷹を生んだのだ。

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6月16日に行った沼津旅行の日記の続き。写真は全然関係はありません。(ここまで書けたらいいな)


さて、これまでのあらすじ
そこから沼津港へ移動して深海魚水族館へ行きました。何年ぶりでしょうか。



深海魚水族館はとても楽しい場所で、当初の予想通り頻繁に展示物が入れ替わっているようなんですね。(深海生物を長期間飼育することはとても難しいことだから)



なのに、この施設に関する印象はずっと変わらない。
建物は大きいのですが展示スペースはそれほど広くは無い。広大でないせいで入場料も安価なのでそれは一面良いことなのですが、「深海水族館」といいながら深海魚ではない展示物がかなりある。まあそれも、深海魚ばかりだと(地味なので)すぐ飽きてしまうであろうので、色とりどりな他の魚と対比させるのはとても良い作戦だと思う。ただ困るのは、意外にも自然と深海魚部分よりもそっちの一般魚部分の方が印象が大きいことで、その一般魚には決して力を入れているわけでもないから、結局他の水族館に負けるのです。
深海魚水族館にはイルカやアシカのショーや、マグロやカツオやブリが力強く泳ぐ大回遊水槽は無い。

一応沼津のヒーローとしてはメンダコやラブカがいるのですけど今回は(死んでしまってて)見られず、その場合今のヒーローは巨大タカアシガニと二種のオウムガイとヌタウナギのようでした。おおそうだ、ダイオウグソクムシは開館当時からここのヒーローでしたね。
で、やっぱり今流行りの施設ですから展示物は一般受けを狙っている傾向があって、それが皮肉にも一般人が深海魚というものに抱いているイメージと乖離することになってしまっている。フクロウナギとかオニキンメとかメガマウスとかシギウナギとかホウライエソとかチョウチンアンコウとかは絶対に水族館では飼育展示できないのです。



ただ、個人的には「サケビクニン」がこの施設の中でどんどん増えているのが見られて、大満足でした。
この魚の水槽は常に暗くて赤くて動きが速く滑らかなので、私は上手くこの魚の写真が撮れたためしがありません。
わたくしは鮭ビクニンよりも「ザラビクニン」の方が何倍も好きなのですけど、実を言うとシャケビクニンとザラビクニンの見分け方を知らない。(同一に見える)。いちおう、「ザラビクニンは触ると肌がザラザラしているからザラビクニンと言う」「サケビクニンは鮭の切り身のようにほんのりと赤い色が目立つから鮭ビクニンと言う」ということは「知識としては」知っているけど、ザラといいながらどう見てもぬるぬるしてそうだし、ザラビクニンも十分ピンク色ですしねえ。
10年ぐらい前に初めて「深海魚ブーム」が起こった頃にいろいろ買い求めた本には、ビクニンの仲間は「ザラビクニン」と「シャケビクニン」しか載っていませんでした。それが現在ではもうちょっとデータが豊富になって、「青ビクニン」「アイビクニン」「髭ビクニン」「跳びビクニン」「底ビクニン」「バラビクニン」「オホーツクビクニン」「知床ビクニン」「樺太ビクニン」「セキチクビクニン」「能登西海ビクニン」「鰭黒ビクニン」等々があるのを知っています。でもそれらは名前だけで、サケビクニンとザラビクニンの見分け方を説明している本は無いのです。
また、「ビクニン」以外にもこの魚の形状はいろんな種に適応されているのがややこしいです。「クサウオ」や「コンニャクウオ」は名前は違っても同じ種類ですけど、エゾイソアイナメとかソコボウズとかバケダラとかアバチャンとかソコクロダラとか、ね。



沼津深海水族館では蟹水槽に入れられていた「ヒメコンニャクウオ」が(体長が10㎝弱の小体なのですけど)ビクニンにそっくりでした。見えないけど腹の下に無数の足と吸盤を持ってるんですよ。蒟蒻姫はなぜか常に卵をイバラガニの甲羅の中に産むという変な習性があるんですって。



意外とコイツ(黄魴鮄)も種的には近い仲間です。硬そうね。かっこいいね。


さて、そこから愛鷹山の麓の方へ移動します。
「根方街道」(県道22号)沿いにある「曹洞宗士詠山大泉寺」へ。
ここは“醍醐の悪禅師”阿野全成の菩提寺であります。



10年前に一度訪れたきりですが、ずーっと「また来ようまた来よう」と思ってたんですよね。
それは、本には「この寺には“全成の首掛け松”というものがある」と書いてあるのに、10年前はそれを見落としたから。なんでも、常陸の国で全成が八田知家に頸を落とされたとき、その首はいきなりびよんと跳びはねて駿河の国まで飛んでいき、館の松に引っかかったという伝説があるのだという。平将門なみじゃないですか。怨霊となって出てきてもおかしくはないはずですが、そっち系の伝説はなくて、ただ飛んで帰ってきただけ。(※全成の兄(?)である蒲冠者範頼にも、修禅寺で首を落とされたあと愛馬が首を加えて浜松の屋敷まで持ち帰ってきたという伝説が、飯田町の竜泉寺にある)。
・・・ただ、この時じつは事前調査が不十分で、当該の松はかなり以前に枯れて無くなっていて(そりゃ800年も経ってますもん)、その切り株と記念碑が隣接する保育園の中にあるというのですが、知りませんでしたので結局見ることができなかったのでした、、、、、。



その保育園入り口には、「幼名今若丸 阿野全成碑」があります。
写真だと分からないと思いますけど、「阿野全成」の「野」の字に変な文字を使ってます。(「野」を崩した物の下に「土」を組み合わせて一字としている)

ここは町名だと「沼津市井出」で地区名だと「浮島(うきしま)地区」といいます。江戸時代まで「浮島ヶ原」があってウナギが名産だった地域でした。来るのが10年ぶりなので、わたくしの頭の中でこの浮島ヶ原が富士市だったか沼津市だったかよくわからなくなっていましたが、沼津市域でした。(「浮島ヶ原自然公園」は富士市にあるのでまぎらわしい。浮島ヶ原はひどく広大だったのですね)



何て読むのか頭をひねったのですけど、これで「大泉寺」でした。
以前来たときもそうですけど、このお寺は参拝者を楽しませようとさまざまなオブジェが随所に沢山飾られていて、飽きません。古の支配者の居館跡に建てられた古刹で、源平時代にまつわる逸話が豊富な、歴史好きには堪らないお寺なのですけど、「阿野全成」「源義経の兄」じゃどうしても火力不足で(そんなこと無いのに!)、お寺のサイトを見ると、地域活性化の中心となろうと、お寺はいろいろな催しをさかんにしているそうです。立派ですね。怪談ライブ行きたいですね。






いろいろな物を持った六地蔵(武器ではありません!)



一軒荒れ果ててるようにも見える広大な庭園ですが、なかなか心地良い空間です。
わたしは(知らなかったので)「首かけ松」を一生懸命捜したのですが、見つかりませんでした。



なにか謂われがありそうな造形の木ですが、松じゃなくて杉ですしなー。



これは伝説の「銀杏観音」(だと思う)のですけど、なぜか、流麗すぎて読めない神の名と白山妙理大権現の名が併記された石碑がある。
ずっと首懸松をさがして、保育園の敷地の中も疑ったのですけど、怪しげな髭モジャの不審人物が保育園の中をじっと覗いているわけにもいかないしなあ、ともんもんと悩みました。(そしてそこが正解でした)。おっさんはどうやって保育園の中にある首掛け松を見せて貰えばいいんでしょうねえ。



そして豊かな緑の中にある「伝・阿野全成 伝・阿野時元の墓」。
一応、左が全成、右が時元の墓だとされています。

が、これはあくまで「伝」の墓でして、どうして居館跡に建ったお寺にこれみよがしにある「これしかない」と言えるようなお墓が「推測で~と思われる」との但し書きが付けられているのかというと、公には全成も時元も、幕府に反逆を企んだ犯罪者であるから、このお墓も別人のお墓として偽装されていたからなんですって。左の方が全成の物で右がその息子とされているのも「左の方が大きいから」という理由で、実はお墓を囲っている石には名前が刻まれているのですけど、右の(小さい)方に「原驛渡邊恵十郎源元豊」と、左の大きな方に「嫡子渡邊平左衛門源致英」「嘉永四年」と書かれています。でも、いくら偽装のためだとはいえ父と子を逆にすることなんてあるでしょうか。

そう考えてみると、右の方の五輪塔はとても変な形です。



Wikiをもとにまとめましょう。
阿野全成も阿野時元も幕府への反逆の罪で討たれました。(時元は自殺)。
建仁3年(1203年)5月19日の子の刻(深夜0時頃)、鎌倉において頼家は全成の館に武田信光を派遣し、全成を謀反人として捕縛し御所に押し込めた。5月25日に常陸国の宇都宮頼業の元に送られ、6月23日、八田知家によって斬られた。頼家は北条時政に全成の妻である阿波局の引き渡しを求めたが北条時政は拒否。7月16日には京都で佐々木定綱と源仲章が全成の三男の播磨公頼全を捕らえ、殺害した。
幕府のそうそうたる人々が出てくるので、全成はかなりの人々を敵にしたものだと錯覚しそうになりますが、この人たちは別に北条氏に敵対していた人たちばかりではなく、ただ将軍頼家に命じられたからそうしただけです。この事件は永井路子氏が繰り返し書いているように、北条氏と比企氏(頼家)の勢力争いによって起こった事件で、すぐに比企氏が滅亡すると阿野氏の名誉は回復され、沼津の阿野館が反逆の中心地と見なされることはなかったのでしょう。ただ、『炎環』とか阿波局とか北条政子の視点が主軸なのですっかり忘れていたけど、阿波局と全成の子である時元は4男で、全成には他に3人の男児がいたんですね。さすが悪禅師。

そういえば以前の記事で、「大泉寺には公暁の位牌がある」と書いてくださった方がいましたよね。書き込みの内容からご近所の方だと思いますが、公暁は比企氏の血縁にあるのだから「信じられない」と書いた記憶があるのですけど、公暁が源実朝襲撃をしたときは比企氏が滅亡してから16年も経って勢力は壊滅しており、実朝襲撃のとき北条義時の代わりに殺されたとされる源仲章は16年前に阿野時元の兄の殺害に関与した人物であり、この事件の半月後に時元も挙兵した(?)のですから、公暁と時元のあいだにも「もしかして」という気がしてこなくもないのですが、どちらにしてももうよくわかりません。
ネット上には「幕末の東武天皇にまつわる遺物が大泉寺にある」という記述もあり、なかなか深すぎるお寺ですね。

でもこの時は半ば満たされない気持ちのまま、浜松へと帰りました。

魔法の国ザンス。

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9月の20日と21日もまた伊豆に行ったのです。
今回の目的もまた大仁と韮山の図書館に行って『吉佐美古記録』を捜すことだったのですが(←やっぱり見つからなかった)、代わりに韮山の図書館で『房総の頼朝伝説』(冬花社、2013年)なる本を見つけてしまいました。おおおおお、私はこの本を8年前に欲しかった!
(良く通っていた伊豆長岡町の図書館は老朽化が理由で平成28年の4月に閉鎖してしまったそうです。伊豆の国市に3つあった図書館はそれぞれ蔵書が違ってどれもに行くことが貴重だったのに。私は伊豆長岡の図書館で故・中野貢氏に『源頼政・菖蒲御前伝説とその回廊』を(直接には会わずに)譲って貰ったのでした)

家に帰ってAmazonで検索してみたら、あっさり買えてしまいました!(今日届いた)



『房総の頼朝伝説』 笹生浩樹・著、1300円(税別)。
個人的になぜか房総半島はVガンダムのイメージがあるので、1/300のVガンの人形と並べて撮ってみました。このVガンは昨日買ったのです。ガムが入ってて食玩扱い(500円)なので(バンダイ製なのに)住吉町のマックスバリュで(笑)。さすが500円なのでVガンダムはクォリティがそれなりなんですが(ヴィクトリーはこんな色では無い!)、ガンイージはめちゃくちゃかっこいいです。500円でこんなのが買えるなんて日本て何てスバらしい!

わたくし、頼朝伝説を求めて2009年に房総半島を旅したことがあるんですが、あの時かなり調べ込んでから(←それはどうだったかな)房総に行った記憶があるんですけど、あの頃は調べてもこんなに情報量は無かった。(それでも全部廻りきれなかったのに・・・) この本を片手にまた房総半島に頼朝巡りに行きたいですねえ。半島って素敵ですねえ。
確かあのとき、「伊豆半島の頼朝伝説は20年間かけての伝説の蓄積だから、変な伝説やらささやかな伝説やらがてんこ盛りだけど、房総半島の頼朝はたった半月で広い半島を駆け抜けたから、“駆け抜けた爆走伝説”が主である」と書いた記憶があるのですけど、この本を読んでみるとけっして左右(そう)ではありませんね。ああまた房総に行きたいぬ。・・・ていうか、私は8年前にこの記事を完結させてないのですね。仁右衛門島の奥のお宅で土肥氏に関する面白いお話を訊いたりしましたのに。あぁまた新たに頼朝様の記事を書きたい。


せっかくなので、google地図で『房総の頼朝伝説の地図』も作ってみたいと思いました。

  ★そうか、まかだなあ★ ・・・まだ10年前に自分が行った場所のみですけどね。
       10年計画で充実させます。


ついでに、10年前に作っていた『伊豆の頼朝伝説』の地図。
私は最初これをBingの地図で作っていたのですが、Bingがどんどんどんどん不便になっていったので、諦めて地図製作をgoogleに移した苦い経験がある。で、10年ぶりに改めてBing版を見てみましたら、極めて魅力的な見た目に戻っているじゃありませんか! (なんと、ピンの隣りに項目名が表示されているのです。これはgoogle地図より機能的に優れている点です) でもしかし、他のいくつかの機能がgoogleより劣っている。(ピンの形が選べない点とか、写真が表示できない点だとか、リンクを貼れない点だとか)。10年前のBing地図は写真はいくつでも表示できたし、大きな写真は拡大できたし、文中にタグを多用すらできたんですよ!
自分的に言えば、10年前に本を沢山読んで調べたことは、今ではほとんど忘れてしまっているので、この手の情報が蓄積されているページは非常に便利でありがたい。ほんとうにしょうがないので(自分のために)『伊豆の頼朝伝説の地図』も改めて作り直すことにしました。

  ★(bing版)『伊豆の頼朝伝説』 ・・・(※表示されない、、、)
  ★(google版)『伊豆の頼朝伝説』 (今のところまだ少し)



おそらくすべての記事は書き下ろしになるだろう。
・・・私はこの手の物を作成しても完成させたことがないし、「いいかげんにしろ!」「もっと他にすることがあるだろ!」と思わなくも無いのですが、でも、どこかへ行く度にその都度その都度本を読んで調べ直すのも大変なので、こういう風にメモしておける場所は(自分的には)大切なのです。
10年前のBing版とこれから充実させる予定のgoogle版を見比べると、たぶんかなり食い違っているだろうと思いますが、これは10年前の私と現在の私の蓄積された情報量の差です。この10年間で私は伊豆の源頼朝公についてかなり詳しくなってるという錯覚がありますが、それでもまだ行ったことの無い場所や見つけてない場所があるし、知らないことも随分ある。すべてはまたこれからの10年計画です。(そろそろまた私は伊豆に再び引っ越す計画を本格的に検討していますよ!)





さて、ついでなので6月~8月までに行った下田旅行のことは一旦置いて、9月の大仁旅行のことを先に書いてしまいたいと思います。(こっちの方が簡単に終わりそうだから)

ここのところ、10時ぐらいに気賀を出て、新東名の浜松サービスエリアのスマートインターから高速に入って、2時間くらいかけて昼頃に伊豆に着くのが定番になっています。そうすると着く頃に程よい具合に小腹が空いているから。・・・しかしこの日は早くに空腹に目覚めてしまい、森のサービスエリアでそばを食べた。



つけとろミニかき揚げ丼、980円(税込)
とろろ(じねんじょ)にそばを浸けるとこんなにうまくなるとは知らなんだ!

そこから飛ばしに飛ばして伊豆に着き、まず目指すは韮山の図書館。


韮山時代劇場。この巨大建築物の一棟に韮山図書館がある。

ところが着いてみますと、入り口には「本日休館日」の張り紙が。
なんでや、今日は水曜日じゃぞ。定休日は月曜日でしょ?(・・・なんでも伊豆の国市では休館日をずらすために、大仁の図書館の定休日は月曜日、韮山の図書館の定休日を水曜日にしているらしいのでした)。私はこんなのばっかり。こんなに本好きなのに図書館とはとても相性が悪いのです。

失意のまま向かったのは、韮山町と函南町の境の奈古谷地区にある天長山国清寺。



このお寺も来るのは10年ぶりぐらいですね。懐かしいですね。
この巨寺は室町時代には「関東十刹」のひとつだったこともあるほどのお寺なのですけど、現在は無住。隣接する高岩院(国清寺の塔頭)の人が主に手入れをしていると思われるんですが、その高岩院の方も入り口に「山門不幸」の札がかかげられていて、悲しくなってしまいました。



国清寺もなかなかよく分からないお寺です。
「太平記好き」なわたくしの個人的な「歴史的最注目人物」に「畠山国清」という暴力的で魅力的な人物がいて、その人が最末期に伊豆で作った巨寺に自分の名に因んで国清寺と名付けたいう伝説があって、だからわたくしはこのお寺には格別な愛着があるのですけど(さらに、このお寺には“伝説王国”伊豆を代表する“全国的に有名な”“天狗伝説”もある)、でもそういえばわたくし「畠山国清の記事」を完成させていませんでしたね。(そのうち書きます! ←うそつけ)

国清寺の最大の見所は「畠山国清」と「上杉憲顕」のふたりの墓石があることです。
でもしかし、この墓のことを考えてみるとよく分からなくなる。まず、上のような石碑があって訪れ人を墓所へと導くのですが、こんな立派な案内石があるのに、どれが国清の墓でどれが憲顕の墓なのかよく分かんない。一般に、「開基塔」と書いてあるものが上杉憲顕のもので「開山塔」というのが畠山国清だと説明している人もありますが、(つまり上の石碑は分岐点を示している?)、そんなはずないだろ。一般に「開基」というのはそのお寺を建てるにあたってお金を出したお金持ちで、「開山」というのはそういう土地の支配者にお金を出された徳の高い人を言うのであって、つまり開山者はお坊様だ。そりゃ畠山国清も出家して道誓入道であったけれども、“開山”と讃えられるはずもない俗的出家者だ。


「開山塔」。(開基塔とは少し離れた場所にあります)


「開基塔」。


「上杉憲顯公顕彰碑」ですって。

「南北朝武将上杉憲顯は、関東管領・上野・越後・伊豆守護などの要職を歴任し、晩年、伊豆に國清寺を建立。壮麗な寺院に修築、整備された國清寺は三代将軍足利義満の代に関東十刹の一寺に数えられたと伝えられる。
憲顯公は応安元年(1368)9月19日足利陣中に没し、此処國清寺の森に眠る。因みに鎌倉九代記に卒去後の上杉憲顯公葬送の記録があると郷土史家木下喜衛氏は講ず。上杉憲顯公世を去りて630年、その功を称え徳を偲びて碑を刻み後世に残す  平成19年9月19日 國清寺護寺会 撰」

・・・なんと、ちょうど訪れた今日(9月20日)は初代関東管領殿の命日の翌日でしたのね。なむなむ。
(畠山国清の方はいつどこで死んだのかよく分かっていないので、“命日”がありません)

★現地案内板より

「天長山国清萬年禅寺  臨済宗円覚寺派」
「本尊 観世音菩薩
創立 康安2年春(1362)
開基 畠山国清(天猷道誓大禅定門) 足利管領の執事
再開基 應安元年(1368)上杉憲顕(桂山道昌大禅定門) 大いに修築巨刹となす。本堂正面にあります)」
十刹六位 往昔殿堂壮麗にして子院七十八宇を有しなり
       足利三代将軍義満の時関東十利の一に加えらる。
       天長山、国清萬年禅寺と号せらる。
旧朱印 弐拾石境内二千九百余坪(佛殿右側に徳川歴代将軍の位牌を祠ってある)
      往昔末寺三百余ヵ寺塔頭七十八院あり。
      延徳3年伊勢新九郎長氏御所を隠れし時より漸く衰退せり。其の後鎌倉円覚寺の付属となる。
      子院現存するもの 高岩院 徳隣院 龍泉院 松月院である。
旧十境 一、十里松 二、愈好橋 三、【𩙿】【隹】の下に【又】峠、四、石橋 五、馬甕峰
      六、寒山窟 七、石牛洞 八、苟薬渓 九、華頂峰 十、寶珠嶺
鎮守 毘沙門堂
    寺を距ること十余町の山中にあり国清寺に属す。伝え云ふ 僧文覚比の地に流寓す
    堂中に慈覚大師作の毘沙門尊天あり。
    仁王門に運慶修飾の金剛像あり。辨才天、は佛殿左側に祠る。

                                   (豆州志稿による)」

・・・全体的に変な文字遣いの案内板です。
伊勢新九郎は御所を隠したんじゃなくて陥したじゃろ。
でもよくよく見てみますと、「豆州志稿」の「稿」の字にわざわざ存在しない変な文字を作って入れている所を見ると、これはわざとやっている。


この一文字で「原稿」を現しているんでしょうかねえ。

「本堂正面にある)」のはなんなんだ!

困ったときは豆州志稿!
★『増訂豆州志稿』より。

「天長山國清寺 奈古谷村」
「(増)臨済宗圓覚覺寺派(相州鎌倉、圓覺寺末。本尊觀世音)
(豆)寺記に曰わく、康安元年に畠山國清(道誓入道)鎌倉から本州に遁げてきて、修善寺城に依った。翌春、この地に小さな寺を建てた。俗にこの寺は國清寺と呼ばれたという。應安元年、上杉憲顯(民部大輔)が大いに修築して巨刹となした。僧妙謙が始祖。即ち勅謚佛眞禅師である。((増)本朝高僧傳に曰わく、妙謙字は無礙、吏部侍郎藤憲顯國清寺を豆谷に建て、謙に請して開山の祖とした。應安2年7月13日に寂したと鎌倉大草子に記されている。國清寺は上杉憲房(兵庫頭)のために息子の憲顯が建てたという。(豆)空華集に曰わく、國清寺は昔律院で、髙尾の文覺上人の舊宅であったという。上杉憲顯が律宗から改めて禅宗とし、佛國禪師の弟子の無礙謙公を開山としたと。文中に文覺の舊宅であると書いてあるのは誤りである。文覺は寺から離れること十餘町の山中にある授福寺の廃址に寓居していた。(増)新編相模風土記に、鎌倉の國清寺は上杉憲顯の創立にして僧文覺の宅址なり、とある。空華集に書いてある文章はこれが元になっている。鎌倉志は空華集を引いて國清寺の上に伊豆の2文字を付けているが、これは誤りである。豆州の國清寺と鎌倉にあると書かれた國清寺が開山開基が全く同じであるのか、もう誰にも分からない)
(増)二世を存圓という。勅謚佛果禪師の師である。(鎌倉大草子は佛果禪師を第四世としている。) 三世は法一という。共に名僧であった。(豆)往昔は殿堂壮麗にして子院78宇を有していた。足利義満の時に關東十刹のひとつに加えられた。鎌倉大草子に勅を賜って國清萬年禪寺と號したとある。延徳3年伊勢長氏堀越御所を【陥】れし時、漸らく衰替し、その後、鎌倉の圓覺寺の附庸となった。子院で現存しているのは高巌院((増)本尊薬師を安置する。僧・龜州の創立。龜州は明徳4年に寂した)鳳林庵((増)本尊地蔵を安置する。僧・萬用の創立。萬用は大永元年に寂した。この2宇は境内にある)徳隣院松月院龍泉庵((増)この3宇は境外にある。以下に記す)要津庵((増)今は廃寺)等である。(廃絶された子院のうち今なお知られているのは、貞月院高月院六西堂座禅堂(これらは遺址がある)圓城寺(田子村に移す)如意庵(鎌倉に移す)白泉庵保春庵(この2庵は隠居所であった)等である)。總門の古額に記された天長山の三文字は明の周伯温が書いたものである。(佛果禪師は伯温に謝を示す詩を書いている。伯温の聲價は扶桑に重く、遠くにその風を慕いて大方を望む、鯨浪雲吹く三萬里、天長山上墨跡香る、と (増)この古額は現在は失われている) (増)また勅賜佛眞禪師の書いた6文字の扁額も蔵している。
(豆)寺領二十石、境内は七千六百歩に及び、寄進の朱印状もある。(増)昔は末寺が300余院あったというが、現在も58寺を有していて中本寺格である。
(増)證羊集に曰わく、關東副師・上杉天樹居士は若くして國清寺の無礙に室中に入り出家した、と。また、上杉大全居士は豆州の國清寺を遷して湘江佐谷に鼎建す、と。(天樹は上杉憲方、大全は上杉憲定の法名である。(豆)おそらく憲定の時にこの寺を鎌倉に遷したのであろう) 鎌倉大草子に、應永23年10月の上杉禪秀ら謀叛の條に、足利持氏は持ちこたえられずに逃げた。人々はその行方を知らなかったが、ただ伊豆奈古谷の國清寺におわすという噂が流れて、木部将監ら支持者が國清寺に集結した。敵も公は國清寺にあると思い込み、狩野介と伊豆奥の兵たちは走湯山の僧兵たちと謀って大勢で國清寺に押し寄せた。ところが寺の中にはご奉公の100人ぐらいしかおらず、敵は武士と大衆が入り混じって火をかけて激しく攻めたので、上杉憲基は夜陰に紛れて逃げた。将監ら21人は高櫓の上で自刃して死んだという。同書はまた、永享11年に上杉憲實(安房守)が伊豆名越の國清寺において子息2人と共に出家したという。また、國清寺の鎮守の祠は清瀧権現、文殊明神、來宮明神、杉﨑明神、祇園天王、藏王權現、鷲頭明神、四阿山權現等なり。また上杉氏は代々武藏の守護であるがゆえ同國府中六所明神をも寺内に勸請して社壇があるという。また北條盛衰記に曰わく、北條早雲は堀越御所を攻め落として威勢がますます盛んとなり近辺の武士は皆下知に従う。その後狩野介を攻めると狩野介は打ち負けて名越の國清寺に入り、ここで自害したという。(當寺の記録にある) (増)寺に畠山國清と上杉憲顯の墓がある。國清の法名は天猷道誓、憲顯の法名は天桂道昌という。(増)二千九百四十九坪官四」

・・・なるほど、豆州志稿がすでに変な文字を使っているんですね。(A-tokの中にも無い字)


これは「隠れる」の異字なんでしょうか。

さてさて、私なんかはこのお寺を「国清公のお寺」と思ってますから、畠山の気分を思いっきりあじわってみたいわけなんです。
ところが境域を歩き回ってみましても、国清を偲べる空気はほとんどない。そもそも、「畠山国清の墓」ってどれなんだ? そもそもあんな石碑が建っているのですから、上杉憲顕と畠山国清の墓は並んで立っている可能性も少しはある。でも、憲顕と国清ってとても仲が悪かったはずなのです。どちらも主君としては可愛らしい足利基氏に共に仕えていた仲ですから親しい同幕ではあったのですが、やがて畠山国清の専横に怒って国清の犯罪を挙げ連ね、基氏に国清追討令を出させたのは上杉憲顕なのです。墓が一緒にあるワケがないじゃありませんか。(←実は本当は仲が良かったのだったりして)

とすると、やっぱり「開山塔のあたりが怪しいのですが。
開山塔をよくよく見てみますと、変な形です。



なんでこんな形の変な岩を中央に据えているんだ?
右側にある「竹潤塔」と書かれている塔の方が高貴なお坊様の塔にふさわしいと思う。
とはいえ、当山の開山と目される“仏真禅師”無礙妙謙が畠山国清と並んで立っている謂われも無いのですからね。本当に何なのか。(“佛眞禪師”無礙妙謙は高僧だったので、本当のお墓は鎌倉の円覚寺内の如意庵にあります)。
畠山国清がここに小さな寺を建てたとして、その時の開山は誰だったのか。上杉憲顕がわざわざ「律宗を禅宗に改めた」と書いてある事から見て、国清は律宗だったのです。豆州志稿では文覚が住んでいたから律宗、みたいなことが書いてありますけど、文覚も律宗ではなくて純粋な真言宗でしたからなあ。一応、鎌倉時代は伊豆山が真言律宗の中心地の一つでありました。奈良時代に盛んであった律宗と、中世に生まれた真言律宗は少しだけ違うのだそうです。
左側の乱暴な形の“佐渡ヶ島型の”岩が畠山国清の塔の可能性はあるのかどうか。

ていうか、畠山国清がこの寺を建てたという伝説が本当なのか?
国清って名前がたまたま同じだっただけじゃないのか。

・・・と同じ事をふと思う人も当然いるみたいで。

★『日本傳説叢書<伊豆の巻> 伊豆の傳説』(大正7年)より。

「國淸寺(田方郡韮山村大字奈古谷)」
「俚俗に、たゞ奈古谷の國淸寺とのみ呼ばれる天長山國淸萬年禪寺(舊寺領30石)は、臨濟宗鎌倉瑞鹿山圓覺興聖禪寺の末寺で、中本山に過ぎないが、昔足利義満の時代には、關東十刹の一に數へられ、末寺78ヵ寺を有して、壯麗を極めたものであつたといふ。唐土佛鑑禪師の草創(「國淸寺寺記」には『勅謚佛眞無礙妙謙大和尚之が開祖なり。』と見えてゐる。)で、後花園院の勅額今なほ存すといふ。康安元年の建立にかゝり、大檀那上杉憲顯(「大日本風土記・伊豆」)といふ。本尊は、聖観世音菩薩、往昔、文覺上人の籠居した奈古屋寺の本尊であつたものだと言われてゐる。然るに、當寺の「寺記」といふものには、『康安元年、畠山國淸、鎌倉を遁れ出で、本州修善寺城を保する時、明年春、當所に一小寺を立つ、俗に呼で國淸寺といふ、應安元年、上杉民部大輔憲顯越後上野伊豆を領せし頃、國淸寺を營造して、大伽藍とし、勅賜佛眞無礙諱妙謙を、開山始祖とす、云云。』と見え、俚俗の民衆も、多くは、さう信じてをるようであるが、別に、開山・無礙(佛眞禪師)の略傳(當寺の釋迦堂に藏せるもの。)といふものには、『(前略)吏部侍郎藤憲顯(上杉)建國淸寺於豆州奈古谷、聘請謙爲開山始祖、民州瞻禮如商売賣歸市 云々。』と見えて、上杉憲顯の草創としてある。然し、此上杉憲顯草創説は、全く誤りで、或は、草創同様の大修築をば、同寺に施した事はあつたかも知れないが、彼は、決して、國淸寺の開山ではなかつた。それは憲顯卒(「鎌倉九代記」に豫れば、『貞治7年(應安元年)9月19日、野州足利の陣にて卒す。年63。』といふ事である。)後、『屍を、伊豆國淸寺に葬る。道號桂山法名道昌といふ。』と記してゐる。「鎌倉九代記」などの記事によつても推察することが出來るが、さうした事實と同時に、國淸寺は、又決して、畠山國淸の草創でもないやうに思はれる節がある。「大日本風土記・伊豆」に、『當時は、畠山道誓國淸といふ。左にあらず、國淸寺と言へるは、佛鑑禪師、唐土にて住寺あれし精舎を、國淸寺と號するを以てなりとす。』と言つてをるもの、その證左の如くに思はれる。それを、畠山國淸の事に附合したのは、國淸兄弟創立の瑞龍山吉祥寺(「鎌倉大草子」)が、隣村江間村(今なほ寺地を存すといふ。)にあつたからであつたもゝのやうに思われる。更に、「見聞抄」には、『貞治頃、京都将軍義詮公の時、上杉安房守憲顯法名道昌桂山と號す。關東官領職始め鎌倉山の内にあり。應安元年戊申菩提所豆州に國淸寺を建立、故に、國淸寺殿と云ふ。去より、上杉家官領職打續き、數代を經たり。』など見えるが、これらは、全く、應安元年に死んだ憲顯の菩提寺を、そのまゝ、建立としてしまつたもので、國淸寺は、飽くまで、上杉憲顯大檀那とせる、「大日本風土記」の説を眞とすべきであらう。
とにかく、さうした國淸寺が、上杉憲顯時代に、大修築を施され、堂塔伽藍の壯麗を極めたことは、事實のやうで、寺域には、天臺に模した十境(十里松、愈好橋、雙峯、石橋、馬鬣峯、寒山窟、石牛洞、芍藥溪、華頂峯、寶珠嶺。)がある、殿堂伽藍の仰ぐべきものの他に、寺境の支坊を始め、末寺の多くを有する一大禪刹であつて、鎌倉の騒亂毎に、避難所となるのが例であつた(應永23年10月、上杉禪秀の亂には、持氏は、上杉憲基と共に、此寺に落ち來り、禪秀方なる狩野介及び走湯山の大衆等の攻撃に堪へないで逃げ出した。又、永享の亂には、上杉憲實又此寺に來つて出家した(「鎌倉大草子」))が、北條早雲が堀越御所を滅して、威を振ふやうになつてから、次第次第に衰滅に赴き、殿堂伽藍大抵荒廢し、唯、狐狸の棲息に委してゐた。明治26年11月、官から、若干の金を賜ひ、特に名區保存の資に充てらるゝやうになつたが、全く當時の面影を傳へてゐるものは、然も、釋迦堂(大雄殿)ばかりであるといふことである。

寺内には、畠山國淸(國淸寺殿天猷道聖大禪定門)ならびに、上杉憲顯(國淸寺殿桂山道昌大禪定門)の位牌を安置してをり、寺後には、此兩人の墓墳といふものを存してゐる。右の大なるが國淸、左の小なるものが、憲顯の墳塋であると言はれてゐる。

土人は、その國淸の墓は、國淸墓と言はず、單に、六郎さんの墓と言つてゐる。隣村の北邊には、畠山六郎重保の營址があつたと言はれてゐるから、或は、それと、これとを混じて、俚俗にさう言ひ傳へてゐるのではあるまいか。
此畠山國淸(左京大夫)と言ふ者は、初め足利尊氏に属してをつたが、後、鎌倉基氏と心よからず、南朝に降つたけれども入れられず、轗軻民屋に卒したといふ。(「太平記」)
憲顯は兵庫頭憲房の子で、越後守護職に任じた。元和3年、關東官領となり、應安元年に卒した。(「鎌倉九代記」)」


・・・いやーー、やはり「本当に素晴らしい国清が建てた寺は、本当は伊豆には無かった」という勘ぐりは、本当にゲスに下衆な勘ぐりというものであって、民俗学的には、こういうシロウトさんな人の妄想よりは、本当は現地に伝承されている口誦の方を上位に置かなければなりませんよ。伊豆には貞子さんやカシマさんや華子さんは本当にいたのです。でも、右の大きな物が国清さんで左の小さな物が憲顕さんって、とれが右でどれが小さいんだ?

でも、伊豆の国市的にも、国清寺を建てた国清さんはいないことになっているのが泣ける。

まー、シロウトさんとして憶測してみますに、本当に畠山国清がここに自分のお寺を建てたとしたら、禅宗で無いわけがありませんね。
それがもともと「律宗であった」と書いてあるところからみるに、鎌倉時代の中ごろに中国にいた仏鑑禅師(=無準師範 ←静岡の“茶祖”聖一国師円爾弁円の先生ですよ)と中国の天台山国清寺に因んだ「伊豆山国清寺」という小さなのがあって、最初は天台宗か臨済宗だったのが鎌倉後期に伊豆山の影響を受けて短期間「真言律宗」に改められ、それが南北朝になってここで大叛乱を企んだ元“鎌倉執事”畠山国清が「がははははは、俺と一緒の名前のお寺がここにあるなんて縁起がいいじゃねぇか、勝てる気がするぜ。よぉし、これからこの寺は俺の物だ。この戦争に勝ったら立派に建て替えてやるぜガハハハハハ(ただし負けたら焼くぜ)」みたいなことを言ったことがあって(それを誰かが聞いていて)、その国清が死んだ後に“伊豆守護”となった“関東管領”の上杉憲顕が、「あの糞憎いあんちくしょうと同じ名前の寺をこの俺様が菩提寺とするなんて最高にシャレが効いてるじゃねぇかグヮハハハハ(モンゴル人的な発想)」みたいな事を言ったことがあったのかも知れない、と江戸時代ぐらいの土地の人たちが考えたのかも知れない。


畠山“道誓入道”国清 (※イメージです)

(?~康安2年(1362)?)
畠山氏は足利一門だが、秩父平氏の英雄・畠山重忠の血をも受け継いだ一族。
(※“畠山重忠の乱”の後その未亡人(=北条政子の妹)を足利義兼の庶長子に再嫁させ「畠山」の遺績を継がせた)
国清ははじめ足利直義の側近であったが、観応の擾乱の最中(?)にいつのまにか尊氏方となり、和泉・紀伊の守護となった。鎌倉で直義を殺害したのは国清だという説がある。文和2年(1352年)に鎌倉公方・足利基氏の執事となる。伊豆守護・武蔵守護にも任じられ、延文3年(1358年)には南朝方の地方軍の重鎮・新田義興を“心霊”矢口の私で謀殺。延文4年に京都政府からの要請を受け、大軍の関東勢を率いて上洛、奈良へ攻め寄せるが、味方の武将(細川清氏・仁木義長ら)とことごとく喧嘩しまくって軍は分解、命からがら鎌倉へ逃げ帰った。
あんなに愛していた足利基氏から厳しい譴責を受けて“執事”を罷免され、伊豆へ逃げてそこで“大いなる叛乱”を謀るが大量の鎮圧軍を派遣され、あえなく壊滅。
どこでどう死んだのかよく分かっていない。
私的なイメージでは戦争と戦略と謀議がとても得意だが、そのおかげで周囲の人々に嫌われまくっていた黒い人、て感じです。高師直や佐々木道誉とは気が合ったと思います。
一緒に戦っていた国清の弟(義深)は必死に義詮に詫びを入れ、許されて京都で活躍し、その子孫は「三管領」のひとつとなりました。


上杉“道昌入道”憲顕のイメージ(仮)

(徳治元年(1306)~応安元年(1368))
上杉氏は藤原北家勧修寺流。鎌倉時代には没落しかけていたが宗尊親王の関東下向の後を追って関東に赴き、宗尊親王の京都帰還には従わず、関東で足利氏と婚姻関係を築くことで勢力を得た。足利尊氏と直義の母である清子は上杉憲顕の父の妹で、憲顕は尊氏と直義の従兄弟に当たる。憲顕と直義は同い年。すでにこの頃上杉家はいくつかの家に分かれていたが、憲顕が生きていた間は仲が良かった。

尊氏・直義の忠実な左腕として一族を挙げて各地を転戦し、幼い足利義詮が鎌倉府に入ったときに一緒に鎌倉へ。観応の擾乱が始まると義詮は京都に召還され、代わりに幼齢の足利基氏がやってきて、憲顕は高師冬と共に基氏を補佐することとなるが憲顕は直義派だった。高師直が京か越前のどちらかで(義)弟の上杉重能を殺害したため、憲顕は鎌倉で高師冬と激しく対立するようになり、師冬は観応2年に敗死。それを聞いた尊氏が激怒して憲顕の上野・越後守護職を剥奪。畠山国清が策謀して憲顕は信濃へ追放された。(一時期、信濃の宗良親王軍にも加わったことがある)
しかし尊氏が死んで義詮の代になると畠山国清が失脚して伊豆に落ち、義詮は関東の叛乱勢力を一掃するために、小さい頃にとても世話になった憲顕(ずっと信濃にいた)を鎌倉の弟(基氏)の補佐とした。『太平記』には“伊豆鎮圧”の項に憲顕の名前が無いが、その後憲顕が「伊豆守護」「武蔵守護」「安房守護」に任じられた事から見て、指導的な役割を果たしたと思われる。
1368年に「老齢で」死んだとされるが、その時憲顕62才。伊豆に葬られた。
私的には「一族を一番に考えることが義」な人なイメージ。



・・・とはいえ、現在の伊豆じゃ憲顕公よりも「国清殿」のネームバリューの方が遙かに高いんですよなあ。
そういえばわたくし、韮山の反射炉で「国清汁(こくしょうじる)」を食べたことがありましたっけ。あれ、今でもやってるんでしょうか。

さて、その後大仁の図書館へ行って(←やってた)、暗くなるまで本を読みまくります。
大仁の図書館は「伊豆の国中央図書館」って名前になってるんですって。韮山の図書館の方が大きいような気がしますのにね。
田京に住んでいた頃はアパートの部屋にエアコンが付いていなかったので、ここによく涼みに来ていたことを思い出します。・・・ってその頃の私は図書館があまり好きでは無かったので(そこにある全ての本が欲しくなるから)、図書館よりは文教堂やハンディ のペットセンターの方に良く来ていた気もしますね。

そして今日の宿。
なんといつも下界から見上げていた、歴史ある「大仁ホテル」です!




いやー、このホテル、大仁に住んでいる頃いつも見上げていたんですよ。
「絶対高そうなホテルですよな」ってずっと思ってた。
でも、知らなかったんですけど(知ってたような気もするけど)、大仁ホテルは2006年ぐらいに「伊東園グループ」の一員になっていました。

「伊東園」は伊豆全体に15ぐらいある、「超格安」(?)で悪名を馳せているグループです。
今も昔も貧乏人な私ですけど、申し訳ないですけど、伊豆に何度も来ても伊東園が選択肢に入ったことはありませんでした。だって、「安かろう悪かろうの典型例」ってみんなが言うから。
でもどういうわけか、この日だけは魔が差して「ここに泊まりたい」と思ってしまったのでした。
だって、ここに住んでいた頃、いつも見上げていたことを懐かしく思い出してしまったんですから。

一泊二食、食べ放題飲み放題付きで、¥8800(税別)!
・・・おっと、飲み放題は夜だけだそうですけど、まぁいいや。

(・・・つづきます)

メンデルスゾーンの交響曲第1番。

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ナタリー・ストゥッツマンがメンデルスゾーンの第1番を指揮している動画を見つけました。
ステュットマン(よくわからない)って女性歌手ですよ。私はこの人のシューマンの歌曲集を何枚か持ってます。ついに歌手が指揮にまで手を出す時代になったか。と思って聴いてみましたら、まぁ、なんて、心地いい。感極まった。メンデルスゾーンとシューマンは同時代人ですからね。シューマンの歌曲が得意な人はメンデルスゾーンも得意なのね。2013年製だそうです。

10年ぐらい前に「わたくしの好きな交響曲ベストテン」という記事を書いたことがありまして、第1位=メンデルスゾーン第1番、第2位=シューマン第4番、第3位=ベルリオーズ幻想交響曲、第4位=ベートーヴェン第5、第5位=蛸5、としたんですが、この順位は今も変わりません。メンデルスゾーン第1大好き。


ただし、チューブ状生物上で検索したら上のものよりもっとパーヴォ・ヤルヴィの方が私的には最も理想的な演奏としてしっくりしました。
みずみずしい。





★ヴィヴァルディ 協奏曲ホ短調RV.278

ミドリ・ザイラーのヴァイオリン

ルーグナ城の秘密。

「嫌い」と「好き」で物を語るな。

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ゴルトベルク変奏曲、グレン・グールド、1981年。

わたくしは「大バッハ」が嫌いなのです。大嫌いです。
「クラシック好き」を任じてましたので、若い頃にはたくさんCDを購入し、なるべく親しもうと努力もしましたが、長じて偉大なる「変ヘンデル」の魅力に目覚めるにつれ、「大バッハ」が嫌いになった。「こいつなにが楽しくてこんな栄養もカロリーも効用も何も無いこんにゃくみたいな音楽を大量に作っているの?」「苦痛だ」って。「ブリタニアの幸いなる大ヘンデルは鰤であり鯛であり鯱であるのにこいつはなんなの!?」って。
小さい頃はあんなに大好きであったロ短調ミサ曲もマタイ受難曲もブランデンブルク協奏曲群もうるさく感じるようになり、30を超えると大バッハの曲で聴くのは「ゴルトベルク」と「パルティータ第2番」と「音楽の捧げ物」ぐらいになってしまった。

翻りますが、大バッハの「ゴルトベルク変奏曲」って誠にいい曲ですよね。
古今の作品のうち、ここまで均衡に選り研ぎ澄まされた曲ってありましょうか。聴いたらひどく興奮する。建築的な香りがする。ドイツみたいな燻製された腸詰め肉の焦がれた感じがする。さすがクラシックです。クラシックばんざい。私は大バッハは大嫌いなんですけど、多分この曲は別次元線の別バッハが作った物なのでしょうね。

私の初ゴルトベルクは記憶が疎かなんですけど、若い頃住んだ九州長崎で、初めて買った20枚のクラシックの初コレクションには含まれてはいなかったと思う。何かの本で「バッハはグレン・グールドが凄い」と読んでから買った。わたくしの初ゴルトベルクはグレン・グールドの81年盤でした。マタイ受難曲のリヒター盤は高校生の時から聴いていた。
長崎にはどこにも丘の上に華麗な教会があった。(リアスの港の奥々には魚面の民が潜んでいそうな深い淵の数々がありました)。隠れキリスト教に多大な興味を抱いていた私は教会群を遠くから眺めることがとても好きで(結局一回しか中に足を踏み入れることが無かったけど)、私の記憶の中の長崎県の思い出の景色にはゴルトベルク変奏曲('81年)が大音量で流れている。っていっても、30年も経ってるので記憶がもうかなり薄くもなっちゃってるんですけど。私の記憶の大バッハといったら長崎の九十九島と松浦半島とハウステンボスと富士市なんだが。(富士市に住んでいたときグレン・グールドの30枚組のバッハ全集を買ったから)

で、ゴルトベルク変奏曲といったら私にとっては81年のグレン・グールドとかあり得なくて、それ以外は聴いたことが無いのです。大全集に含まれているので1955年盤は持ってはいますけど、ほとんど聴いたことが無いのです。で、今の時代、捜してみるとあるんですね。動くグレン・グールドの映像が。凄いですね。(探してみたことはなかったので)今さらながらにびっくりしています。さすがに1955年のグールトの動く映像は無いでしょうね。


(1955年盤)
81年盤とは正反対の雰囲気だと思い込んでいましたけど、今聴いてみますとそんなに違和感ないですね。もっと駆け足風の演奏だと思ってた。


若い頃の私はグールド以外は聴こうとは思わなかったのですが、唯一お店に行くたびに探していたのは、吉田秀和だか宇野功芳だかがどこかの本で紹介していた(何の本だっけ)「弦楽三重奏版の」ゴルトベルク変奏曲で、(ネット通販なんて無い時代だったから、結局見つけることはできなかった)、でも現在はネットの世界で聴き比べ放題なんですね。確か探していたのは、ドミトリー・シトコヴェツキー、ジェラール・コセ、ミッシャ・マイスキーの3人の演奏だったと思うけど。


(これはアケミ・メルセル-ニーヴェーナー、ディルク・メルセル-ニーヴェーナー、ウルリッヒ・ホーンさん)


あった(驚き)。1985年。

ひねもすのったりのたのた。

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「2018年春」の展示の感じを確認しに、またウォットへ行ってきました。1年ぶりぐらい?



ウォットは地味な魚しか展示してない小さな水族館なのですが、何度か行くと、小さな魚をのんびり眺めることにとても愉しみを感じるようになる。
魚の種類もそんなに多いわけでもないのですけど、こまめにレイアウトが変更されていて、楽しい。



久しぶりに行って、気がついた顕著な変更。
2014年春の展示の記録と見比べてみてください)

  ・渓流ゾーン(上の見取り図の②)のウナギ水槽がなくなっている。
     (ウナギの説明書きはあるものの、アユばかりになっている)
  ・同じ渓流ゾーンの「汽水域の魚」が「チヌ(黒鯛)」と「キチヌ(黄鰭)」の子供がメインになっている。
     (ヘ鯛もいる)
  ・アマモ場水槽と説明書きがなくなっている。
     (※3/24から特別展示企画「海のゆりかご! 浜名湖のアマモ展」が始まるから)
  ・企画ゾーン(上の見取り図の⑧)にアマモ場水槽がいくつか準備中。
  ・以前のメインだった「鰻」と「虎河豚」が数が減ったのか、とても地味になっている。
  ・逆にその前にヒロイン的存在だった「簑カサゴ」がまた増えている。
  ・ハモがいる。
  ・個水槽(④と⑤の奥にあるゾーン)の「真鯛と血鯛の見分け方水槽」に本当に血鯛がいる。
     (※以前はいなかった(笑))
  ・外の飼育プール(⑨)は「鰻プール」と「大鰻プール」に分かれていた。
     (この前は「鰻(&大鰻)プール」と「錦鯉プール」だった) 
     おおうなぎプールには全然見えないけれど大きいのが10匹ぐらいいたよ。
  ・2階実験ゾーンは「毒生物展」になっている。
  ・2階実験ゾーンの「ドウマンガニ」と「マダコ」は再び過去最大級の大きさで充実している。
  ・以前随所に飾ってあった、「触れる本物の魚の剥製人形」がすべてなくなっている。



「ミノカサゴ」が浜名湖を代表する魚なのかはさておいて、こんなのが大きいのから小さいのまでたくさんいたら、見栄えはするし、見るのはとても楽しい。



「鱧」は「とても凶暴」というイメージがあって、こんなのが小さな水槽におとなしくいるのを見ると「おおっ」と思ってしまうのですけど、これは小さいから子供なのですね。以前に一回だけもっと大きい怖い顔のやつがいたことがある。(※年1しか来ないので断言はしづらいですけど、ここでハモが見られるのはなかなかレアですよ。) 舘山寺温泉は何年も前から、「ウナギ」「トラフグ」「ハモ」「カキカバ」を“浜松の三大味覚”として大々的に売り出し中です。

で、「長いもの水槽」には、現在ハモは1匹だけじゃなくて、3匹もいる(笑)
ふふふふふ、あなたは「ウナギ」と「アナゴ」と「ハモ」と「ウミヘビ」を見分けられますかな?



以前、「アマモ水槽」だった③の比較的大きな水槽は現在の主人公は「ミノカサゴ」なのですけど、よく見てみますと、この水槽は「コチ類」水槽です。
「マゴチ」、「イネゴチ」、「ネズミゴチ」、「トビヌメリ」がいます。
「まごち」が大好物なのでじゅるじゅるしながら眺めてしまうのですが、「稲鯒」と「鼠鯒」の見分けはできませんな。(そうでもないか)。ちなみに「鼠ごち」と「跳び(鳶)ヌメリ」は両方いわゆる「メゴチ」なんですって。

「ゴンズイ玉」。ゴンズイは動きが速く、場所も暗いので写真は上手く撮れない。
「ゴンズイ玉水槽」は以前からもあって、「ゴンズイには毒があるからね、コワイコワイ」と思うのみだったんですけど、改めて見ますと、この水槽のゴンズイ玉、親が混じっているのがおもしろいと思いました。というのは数日前にテレビでゴンズイ玉の仕組みを解説してた番組があって、「ゴンズイ玉を作るのは仔魚のみ」「大きくなると玉にならなくなる」「ゴンズイ玉は全て同じ大きさの個体で形成される(兄弟だから)」「ゴンズイ玉の中心にはフェロモンの塊があって、その匂いはゴンズイ玉ごとに違う」などなどなど言ってて、とても楽しく見てたんですけど、ここのゴンズイ玉には親らしき2体が混じってる。見てますと、玉からは離れて泳いでいることもありますけど、普通に玉に混じりに行くこともありますよ。
ゴンズイは漢字で書くと「権瑞」ですって。なんだかめでたい名前。
それから、ゴンズイには毒があることが有名なんですけど、調べてみますと、この毒を研究している人はいない(?)ようで、名前すらないらしい(?)。フグだったら「テトロドトキシン」、ウナギだったら「イクチオトキシン」なんですけど、「ゴンズイ」の場合は「何らかのタンパク質の毒」。ミノカサゴの毒も調べてみますと「不安定なタンパク質の毒」と書いてありますので、同じ物かと思いますものの、ゴンズイの毒は「とても痛くて死に至ることもある」、ミノカサゴの毒は「激しい痛みが7日続くが、死ぬことはない」となってますので、もしかしたら違う物なのかもしれないですね。でも「ムカデ」の毒も「タンパク性の毒」って出てくるし、「タンパク毒」っていうのがそもそも「そのもの」なのかもしれませんけどね。

前回来たときは既に場所が変わっていた気もするのですが、以前「トラフグ水槽」があった場所(「奥の個水槽群」で一番目立つ所にある水槽)は現在は「ミノカサゴ」と「チンアナゴ」その他の色とりどりの魚コーナーになっていて、“浜松のヒーロー”トラフグは一番奥の奥の水槽に移動されています。この水槽は「寝てる人だらけの水槽」ですが、実は左の一番奥に寝ている人が、われらが大きなトラフグおじさんです(笑)。
でもトラフグよりももっとおもしろかったのが、同じ水槽にいた「サザナミフグ」。

砂地にゴロンと丸くなってる点々模様のさざ波フグですが(右上の丸いのはマフグ)、「なにふてくされてるんやー」と見てましたら、隣にあったビデオの映像で、この丸まった姿勢のままアマモ場の砂地を泳いでいる姿が流されてました。丸まって泳ぐ魚。かわいい。

2階に行って、「実験室」の生物コーナー。
ここにはいつも楽しい「タコ」と「ドウマン」がいます。
タコは「最大級だった」って書いちゃいましたけど、よく見るとそうじゃないですね。そういえば、1年前に来たときは「ミズダコ」で今日のよりももうちょっと大きかった。ただ、タコの寿命は大体2~3年なのです。(ミズダコは4年ぐらいだという説もある)。「短いなあ」と思うのですけど、水族館の生物としては長生きな方でして、寿命が来る度に新しい物と入れ替えているのでしょうから、1年に1回しか来ない身からしてみると、「小さいやつ」から「中くらいのもの」を経て「大きな大人」が見られる確率はそれぞれ1/3ですので、意外と大きいのをあまり見ていない気がする。今日のマダコはそこそこ大きくて、とてもキレイな色合いのイケメンでした。
「タコが面白い」と思える理由はいくつかあります。「頭が良いんだな」と思うのは水槽ごしの人間類を完全に識別していることで、以前は静かな室内の隅の水槽ででれーっと寝ていた大きなマダコが、人が近づくと突然華麗な踊りを舞いだす、ということがあった。それは溢れ出すサービス精神でそうやっているというよりも、自分の楽しみのために「俺が踊ってやると人間どもはどう反応を示すかな?」と思ってやっているかのようであった。それが、別の時に小さなマダコの時に行って見ると、小さな蛸は人間にはあまり興味を示さないのです。タコの奇妙な行動は後天的な物だと思いました。
今日のタコは私が近づくと、逆に、「おい写すなよ」「訴えるぞ」みたいな感じでうにょうにょ8本の腕で顔を隠そうとした。近づく度にそうだったので、このタコは私に本当に顔を見られたくなかったに違いありません(見るけどね)。

タコの「眼」って、つねに横に一文字で、タコ本体がどんな姿勢になろうが(動きは激しいです)、決してこの一文字は縦になることは無いそうですね。それで平衡感覚を常に保っているそうです。凄い。どうやってるんですかね。タコは本当に面白い。むかし「予言ダコのパウルくん」っていましたよね。

別の水槽には「イイダコ」もいました。小さい。こいつは人間様には全く興味を示さず(小さいからね)、閉じこもっていましたが、寝てるときは「眼」が縦向き(?)じゃないか。って、タコってまぶたがあるのかな。
なお、タコ類ももれなく「毒」を持っているそうで、マダコの場合は「チラミン」と「セファロトキシン」と2つも毒を持っているのだそうで、「チラミン」は頭痛を引き起こすアミノ酸類の毒で、「セファロトキシン」が激痛を引き起こすタンパク質の毒なのだそうです。・・・なんじゃん、タンパク毒でも名前のあるのがあるんじゃん。で、マダコは口嘴(カラストンビ)からその毒を人間様に射し込む。

「タコ」で「毒」といったら「猛毒を持つ蛸」の豹紋蛸ですが、以前来たとき(「浜名湖で猛毒のタコが何匹も見つかった!」とニュースになった少し前だったと思います)ウォットでも生きたヒョウモンダコが展示されていたのですが、もうそれは死んでしまったらしくて、剥製になったヒョウホンダコになって飾られてました。あんなに毒々しい黄色だった極彩の生き物も、死んだら真っ黒になっちゃうんですね。
ヒョウモンダコの持つ毒はマダコとは違って「テトロドトキシン」です。河豚と同じ毒です。しかも自分が食べられないと相手を殺せないトラフグとかと違って、ヒョウモンダコは自分の嘴を相手に突き刺しテトロドトキシンを注入して、確実に相手を殺す。テトロドトキシンを摂取すると、意識はあるのに身体が徐々に麻痺していって、呼吸器の筋肉が動かなくなり息が出来なくなって死ぬんですって。・・・最凶じゃん。マムシの毒より凄いやん。怖いね。

マダコの隣の水槽にはでっかいもしゃもしゃの蟹が! ドウマンだ!
でっかくなったなあ! お前、凄いなあ!
・・・と思ったんですが、実はこの蟹はドウマンじゃないんですって。
舶来の巨大蟹、マングローブ蟹!!
・・・えっ

でも、その隣りの水槽にちゃんとドーマン蟹もいました。
こっちもでっかいぞ! こっちもモシャモシャだぞ!!

でもよく見ますと、この蟹は「アミメノコギリガザミ」だって書いてある。
いわゆる「堂満蟹」って「トゲノコギリガザミ」じゃなかったですっけ!?
・・・と思ったら、「棘」と「編み目」と「赤爪」の三種のノコギリガザミを総称して「堂満」と言うんですって。(以前にも同じ事を言ったことがあるような気が)。「棘」の方が「編み目」の何倍も強そうな印象が名前からしますが、編み目ノコギリも十分負けず劣らず巨大で凶暴だそうですヨ。残念ながら自慢の網目模様はモシャモシャに覆われてて全然見えませんですけども。
だいじょうぶ、こちらだって浜松の駅前で食ったら確実に2万えんはする貫禄の大きさですよ。

ドウマンも水槽越しの人間類を完全に認識していて、私がこの部屋に入ったとき、あっちをむいてまったりしていたのに、私が水槽に近づいたときのみこちらに向きを直して、激しく威嚇のポーズをとる。離れると力を抜くが、また近づくと高々と大鋏を掲げる。決して敵(私)には背中を見せない。(モシャモシャを見たいから見るけどね。回り込んで)。格好いい。

この、いつ近づいても挑戦的なドウマンと比べると、隣りの水槽にいる「マングローブガニ」はやる気なさそうに背中を見せて寝ているばかりでピクリとも動かないので、「ドウマンさんを見習えよ」と思うんですけど、よくよく見比べると、マングローブガニもドウマンも同じ奴じゃないのか? 背中の形がそっくり。そりゃ、東南アジアあたりではドウマンガニの同種がうじゃうじゃいるそうで、それらを輸入してきて「3万円」ならも納得できると思うのですけど、この蟹、沖縄から来たって書いてある。トゲノコギリガザミ(ドウマン)もアミメノコギリガザミ(ドウマン)も沖縄ではマングローブ沼の中に棲んでいるんだから、沖縄ではドウマンもマングローブ蟹なんじゃないか? 堂満蟹とマングローブ蟹は同じ蟹なんじゃないかな? とすると、浜松駅前で2万で食べられている堂満蟹は原価3倍の法則からして原価は6千円強ぐらいなので、仕入れ3万のマングローブガニの鍋は浜松駅前では9万円ということになる(?)。(調べてみるとマングローブガニはノコギリガザミの一種ですけど、棘や編目と比べると殻が横に長く縦の尺が短い(つまり上から見て丸っこくない)ので“芦屋道満とはみなさない”そうです)。沖縄にもマングローブガニが普通に棲んでいるとすると、沖縄の人はトゲノコギリガザミとマングローブガニの区別はちゃんとできてるんでしょうか。そもそも沖縄の人はドウマンガニをドウマンとは呼ばないんですよね。アミメノコギリガザミも沖縄に住んでいるときは普通にマングローブ林で暮らしているんですが、浜松までやってくると浜名湖にはマングローブは生えていないので、アマモの中で割り切って元気に活動して“浜名湖のヌシ”として振る舞っている。それに比べたら、マングローブの無い所にいきなりつれられてきたマングローブガニもそりゃ、ふてくされてしまうというものです。マングローブあってのマングローブガニなんじゃないかと。

で、2階のこの実験室は現在「浜名湖の毒生物展」になってまして、入って入口の左にいきなりいるのが「うなぎ」と「おおうなぎ」。そうですよね。鰻も毒持ち生物ですよね。(上の写真は大鰻の子供です)

 

それぞれの生物にはこのような説明書きがつけられています。こういう「工夫した感」が溢れているようなのは、個人的には大好き。ウナギは毒レベル10もあるのか。結構高くてびっくりですね。

大ウナギの方がウナギ(小)よりもHPが低くてMPが高いんですね(笑)。「ウナギの毒」と「オオウナギの毒」って違う物なのかいな?(←同じ物のはず)

“川にいるゴンズイ”アカザ。毒レベル55ですって。ゴンズイとどっちが強いのか。
アカザは漢字では「赤佐」だそうです。(※全然関係ないですが旧浜北市北部のことを「赤佐(あかさ)地区」といいます)

ガンガゼ。うひーー、見ているだけで痛い。
「HP520?」って書いてあるんですけど、このHPの算出方法ってどうなってるのか。
本当に毒生物の毒の詳細ってよく調べられてはいないんですね。海に囲まれた日本人には大切な事だと思うのに。「毒は毒なんだから毒でいいじゃん」とか言う人がいるんですかね。

ウミケムシ。食べたくもない(笑)。MPはガンガゼよりも高い。

スベスベマンジュウガニ。毒饅頭。
すべすべ蟹の説明書きは2パターンあります。

おそらく3匹いると思われますが、3匹とも、全然すべすべしてない(笑)。左上のヤツ、倒立してないか。

パターン2。触れる標本コーナーにあります。

スベスベだ! すべすべに触れるのはココだけ、と書いてあります。
(広島大学のお魚先生、と読んでしまいました)
触ってみると、小さな蟹なのに、なかなかな重量です。中身(?)の質量も再現しているらしい。
ウォットでは標本を作ることが得意な人がいるんでしょうか。一時期からさまざまな触れる標本の展示が増え始め、でも今回来たら以前たくさんあった標本のほとんどがなくなっていました。でも、頻繁に触れる標本が入れ替わっているのだとしたら、それは楽しいことですね。
アカエイもいます。
アカエイも浜名湖が誇る立派な毒魚なんですけど、今回は説明書きはどこにもありませんでした。(1階の個水槽には生きたアカエイがいます)。アカエイの毒も「タンパク毒」で(でも詳しくは研究されていない)、すごく痛くて、刺されると喩えるならば至近距離で空気銃で撃たれたような衝撃があって、海外では一例だけ刺されて死亡した例があるそうですよ。

アカクラゲも浜名湖には意外にたくさんいると聞いたことがあります。
でもウォットにはアカクラゲの毒も説明書きは無かった。
こっちもめちゃくちゃ痛いそうですが、アカクラゲで人が死ぬことは無いそうです。どうなっているんでしょうね、タンパク毒って。
(※参考;アカクラゲとミズクラゲの毒
わかりづらいですけど、上の写真は2匹のアカクラゲが絡み合っているとこです。もっと大きなクラゲ水族館に行くと何匹ものアカクラゲがもたらくたらに絡み合って「こりゃ俺でもほどくのは無理だぞ」と思うほどなのに、見ていると自然に(長い時間をかけて)ほどけていくので、それがクラゲ水槽では一番楽しいのですが(でもまた絡まる)、この長い触手には無数の刺胞があって、でもアカクラゲ同士は絶対に刺さないそうですね。それどころか、アカクラゲは大部分の人間は普通に刺すが、なぜか稀に触っても刺されることはない選ばれし人間が低確率でいる、ときいたことがあります。それからアカクラゲの有名な伝説として、大坂冬の陣のとき、真田幸村がアカクラゲを乾燥させた粉を城壁の上から撒いた、という説がありますよね。(井伊や榊原にクシャミをさせるために)。これは史実なんでしょうか。どうして海無し県の上田野郎が海有り県の三河武士の子供時代のトラウマを熟知していたんでしょうか?

入り口付近のウナギ水槽の奥には、アカハライモリの水槽があって、ここはずっと前からイモリの定位置だったのですけど、イモリと言えば毒々しい生物の代表格。アカハライモリは今回のこの企画展のためにずっと前からここにいたと言っても過言ではありませんね。アカハライモリは、淡水にいるのに猛毒のテトロドトキシンを持つということで有名なのです。ただアカハライモリは自分が持つテトロドトキシンを刺しにいくことはありませんし(手段もない)、また肉中の毒量もそんなに大したこともないので、触っても食べても毒に当たる人はほとんどいないそうです。私も小さい頃おやつとしてイモリの黒焼きは普通に食べてたし(ウソですけど)、でも近所の川にはイモリなんてうようよいましたよ。「イモリにとってテトロドトキシンは何の意味があるのか」と問いたくなりますが、逆に考えると、イモリはテトロドトキシンの名声(悪名)を最大限利用して自分の赤々しいオシャレを「俺って猛毒をも“惚れ薬”にできるんだゼ」とアピールしている世にも珍しいハンサム生物なのだと言えましょう。

1階に戻って企画展のスペースです。
現在、3/24から始まる「アマモ場展」の準備中なのですが、アマモ場を再現した4つぐらいの水槽が設置されています。まだ準備中らしくて、中にいる生物の説明はほとんど無いのですけど、一番大きな水槽だけ、本当のアマモが敷き詰められていて、そこそこ大がかりな本当のアマモ場を再現するようです。(他の3つの水槽は緑色のビニールテープでアマモを模している)。中で一番気になったのは、上のカニです。大きい物でも3cmぐらいしかない小さなカニですが、水槽には名前すら書いてありません。このカニが、写真のようにツノが生えているのです。「どんなカニなんや」とまじまじ見てみますと、これ、角じゃなくてアマモの茎なんですね。それを頭の先に刺している。よくイソギンチャクや珊瑚のかけらを甲の上に「背負って」いるカニの映像は見たことがありますけど、このカニは背負ってるんじゃなくて、「刺して」いる。よく見ますと、この水槽には10匹ぐらいのこのカニがいまして、そのすべてがこのように「アマモを頭に」刺しているのですから、これがこのカニの習性だと思います。この刺し方に何の意味があるんや。

こいつのは折れちゃったみたいだけど、本当に頭のどこかにどうにかして刺している。長いのを刺すのが何かのアピールになるのかな。
この蟹、何という名前なのかな。高足蟹とか赫手蟹とかに対抗して「頭頂大漁旗蟹」とかいうのかな。

あとは小さな魚とヌマエビっぽい小エビと小さめの黒いナマコが数匹。(きっともっとたくさんの生物が投入されることでしょう)。この水槽の一角をケースで区切って、小さなイカもいました。

姫イカ、(1.5cmぐらい)。かわええ。
3/24からの本番にはナベカちゃんも来るといいな、ナベカちゃん。

別の水槽にいるヨウジウオ。これも変な魚で、かわええ。

これも写真だけで見るとヘビみたいですが、大きい物でも10cmちょっとですので、ゆらゆらしていて非常に可愛らしい。きっとタツノオトシゴの仲間なんでしょうね。

蛇みたいに細くて長いのが「ヨウジウオ」で、それよりもちょっと小さく、顔が短くておなかがプクっとしたのが「オクヨウジ」なんだそうです。何が「オク」なんだろうか。奥歯用に使う爪楊枝なんだろうか。

その隣りの水槽にはタツノオトシゴとサンゴタツ(奥にいる黒くて小さいの)がいます。アマモ場も楽しいですね。

以前、「触れるオウムガイ」がいたコーナーは、「触れるうなぎプール」になっていました。(1年前に来たときは「うなぎ展」をやっていたので、もっとたくさんウナギがいました)。アマモ場にはウナギはいないですやな。でもやけに白いウナギばかりです。ウナギはオウムとは違って人に触られるのは大嫌いなので、人が近づくと大慌てで逃げます。(当たり前ですね)。ああ楽しい。

入ったとき気づかなかったのですが、入り口(出口)付近には「パンダウナギの水槽」と「クリオネの水槽」も新しくありましたよ。

ちょっと前に上野動物園の白熊猫(小)が大きく話題になっていたときに、それに便乗してこのウォットのパンダ魚もニュースになってたりもしましたが、どうもこのパンダは以前からここにいたのと同一個体のようです(ウナギは長生きだから)。以前からこいつはやる気ないんだよねー。

なぜクリオネ。(※浜名湖にはクリオネはいません)

どうも私が来てなかった間に「オホーツク海展」があったようですね。
黒くて大きいグロテスクなのは「オオカミウオ」です。(※浜名湖にはいません)
触れるそうです。
・・・っていうか「イヌザメ」は普通に浜名湖にいる魚ですが(※いませんでした、、、 遠州灘にはいるのかな)、オホーツク海では生きられるのかな?

アーガン・アーガーの司祭かく語れり。

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最近のわたくしが何をやっているのかというと、
『まちクエスト』というサイトで、しこしこナゾナゾを作っています。

おおむかし、私がまだ伊豆にいたころ、『タカラッシュ』という宝探しサイトがあって(まだあるが)、実際に現地に出向いてそこに設置されている「謎解き」をおこなう、というのをかなり楽しんだ記憶がありますが(でも難しかった)、このサイトは展開が上手く、やがて企業と結びついて大々的にイベントをやるようになっていったので(すごいんですけどね)、私は足が遠のいてしまった。

6、7年前に携帯のGPS機能を使った『ケータイ国盗り合戦』というのを会社の人と一緒にやっていて、「ゲームのために各地へでかける」というのを楽しんだんですけど、このゲームは出かけないと話にならない。静岡県を統一したあと全く進まなくなったんですけど、そんな気軽に県外へ行けるか。それが偶然東京と名古屋に出張にでかけたときに一気にゲームが進み、このことが逆に「出張族の人ばかり有利じゃん」「遊びでやってると進まないのに、仕事中に進んじゃうのはなんだかなあ」と思って、止めてしまうこととなった。

2年ぐらい前に『Ingress』というゲームの全国大会が浜松であったそうで、ケータイ片手に町をうろうろしている人たちの集団を見て(※まだ町中スマホのマナーとか、そんなに言われてない頃でした)、「なんだこりゃ」と思って調べて面白く思って、始めて見たんですけど、さすが浜松駅周辺は(大会がおこなわれただけあって)非常にエキサイティングな状態になっていて、休み時間に町に出かけては、陣地取りをがんばったんですけど、陣地をとってもすぐ取り返されてしまう。また気賀の周辺にはスポットがほとんど無かったので、結局足が向かないようになってしまった。

その後、『ポケモンGO』が始まったんですけど、ポケモンなんかに全然興味の無い私は、「ポケモンなんて今さら集めてもな~」「武将GOだったらやりたいんだけどな~」と思ったんですけど、絶対出ると思った類似ゲームは『ポケモンGO』の社会問題化で結局出ず、

少し前に、2ちゃんねるのまとめサイトで『あんたがた』というゲームに興じていた人たちの文章を読んで、何か面白くて、再び「似たようなゲームはないかな~」と思って、
たまたま数日前に見つけたのが『まちクエスト』だったのでした。

こういうのなんですよ、私が欲しかったのは!

 

全国を廻らないとコンプリートできない、というのもいいんだけど、
ちょっと出かけた町に、簡単なナゾナゾが設置してあって、それを解くことで、町単位で制覇していける。限定された人だけではなくて、自分でもナゾナゾを設置できる。いくらでも。
うんちくを常に求め、頭の中がウンチクで満ち溢れている私のような人間には、ちょうどいいゲームじゃないですか。

問題は、私の住んでいる浜松の北の方はプレイヤーがほとんどいないらしくて、クイズがあんまりなかったことでした。

いいやん、無いのなら自分で作れば。

というわけでここ数日、せっせこクイズを作りまくっているのです。
(50個ぐらい作りましたよ)
タカラッシュと違って、このゲームを「解いて」得られる報酬は、「出題者による解説」だけです。ですから、クイズなんてそんな難しい物でなくていいので、「解いたあとの解説部分」に最も重点を置いて、なぞなぞを作っています。
・・・まだ、今のところ私のなぞなぞを解いてくれた人はひとりもいないんですけどね!(笑)
でもいいもん。
いつか、この地方にもプレイヤーが現れるさ。

浜名湖周辺と浜北方面でなぞなぞを増殖させている「SuperChurchill」というのが私ですので、興味がある人がいたら、ぜひ私のなぞなぞを解いてみて下さいね。
しかし、惜しいことをしたなー。このゲームでなぞなぞを作るには、現地へ行かないと(位置情報を取得しないと)できないのです。ちょっと前に、愛知県や伊豆の方に何度か行っていたのに、このゲームのことを知っていたら、もっとポイントを増やせてたのになー。
(現在、謎解きポイントよりも出題ポイントの方が多い状態です。本末転倒だ)

4月の頭に『姫様道中』があるので、それを目当てに別の県のプレイヤーが来てくれないかと期待して、目下、気賀を中心に問題を増やしているのですけど、やっぱり自分の住んでいる町は問題が作りやすい。でも性分的に空白地があるのが我慢ならない性格なので、早く浜北市のあたりと、秋葉山のあたりの充実に出かけたいのです。
でも、クイズはどうしても「地元のひとに解いてもらいたい」と思って作ってしまいます。だって関係の無い別の県の人に「浜松の歴史クイズ」なんて、おもしろいハズがないもの。

長い人たちの種族。

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20日ぶりにウォットに行ってきましたよ。

「浜名湖のアマモ場展」の完成具合を見に行くためです。

が、アマモも良かったのですが、わたくしはふたたびウォットの長い人たちに魅了されてしまうこととなりました。

ウォットは「ウナギ水族館」でもあります。

行くたびに違うのですけど、うなぎがたくさんいて、浜松の神様たるウナギ様の愛らしい姿を間近に眺められているようになっているのが楽しい。これまでもわたくしは、鰻が「スキマが好き」で「だらーんと流れに身をゆだねるのが好き」で「ブラブラするのが好き」な様子が眺められるのは、全国でもここウォットだけ!! と主張していたのですが。

今日行ってもましたら!

 

厨二病な。

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モーツァルト第24番、グレン・グールド。

あと4日でとうとう私も満50となります。
私が中二の頃は中二病なる言葉はなかったのですが、中学・高校の頃モーツァルトばかりを聴いていた私にとって、今となって思えば、この協奏曲を聴いていたときが一番厨二病的だったと思うのです。「ニ短調とは違うのだよニ短調とは。ハ短調は血の飛沫が飛び運命が羽ばたいた末でのたうちまわる調性なのだ!」って、いつも天竜川の川原に向かって呟いていましたから。
わかかったね。

私が小5の頃、ファミリーコンピュータが発売されたのです。
バンゲリングベイが好きだった記憶があります。私の両親はとても厳しかったのでファミリーコンピュータは買ってくれませんでした。バンゲリングベイは友達の家でやりました。ハドソンハドソンと叫びました。厨二的ゲームに対する欲望は激しく、小遣いとお年玉は親に隠し(そんなに隠しても無かったが)、ファイティングファンタジー(FF)とルーンクエストとダンジョンズ&ドラゴンズとストームブリンガーと蓬莱学園とウォーハンマーに費やしました。その思想の中核にはいつもモーツァルトがありました。「モーツァルトはハ短調が最高だよね」と。

でもやがてわたくしも大学生となりました。
メンデルスゾーンやヘンデルの方が凄いよね、と思うようになり、そしてショスタコービチ(蛸神様)と出会いました。
モーツァルトなとどいう軽薄な奴原に浮かれていた私は何だったのだろう。

それから40年を経て、いままた私はモーツァルトに回帰している。
モーツァルトとは、ザルツ(塩)のブルク(砦)の20m上空に浮かぶ真紅(クリムゾン)の血(ミラジェン)。
モー(牛)ツァ(蛙神)ルァト(愛)。
略して「アマデウス」(=女も男も愛するもの)
あぁうぜぇ。

ちょっと整理して言いますが、私はモーツァルトに心酔していた期間は長く、小5の時に叔母がクリスマスにプレゼントしくれたケルテスの40番、35番、36番、ピアノソナタの第11番、15番のLPレコードがそのきっかけで、でもその後はバッハのマタイ受難曲とモーツァルトの第24番が一番素晴らしい、と思うようになっていったのでした。大学生になるとさらに多くの音楽を聴くようになっていき、モーツァルトとバッハの呪縛からは解け、「モーツァルトよりもハイドンの方が良い」「バッハは無価値でヘンデルが至高」「モーツァルトのピアノソナタは第10番が神懸かっている」などと狂乱したように言うようになってもいったのですが、現在はその呪縛も解け、モーツァルトは今は普通にピアノ協奏曲の第24番とヴァイオリンソナタの第30番が一番好きです。
でも、モーツァルトの第24番って、やっぱり中二病っぽいよね。凄く好き。
わたしの中二の時は中二病って言葉が無かったんですよ。

中二の頃の愛聴の4番が誰の演奏だったか覚えていないのです。
ブレンデルだったのかな。
大学生の時、内田光子氏のディスクを買って、何度も何度も聴いたんですけど、「これは違うなー」といつも思っていた。
「味音痴・耳音痴」な自分は今でも自信がありますけど、なんで大学生のとき「内田光子は違う」と思ったのかな。今になって分析すると内田光子ほどこの音楽に似合うピアニストはいませんので、今でもよく分かりません。

 
内田光子、ジェフリー・テイト。

 

なんで「これは違う」と私が思ったのか。
爽快感が無いんです。聴いてももやもや感が募るんです。
でもそこで私はハッと思うのです。この曲は果たして爽快な曲なのか。もやもや感がパッと消え去るたぐいの曲なのか。私は言う。この曲はモーツァルトなんだよ。脳天気じゃなくして何がモーツァルトなのか! 浅子さんは言う。お前はハ短調に何を期待しているのか。ニ短調以上の波瀾万丈があるのがハ短調というものではないのか。私は足をバタバタさせて泣き叫ぶ。ニ短調だってハ短調だってしまいにはニ長調にしてみせるのがモーツァルトじゃないのかよう!!

 


幻覚に踊るウッソ。

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2ヵ月に一度は日記は書かねばいけませんね。

 

さて、少し前に意を決して仕事をやめてしまいました。(そろそろ生活費が尽きる)。4年ぶりの無職生活を満喫していますが、「私はきっと小説を書きまくるんだろうなぁ」と思っていたら全然そうならず(あれ?)、日々なにで時間を費やしているのかというと、「まちクエスト」でのクイズ製作です。
300個越えましたよ!(ほとんど誰も解きに来てくれませんが)
が、いいんです。私のクイズは浜松人でしか楽しめないものばかりですからね。そのうち楽しんでくれる人は現れるでしょう。

目下、製作に取り組んでいるクエストは、
★『都田川さかのぼりクエスト』・・・天竜川は遡っていちいちクイズを解くのに適さない。他にはロクな川がない。都田川だけメチャクチャ楽しい。都田川は最高。(阿多古川もいけるかも)。釣りをしながら川を遡上していければ楽しいと思います。
★『龍燈さがしクエスト』・・・浜松では辻々に変な塔が建っているのだ。
★『浜松の古墳巡り』・・・浜松には小さく地味で質素な古墳しか無いので、逆に巡ってみると楽しい。古墳時代が何なのかよくわからなくなる。遠江國は「王」がいてはいけない土地であったんですね。かわりに「将軍」が何人かいる。
★『浜松と伊豆の式内社探訪』・・・

・・・などなどです。
とりわけ注力しているのが「龍燈めぐり」。
なんなんでしょうね、龍燈。
妙な存在感があるんですよね。何の価値もないものが、通り沿いに、一定区間で立っている。何のために立っているのか誰も知らない。でもたくさんある。誰が維持管理しているんだろう。・・・実はこれってこの地方にしか無いものらしいよ。(伊豆にはありません)。こういうものこそ『まちクエスト』でアピールするべきものじゃないですか。
で、現在70個ほど記載したのですが、まだまだ見つけてない龍燈がいっぱいあるのです。たぶん浜松市内で100個ほどあると思う。遠州全体で200個ぐらいはあるんじゃないでしょうか。浜北地方だけ、浜北の教育委員会が編纂した『浜北の龍燈』という冊子があって地図があって便利なのですけど、他の地域は情報がまばら。(最大の情報源は『滋賀県人会』さんと、ブログ『暇人ひとり歩き』さんですけど、適当に気賀や三ヶ日をドライブしても、知らなかった龍燈が次々と見つかる)

実はわたくし、40年ほど前のことになりますが、小学5年生と6年生のとき、二年連続で夏休みの自由研究で「龍燈の研究」というのを提出し、県の発表会で最優秀賞を貰ったのです。記憶では、発売されたばかりの市の教育委員会の『浜北の龍燈』をもとに絵を描き地図を描いたくらいのもので(ラクだった)、でも、このたび敢えて浜北を巡ってみますと、あったはずの龍燈がいくつも消滅していることを知って衝撃をおぼえます。故郷の風景は、いつまでも自分が記憶しているままではないんだなあって。とりわけ、実家に一番近いところにあって高校の頃帰宅の途中にたまに見に行っていた小籔の脇の小さな龍燈に行ったら、既に消え去り畑になってしまっていたことに、ひどく気落ちしてしまったりして。

たぶん浜松の住民も、「そういえばそんなのが近所にあった」と思うことはあっても、「浜松にどれだけたくさんの龍燈があるか」と誰も知らないと思う。
中にはすごい造形の龍燈もあるし、崩壊寸前の朽ちた龍燈もたくさんある。
まだ先の長い道ですが、いずれ龍燈建築の所在を全て確定したら、ちゃんした紹介サイトを作ります。
目下の私は、まちクエストの地図にちゃんと記載する!

すごい彫刻のあるものもあるし、変な幾何学模様で網羅されているものもある。簡素な龍燈でもそれなりに特徴があるし、龍燈ごとにそれぞれクイズを作成するのですけど、クイズ作るのにはそんなに困らない建築ばかりです。どの龍燈も特徴ありまくりだから! いくつかの龍燈には制作者の共通点も感じられますし。

龍燈には青空がよく似合う。

 

たゆまぬともしび。

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やっと終わった! 完了した!
4月以来ちまちまと「すべての龍燈(秋葉山常夜燈)の分布地図を作ろう」と思ってお出かけをくりかえしていたのですが、ようやく、今現在浜松で私の知る龍燈を、すべて登録することができました!
何でも途中でやめてしまうわたくしにしては珍しいことです。(まだ浜松分だけですけど)

まちクエスト 『龍燈巡り』のクエストラリー


これ、浜松全体にいくつあったと思いますか?
なんと驚け! 197個もあったのです。
(※わたし以外の方がひとつ記載(=増楽町の龍燈)をしてくださってますので、私が『まちクエスト』に登録したのは196個+湖西市に1つです)

一ヶ月前に、「おそらく浜松市内に120個程度、遠州全体で200個ぐらいだと思う」と言っていたのが懐かしい。探せば探すほどどんどん見つかり、150個を越える頃には、「これはいつ終わるのか」と絶望的な気分になっていました。

わたくしは、旧・浜北市の出身。
浜北には立派な龍燈がたくさん知られており、「もっとも龍燈信仰の篤い地域」だと教えられてきました。その浜北全体で「龍燈は41基ある」とされていて、(※そのうちのいくつかは既に消失してしまっているのですが)、子供の頃の私も他地域にも龍燈が立っていることは知ってはいて、「浜北で41なんだったら、浜松全体で倍の80ぐらいかなー」などと簡単に考えていたのでした。
ところが、まちクエストで気賀周辺からクイズ問題を作り始めてから、龍燈が気賀の周辺に14個、三ヶ日町にも16個もあることを知って、「あれ、意外とあるぞ?」と思ってしまったのが運の尽き。全部見つけないと気が済まなくなり、半年がかりの仕事になってしまいました。(・・・とても暑かったので私のアトピー(=汗アレルギー)は猛烈に悪化した)





















実は、「現時点で知っている限りのすべての龍燈」と言っても、「ある(あった)ことは確実なのに、見つけられていない龍燈」が3つある。
私の最大の情報源、『滋賀県人会』さんのサイト。その中に載っている、

 ・天王町の天王神社の龍燈(東区)
 ・引佐町の横尾公会堂の龍燈(北区)
 ・平松町の八幡神社の龍燈(西区)

この3つは、何度も行ったのに見つけられませんでした。無くなってしまったのでしょうか。
(天王町は「天王神社」の場所が分からない。天王町の町名の由来になった神社のはずなのですけどね、調べてみると「大歳神社」に吸収されてしまったことになっている)


それから浜松の龍燈に関して、浜北の龍燈についての『龍燈・秋葉山常夜燈』(浜北市教育委員会編、平成8年)が唯一の書籍なのですが、この本に載っている龍燈のうちですでに無くなってしまっているのが、

 ・新原東原の龍燈 (←これは凄い立派な龍燈だったので惜しい)
 ・新原東原北の龍燈
 ・東美薗の八幡神社の龍燈
 ・八幡の龍燈

の4つ。つまり、浜北の龍燈で現存しているのは37基です。これはもう「飛龍王国・浜北」だなんてえばって言えないな。特に、私の家の近くにあった「八幡の龍燈」と「東美薗の龍燈」は、個人的に思い出深い龍燈だったので(これで小学生の頃、社会か研究発表会で賞をもらった)、とても悔しいですね。

さらに、それ以外に私は主にGoogleのストリートビューで隅から隅まで探してから現地に赴いていたのですが、ストリートビューにはあるのに、行ったらなくなっていたものが5つ。これも悔しい。

・天竜市の下阿多古の龍燈


・志都呂町の龍燈(西区)


・下江町の清心寺の龍燈(南区)


上のが、(↓)こんなのになっていました。(・・・これはこれでかわいいが)



・中野町の大宮神社の龍燈(南区)


・白鳥町の西光寺の龍燈(東区)




・・・とはいえ、197個もあったということを知っただけで大収穫なので、浜松のチビッ子はぜひこれを利用して、大いに「夏休みの自由研究」でもやってみてください。家の近くにあるいくつかの龍燈の分布図と、形の違う龍燈の図解を3つぐらい描くだけで、「優秀賞」は確実ですよ!

もちろん、私がまだ見つけていない知らない龍燈もいくつもあるに違いありません。またわたくしは「狭義の龍燈(=鞘堂のある常夜灯)」の地図だけで満足するのではなく、秋葉山常夜燈全体の分布を調べなければ、この地図で不自然に開いている空白のナゾを解き明かすことができたことになりません。それから当然、浜松だけでなく磐田市・袋井市・掛川市・森町の龍燈もすべて行ってみなければならないのですが、、、、 もうしばらく龍燈はいいや。(少し休んでから行きます)

そうは言っても、龍燈は遠州にしかない独自の貴重な文化です。
『まちクエスト』を通じて、私は似たようなものが名古屋(=屋根神)と東京(=路地尊)にもあることを知りました。いつかそれらも見に行きたいな。

・名古屋周辺の「屋根神様」。(※画像はWikipediaより)


・東京の「路地尊」。(※画像は墨田区公式サイトより。本体は右下のポンプです)





さて、ひとつ、とても変わった龍燈の例を。



中区の船越町にある龍燈です。
とても立派な龍燈に見えると思うのですけど(実際大きい)
この龍燈を、少し別の位置から見ると、



おわかりになるでしょうか。
右側と左側で屋根の形が違うのです。

この龍燈を北から見ると、「切妻(きりづま)屋根」のしゅっとした感じ。
これを南側から見ると、「入母屋(いりもや)造り」の重厚な感じ。

「どうしてこんなアンバランスなことをするのか」と思うのですが、
この龍燈は図体が大きく、また細部の造形も見事なせいで、近づくと細部に目を取られ、全体像を眺めるのはその後になるのです。少し引いて、少し感じていた違和感の正体に気づくことになる。



こんなこと一流の建築家がしますかね。(でも、この龍燈は龍燈としては一流の見事さです)
この龍燈は彫刻にも凝っていまして、四面のうち3つの面に細美な欄間彫刻がある。
そのうちの一面には、奇妙な生物が彫られています。



私はこれを仮「コウモリ翼の竜」と名付けましたが、たぶんこれは「竜」じゃないんですね。(魚?) この龍燈の欄間には、別の面に迫力ある正統派の龍もいます。で、197もある龍燈ではこの「ヘンテコ生物」がいる龍燈はここひとつだけなんですけど、龍燈ではない別の町にある「お堂」に、似たような奇生物がいるのがひとつある。



有玉南町の「天道大日尊堂」にある彫刻。それなりに古い物。
しめ繩に隠れているお顔を見てみますと(↓)



竜だ。
これ、どう思いますか。この変な動物に浜松では何かの意味があると、思わざるをえないではないですか。

と、この龍燈は極端な例なんですけど、このように、見る角度によって姿の印象が全然変わること、変な部分があることを発見するのが、「龍燈探し」をすることの一番の楽しみでした。どれを見ても「似たような感じ」と思うかも知れませんけど、小さく簡素な龍燈でも、意外と個性を追求していることもある。

総括関ヶ原。

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津川雅彦氏が亡くなったんですって。
私にとって一番楽しかったNHKの大河ドラマは2000年の『葵 徳川三代』で、
津川氏演ずる徳川家康は、
私の中の徳川家康の理想像だったので、
とても悲しい。とてつもなく悲しい。
・・・悲しい。



石田三成の江守徹氏はまだご健在ですね。




「しめたッ!」
石田三成が要害の大垣城を捨てて関ヶ原に移ったということを聞いた津川雅彦氏と本多忠勝。



石田三成の使者 「ご助勢お願いいたす」
島津豊久 「なんじゃとこの野郎、ぶち殺すっぞ!!」



安国寺恵瓊の使者 「戦さは今たけなわでござる! 直ちに兵を進めよとの毛利秀元公のお下知にござる!」
関ヶ原には昼食を食べるだけに来た吉川広家 「オレは今から弁当を食う!」

・・・おもしろいなあ!

骸骨の顔。

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これから読みます!



山童さん、
折を見てこちらをご利用ください。

メンデルスゾーンのイ短調のピアノ協奏曲。

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最近、車で聴く用の音楽を再編集しておりまして、その過程でヘビーローテーションで聴く事となったのがこの曲です。
オランダのブリリアント社の40枚組の選集で、ホ短調のヴァイオリン協奏曲と組み合わされてた。
この曲、突き詰めるまでに個性というものが抑制され、なのに極めて華麗で美麗である。なのに、華麗さで言ったらベートーベンの皇帝をも並べるくらいであるくらいこの曲はすばらしいのに、全体的な印象をいったらはなはだ地味である。(13歳の時の作であるので、効果の具合は勘弁してつかぁさい)。そもそもメンデルスゾーンって豪華絢爛を極めるべき協奏曲作品は、何曲も何曲も作曲しているのに、ホ短調の協奏曲以外には、目立つ曲が無い。どうしてなのかなあ。
メンデルスゾーンが、「これからは多作量産はやめて練りに練った作品だけを作る」と宣言したのは23歳でイタリア交響曲の時です。でもそれ以前の量産時期にも、ぴかっと光る傑作的作品だらけです。

動く動画もありました。

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