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今年の浜松祭りの天狗さま。

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今年も天狗様の屋台を見に行ってきました。「今年も」と言いながら、(去年は見に行かなかったので)2年ぶりです。2年前も記事にはしなかったですね。
(3年前の天狗さまはこちら。)



3年経っても天狗様のお鼻のりりしさは変わっていませんね。(当たり前だが)
毎回来て思うのですけど、天狗連の屋台の造形の素晴らしさは他と隔絶しておられるのですね。これを見るために毎回来ていると言っても過言では無いほどです。
この天狗様の目は一定間隔でピカピカ光るのですが、ずっと待ち構えていたのですがその決定的瞬間を写真に収めることはできませんでした。(3年前も同じ事を言っていた気が)。春野町にある巨大天狗面も夜には目が光りますので、浜松の天狗は目が光るのです。般若連の築山御前も目が光ります。




ただ、とは言っても、他の町の屋台の素晴らしさも少しずつ私はわかるようになってはきています。
天狗連と並ぶ見た目の華麗さは般若連(佐鳴台)。
…ただ今年は般若の御前さまは私は見つけることができませんでした。

長らく私が働いていたのは海老塚町で、この町の屋台も私は好きだったのですけど、今年は海老屋台(=海老や鯛)も見つけることが出来ませんでした。
いま私が働いている喫茶店は砂山町にあるのですけど、歩き回って探したのですけど砂山町の屋台も発見できず。(砂山町ってどんなのだっけ)
夏には私は旭町のお店に移ることになっているのですが、旭町って屋台も凧も無いらしいですね。(…住民がいなさそうな過疎の町だからしかたがないか)

陸奥の宮(守永親王)ゆかりの寺院。

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袋井市にある「福聚山慈眼寺(ふくじゅさんじげんじ)」に行ってきました。
かつてネットで「“戦う親王”守永親王が17年住んで死んだ場所」で、われらが浜名湖の堀江村(=舘山寺町)ゆかりの「堀江時国」が建てた寺、と言うことを知ったんですけど、行ってみたら全然案内板など立っていなかった。おそらくこれじゃ、袋井の人でもほとんど守永親王の名前など知らないだろうな。

本には「袋井市の高部」と書いてあったのですけど、現在高部という地名はありません。「本が間違ったのかな」と思ったのですが、袋井市立図書館のサイトによると、明治8年に高部村と赤尾村が合併して高尾村になったのだそうです。


『遠州三十三観音霊場めぐり ~花と観音霊場~』さんから引用

慈眼寺 縁起
慈眼寺は寺伝によると、今あら680有余年前南北朝時代の元弘年中(1331~33)頃に開創、当初は那智山観音堂と称し天台宗であったとある。観音堂建立に際しては『遠江風土記伝』によると後醍醐天皇の皇子守永親王が東行の途中遠州灘沖で船が難破し、福田の浜より高部にきて行宮を建て17年間住まわれ没した。この時皇子に随従していた堀江新衛門中務大輔時国公が皇子の死去に歎き、一宇の観音堂を建立して供養したのが始まりとされている。その後、江戸時代の元和年中(1615~23)には観補馨察大和尚により開山。本堂を再建し福聚山慈眼寺と改め曹洞宗に改宗した。
ご本尊聖観世音菩薩は行基作の秘仏である。古来より福寄の観音さまとして信仰を集め、ご開帳は33年目毎で平常は前仏の観音さまを拝む。


まあ残念な事ですが、戦う皇族のことを偲べるものは全くありませんでした。
境内は広いんですけど、建物は多くなく(少なくも無い)



一番目立つのは楼門。
二階部分に鐘があります。



かっこいい扁額。(…が非学な私には「影武者」か「痛医者」と読めてしまう ←なんでや)




駐車場から楼門までの間に、参道なのか駐車場なのかどなたかのお宅の庭なのかよくわからない広大に敷地があり、その隅に立っていた龍燈型のお堂。中におわすのは観音さまっぽい。




本堂。
御本尊は聖観世で、33年に一回御開帳される秘仏だそうです。庭園も見事だそうですけど見られません。





楼門の脇には地蔵堂(?)らしいものがあって、お地蔵様が(そうでないのもござらっしゃるが)ずらり。なんですかね、何かあったときにお地蔵様を奉納する風習などあるのでしょうか。



左手を見ると藤棚が。
半月前ぐらいに来たらすごかったんだろうなあ。

その奥にはしっとりしたスペース。



また龍燈型のお堂があって、「助命観音」と書いてありました。
覗いてみますと、樹のウロに安置された小さな観音様が見えます。



さらのその奥には、立派なお稲荷様がありました。



お稲荷はいいとして、参道の両脇に赤い鉄材で囲われた、参道なのか神域なのか隔てられたスペースがあるのが印象的ですね。仕切りの赤い鉄材には一定間隔で穴がたくさん開いていて、来たるべき祭日には赤いのぼりを無数に立てるのだと思います。





検索してみますと、「福聚山慈眼寺」という、山号までも同じお寺が全国に分布していて、「チェーン店かなにか?」と頭蓋骨をひねってしまいます。

・福聚山慈眼寺(宮城県仙台市太白区秋保町馬場字滝原)(金峰山修験本宗)
・福聚山慈眼寺(宮城県登米市迫町)(曹洞宗)
・福聚山慈眼寺(野崎観音)( 大阪府大東市野崎)(曹洞宗)
・福聚山慈眼寺(新潟県十日町市)(曹洞宗)
・福聚山慈眼寺(千葉県勝浦市植野)(日蓮宗)
・福聚山慈眼寺(愛知県知立市山町桜馬場)(曹洞宗)
・福聚山慈眼寺(東京都八王子市長房町)(曹洞宗)
・福聚山慈眼寺(京都市上京区出水通七本松東入)(曹洞宗)
・福聚山無量壽院慈眼寺(神奈川県小田原市城山)(黄檗宗)
・福聚山慈眼寺(岐阜県飛騨市古川町袈裟丸)(曹洞宗)
・福聚山金毘羅宮慈眼寺(滋賀県彦根市野田山町)(曹洞宗)
・由城山福聚院慈眼寺(埼玉県坂戸市中小坂)(真言宗智山派)
・福聚山慈眼寺(神奈川県平塚市豊田打間木)(曹洞宗)

…まだまだありそうですけど、どうやらグループ企業じゃないみたいですね。(この中で一番古いのは大阪の慈眼寺で天平勝宝年間(8世紀半ば)の創建。次いで岐阜の慈眼寺が白河院の頃の創建)。なんでこんなに同じ名前のお寺ばかり、、、 と思ったら、『古都奈良のやくよけ発祥の慈眼寺』さんの『副住職のブログ』によると、「慈眼寺」の「慈眼」とは「観音経」の「慈眼視衆生 福聚海無量」に由来していて、「慈眼」と「福聚」という語句はセットなのだそうです。だから観音様なのね。


さてさて、守永親王についてですね。
上述の説明文によれば、守永親王は嵐でここに漂着してから17年間ここにひっそりと隠れ住んで、そして死んだ。 …というように読めますけど、数少ないサイトを検索して読み比べますと、ここに漂着したあと、井伊谷やら奥州宇津峯やらいろいろ転戦して、そのあと正平7年にまた遠江に帰ってきて、正平10年にここで死んだ、と書いてあるところがあります。(何歳なんや)

注意するべき事ですが、上の方に挙げた文章で「観音堂建立に際しては『遠江風土記伝』によると」という記述、

正確に言うと『遠江風土記伝』(内山真龍)に書かれている文章は、
「古老曰ふ吉野朝廷二ノ皇子御舟に乗られ東行の時、天龍灘に於て難風吹き、御舟は福田港に着く。高所に行宮を建て住み給ふ。故に高部と云ふなり。其行宮跡存す。大門、御門、御陵、大塚、八坂等の名を嗅び、凡そ内裏に准じ皇居十七年、皇子滋に薨御す。御墓を造り俗に御陵と云ふ。〔年日御名伝はらず按ずるに第二皇子宗良親王なり詠歌並に事実引佐郡に註す〕」

となっていて、この皇子は守永親王じゃなくて宗良親王なんですね。
だけと世の宗良親王研究家は、「宗良親王が袋井市に長期滞在したとする史料なんてないので(あるんだが)、この記事は宗良親王と守永親王を混同したものである」としています。


また、じゃらんの観光地紹介に、袋井市に「守永親王の御陵」がある、と書いてあって(書いてないが)、びっくりぎょうてんしてしまいます。
しまった、知らなかったから行かなかった。(また行かなきゃ)

(引用)
大門大塚古墳について
大門大塚古墳は袋井市立袋井南公民館の北側、小笠山から西へ延びる太くて長い尾根の先端部に作られた段丘の上に立地しています。『遠江国風土記伝』や『遠江古跡図絵』に「高部の石棺」として記述され、後醍醐天皇の皇子の墓として古くから知られていました。二次にわたる発掘調査が行われ、古墳時代後期の円墳であることが確認されました。古墳時代の旧地表面(標高21.5メートル前後)からの墳丘の直径は約26メートルで、高さ約4メートルを測ります。古墳の周囲には幅5~6メートルで、深さ約1.5メートルの周濠がめぐり、墳丘は平坦な地面に周濠を掘削した時の土を一定の高さで外側から内側に向かって積み上げて造られているのが確認されています。 主体部は円礫を積み上げた横穴式石室で、明治の発掘の際に積み直されたようで、現在の石室は全長3.8メートル、奥壁の幅は1.6メートル、開口部の幅は1.8メートルを測り、開口部に向かって徐々に幅を増す構造となっています。奥壁、側壁ともに楕円形礫を小口積みにし、奥壁では小口積みした楕円形礫の上約1メートルの高さに大形の板状の石を二枚立て並べています。天井石と考えられる大型の板状石も残されています。石室の床面も明治の発掘の時に掘り抜かれ、開口部と奥壁では1メートル前後の高低差があり、階段状になっています。これまでの調査で発見された遺物は土師器、須恵器、馬具、武器、装身具、鏡などで、これらの出土遺物から大塚古墳の築造時期は6世紀前半を大きく遡らないと考えられ、静岡県西部の古墳時代後期を代表する古墳として、墳丘を中心に843平方メートルが平成5年に静岡県指定の史跡に指定されました。

…でもしかし、書いてあるように発掘調査の結果、古墳時代(5世紀後半)の遺物がたくさん発見されているので、南北朝時代の親王のために造営されたものではありえないのですけどね。
でも、江戸時代から「石室が露出している」ことで有名だったのに、明治の民間の有志の発掘で出土品が大量に出たというのは凄いことだ。


『遠江古蹟圖繪』(再彰館長庚、江戸時代後期)より。

「高部の石棺」
「袋井宿の南に山名郡高部村有り。石棺、山の中段に有り、民俗言に曰く、この石棺の蓋を執ると火の雨降る由を云ひ伝へ、人皆怖る。あるいはこの上へ人登れば忽ち煩ひ出すとなり。去る戌八月この所へ行き見るに、ただ平たき石ばかり有りて棺は見えず。その近所に耕作して居る老人有り。この人に石棺の事を問ふに、名高き石棺はこの事なりと云ふ。この事を詳かに教へたまへといへば、老父曰く、この近所に妙法院の宮と云ふ貴き人流れさせたまひ暫く滞留有り。高き所に御所を構えて御座しける。その跡を高御所村となづく。彼の妙法院宮崩御有りて、石棺に納葬りし所と云ひ伝へる旨を申す。宝暦年中までは、その棺土中より半ば出づる。近来埋も蓋ばかり出づる由。その脇に四角なる切石に、丸き石を置きて五輪の形とす。これ石碑の印とす。ゆゑに貴人の石棺なれば、上に登る人あれば罰を蒙る事なり。それゆゑにかくのごとき石塔の形をなすなりと物語りける。この所の者の云ひ伝へなり。その近辺に堅石一つ有り。鏡石と云ひ、ゆゑを知らず、この宮は後醍醐天皇の御子なり。世に二品尊澄法親王と申したるは、この宮の御事なり。昔の事なれば審かに分からず。高部村に日吉権現といえる社あり。社の脇に日吉松の朽木の株あり、昔は大木にして名木なりしと云ふ。この社は昔白河院高部村に寓居ましましける時に鎮守の宮なりと云ふ」

…そりゃ、普通の農夫が守永親王の名とか古墳時代の定義とかなんて知るはずがありませんからね。
全部宗良親王のことにしてしまうのは仕方のないところ。「二ノ宮」「妙法院宮」「尊澄法親王」「征夷大将軍宮」「遠江宮」「信濃宮」「越後宮」「宗良親王」は同一人物です。
で、ここには白河教皇が住んでいたこともあったのか。


…で、現代の私たちでさえ、「親王が葬られたと伝わる場所」が、「この付近で最も大きい、大門大塚古墳」だと思ってしまうのですが、実は近くに「御所森古墳」という小さな古墳があって、名前からも立地からも、そっちのほうが本物の「皇子の墓」だと思うのです。


<袋井駅周辺の古墳の地図>

この地図で見ると「大門」からも「慈眼寺」からも少し離れているように見えるのですが、ここは近くに「高部不動産」という会社もあり、本来の高部っぽい。「行宮跡」はこの付近にあったのでしょうか。ただ、本には「御所森は三方が民家に囲まれ現在は茶畑になっている」「由緒の大要が書かれた看板がある」と書かれているのですが、ストリートビューでぐりぐり探してみても、もうそれっぽい場所がみつかりません。(また行って歩き回ってみなければ)


それから、「堀江時国」のこと。
これはもう完全に無名人物で、ネットで検索しても全然情報の得られない人ですけど、さすがに浜松では有数の観光地である「舘山寺温泉」の古名「堀江村」の由来となった人(実際に地名の由来になったのは、彼の戦国時代の子孫なのですが)、現地で書かれた地誌には何度か名前が出てきます。
(しかし本によって書いてある事が違う)

庄内郷土史研究会が編纂した『庄内の歴史(一)』(昭和47年)では、堀江時国を「藤原利仁流(斎藤氏)の裔で、越前国坂井郡堀江郷に70ヵ村を所有していた」としていて(藤原氏)、舘山寺観光協会が編纂した『古今往来 ~浜名湖かんざんじ温泉紀行~』(平成11年)では、「星合(新田)義顕の嫡男である時国が坂井郡堀江郷に住んで堀江氏を名乗った」とあります。
世に「堀江氏の由来」が二系統あるから意見が分かれているですが、新田義顕の長男(だったという説がある)だったのかい。

「源氏の嫡流・新田氏の知られざる嫡男」がここで人知れず戦っていた、としたらドラマチックだとは思いますが、現在知られている「新田流堀江氏」は新田義顕の弟である義宗の子孫だとしていて、しかも堀江庄には住めずに(越前は超激戦区だったから、上野・武蔵国で勢力を扶植)いたのですが。公式には新田義顕は(金ケ崎で18歳で戦死したので)子供は無いことになっていて、でもかの軽佻浮薄な新田一族が18歳にもなって全く子供を為していないはずがなく、Wikipediaには(伝)義顕の子として、「新田義和」と「天野顕政」の二人の名を挙げています。新田義貞が大いに将来を嘱望した義顕に、越前の国で最も広い坂井平野を任せた事は十分ありえることで、義顕が死んだので義宗にそれを継がせたがすでに越前では北朝の勢力(利仁流堀江氏)が強くなって、新田堀江氏は関東へ逃げていったのかも知れません。星合系図には「堀江左衛門大夫義藤は、新田義顕六世の孫也。義顕に二子あり、嫡子は越前堀江に居り、二男は同国本庄に居る。故に嫡子は堀江と号す」とあり、中興系図に「堀江・清和源氏、新田越後守義顕の末葉」と書いてあるのだそうです。ただ、時国が義顕の息子だったとして、「時国」って名前は新田氏の係累っぽくないな。「新衛門中務大輔」って官名は新田氏っぽいですが。
ともかく、新田義貞は後醍醐天皇のために死に、義顕は尊良親王と共に死に、その息子は尊良親王の息子(守永親王)にいつまでも随従した、というお話は十分ありえそう。

このアナランド野郎!

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≪「旧世界」の地図≫

(※拡大)

なかなか日記を更新しなくてすみません。日常に潤いがなさすぎて書く事がありません。
「これではいかん!」と思って、『ソーサリー・キャンペーン』(書苑新社)が刊行されたのを記念してInkarnateで「旧世界」の地図を描き始めたのですが、思いのほか手間で2ヵ月ぐらいかかってしまいました。(でも時間をかけただけあって、自分的になかなか満足できる出来となった)。 細かいところに字がたくさんで、見づらくてすみません。わたくしは空白地に対して脅迫観念があり(嘘)、みっちり詰め込まれた物が好きなのです。

前にも言ったかと思いますが、「架空世界を描く」っていうのは、いかに「思わせぶりな部分を散りばめられるか」という事だと思います。FFシリーズの設定資料集『タイタン』が出版されたのは私が一回目の成人を迎えた頃でしたが、その頃の私は「旧世界」に対して「なんで大陸なのに6つしか国がないねん」とげんなりした気持ちをもった。若かった。地図愛好家としては、「大陸」と名乗るのだったら少なくとも(都市国家を含めて)147ぐらいは国が無くてはならない。6つしかないなんて! この「旧世界」って九州よりも狭いんじゃないの?
・・・でもそのうちやがて、「旧世界」は航海がさかんで「クール大陸」や「アランシア大陸」に容易に行ける事を知って、「ま、いいか」と思うようになりました。FF作品の主要舞台はアランシアですし、「旧世界」の主役は、実は6つの文明国家じゃなくて「さいはての荒れ果てた場所カーカバード」でしたからね!

「旧世界」についてのちゃんとした資料は、(日本語で読める物としては)、『ソーサリー!』の四部作(カーカバードが舞台)と、ギャランタリア国で巻き起こった大惨事を題材とした『魔術師タンタロンの十二の難題』の2つしかありません。(これに派生した『タンタロンの立方体』という本もあるのですが、これは地図史料としてはほとんど役に立ちません)。なので、「旧世界」について各国の地図の情報密度にははなはだしい偏りがあります。
実は日本で出版された商品は本国作品のごく一部で、聖所エゲレス国では日本語商品の三倍の本があり、旧世界を舞台にした作品も少なからずあります。「ラドルストーン国」はジョナサン・グリーンなのかな。モーリスタティアは前人未踏の霧封の大山塊かと思っていましたら、この中には文明的な吸血鬼の王国がいくつかあるそうですよ。(『タイタン』でモーリステシアを一つの国扱いしているので不思議に思っていました)。同人サイトでそれらの日本語訳に取り組んでいる方もおられますが入手困難なので、今回作った地図については結局私が現在持っている本だけで地図を構成するしかありません。ただ、おそらく近いうちに、公式に全ての日本語訳を出そうという流れが出てくるのではないかという気が少しだけしております。・・・それには小説『トロール牙峠戦争』がちゃんと売れ、『ヒーローズコンパニオン』が予定通り出版され、30年来の待望である『ブラックサンド!』の出版の計画にまで達するという所にまでこぎ着けるという難題を乗り越えないといけませんけどね。

でもいいのです、「旧世界」の主人公はカーカバードのマンパン宮廷におけるヤンキー(アナランドの下半身野郎)ですからね、今のところはカーカバードの部分さえしっかりしていれば。カーカバードは“法律に詳しい”ラドルストーンとか“戦争ばかりしかけまくる”ブライス国とは全くの無縁の、混乱しているがゆえに天国的な場所なんです。

カーカバード拡大

うーーん、見づらい。 さらに拡大。

これでも入らない地名があって、泣く泣く削ったんです。でもやっぱり見づらいし、カーカバードは地図で描くとめちゃくちゃ魅力的で起伏に富んだ場所であるはずだ。そのうち改めてこの部分の拡大図を描き直したいです。カーレから見るとアヴァンティ森はきっちり真東にあるはずなんですけど、この地図ではそれが正確に描けなかった。スナッタの森はもっと広大で真っ暗で邪悪なはず(猫がたくさん棲んでいる)。イルクララ湖やヴィシュラミ沼はもうちょっと南にあってどーんと私の前に立ちはだかっていてもいい。ダドゥー・ヤドーとかダドゥー・リーって何?(語られている資料は無い)

「ガランタリア国」を描くにあたって、「できるだけ狭い国に見えるようにしよう」と試みました。
(『魔術師タンタロンの難題』に描かれる王国は、まるで箱庭のようなこじんまりとした美しい国なのです)
同じ箱庭国である伊豆くらいに小さくてギャラントな国として形容したい。
でもムリでした。
いろいろと詰め込まれているので、どうしても地図の中でこれぐらいの面積を占めてしまいます。
(設定集『タイタン』では逆に、ガランタリアは広すぎるぐらい広くてもいいというように描かれています)
「ガランタリア」なのか「ギャランタリア」なのか、「カーカバード」なのか「カクハバード」なのか、どっちが正しいのか愛好家は好む議論だと思いますが、「ブロントサウルス好き」としては「先に発表された命名の方が有効である」説を採ってしまいがちなので、「ギャランタリア」、「カクハバード」の方が馴染みがあるのですけど、一方でFFに関してのみは浅羽莢子女史の訳を最上に置きたいという雑念も働いてしまいますので、、 「カーカバード」も実は捨てがたい。「山賤(やまがつ)」とか「粘液獣」とか「やつし」とか「夜歩き」とか好きですから。
「ギャランタリア」は「優美な国」としたかったからの命名でしょうから「ぎゃらんたりあ(Gallantaria)」でいいと思うのですが、この初出は1985年の安藤由紀子訳(『魔法使いの丘』)でしょうか。それが1987年の『魔術師タンタロン』(柿沼瑛子訳)では既に「ガランタリア」になっている。一方で、“霧峰山脈”と異称が与えられている「モーリステシア」は、『ソーサリー!』と『魔術師タンタロンの12の難題』ではともに「モーリスタティア」なんですよね。モーリスタティアは原語で「Mauristatia」ですから、英語に不自由なわたくしはどうしてこれが「モーリステシア」になるのかわからず、なんなら(「シャア専用オーリス」より「アウラングゼーブ・シャー専用アウリス」派ですから)「マウリスタチア」でも良いと思うのですが、肝心なのは「カクハバード」です。「カクハバード」は「Kakhabad」。・・・カクハバッド、、、(かくもとても(=ハッ!)悪い土地の意)、、、(←私は英語が不自由)、、、 バグダッドがバグダードが正しいってやつですね。ナイアーラトテップがナイアルラトホテプになったり本美之須がホンビノス貝になったりするのと同じで、異文化っぽい不思議な響きをただおいしそうに書いただけなのですから、どれが正しいとかいうのではなく(どれを選択すべしというのでもなく)、場面に応じて両方を混在しておもしろがって使うべき(30年も愛好されている作品なのだからそれが許される)なのかもしれませんね。
“霧峰山脈”の異称は指輪物語の“霧降り山脈”と似せてあるのかと思っていましたけど、指輪物語の「霧降り山脈」は「Misty Mountains」で、FFの「霧峰山脈」は「Cloudcap Mountains」なんですね。全然違う。“雲被り山脈”じゃん。日本語ならではの漢字遊び。でも日本にはそもそも「霧ヶ峰(ColdCool;Kill-kami-mine)」があるので、それっぽい山をどんな風に呼んでも、そんなに違和感は無いのでした。

タイタン世界は地図の狭さ以上に歴史も凝縮されている世界です。
タイタンで「暦」が始まったのは「神々の戦争」のクライマックスに「死」の神の策略にはまった“策謀の神”ロガーンがどこぞから「時」を持ち帰ったから。時が始まると即座に元旦の夜には(※このあたり根拠無し)善の神々が勝利して「神々の戦争」は終結したのですが、それから数世紀は人類は逼塞し、旧暦1000年頃に「一の大陸」が分裂して3つ(アランシア、旧世界、クール)になって、それから旧暦1500年頃になって現生人類の積極的な活躍が始まる。旧暦は1999年に終了し、混沌が大挙して攻めてきた“魔法大戦”に勝利したことを記念して新暦(AC=混沌後)が開始。現在はAC284年です。
要は、人類の歴史は神々に庇護されていた頃からも数えて2300年ぐらいしかないんです。
本当の地球の人類史には400万年の歴史があり、エジプトの古代王国がさまざまな蓄積を経て第1王朝がBC3100年頃に成立したのと比べても、あまりにも短い。
まあ、ギリシャ神話を創造していたギリシャ人は自分たちがいる100年ぐらい前にゼウスとかタンタロスとかアトラスとかいたと考えていただろうから、それに近いのか。
そんな中で、「ガランタリア」の建国は今から800年ぐらい前だと語られています。
旧暦1000年頃(現在から1300年前)には「アトランティス」とか「タララク」とか「ケリオス」とかいう旧人類の伝説的な国があったのですが現存しておらず、おそらく現続している国で最も古い国だとされているのが「ガランタリア国」だと思います。(旧暦1430年に都市建設。王国となるのは1498年)。

あなたが法隆てんぷるぁなスマイルを見せるとき 私のはあとはあるけぇいく。

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私も久しぶりにゲーム本をやってみましょう。

 

ここは『サムライの剣』を、とも思いましたが、ここ一年間でトンネルズ&トロールズ完全版の本をけっこう買いましたので、まずは懐かしい『傭兵剣士』をチョイスしてしまいました。この本(旧版)も中学生時代に一回やったきりでしたっけ。私の性格的に「キャラクタがすぐ死んでしまいがち」なのが好きじゃなかったんですよね。T&Tってのはそういうものなんですが。もうすっかりその詳細を覚えていませんので、敢えて今回それにまた挑戦してみる。岩悪魔にまた会いたい。社会思想社の旧版は本棚のどこかに紛れてしまっていて、見つかりませんでした。

キャラクターシートを書くのも久しぶりです。(自作してみた)
たしかこの日記で「ゲーム本」カテゴリで最後にちゃんと書いた(書こうとした)のは『ウェンディゴへの挑戦』で、それはキャラクタの肖像画をちゃんと描こうとしたのが、時間がかかって完成しなくて、中途半端に終わってしまったんですよね。あれはどこにいってしまったろう。

今回はそんな轍をまた踏まぬよう、完成なんか目指さずゲームを開始。
名前は、「陽気な“フマクトの剣”・ジョンダフル可汗」。
新しいT&Tでは能力値の作成方法が何種類か提示されていましたが、今回は「剣士でいく」と決めていましたから(“傭兵剣士”だから)、「最初の“体力値”のサイコロが13を越えたときからスタートして、あとはふりかえしをしない」と決めてサイコロを振る。すると、体力=14、知力=14、器用=9、速度=12、耐久=16、幸運=10、魅力=13、魔力=13、魅力=10、となりました。良くもありませんが、8以下が全く無いなんてなかなか悪くないじゃありませんか。

所持金を決めると9が出て金貨90枚。これも悪くない。
T&Tでは「攻撃は最大の防御」なのでさっそくブロードソード(金貨60枚)を買おうとしましたが、ここで器用度9が響いて、私のキャラは不器用すぎてブロードソードを振るえない。泣く泣くショートソード(必要器用度8、金貨50枚)へ落とす。T&Tは武器が豊富なゲームなので、私のショートソードは「マノープル(籠手付きの小剣、とても使いにくい)」であるとします。ただし今回これに防御点が付いていません。「使いづらい」から相殺されてしまったのですかね。
武器を買うと所持金がほぼなくなるので、あと買う防具は「スティールキャップ」(安い)と「バックラー」(安い)です。確か30年前に初めて作ったキャラクターも裸にキャップと小盾だったな(笑)。全く同じでとても懐かしい。ただ、今回の完全版では同じくとても安い「革の服(羊毛)」(防御点1)が追加されていたので、それも購入してみたのでした。私は裸ではない。新T&Tでは戦士の防御が非常に強化されたので、防御点1でも非常に心強い。

浪合の昔の物語。

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<浜北大橋から天竜の山々、7月3日>

「古い道路の埋没に帰せんとするものが最近は意外に多くなっている。それは山あいの細道の草木に覆い尽くされて、もう永いこと誰も通ってみたことがないというものだけでなく、現に毎日のように人が使い、路傍には小家のまだ幾らも残っているものでも、これが以前の何という処へ通る路だったかを、忘れてしまえばやはり埋没であった。人間の懐古にもおおよそ限りがある。三代四代と続けて記憶を試みる折がなく、尋ね寄る旅人も絶えていたとすると、もうそれからさきは天然に近いもの、すなわち彼等の間に無意識に伝わっている痕跡によって、古い世の道を辿るのほかはないのである」(柳田國男『東国古道記』)

 

・・・古道研究家は現代は柳田國男氏が思っていた以上に意外とたくさんおられます。
学ぶことがたくさんあり、もう私も家から出なくてもいいんじゃと思うほどなんですけど、でも、やっぱり自分で行ってみないと分からないことは多い。
ここ数ヶ月、浜松では働ける日が少なくなってしまって私はしばらくの間掛川市に出稼ぎに行っていました。会社からは休め休めと言われてるんですけど5月に言われるがまま10日間の休みをもらったら、タイミング良く過去有数レベルの痛さの通風に罹ってしまって全く動くことができなくなってしまい、ひどくもったいないことをした。6月も休めと言われていたんですけど掛川で真面目に働き、7月前後に再び待望の4日の休みをもらいました。そろそろ私は非常に疲れてると感じたので(仕事は無かったから全然疲れてないんだけど)、久しぶりの古道巡りの旅に行ってきました!
一番行きたいのはやっぱり憧れの伊豆なのです。前回伊豆に行ったのは3年も前。でも今は伊豆には行きづらい雰囲気なので困る。(※3年前に私が伊豆断ちをした理由は、前の前の会社を「伊豆に引っ越したいから」という理由で辞めてしまったからです。諸事情が重なって伊豆への帰還は未だ叶っていないのですけど、自分の中で恥ずかしすぎてもう伊豆には軽々しく行けない。ちょっと幾段階か遠回りをしてから伊豆へは行きたいと思っています)

ヒル神とジブ・ジブの高原。

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ちょっと高い所から眺めた上蔵(わぞ)の里。

 

7月の頭に4日間出かけた「隠れ伊那谷を巡る旅」、の一日目(その2)。
浜松市から見て飯田市は隣り町なので「いつでも行けるや」と後回しにしていたのですけど、こういう時代になってしまったので、「今こそ」と思って行ってみたのです。おとなりさんだけど遠かったです。

さて、次に大河原城の近くにある「信濃宮」に行きました。
祭神として“信濃宮(しなののみや)”宗良親王を祀っているので「信濃宮」なのですが、いわゆる「建武中興十五社」には入っていません。井伊谷宮とか鎌倉宮とかが明治時代なのに対して、この神社は昭和時代(昭和15年~23年)の創建なのが関係あるのでしょうか。それとも「名跡は一人の人物に対してふたつはいらない」という考えなのかな。「信濃宮」は「しなのぐう」と読みます。

信濃宮は小高い所にあります。
坂を登る途中に、「一ノ鳥居」があって、ここから歩いて登れようになっているのですけど、雨が凄いのでこれは歩けなかった。

古寂びている。
笠木の部分の一部分に銅板が巻いてあるんですけど、これはどういった意味があるんでしょう?
(その下の貫の方にも同じ物が巻かれていたらしい形跡がある)
何か字でも書いてあるのかと思ったのですけど、ただの雨の模様でした。

この門にはひとつ宗良親王の歌碑があります。

写真がブレてしまって判読するのに苦労しましたけど、これは「谷深き 雪の埋木 まてしばし あわではつべき 春ならなくに」の歌ですね。(なぜか万葉仮名で書いてあります)。この歌には『李花集』では「山ふかくすみ侍りし頃さらに雪のみふりつみて月日の行方も覚えず侍りしかば」の詞書(ことばがき)があるのですが、この歌ってどういう意味? 「あわではつべき」の意味が分からないのですけど、要するに「雪が多すぎて春なんて来ねーよ」という意味ですよね。「俺は泡となって果てるべき」という自虐ですかな。だとすると「まてしばし」がよく分かんないんですが。もしかして1370年前後に越中方面を平定していた斯波義将のことでしょうか。待て斯波氏! 宗良親王が若い頃流されていたのは阿波でなくて讃岐ですが、この人のことですから「安房」は「勝つ」海舟(=安房守)と掛けているとか。(※冗談ですよ)

坂道を登っていくと、社殿の後ろ側に駐車場スペースがあるのですが、障害物があってそこまで辿り着けず、どこかの畑の前に車を放置して(どうせ他の人など来ない)、百数十m歩いて神社に到着したのでした。

思ったよりでかい!(そして写真ではあの大きさ感は表現できてない!)と思ったのですけど、本殿だけで拝殿がありません。

この場所は特に宗良親王にちなんだ場所とかではないのだそうで、どこかのだれかが昭和15年に「ここなら神社を建てるのにちょうど良さそうだ」と適当に選んだ場所だそうですけど、それにしては「宗良親王はあんな所よりもここに城を建てたら良かったのに」と思ってしまいたくなる好地です。

神社創建の経緯については案内板に詳しく書いてあります。
昭和15年に皇紀2600年を記念し(『今、甦る村の浪漫!』には「昭和12年からの支那事変の泥沼化に国威発揚の必要を感じて」と書いてある)、近衛文麿の側近だった長野県知事・富田健治が主導しておこなわれた事業。場所の選定については紆余曲折あったが、宗良親王の研究で名高かった市村咸人氏らの運動によって現在地になったという。小学生などから金を出させて必要な資金を集め(・・・浜松でも似た様な話があったような気が)、勤労奉仕で山地の整地を開始。かなり土木作業が進んだ所で昭和20年の終戦。資金が消えて無くなってしまったので(どこにいったのか)、ふたたび募金を募って、昭和23年に本殿のみ建立。

行ってみると、かなり広いのです。
当初の予定では、社殿をいろいろ建てるつもりだったと思われます。
(桜をたくさん植えて、「信州の吉野」とする計画だったといいます。その座は高遠に奪われてしまいましたね)

この建物は何でしょう?(社務所は別にある)
大鹿村のことですから、歌舞伎を奉納する神楽殿かな。

本殿前の小門の左右にも歌碑があります。

「われを世に ありやととはば 信濃なる いなとこたへよ 嶺の松風」

「君がため 世のため何か 惜しからむ 捨ててかひある 命なりせば」

立派な建物群の中にあって、手水だけが刳り抜き式木棺型の木製。朽ち果てまくっているけど、ちゃんと水道の蛇口が(2つも)付いている(笑)
もしかしてこれは昭和23年からの物でしょうか。味はある。

手水の右側にも歌碑がありまして、

(歌碑には書いていない詞書き) 信濃国大川原と申し侍りける深山の奥に、心うつくしう庵一二ばかりしてすみ侍りける谷あひの空もいく程ならぬに月をみてよみ侍りし
「いずかたも 山の端近き 柴の戸は 月みる空や すくなかるらむ」

また斯波だ!
興国3年に宗良親王が初めて越中へ行ったときに、越中国で猛威を振るっていたのは斯波高経(=斯波義将の父)だったのです。もちろん何の関係もありませんけど、この歌は「越中との境はどこも斯波の門が堅すぎて、信濃の山奥に籠もっているしか無い」という意味に違いありませんね。もちろん「月」とは富山湾の蛍烏賊漁のこと。「ホタルイカがくえねーじゃないか」と親王は怒っている。

ということで、信濃宮にある宗良親王の歌碑は4つでした。
信濃宮の敷地はなかなか広いんですけど、浜松の井伊谷宮と同じく、見所がほとんどないです。来ても面白くない。昭和の計画の通りにここが「桜の名所」とならなかった事が残念ですね。いや、長野の桜の名所としては高遠城が戦前から有名なのですから、ここは『李花集』にちなんで「スモモ(李)」のきれいな白い花の木をたくさん植えるのでも良かった。(※『李花集』の「李」は「式部卿」の唐名(李部大尚卿)にちなんでいるのだそうですけど、『新葉和歌集』では宗良親王は自分のことを誇らしく「中務卿」と書いているのにね。これに先立つ30年前の延元2年に二品尊澄法親王が還俗し、一品宗良親王と名前を変えたときに、後醍醐天皇がくれたのが式部卿の役職だったそうです。『李花集』の完成は『新葉和歌集』の製作よりも少しだけ早いのですけど、もしかして『新葉和歌集』を長慶天皇に出す直前まで、宗良親王は式部卿のままだったのでしょうか。(少なくとも皇族にとっては後村上天皇にもらった「征夷大将軍」よりも後醍醐天皇に頂いた「式部卿」の方が価値が高い?))
ただ、井伊谷宮も信濃宮と同じぐらいつまらないとは言っても、井伊谷宮には宗良親王の和歌の「超解釈」な案内板がたくさん立っているので、それは眺めていてなかなか面白く、見所と言ってもいいような感じもあります。信濃宮もあの路線でいけばいいのにと思います。

手水と歌碑の前には、何も載っていない石檀が置いてあります。作りかけにも見えなくもない。
遠州に住んでいる私たちには「これは龍燈(秋葉山常夜燈)か?」と思いたくなりますが、そんなわけがなく、ここに何かのお堂とかこの大きさに合う常夜燈とかを建てるとしたら手水と歌碑が遮られることになってしまい、甚だ不便な配置に見えますので、いささか不可解な基壇です。
宗良親王の銅像でも建てる計画があったんでしょうか。そうしても段が低すぎる。これに見あう像を立てるとしたら宗良親王は3m級です。

 

境内の随所が草深く薄暗く湿気に満ちて人気がまったく無いので、また山ビルに襲われるんじゃないか、そこらの木の枝にこんもり血吸い蝙蝠が集って人の首筋に落ちる機会を窺っているんじゃないかと冷や冷やしながら歩き回ったんですけど、意外と全く大丈夫でした。山ビルって滅多に来ない人間より鹿とか山犬とかを常の宿主としているので、人里のほとりにはほとんど出ないようです。鹿とか山猫とかは人の気配のあるところは絶対近づかない。また旅の途中のビビリな私みたいな人間ならいざしらず、村の人間は蛭の危険度はよく知っているから見かけたらすぐに消去行動に出てしまうと思う。血を吸っている途中の山ビルは動けないので、訓練されている里人を相手にしたら到底増えない。山ビルが出るか出ないかは、自然世界と文明社会の境界を示していると思います。

 

・・・次は、さらにこの奥の奥、宗良親王が30年も棲まっていたとされる「御所平」を目指しました。
上蔵の里の時点で思いっきり山の奥の奥の里、という感じが強いのに、さらにどんづまりのずんどまりがあるだなんて、宗良親王はなんてマゾヒストなんだ。親王が山登り沢登りが趣味だったとは聞かないんですよね~。

地図で見ると、本当に、マジかよこの奥にさらに行くのかよ、という場所です。
ただ、道の脇に一定間隔で石仏が設置されているのを見かける。伊豆などでもよく変な所に石仏があったりするのですが、それは「ここは古道です」という目印です。この道も、見た目以上に「人が通っていたんだよ」というアピールなのでしょうか。十数個はあったと思います。ただ、石仏同士の統一感はなく、いろいろな時代の物が無作為に(一定間隔をもって)置いてある気がして、何らかの偽装的な意図も感じます。

 

御所平に行く途中に「釜澤」という集落があり、そこにある八幡宮に、「宗良親王の宝筺印塔」というものがあるといいます。

伝・「宗良親王の墓碑」。

宗良親王の入寂場所伝承地には5説あって、

(1)、静岡県浜松市の井伊谷
(2)、長野県大鹿村の大川原
(3)、大阪府枚方市河内山田
(4)、岐阜県中津川市(恵那郡高山と坂下に伝承地がある)
(5)、長野県阿智村の浪合

ですが、最新研究で一番有力なのが伊那の大川原。浜松市民には微妙な感情が湧きおこりますね。文献的な根拠がその説のゆえんなのですけど、この宝筺印塔はその物証だとされています。(※他に長野県にはもう一箇所、別の“墓所”確定地があります)。Wikipediaには新潟と富山にも宗良親王の没地伝承地があると書いてありますが。(どこだ)

中央構造線。

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<大西山崩壊礫保存園(大西公園)>
昭和36年の大雨による大崩落で亡くなった42名を慰霊するための公園。広域に桜がたくさん植えられ、花の名所となっています。
この公園にある案内板の説明(・・・本来崩れ難い場所が崩れ落ちたから大災害となった)がとても読んでいて面白い。
亡くなった方々には申し訳ないですが、日本列島には繊細な造りの場所が多々あり、中央構造線を巡るだけでとても有意義な長野旅となるだろう。
若い頃から「フォッサマグナ」という語句が好きでした。(伊豆半島の衝突がその形成に大きな役割を果たしています)
さっき崩れていた御所平もそうですけど、この付近(中央構造線の南側の柔らかい部分)には「~~崩落地」という地名が随所にあります。

7月の頭に行った「隠し伊那谷を巡る旅」の記録。1日目(その3)。
この頃は浜松はとても静穏だったのでわざわざ(観光地を助けるために)行ってやろうかな、と思って行ったのですが、その後一ヶ月経ってその浜松が「出かけたくない町」になってしまった。


<小渋湖-四徳湖>
昭和44年の小渋ダム完成によるダム湖。この水の下に「桶谷」の里があったという。「桶谷」の地名の由来は“高貴な人が棲まった”という「王家谷」が転じたものだという。

何度も同じ地図貼ってごめんなさい。
新しい地図描くのめんどくさい。

 

次に、宗良親王の盟友であった北条時行が同じく長期間住んでいたという「桶谷」「四徳小屋」も近くにあるというので、それを見に行きます。

ずっと参照している『宗良親王 信州大河原の三十年』という本の地図に、「桶谷には北条時行の墓がある」と書いてあるんですよね。さっき道の駅で観光案内所のお兄さんに、そんなものはあるのかどうか訊いてみました。そんなにたくさんの本を持っているわけでもないけど北条時行の墓について書いてあるのはこの本だけ。(北条時行という人は有名人物なのに「墓所」が存在しないようです)
でも、観光案内所のお兄さんの反応は、やっぱり「知らない」「聞いたことがない」でした。(当たり前か)。ただ、川の底に沈んだ桶谷のことをそれなりに教えて下さいました。実はさっき私が大河原入りしたのは松川町から小渋川を遡ってだったのですけど、事前に地図を見ながら「桶谷の里があったとしたらこのあたりかな」と思っていた場所(「桶谷の泉」より東側)は、全然人家があった気配が無かったのです。(本では小渋川と鹿塩川が合流する所のすぐ下流が桶谷みたいな書き方だったから)。
でも、お兄さんによると「ダムによって沈んだ桶谷」は確かにあったという。私が思っていたより桶谷はもっと西側だったのかもしれない。
お兄さんは、「お墓のことはよく知らないけど、道路の途中に何かの石碑があるのは見たことがあるので、それを見に行ったらいいかもしれない」とも教えて下さいました。(それはその後うっかり通り過ぎてしまいましたけど、恐らくGoogle-mapに「交通事故供養仏」と書いてあるやつですかね。桶谷の泉のことかも)

「四徳小屋というのがどの付近か」も聞いてみたかったのですけど、聞いても無駄なような気がしてやめてしまいました。(「桶谷」までは大鹿村だけど、「四徳」は中川村だから)

(※道の駅で買った『今、甦る村の浪漫!』に少しだけ記述があります。「『伊那史概要』は「大河原の北条坂の麓に、北条家と名乗る家が四戸あり、時行の末孫と称し、そこに時行の墓というのがある。しかし、上伊那の藤澤谷、福地だとの諸説もあっていずれが真なるかは不明である。ともかく藤澤から大河原の谷にかけて時行伝説があることは北条に何らかの関係があったことは考えられる」と延べ」「頭屋敷・別当・木戸口の名前があるのは時行がこの地に住んだ名残で大河原の内でも更に峻険な谷間に落人が潜伏したとしても無理のない土地である」などなど)・・・ただ、この本の著者にも詳しいことは分からないようです。

小渋湖のまんなかあたりに北から注ぎ込んでいる小渋川の支流(四徳川)があって、それを遡っていくと「四徳の里」です。
四徳の村も「三六災害」で瀕死のダメージを受け、全村移住を余儀なくされてしまったそうです。現在は無人だという。

雨はもうそれほどひどくなくなっていましたが、道がすごくて、四徳まで至る道の写真をほとんど撮れませんでした。
荒れ果てているということはないんですけど、川に沿って細くうねうねとして起伏がある過酷な道。でも、ちゃんと管理はされているらしい。四徳の村が放棄されてからこの道路沿いには集落はないはずですが、「四徳温泉」と「キャンプ場」がこの先にある。

事前に地図を見て、「北条時行が潜伏した四徳小屋があるとしたらどこだっただろう」と考えてみました。まあ、人にみつからないように建てた小屋でしょうから、案内板でも無い限り見つけることは不可能でしょう。地図に載ってないけど「四徳の集落」はどこにあったのでしょうか。おそらく四徳神社というのが集落の中心だったでしょう。

で、行ってみたんですが凄かった。どこまで行くんだ!と心配するぐらいの道の奥の奥にあって、よくこんな場所に人が住んだな、と思う所です。大河原の宗良親王の御所と同じ思想を感じる。さっきまで、「四徳の里から少し離れた不便な場所に四徳小屋はあるのでは」と考えていたのですが、こんな不便な場所なんだから四徳小屋はここでいいよ!
なんでこんなところにこの里はあるんでしょう?
明らかに農業は全然出来ない土地なので、林業か狩猟民か木地師が住むような場所だったのか。(平家の落人伝説があったといいます)。交通の場所としては西隣と東隣に「大伊那谷」と「大河原-分杭峠の道」があるのだからわざわざこんな所を通ることはない。まさに宗良親王が好みそうな場所だと思いました。(※私が思っている以上には折草峠の交通は頻繁だったそうです)


<四徳小学校跡>


<四徳神社>
主祭神は諏訪神(建御名方命)

道路が狭いので最初は分からないんですけど、林の中に広大な住宅地の跡があったことに気づく。

なんかいろいろある!
・・・が急に山ビルが怖くなってしまって、私はこれ以上奥には行きませんでした。
「四徳小屋」がここにあってもおかしくはない感じ。

 

最盛期には100戸の家があったといいます。畑もあった。
後になってから知ったので行かなかったんですけど、中川村文化センターにこの四徳集落を再現した大きな立体ジオラマがあるそうです。ネットでその写真(小さい)を見ると四徳の里は私が思っていたより広い範囲に家に分散していた。ジオラマには各所の地名も貼られているようですけど、その中に「四徳小屋」はあるのでしょうか。(見に行きたい)

 

北条時行は「中先代の乱」で「廿日先代」したあと、すぐに鎌倉を奪回されて諏訪へ逃げ、そのあと南朝方に降参し、けっきょく何もせずに死んだような印象があるんですけど、実は宗良親王とはかなり長いつきあいだったようで、17年間ぐらい一緒に行動しています。宗良親王にとっては比叡山で一緒に活動した猟奇的な兄(護良親王)が殺害されるきっかけを作った張本人ですから、彼に複雑な感情を抱いていたに違いありませんが、宗良親王と北条時行が初めて出会ったのは延元2年(1337年)の船旅の時。年齢は15歳差。
たまたま宗良親王と彼は同じ船に同乗することになったんですけど、遠州灘沖で暴風雨に遭い、座礁して遠州白羽に上陸。一緒に北浜名湖の井伊谷城に入ります。延元4年(1339年)から仁木義長・高師泰らの井伊谷攻略が本格的に始まりますが、延元5年(1340年)の井伊谷落城の直前に北条時行が伊那谷に出現し、「王徳寺城」で挙兵。(遠江国での北朝軍を牽制するためだったと思われます)。宗良親王は井伊谷が落城した後、安倍川の城から富士山の麓、甲斐国を経て、越後国・寺泊、越中国・名子の浦に移り、最後に信濃国に移って大河原に入る。北条時行はその間ずっと信濃にいたと思われますが、そこからまた宗良親王の片腕的に戦ったってことですね。

わたしはてっきり、宗良親王が信州大河原に棲み着いた興国5年(1344年)以降に、北条時行も出城的な感じで桶谷ないし四徳にキャンプを張ったのだと思っていましたけど、大鹿村に伝わる伝説では、「元弘3年(1333年)に鎌倉幕府が滅亡したとき、諏訪氏に匿われた亀寿丸(=時行)が潜んでいたのが王家谷(桶谷)」ということになっているようです。うーーむ。諏訪湖と遠いじゃん。諏訪大社で手厚く匿われていたのではなかったのか。ここは諏訪家領だったのでしょうか? そもそも北条得宗家は王家じゃ無いのに「王家谷」というのはおかしい、やっぱりこの王家とは宗良親王のことではないのかと私は思っていたのですけど、宗良親王を匿った香坂高宗と諏訪氏の関係はどうだったのか。井伊氏にしろ知久氏にしろ石黒氏にしろ、「勤王の士」であって鎌倉幕府軍とは相性は良くなかったと思うのですが、宗良親王と北条時行が手を結んだことによって諏訪氏(と鎌倉幕府の残党)は南朝軍に組み入れられることになり、南朝を少し延命させた。幼い亀寿丸が潜んだのが四徳だったらよく分かる。四徳神社は諏訪系の神社でしたし、四徳と大河原は実は違う文化圏だということもわかります。

メンデルスゾーンのピアノ三重奏曲第1番ニ短調作品49。

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私が最も愛しているメンデルスゾーンの音楽の中でこの曲が一番粘着している作品であるのに、まだコレクション集を作ってなかったな。

 

この曲について私は2005年ぐらいに感想を書いていましたが、面倒くさいのでコピペ。

「美しい音楽が数多いクラシック作品の世界の中で、私が世界一最も素晴らしく、世界で一番美しいと思う作品は、メンデルスゾーンのこの曲だと思う。
ただ単にメロディが美しいというだけではない。周りにあるものを絡み取って引きずり込んでいく、ほの黒い、甘美な美しさがステキなのである。とてもロマンティックです。雨のしとしと降る夕暮れどきに聴きたい。あるいは全天が真っ赤に染まる夕暮れ時に聴きたい。あるいは、周囲15kmに二人切りしかいない濃密な湿気の丑三つ時。淡い霧雨どき。
本当に、ただ単にメロディが美しいだけでは無い。ピアノとヴァイオリンが重厚に折り重なり畳まれる第一楽章、超高速でコロコロとピアノが転がる第三楽章、しくしくメソメソと大人を脅し続ける第四楽章、嗚呼、美しい、美しい。ただ単にメロディだけに寄りかかるのではなく、いろんなガラス細工をうずたかく積み上げて、うっかり触れば割れてしまうかのような作為的な可憐さを見せ付けるのだ。そのきらびやかさは、まるで無理矢理に涙を誘うお昼のメロドラマのような甘美さがあるんですよ。私はこれを、「メンメン泣き」と呼ぼうと思う。
例えば、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調やベルリオーズの幻想交響曲、ベートーヴェンの皇帝やモーツァルトのハ短調協奏曲のように、あまりの素晴らしさに感嘆して、似たような響きの作品を捜そうとしても、類例のなかなか無い、全く独創的な芸術作品がある。
一方で、この曲のような甘ったるいメロディ作品は、他の作曲家によっても結構作り出されているので、メンメン泣くのにとても気が楽だ。例えば、モーツァルトのヴァイオリンソナタホ短調。ブラームスのピアノ五重奏曲、ピアノ三重奏曲第三番。フランクのヴァイオリンソナタ。チャイコフスキーの偉大な芸術家の思い出。
その中でも、とくに、メンデルスゾーンのこの曲がピカ一。
こんなに愛しているのに、私がこの曲で持っているCDは2枚だけ。チョン・キョンファ、アンドレ・プレヴィン、トゥルトゥリエ、この三人が競い合うCDがあれば、他は要らないと思う。
 こんなに浪漫的な音楽なんだから、なんかステキな香りのする逸話とかあったらいいのにね。
この音楽に関しては、作曲にまつわるエピソードがまったく無いのだ。せいぜい、この音楽の作曲当時、作曲者はベルリンにいたが、国王おかかえの音楽家がこの音楽を演奏するのを聴いて、あまりにその演奏の緊迫感の無さに、メンデルゾーンが激怒したという話があるというくらいだ。それをきっかけにメンデルスゾーンは王都ベルリンに大きく失望し、遠くザクセン王国のライプツィヒに秀れた音楽院を設立するのである。
・・・って、メンデルスゾーンを激しく失望させたこの当時のプロイセン国王は、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世。私が最大級に愛する冷峻な風景画家カスパル・ダーヴィト・フリードリヒを保護した芸術王なんだけどなあ。(皮肉なことである)」

 

学生の時、私は今で言うアニメ同好会に属していましたが(私の大学では『アート部』と言って、バイク同好会、セーラームーン同好会、レトロ漫画同好会、竹本泉同好会、TRPG同好会、鉛筆画同好会、久留米ラーメン同好会、民俗学同好会、プラトニック恋愛同好会等を包括していました。部室に漫画がいっぱいあった)、ある日誰かのアパートの部屋で「ガンダム0083一挙鑑賞会」を開催したとき、(翌日みんなで映画館に0083劇場版を観に行った。長かったガンダム氷河期が融け始めた頃だったのです。1992年か。ただしこの作品は私は最初っから大嫌いでした)、だれかに「自分はヴァイオリンの音が大好きなので、何かいい曲あったら教えて」と言われて、数日かけて10曲選定した中に、この曲とチャイコフスキーの『偉大な芸術家の思い出』を入れたのです。それを渡したとき、「どうしてヴァイオリンと言ったのにピアノの曲が」と言いたげだったあの人の顔はいまだに忘れない。でもこの曲は(そのころの)私にとっては豊醇なヴァイオリンの音を聞くための曲だったのですよ。

でも、今となって改めて聞くと、この曲の価値はヴァイオリンよりもむしろチェロだなあ。

アルゲリッチは凄いが、私が聴きたいのはこれじゃない。アルゲリッチさんはすごい。映像では手元が全く見えないのに全てを支配しているのがわかる。この人は魔女です。

アルゲリッチ別ヴァージョン。アルゲリッチさん最近よくこの曲を弾いているんですね。こういうのはあんまりやらないイメージだった。(まあ十何年前に『偉大な芸術家の思い出』をやってるからな)

ヤッシャ・ハイフェッツ、アルトゥール・ルービンシュタイン、グレゴール・ピアティゴルスキーによる歴史的名演。1950年。動かない。・・・が、これは近代的再編集によって音を鮮やかに甦らせた物で、これはこれで素晴らしいと思うんですが、私は全くこれには心引かれない。音はいいんですが、私はこの曲は富士山のすそ野のように裾野の部分に音が欲しいと思うんですよね。これでは音が中央によりすぎちゃっている。(悪口ではないんじゃぞ)。ハイフェッツは凄い。

これも動かない動画。ダヴィット・オイストラフ、スヴャトスラフ・クヌシェヴィツキー、レフ・オボーリン。1948年。これもヴァイオリン主体に録音が編集されている作品なのですが、ハイフェッツよりこっちはかなり私好み。オイストラフは性向がめちゃくちゃ鷹揚で音色が肉厚で細かい所が香り高いので、他の所が(私には)どうでも良くなってるんですね。オイストラフ大好き。恐らくこれを聞いて私はこの曲をヴァイオリンの曲だと思ったのでしょう。ただし大学生の頃は私はこのCDは持っていなかった。


だいじょうぶ、私の鯨は二つある。

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ようやく自粛生活が明けました!
緊急事態が終わって初めてのお休みです。と言おうとしたら、私の休日は運悪く10/1で、こんな日(明けた当日)に出かけてもいいことはないと思ったので、私の緊急事態は10/1までとし、次の休日(10/7)を待ったのでした。長かったぜ。
私は意外に自粛とか律儀に守る人間です。早く世の中が良くなってもらいたいからな!

というわけで、満を持して行ってきましたよ、静岡の鯨屋さん。


オープンしたのは今年の4月だったんですって。(私が知ったのは8月にテレビを見て)。よくこの苦境を乗り越えて下さったものです。

 

12時半頃着いたんですが、さすが!
ほぼ満員になっておられる。

メニューがとても増えているというので、行く前から悩んでいました。
ですが、まあ、私の青春だったというべきあの「R30ラーメン」にしちゃうだろうなと思っていました。やっぱり。

「R30soba ~看板の塩生姜~」(880円)。
駿河の国の鯨のR30は、伊豆の国のR30とは違うと書いてあります。
とはいえ私もR30を食べるのは5年ぶりですからな。ちゃんと違いが分かるんだろうか。かなりドキドキです。
なお、R30のRとは、種類の多い鯨類の大きさを表す指標で、R30とはとりわけ知的で豪麗な蟬鯨かニタニタ笑う煮たり鯨に相当するといいます。伝説のR100ともなると130年物の羽白サウルスの大きいやつにもなるとか。

見た目はかなりおしゃれですけど、際だったニオイが! なつかしい。すごく食欲を喚起する良い香りです。これが当初は「こってりの鶏味」とかいってたんですよね。なんて美しい黄金色なんだろう。でも麺が違う。細い。チャーシューも記憶にある物とは全然違うぞ。洗練を追求するためにこうなったんでしょうね。10年ぐらい前、R30は生姜の味がかなり強くなったと感じたんですけど、今日のこれは茗荷も春菊もほどよくそれぞれが香りを主張している。普段の私は行灯なので茗荷の香りなんかどんなものかも分かるはずもないのですが、冴えている今日の私は明晰に全てをかぎ分けられて、これこれこれこそが大人の薬味なのだよ、と思いました。

春菊くたくた。
おいしいなあ~。

とにかく、R30とはこのスープに極まるもので、ショウガの刺激は相変わらず口内の上蓋の裏を気持ちよく力強く押してきます。R30(ロミオ)と春菊(ジュリエット)だなあ。おいしい。いやいや主役は茗荷(ティボルト)ですよ。だって、私が初めてこれを食べてから15年が経っているのですよ。相も変わらず美味しいと思うと同時に、全く飽きることの無いことがありがとうございますと思うと同時に、なおかつ細部は大胆に変えられている。改めて思いますが、とてもオシャレな感覚なのです。進化系って胸をはって言っておられますからね。お客さんは女性が次々と来ていました。さもありなん。

また15年後に食べても私は同じく美味しいと言うだろう。
また来よう。伊豆の国にも早くまた行こう。

ついでに、「搾菜(マーキューシオ)と茗荷(ティボルト)のごはん」(320円)も注文してみました。
東京タコライスはなかった。
これまた香りが良い。何の物なのかわからない匂いが一瞬しました。そしてこれまたミョウガおいしい。

 

 

そのあと静岡近辺でお城めぐりとかいろいろしてたら17:00を過ぎたので、ふたたび人宿町(七間町)に行ってみました。腹は減っていないがな!

夜は男の人の店員がいてちょっと安心。(だっておっさん場違いだもん)
今度こそ何を食べようと心の底から悩んだ(だって食べたことのないメニューがたくさん)のですが、10月17日までの限定の品があるというのでそれから選ぶことに。(だって限定だもん)。伊豆の国に通っていたころも、限定メニューがあってもついついR30にしちゃうんですよね。

これまたかなり悩んだすえ、「京風冷製拉麺 ~お出汁と豆乳仕立て~」(950円)に。
京風って何だろう。私にとっては京都のラーメンって天下一品なんですけど。

わお。春菊がいない。
麺もこれまた鯨らしからぬ見た目なので(こっちこそsobaじゃないのか)幻惑しました。

が、このスープうめえ!
豆腐は大好きですが豆乳を飲む習慣を持っておらぬので、実は私は豆乳の味というのがよくわからないんですが、なんだこの変化球のシチュー塊みたいな舌の上によく乗るスープ。いろいな味がするんでしょうが、私が嗅ぎ分けられるのは胡椒と何かの油だけです。匂いが舌の上によくまとまる。これほど専ら主に香り主体で胡椒を楽しむのは初めてでした。なんなんだこのスープ。いっさい人食い鯨っぽくないので私はどうしたらよいのだろうと泣き出したくなりましたが、そこにちょうど良くミョウガがいてくれたので私は助かりました。ありがとう茗荷さんありがとう。みょうがさんがおられるのならこれは確かに伊豆の国の鯨だ。

見てこの美しい白いスープ。中に小姓(故障)がふんだんにいますのよ。
さらに、そこにスダチをしぼってみますと味が劇的に変わります。

この乳色のエキスを鮮やかなアラレとあおさのりがキレイな御飯にかけて、冷製茶漬けにして美味しくいただだきました。んんぅ~京風♪(なのか?)

2食食べて思ったのですけど、全然苦しくない。重くない。まだ食える。
伊豆の国の鯨さんには結構重いメニューもあって(芋の入った醤油豚骨とか。まだあるのかな)、何度も通わなければ全貌はつかめませんでしたが、さすが静岡市のオシャレ街に近い新店舗。軽やかさを打ち込んでいる。驚くほど洒脱。

次は貝出汁のラーメンを早く食べにこなければ。ラーメンっておもしろいなあ。

 

ついでなので杏仁も注文してみました。

「銀河一美味しいアールグレイ杏仁豆腐」(380円)。

「宇宙一おいしい」のも伊豆の国で何度か食べさせていただきましたけどね、なんだこりゃ! わたしゃ杏仁豆腐ってのが何なのかわからなくなってきました。これはプリンじゃないんですよね。(もちろん)。確かにアルデバランいちでアークトゥルスいちだ。
とにかく紅茶の香りが抜群の甘ったるい物で、九日女王ジェイン・グレイ(←グレイ伯爵とは血縁は微かしかない)もほっぺと首を落としますでしょう。

 

 

さて、せっかく久しぶりに遠江国を出たことなので、少しだけもっと東まで行ってみました。
遠江国は自然海産物が乏しい国なのです。
求めるは海産物。蒲原町のスーパーで。

うひょー。
サザエ1匹171円(税込)ですって。(中ぐらいの大きさのですけど)
浜松ではサザエは主にfeelでしか買えないのです。(そのfeelは浜北にない)。
浜松で買うより2割ぐらい安い印象。6個買いました。
ついでにめちゃくちゃ大きいホンビノスが6個877円(税込)だったのでそれも購入。

家に帰ってから、さっそくベランダ七輪です。

伊豆に住んでいた頃、私は七輪を持っていなかったんですよね。
この七輪だって、4年前にカインズで1080円で買った安物がまだバリバリ現役大活躍なのですから、こんな万能便利器具、もっと若い頃から活用していれば私の人生はもっと充実していたことでしょう。ああ、伊豆でサザエばかり焼きながら生活したかった。

とはいえ、立て続けにサザエ焼きながら思ったのですけど、サザエってどんな風に焼いても美味しいんですけど、意外と味に個体差が大きいですね。(生臭かったり汁気が豊富な者がいる)。伊豆だったら観光地で大きい壺焼きが一個500円。下田ではお得な店で3個1000円ぐらいでしょう。でも、伊豆のお店では全部おんなじ味。この同じ味になるように理想的に焼き上げるってのが、意外と難しい。やはり職人的な技が必要になるのでしょう。私はタレを適当に作りますからね。(半年前に買ったけど口触りがあまり口に合わなかった日本酒が大活躍)
でもだがしかし、サザエは焼きが甘い私の腕のものでもそれなりに旨い。サザエ最高。

こんなでっかいホンビノス貝は初めて見ました。
(でも、蒲原のスーパーに大量にあったホンビノス貝は大きすぎるのばかりだったので、私はビビってしまって、中の上くらいの大きさのを選んで買ってきました。それでもデカい)
ホンビノスも適当に焼いてもめちゃくちゃおいしくなる具材ですが、大きいのよりもう少し小さい方がおいしい気がしますね。(焼きづらかったからそう思うのか)でもまあ、ビールでウマい!

中駿の蒲原のスーパーは改めて見ますと浜松のスーパーとは品揃えの世界が違う。面白いですね。

 

ああ、早く伊豆へ行こう!

逃げ上手の皇子達。

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去年の7月に行った信州旅行、もう遥かむかしですが、せっかく撮った写真がもったいないので、写真の陳列だけでもしておこうと思います。まさかこの1年半でマイナーな北条時行が主役のジャンプ漫画が出てくるとは思ってもいなかった。

浪合村で出会ったクマ(の剥製)。一緒に寝ました。

浪合村で泊まったのは、「観音山少年自然の家」(←浜北市民が40年前の子供の頃に自然研修した施設)みたいなかんじのところだったのですが(格安)、「信州で刺身を食べる」ってのは南信では定番らしいのですが、昨晩飯田市で泊まったときはそれができなかったので(一軒で満足してしまう悲しいお年頃)、飯田市の地元スーパーで大量に刺身を買って浪合村に持ち込みました。

だだっぴろい施設でしたが、季節外れ(?)なのでワタシ独り(笑)。

塩家虻コロニー。

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大河ドラマ、面白かったですね!
やっぱり伊豆時代の源頼朝の話はコメディだだ溢れでやるのが一番です。伊豆を脱出して以降はお笑いはもういりませんけど。
なんと、三谷幸喜氏は異説もそれなりに取り入れていく方式でやっていくみたいで(江間小次郎が登場人物として出てくる)、これは久しぶりにちゃんと見続ける大河ドラマになりそうです。(わたくし、『直虎』はさすがに全部観ましたが、『平清盛』は保元の乱まで、『真田丸』は関ヶ原まで、去年のも面白いと思いましたけど、橋本愛と結婚するまでしか観なかった・・・)

今年はせっかくだから、「第一回目は伊豆の国で観よう」と思い立って行っちゃいました、伊豆の国に。
何年ぶり? たぶん5年ぶりぐらいですよね。

泊まったのはこの宿。

伊東園ホテルです。
本当は一度泊まって気に入った同じ伊東園の「大仁ホテル」に行こうかと思ったのですけど、なぜか空きが無かったので伊豆長岡のこちらに。一泊二食飲み放題付きで10,845円。あれー、伊東園ホテルって¥7800ぐらいじゃなかったっけ。・・・と、そういえば世間は三連休だったことに気がついたのは行った後でした。

同じグルーブなのに大仁ホテルが洋式のビジネスホテルみたいなベッドの部屋だったのに対し、こちら金城館は旅館チックな和室。館内は一般的な旅館風でした。一人なのに豪華な8畳間。伊豆長岡の温泉街にはもともと窓の外の景観というものがありませんが、このホテルはさらに谷間っぽいところにあって、閉ざされた感じの窓からの世界。本館と別館があって、それぞれにお風呂があり、本館のお風呂は夜と朝で入れ替わるので、3回お風呂を楽しめました。伊豆長岡の温泉は、何の特徴も無いいいお湯です。

やはり家族づれでいっぱいでした。夕食バイキング。
飲み放題込みですが、感染対策のために通常90分のバイキング時間が70分に短縮されているんですって。私はそんなに長時間食べ続けられないからいいんですけど。

さすが、メニュー数が豊富です。そして、酒のつまみに最適なのが多い(笑)。私はこれだけで3時間いけるわ。(実際、この一巡で終わっちゃいました)。この写真の中で一番の当たりだったのは9マスの中央にある鶏皮の唐揚げでした。いやー、わしこれだけでいいわー。右側の茶色いのはカレーでなく巨大な肉の入っているビーフシチュー。鶏カワの左はたこ焼き。ビールの左の茶色いのはモツ煮。いやー、延々飲めるわー。(70分しかないけど)

冬のグルメフェアは『五貫の海鮮大ネタ寿司』でした。が、私にはこれは多すぎた。真ん中の魚がいまだによく分かんないんですけど、見た目はブリ系ですけどカツオっぽい味がした。これ以外にお刺身も数種類あったので、私にはそれで十分でした。

逆に、飲み放題が70分ですけど、私にはそれは短すぎる。私はいささか各種神経が鈍いので、酔いが始まる前に終わっちまうくらいの時間じゃん。で、ここの生ビールが秀逸でして、グラスは決して大きくないのに、自動お酌機械はボタンを押すと7分目ぐらいの量で終わってしまう(笑)。(そういう量の設定がしてあるのです)。だから当然何度もつぎに行くことになるのですが、その動作で酔いを巡らせる仕組みなのですね。

日本酒は万大醸造3種類と花の舞3種。
結局、生ビール5杯とレモン酎ハイ1杯、万大のあらばしり1回で時間切れになってしまいました。
とうてい足りぬので、懐かしい伊豆長岡の夜の町へ繰り出すつもりでしたが、部屋で源頼朝をみてしばらくウトウトしてしまい、気がついたら23時半。しまった、風呂にもあと3回ぐらい入るつもりだったのに。それから部屋吞みの酒を買い出しに行くのもおっくうで、そのまま朝に。

朝バイキング。

朝は酒はありません(笑)
うおー、伊豆長岡なのにわさび漬けが無い!でも朝にも刺身系があったので私は満足でした。
私もプロのバイキンガーなので、とても勉強になりました。総じてこんなところだろう。とても良い。

神聖さくら王朝の研究。

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少し前のWindows自動更新で、私のパソコンのATOKの学習辞書が自動に白紙にされてしまったみたいで、非常に困っています。

↑ この上の一文を書いてみただけで、実際に打ち出された文章は、

「須こし真エのWindows自動鴻新で、渡しのパソコンのATOKの岳シュうじしょがハ区師にされてしまったみたいで、否ジょうにコマッテイマス」

普通そうはならないでしょう!という感じで、これは絶対わざとやっている。
極一部の語句以外はすべてこんな調子。(←これもチョウ氏になるのです)
(だってWindowsとかアップデータとかの語句は普通に変換されるんですよ)

  ほうじょうよしと機
  と区がわいえや須
  源の余李とも
  機度うせんしがんだむ

ATOKってデフォルト状態で歴史上の人物の名前を全て一括変換できる優れモノなのですよ。その機能を悪意を持ってお釈迦様にされているようです。
事態は文字変換のお馬鹿化以前の問題で、文節のどこかの箇所で、一文字か二文字だけ選ばれて最も変な文字で変換するです。
「す」は須べて「須」になる。一文字目を漢字にしないことが多い。なんだこれ。「悲しい」とか「食べもの」とか「現在」とかいう普通の語句もスムーズに打ちこめないのです。

・・・私はこの記事に一体どれだけの時間をかけるでしょうか?

 

まあ、そんなことはどうでもよくて、
2ヶ月ぶりに連休をもらったので、またまた伊豆に行ってみました。大河ドラマ館を見に行くためです。
前回の直虎のときは家のすぐ近くに大河ドラマ館ができたので、行ってみたら「つまらねー」と思い、今回だって一日前まで「絶対行かないだろう」と思っていたのですが、いいじゃないか伊豆の国の一大イベントなのだもの。来年もまた浜松にできますからね。(たぶん行かないが)。驚いたのは、前回の浜松の直虎のときは入場料600円だったのに、伊豆の国の今回は400円だったこと。600円だと「高い」と腹が立ったが、400円だと笑って許せた。むしろ安いとまで感じました。まぁ、お祭りですからね。いいねいいね。

大河ドラマ館のことは後で詳しく書きます。

今回、まず行きましたのは沼津港の深海魚水族館。
ここに来るのも5年ぶりぐらいじゃないかしら。館の外館がすごい見た目になっています。

入って入口のところにデ~ンといましたのがアブラボウズ。でかい。
美味しいけどたくさん食べてはいけない魚。
前回ここにはシャケビクニンの大群がいたんでしたっけ。いや、シャケは別の場所で、ここはダイオウグソクムシの定位置だったかな。(もう忘れています)。鮭も具足も今日はいませんでした。「アブラボウズ、初めて見たな」と思ったんですけど、解説板を見ますとこの個体は2018年からここにいるとのことでした。長生きなんですね。(この水族館は入れ替わりが激しい)。白い斑点が鮮やかなのは若い個体だそうです。

変なナマコ。センジュナマコではない。

変なナマコ。(アカミシキリ)。この水族館には深海性じゃない生き物も3割強います。

マダコ。
魔多幸も深海性じゃないのですが、今日はこことは別の水槽に、“この水族館のアイドル” メンダコも3羽ぐらいいましたよ!(残念ながら写真撮影禁止)
解説板によるとメンダコの飼育最長記録は52日だそうで(ということはその個体はもう死んでしまっているということなのだけど)、ここの個体はいま何日目なのでしょうか。すぐ死んでしまう悲しい生き物。(・・・とググってみましたら、今現在、サンシャイン水族館で記録更新中だそうです)

この水族館はとても狭いのです。入館料400円のウォットと比べても半分ぐらいしかないんじゃないでしょうか。生体はさらに少ない。剥製が多め。でも行くたびに満足度が高いのは、研究施設としての側面も大きいことがちゃんと感じられることです。メガマウスなんて、どう見ても作り物なんですが、これはちゃんと沼津海岸に漂着したものを研究保存した剥製だそうですよ。こんなのが浜辺に転がっていたらビビる。

勝手にメガマウスって口だけしかない化け物だと思っていましたが、ちゃんと身体も長いんですね。
この口の中の仕組みってどうなっているのか、改めて知りたいな。この姿の生き物ってファンタジーにしかいない。(アンドリューサルクスがいたか)

この水族館でシーラカンス成分が一番余分な物だと思っていましたが、イルカショー代わりの「シーラカンスの秘密ショー」が、お姉さんの語りがとても巧みなので大変面白かったです。すげえ魚や、シーラカンスは。

 

 

水族館を出たらちょうど11:30だったので、水族館の前にある「浜焼きしんちゃん」に入ってみました。
サザエを焼きたかったのです。

「とりあえず貝3種盛り」(1,210円)、「浜焼き定食」(1,078円)、「ヒラスズキのお刺身」(858円)を注文。

お魚はメギスとメヒカリ。

おいしかったです! 家で七輪で焼いて食べるのと同じくらいおいしかった! そして楽しいです。
入店したときはガラガラでしたけど、瞬く魔に広い店内が満席に。すげえぜ沼津港。今日って平日ですぜ。

 

それから、伊豆の国市に行きまして、韮山時代劇場にできた大河ドラマ館へ。

伊豆の国に住んでいた頃、「時代劇場」って「大岡越前とか江戸の黒豹とか子連れ狼とかを毎日やっている場所なんだろうな」と漠然と思っていましたけど、それを観に行ったことはありませんでした。(図書館には行きましたけど数度だけ)。けっきょく時代劇ってどのくらいやってたんでしょうね。今回の大河ドラマで初めて輝いた場所な気がする。浜松は意外と時代劇が盛んな場所で私も仕事で少しだけそれに関わったので、「なんで伊豆にいたころ時代劇に親しまなかったんだろう」と後悔したのでした。

これまでいろんなところで散々悪口を言いましたけど、大河ドラマ館は今の私にはなかなか面白かったです。小物にはなかなか凝っているらしい。

浜松の直虎の時もそうでしたけど、「大河ドラマ館」って「ドラマ中で演者が実際に着て使った衣装の展示(3つぐらい)」が見どころの7割です。まあこんなのに全くの興味のないわたくしには「だからなんやねん」なのですけど、でも実際見てみますと、軽そうな感じで着て気持ち良さそうですね。冬は寒いだろうけど物語は旧暦の8月だから。伊豆は冬も天城以外は南国ですから。小栗旬のだけ「レプリカです」と言われたのですけど、ドラマでまだ使ってるということですね。政子妃はもう二度と少女時代の伊豆に戻ることはないのです。

大河ドラマ館の魅力の残りの3割が何なのかというと、「撮影時エピソードの現地へのリップサービス(メイキング映像)」の上映です。伊豆はロケ場所としては素晴らしい。私は特典付きBDとか買っても特典等ほとんど見ない人間ですが(たまに見る)、そのたまに観た特典がとても楽しかった感じ。ドラマ中の北条時政の館は、実際に守山の北条氏邸跡にセットが組まれたんですって。伊豆は全ての場所が独特なロケーションなんですよ。
ただし、北条氏縁者以外の伊豆武士は仁田忠常以外出てこないらしい。まじか。(狩野介工藤茂光も出てきましたっけ)
「鎌倉殿の13人」はまだ出揃ってないですけど、それ以外の鎌倉武士との絡みが私は一番見たいのに。木曽義高を殺害したときの堀藤次郎とか上総介を殺害したときの加藤次景廉とか比企能員を殺害したときの天野遠景とか描かないつもりかな。阿野全成を殺害した八田知家と、源実朝と公暁を殺害した(?)三浦義村に代弁させるつもりなのかな。ていうか、三谷幸喜のこの感じだと手に負えなくなったどうしようもない源頼朝を殺害して(のちの)東鑑の記録を抹消するように命ずるのが小四郎義時になるような感じもするな。願成就院の仏像を造る運慶は出場するそうで、なんかいろいろと私の期待からはずれまくっている。

ただし、直虎のときの大河ドラマ館は、「こんなのにこんなに人が来るとは思わなかった」と浜松の市の郡衙の人たちがホクホクしたそうですけど、伊豆の国の今回は人が控えめでしたな。(だってつまらないもん)。でもおもしろいいからみなさん観にいってやってつかぁさい。

でもね、大河ドラマ館へ行って、浜松と較べて改めて思ったんですけど、伊豆ってもう観光誘致なんて不必要な土地なんですよ。「伊豆に関しての基礎的なこと」を今さらわざわざ敷衍するまでもないのであって、今やるべきは「大きな物に隠れている小さなもの」を明らかにして列挙することだと思う。(要はわたくしの常々言っている伊豆の小武士群とかそういうことね)。伊豆の地魚とか伊豆の変なサワガニとか伊豆の特異的なカタツムリ群とか。それだけを顕示するだけで来る人を圧倒できます。・・・それを今やっている方々が伊豆ジオサイトの皆さまなのですが。(歴史分野にも食い込み始めていることがスゴイ)。浜松にはどれもが無い。

続いて行ったのは、蛭が小島を経て韮山城。
そういえば大河ドラマ結局蛭ヶ嶋出なかったじゃねーか。あのいやらしい大泉にちうちう血を吸わせてやればよかったのに。(冬にはヒルも野蒜も出ません)

韮山のこの地形図は何度見てもしびれます。この小山に要害を張り巡らせたのが後北条氏です。
そういえば、1年ぐらい前に富樫倫太郎の小説北条早雲(全5巻)を読了したのですよ。早雲は韮山の天ヶ岳に登って駿河湾と相模湾を望み見るのです。が、・・・見えるわけがねーじゃん、この山128mしかないんだから。この作者これ登ったことねーな。(私もありません)

韮山城本丸から見る富士山。

静岡に住む人はみな、「自分の住んでいる町から見る富士山が一番美しいと言う」といいます。伊豆の国市に6年住んだわたくしから言いますと、やっぱり伊豆の国から見る富士山が一番美しいね。頼朝公もきっと同じことを言ったでしょう。宝永火口と宝永山ががちょうどこの位置にある構図が一番絵になる。谷文晁もここからの富士山を絵に描きました。・・・この話前にもしましたっけ。(同じ話を何度もする病)

 

さて、時間になりましたので今日の宿へ。

伊豆長岡の古奈温泉側にある「姫の湯荘」です。
遙か昔に「源頼政とあやめ御前伝説」について調べていたときに「いつか来よう」と思った場所なんですよね。一泊朝食付で7,100円(+入湯税)。

ここの「姫」とは菖蒲御前のことだと思うのですが、宿の公式サイトを見ても三位頼政卿や御前について述べてあるところはなく、それどころか「源頼朝も愛した姫の湯」とか書いてある。頼朝は流れる水(狩野川)を招かれなかったら渡れなかったはずなのに。

とても古い作りの宿ですが、広大な裏庭があるらしく(これがどうなっているか全然案内がなくて全て不詳なのですが)、窓から見ても全然よく見えない感じになっていて、「なにかある感じ」「すごいのかもしれないけど何かよくわかんない」って感じで、さすが姫、奥床しい。いい感じの椅子があるのに、ここに座っても「なにも無い」んだもん。

こういうのが館内随所にある宿でした。でもセンサーがあるらしくてロビーにでると即座にお姉さまが出てきてくださるので、まじまじと眺め(て写真を撮る)ことはできませんでした。このお母さまが「姫」なのでしょうか。お話しが楽しいお媛様です。わたし、伊豆長岡の「ぬえ」のつるし飾りが欲しいんですけど、どこで売ってるか教えてくださらないかな。(ここにあるかどうかは不明)

ここの料理もなかなかすごいんだそうですけど、オフシーズンに一人で来ちゃったので夕食付きのプランがありませんでした。
ひとっぷろ浴びてから夕食に出ることにしましたけど(ここのお風呂はレトロ感溢れる物で特筆すべき。お湯を出すのが熟練の技が必要で寒い日だったら凍え死ぬ。アトピーに良く効く湯らしいんですけど、良く効きまくりすぎて敏感すぎる肌の私はこの後一週間難渋しました。夏はプールもあるみたいな感じなんですけどよく分からない)、今はまん防警報厳重厳戒御成敗式目発令中なのですべてのお店は21時には閉まってしまう。
お母様(姫)に「浜松ははんぶんぐらいのお店が閉まっちゃってるんですけど、伊豆長岡はどうですか?」と聞いたら、「全然そんなことはないと思いますよ」と言われたので、「さすが温泉街や」と思ってお礼を言って宿を出たんですけど、歩き回ってみますと、半分どころか8割ぐらいのお店がやってないやんけ。やっているお店でも「お酒は出さない」お店がほとんどです。事前に調べて「いこう」と思っていた店は全滅でした。姫のお宿は自分のお店で夕食をやっているから他のお店については詳しくないんでしょうねおそらく。

私はまだ「伊豆の魚」を食べたかったんです。そして、実はこの日は私は持病である「痛風」をわずらっていて、その治りかけの日だったのです(歩けたけど)。古奈中のお店を歩き回って、「もう歩けない」というぐらい歩きましたが、結果全滅でした。伊豆長岡大丈夫か。足痛い。

結局の所、唯一やっていたお店と言ってもいい「鳥栄(とりえい)」さんに。まだ昼食がお腹に残っていて、「魚だったら食べられるが、肉はそんなに」という状態でした。鳥栄さんには前にも来たことがあるし。でも今日はこのお店しかありません。18:00。リミット2時間。

結局あんまりお腹が空いてなくて、そんなに食べられない気持ちだったのですけど、「焼き鳥のコース料理(10本セット)」というのに惹かれて2,200円のおすすめを注文しました。一本ずつ出てくるそうなのでなんとかなりそうな気がした。焼き鳥のコースって改めて思うとすごくね? 盛り合わせじゃないんですよ。

これはコースとは別のつきだし(いくらか分かんない)。なかなかいいんでねえの。

最初にでるのはささみ山葵。最初が一番大事だといいますが、すごくみずみずしいささみで口触りが良く、さすがや。
座った席が焼き台が一番よく見える場所で、「やったぜ」と思いました。楽しい感じです。

2つめは砂肝。私は焼き鳥は大好きなんですが、普段は食べるものがかなり偏っていて砂肝はほとんど食べないです。だって身体のどこかの一部がすごい痛い感じがして。痛い痛いそこが痛いのはイヤ。でも、コースだから仕方なく食べましたけど、さすがに美味しかったです。

3つめはレバー。私は普段焼き鳥を食べる部位が偏っていまして、ほとんどがねぎまかレバーです。たまに鶏皮とニンニク。酒飲みの宿癖として私も肝臓の数値が思いっきり悪く、多分私の死因はそれになるのでしょうが、今はそれを大いに喰らうことで刹那的に今をやり過ごすべしと考えている。(自分でも言っていることが意味分かんないとは思います)。私の家の近所の焼き鳥ドンキーの白レバーが大好きでよく食べるのですけど、、、 なんだこれこのレバー、世界一おいしいな。

と、すかさず焼いていた兄ちゃんが私を見てレバーの極意を話しかけてくれまして、おそらくこのレバーが兄ちゃんの一番の自信作なんじゃないか。肝臓の世界は奥が深い。焼き鳥とは肝や。

といいつつ手羽先もおいしいぞ。

合間に出てきた緑サラダ。この存在が最後まで助けになりました。

5つ目はうずら玉子。おいしい。

6つ目はねぎ間。
普段焼き鳥は「塩」でしか食べないのですけど、このお店は「たれ」しか無い。でも、濃いところのないこのお店のタレはとても食べやすくておいしい。タレの焼き鳥も悪くないな。意外といくらでも食べられます。

だんご。
だんごって言うから本当にだんごが出てくるんだろうか、とびくびくしていましたらつくねが出てきました。よかった、鶏肉だったら食べられるや。

8つ目は紫蘇巻き。この頃から「あと3つもあるのか」と思い始めました。

9つ目は鶏皮。
最初にこれが出ていたら舌の上がこれに支配されていたでしょうから、このコースの配分が見事だな、と感歎いたしました。

最後は野菜巻き(ナス)。
大きいけど存外ペロリと行けました。見事や。

シメに鳥スープ(昆布味)。
鳥のコース、とても面白かったです。半分ぐらいまでは「追加でいくつか行けるだろう」と思っていましたけど、最後にはもうとてもとても。満足感がとてもすばらしいです。ラーメンなど到底食えない。変わったメニューも随時あるみたいなので、近くで働いていたころちゃんと通うべきでしたねえ。また来ることはあるでしょうか。

焼き場のお兄ちゃんは目配りが素晴らしくお話も面白くて楽しかったです。(焼いている所の写真は撮りそびれました)
ビールは4杯ぐらい飲んだと思うのですけど、酔っ払ったので総額幾らだったか覚えていません。(と言っても変なの食べてないので写真から類推できる)。こんにゃく田楽とうのはなはいくらだったんでしょう。

 

それからほろ酔い気分で古奈の温泉街をうろうろとし、西琳寺から移転した「あやめごぜん慰霊碑」の前まで行って、「私ははるばる浜松から来たんですよ。何か私に言いたいことはないか」と言いました。(意味不明)。足が痛かった。

 

(・・・・・・続きます)

鶏小屋の狐(ラーマン・クロギウス)。

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2月の半ばに行ったドライブの記録のつづき。(これまでのあらすじ)

 

チェックアウトのとき気がついたんですけど、フロントから少し奥に行った所に、フクロウと鷹(?)がいました。なんなんですかこの宿。昨日の夜もっと時間があるときに見たかった。

前回言った「Atokで文字変換が出来なくなった問題」は、さらに数日前の突然の自動更新で元に戻ってました。私だけの問題じゃなかったんですね。でもあのものすごく不自由だった私の数日間の時間を返せよ。(私のAtokは2014年版なので買い換えなければと思いました)

 

夕食を鳥栄(とりえい)さんで食べたあと、まだ飲み足りない気がしたので(笑)、近くのマックスバリュで酒とつまみを買ってきてお部屋で飲みました。このマックスバリュも15年前毎日買い物に行ってたんだよなー。(←※偽記憶がもたらすウソでした。私が通っていたのは田京のマックスバリュエクスブレス。古奈のここに来たのは10回ぐらい)

普通にビールを買ってくるんじゃ面白くないと思ったので「伊豆の国ビール」を数本買ってきました。製造元は御殿場の時の栖。反射炉ビアじゃなかったか。まー、『義時の夢』も製造元は浜松酒蔵でしたからね。

 

本を読みながらうだうだしていて、朝食です。

めちゃくちゃ今の自分に食べたい朝食の見た目です。
伊豆の旅館の朝食と言ったらアジ!

あれ? 鰺の干物って通常食べる方を表にして出すんじゃなかったっけ? と違和感をもってググってみましたら、皮の方を上にして出す常識が8割らしい。家で自分で七輪で焼いたら、食べる方を上にするのが当たり前だから、勝手に自分の中で常識が裏返っていたぜ。

こういう朝食、すごくウマイ。
お味噌汁はアサリでした。でも、このなかで一番美味しかったのは写真のなかで左のはじにあるウメボシでした。なんだこの肉が豪壮な梅干しぃ!!(写真には撮りそびれました)。ごはんもお櫃に入っていてお茶碗2杯半ぐらい。多く感じましたが食べたらちょうど良かったです。食事の時も姫の湯荘の姫君の楽しい会話がありました。

 

2日目は、伊豆の国市の行ったことがなかったところをウロウロと。

まず、北江間横穴群。
私は伊豆に住んでいた頃、古墳って全く興味が無かったんです。それは「伊豆には古墳がない」という思い込みがあったからですが、伊豆に関わらずそもそも古墳ってあんまり好きな物でも無かった気がするな。若い頃に九州をうろうろしていたときに西都原古墳群にだけ感銘を受けた思い出はありますが、他にそういった記憶がありません。だってお墓だよ。とはいえ長慶天皇の御陵とか織田信長の首塚とか護良親王の首塚とかには興味は多大にあったわけですから、要は「だれのものかも分からないお墓には興味が無い。だって趣味が悪いでしょ」だったのかもしれません。どちらにせよ趣味が悪いのですが。
ところが浜松に越してきてから、浜松のどーしようもない史跡巡りをしている間に古墳というものに不思議な関心が湧いてきてしまって、今では最大関心事のひとつです。本も何十冊も読むようになり、著者によって全然違う主張を言うことに楽しさを感じています。(白石太一郎氏の本がお気に入り)

「伊豆には古墳が無い」というのも思い込みで、それなりに興味深いものがいくつもあるようです。
「北江間横穴群」は2ヶ所に分かれていまして、まず「大師山横穴群」に。

これはすごい。なんで私はここに来たことがなかったんだろう。
・・・と思って写真をたくさん撮ってきたんですが、私の感動を表現できていた写真は一枚もありませんでした。横穴群って写真を撮るのが難しいぞ。

大師山には全部で10個の横穴があるのですが、そのすべてが独特で見応えがあります。とくに1号墓と2号墓がすごい。いや8号墓もすごい。思った以上に大きい。以前、函南町の柏谷横穴群には行った事があるのですが、あそこは公園として整備されてしまっていて、横穴も損壊防止のために保護材に覆われてしまっていた。こちらはそのままです。柏谷は背後に住宅街が広がり、また横穴の上の方に遊歩道があってお墓の上を歩けるので「なんだかなあ」と思った記憶がありますが、こちらは場所が絶妙で、「なんでこの立地なのだろう」と考察を大いにする余地があります。

家に帰ってから教育委員会の調査報告書を読んでこれがめっぽう楽しかったのですが、「どうして1号墓と2号墓は高さが違うのだろう」とか「1号墓と2号墓はどうして石室の形が違うのだろう」とか「どの順番で作られたのだろう」とか「この場所はこの地域にとってどういう位置づけの場所なのだろう」とか「どうして石に文字が彫ってあるのだろう」とか「この穴はなに?」とか「まさか墓が開けっ放しってことはないので、この穴はどのように閉じられていたのか」とか、見ながら次々湧いてきた数々の疑問の答えがすべて書いてあって、「古墳だけではなくて横穴墓の世界も奥が深い」と思いました。

どうやってこんな穴開けたんだ。(これは蓋を動かすために江戸時代の頃開けた穴らしいです)

これは奥の方に骨壺を安置する型の横穴。

これはひとつの穴の中にこの規模の墓室が2つある。にも関わらず穴の位置関係が少しずれています。

 

10個全部が興味深くて、ずっと見入ってしまって、また写真を50枚ぐらい撮ってきたのですが、いま改めて写真を見直してみますと、「あれ? なんであれを撮ってなかったんだ?」「写真が足りないぞ」という後悔が多い。・・・また行こう。

いろいろ考えなくてはならないことがあって、そもそも横穴は古墳なのか? という事なのですが、横穴墓は7~8世紀(飛鳥・奈良時代)のものですでに古墳時代は終わっています。でも古い墳墓はすべて古墳。南北朝時代に作られた首塚だって古墳です。(?) しかし「墳」とは土を盛り上げた物を言う。横穴は墳にはしない。しかし用語としては、横穴墓のことを「横穴古墳」と呼ぶのは正解だそうです。そして「横穴古墳」と「横穴式(石室)古墳」は別の用語です。

「横穴を閉じる蓋」はどうなっていたのでしょうか? 「横穴式古墳」の場合は石室の入口には「閉塞石」という重い石がおかれ、現在では墓が調査された後もその閉塞石が脇に転がっている場合が多いのですが、ここにはそれがありません。完全に閉じてしまう古墳と違って、それから何百年も経つと参拝する風習とか追葬する風習ができたりして、扉も木材になったりしたのかな。(閉塞する何かがあったらしい跡はあるそうです)。でもそもそも追葬なんてしたのかな。浜松の古墳群などでも「王家の谷」みたいな古墳が密集している地域があるのですが、詳しく調べてみると「古墳群」を形成しているのはほぼ同時代の(同世代)もので、世代が変わるごとに古墳群が移動していくらしい。古墳時代が終わった後はどうなったんでしょう。古墳時代の古墳は下から見えないと意味が無かったそうで、その立地と見え方には工夫が凝らされているのですが、この横穴群はどうだったのでしょうか。たしかにここも牧歌的な平野を見下ろせる場所ですな。

地獄の戦場アヴェルヌス。

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≪最強王国コアミアの周辺図≫ (※注;この地図には誤りがあります。下の方に直したものあります)

<拡大>

6月一杯で、ホビージャパンが『ダンジョンズ&ドラゴンズ』の販売を終了してしまったので、「高すぎてあまりに売れないので、D&Dもとうとう終了か」と思っていたら、事実は逆で、D&Dはあまりに売れすぎるので販売店方式をやめ、米本部が直営で売り上げを独り占めにすることにしたのだと分かって話題になっています。むしろ数年前に一回メリケンは日本でのD&Dの販売を辞める計画だったんですよね。(ホビージャパンが頑張った)
まあめでたいのでInkarnateでフォーゴトン・レルムの地図を描いてみました。
ホビージャパンはこれを機に初心に戻って『新ルンクエ』の展開を再開してくださると嬉しいなあ。
Inkernate、かなり仕様と書き心地が変わってます。

もう一丁!

≪陰謀の地(オームー)周辺図≫

<拡大します>

上の地図とは、「コアミア周辺図」の左下と「オームー」の右上のイアリーエイボアで繋がっています。

 

最初にお謝りしておかないとなりませんが、私はフォーゴトン・レルムについて全然詳しくありません。

上の地図は、「第4版」と「第5版」を適当に混ぜて描いたものです。この大陸ではダイナミックな事件が次々と起こるそうで、勢力構造の変わることがはなはだしく、「第4版」と「第5版」は10年しか離れていないそうですが、「ここはどうなってるのや?」「もしかして大きく変わっているのか?」という箇所が、(地図の絵師が代わっていることも相まって)、多々あるのです。

例えば、上のコアミア周辺図で、「第4版」(DR1479年)で悪の帝国として存在していた「ネザリル帝国」(=シェイドが治める国)は、「第5版」の始まる年(DR1489年)の2年前に戦争で消滅して無くなってしまっているそうです。第4版では人口豊富な「センビア連盟合衆共和国」はほとんどネザリルの傀儡となっていて悪事の限りを尽くし、これに対抗できる勢力などないと思われていたのにな。何があったのかというと、これまで放棄されていた“エルフ京都”のミス・ドラナーに100年前にエルフ族が戻ってきて大繁栄をしていたのですが、1487年にネザリル帝国は隠してあった空中要塞スルタンサーをミス・ドラナーにぶつけようとして(?)大戦闘がおこり、両者相打ちしてしまったんだそうです。
この事件に対する疑問点。(私には手持ちの資料がないので)。ミス・ドラナーが破壊されたのは分かるとして、ネザリルの首都のシェイド居留地はどうやって「相打ち」されたんだ? 『ソード・コースト冒険者ガイド』の16pの記述にみるに、「シェイド居留地」と「浮遊要塞スルタンサー」は同一の物だったんでしょうか? ネザリル国は飛行要塞が全部でいくつあったんでしょうか。
一方で、上の地図中で「オーデューリン大渦」と書いてある場所は、かつてセンビアの首都だったのですが、ネザリルが何かの秘術を使って影界に町を引きづりこんでしまい、後には変な巨大な穴だけが残っているという(そして真上にはネザリルの旋回都市が浮かんでいる)という場所だったのですが、それもネザリルとミス・ドラナーの一連の戦いで、ティーフリングの超能力者マガドン・ケスト(だれ?)が天空基地サッカーズを乗っ取って大渦に落とし、穴を埋めてしまったそうです。シェイドって一掃されたわけじゃないですよね?
上の地図では廃墟として書いていますが、ネザリルがいなくなったことにより、新たな悪の拠点として「ゼンティル・キープ」(昔はズヘンティル砦と書かれていた。めんどくさい悪砦なので何度か滅亡させられている)が何度目かの復活を果たし、またネザリル民の天敵だった「フェアリム」(=いそぎんちゃくみたいな邪悪な古代の生き物)が戻ってきました。フェアリムは「地下の世界」(=アンダーダーク)にいるみたいですけど、私はこの周辺の本は全然買わなかったので詳細がわからない。
ネザリルのシェイドがいなくなったセンビアってどうなっているんでしょう? デイルランズ(谷間の国々)のうち、タッスルデイルとフェザーデイルはセンビアに征服されていたのですが、そのままなのでしょうか。

下のオームー周辺図について。
一番困ったのは、「4版」の地図にはたくさん描いてあった「地下世界(アンダーダーク)に繋がっている穴」が、「第5版」の私の持っている本では見えなくなっていることです。地図だと右上にある真っ黒な「地口」のことですね。これはたまたま持っている私の数少ない本で書かれてないというだけでしょうか。それともくだんの戦争でこれも無くなってしまったのかな。北や東にはこれまた巨大な「深淵」とか「アンダーカズム」とかあったはずですけど。
また、オームーの北側と北東にある「スネークウッド森」と「蛇森」はこれ、同じ物なんです。4版と5版で描いてある場所が違う。5版の「蛇森」の所には「巨人の平原」と書かれている。わたしはこういう差異較べが大好きなので、両方書いちゃいますけどね。でもこれが画家の解釈違いによる間違いならいいのですけど、何らかの理由で移動したのだったらややこしいですね。
また、エスメル湖のほとりにある「エスメルタラン」という小都市。これがオームーに属するのか、ただの独立小都市なのか、何の記述もないので、悩んだすえ、結局オームーに含めることにして地図を描いたのですが、忘れてたけど実はこのとき処理が固まって地図が消えてしまってかなりの部分を描き直したんですけど、オームーに入れる前の状態のまま保存されていることにさっき気づきました。「エスメル湖」は「西部は温泉が流れ込んでいる」と書いてあるので、そんな面白い土地にオームー人がわざわざ造った都市に違いないのにね。
バルダーズ・ゲートの右側にある「エルタレル」という町も、第5版の途中、『地獄の戦場アヴェルヌス』という事件で無くなってしまっています。「バルダーズケート」はとてもよくできた町で、影多いけど警察組織もそこそこ強力で、「初心者のまち」的な意味をもった拠点都市。その隣りにあるエルタレルは悪を許さない法と善の人ばかりが住む正義の国で、この町だけの「第2の太陽」を直上に持っていて、24時間明るく照らし続けているという鼻持ちならない変態都市でした。ただしこの第2の太陽が照らす範囲は、町を中点に80km四方。バルダーズ・ゲートからは「何か光ってるなー」というのが夜に見える程度だそうです。ところがこの輝く都市エルタレルが、文字通り「地獄落とし」されてしまったのです。

 

「フォーゴトン・レルム」に若い頃の私が親しめなかったのはどうしてでしょう。
おそらく「あまりに広く」て、「各地域に繋がりがない」ように見えたからだと思います。
昔から私は、「大きければ大きいほどいい」「詰め込んであれば詰め込んであるほどいい」派の人間でした。が、それにしてもフォーゴトン・レルムは大きすぎた。自分で思ってるよりも小さかった私のキャパシティを越えてしまったのだと思います。
私が学生だった頃、『ムーンシェイ・サーガ』『シャドウデイル・サーガ』『アイスウィンド・サーガ』というのを買って読みましたが、あんまり趣味に合わなかったおぼろげな記憶がある。フォーゴトン・レルムのことをほとんど知らなかったからですが、どれもとりとめなく感じ、地域に愛着を感じることが小さかった。敵もインフレ傾向が感じられて辟易しましたし、(まぁそれはD&Dの特徴なんでしょうけど)、世界を何度も破滅させるくらいの大魔神が各地にボコボコいる感じ。小説版『プール・オブ・レイディアンス』だけは(一巻しかなかったので)面白かったと思いましたけど、小説版『カース・オブ・アジュアボンド』はよく覚えていない。パソコン版『バルダーズ・ゲート』も買いましたけど序盤で放棄。今でも本棚のどこかに全部眠っているはずですが、今の私が読んだらおもしろいと思うかも知れませんなあ。学生時代だったら『地獄の戦場アヴェルヌス』だって、私は「超インフレだけの作品!」と断じていたと思います。この本はとんでもなさすぎる。

 

今回フォーゴトン・レルムの地図を描いてみた理由。
私の持っている『フォーゴトン・レルム・キャンペーン・ガイド』は第4版のガイドブックなんですが、付属している「フォーゴトン・レルムの全体図」はポスターサイズで、狭い部屋では広げづらいんですよね。本文中には地方図は載ってるんですけど、本の中に世界地図がないので、どこがどこに繋がっているのかを未だに私は理解できていませんでした。今回の2つの地図はそれを解消してみようとしたものです。
「コアミア周辺図」は、「コアミア」「デイルランズ」「センビア」「ドラゴンコースト」「ネザリル」「ミス・ドラナー」「月海」「ヴェスパリン」「エヴァレスカ」の地図を合わせてみたもの。
「陰謀の地」は、「オームー」「テシア」「ヴェレン半島」「バルダーズ・ゲート」「エルターガルド」「ネランサー諸島」「ムーンシェイ諸島」。
これだけで、フォーゴトン・レルム全図の15分の1ぐらい?
地図を描いたことで、愛着を凄く感じてます。若い頃の自分とは正反対。若い者は地図を書け。若い頃に読んだ小説のせいで「はじまりの町」は月海の大廃墟内包都市フランかヒルズファーかデイルの国々かと思っていましたが、圧倒的に使い勝手の良いのはバルダーズ・ゲートとウォーターディープのあるソードコーストだったんですね。(それすら知りませんでした)。ソード・コースト沿いに南下するだけでさまざまな国を歴訪できるので、楽しい構成になっている。「カリムシャン」ってどこにあるのかよくわからなかったんですが、こんなに近かったんですね。バルダーズ・ゲート内に「カリムシャン居留区」というのがあるんですが、そこは異様性を放つべき。カリムシャンは「アラビア風世界」を模した大国という設定ですが、国内が「イフリート派」と「ジン派」に分かれて内紛を繰り広げている。ジンとイフリートが普通に町中を歩いている国なのでしょうか。
「拡大のために陰謀を巡らす大商業国家オームー」も「王国乗っ取りの陰謀群をはねのけるために頑張っている女王国テシア」も魅力的ですが、おそらく「初心者のための国」として相ふさわしいのは、「独立を果たしたけど詰んでいる国ヴェレン」なのだと思いました。ヴェレン半島はどう描いても人の顔に見えるのがかわいい。静岡県みたい。
バルダーズ・ゲート以北の地図は、ほぼ同じ縮尺の範囲に「ウォーターディープ」と「ネヴァーウィンター」しかないので(海沿いにはね)、それはそれでカリムシャンからの南北縦断ヒッチハイクが楽しかろうと思いました。

 

と、ここまで書いたところで!
・・・本棚のくろ(遠州弁)から第3.5版の『フォーゴトン・レルム・ワールドガイド』(2004年)が出てきました! 買ってあったのかい。(すっかり覚えていないことに当時の私のフォーゴトン・レルムに対する興味のなさが分かる。7,980円もしたのに)。ちょっとパラパラめくってみましたところ、思ったよりも詳しく、知らなかったことがたくさん書いてある。ちょっとショック!! 地図の修正が必要だ。 ・・・こんな感じで『フォーゴトン・レルム年代記』もこっそり買ってないかな、過去の自分。 ←(買ってないことは断言できる)

修正しました!

(↓拡大します)

まず、盛大に勘違いしておったのですが、「蛇森」について。私が「巨人路山脈」と「トロル山脈」を混同してしまっていたための勘違いで、別に「第4版」と「第5版」で食い違ってたわけではなかった。
「3.5版」の方が書いてある地名が多いのですが、「第3版」と「第4版」の間には100年の歴史上の開きがあるそうです。「3.5版」に書いてあって「4版」に書いてある地名が、無くなっているのか5版現在もあるのかはさっぱりわかりません。また「地口」についてはこれがなんなのか皆目不明です。「3.5版」の地図にはこれがありません。
3.5版の時点で、「ムランディン」はオーガーどもに奪われてない。「ヴェレン半島」は独立してない。一番驚いたのは、100年前には「エルタレル」はまだ第二の太陽(友垣)を持ってないということです。そうか、『地獄の戦場アルヴェヌス』でそんなこと書いてあったな。(時期は書いてなかったはずでしたが)。『地獄の戦場』のあの壮大な話をやりたくて、「第4版」からアレを仕込んであったのか。スゴい。

セント・エルモの火。

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きのう、新体制のダンジョンズ&ドラゴンズで、新訳(と思われる)の第5版が再展開されることが発表されました。
まあもともと(高すぎるので)全部買ってないし、でも品切れになるとさらに高くなるので、凄くホッとしています。また私が金持ちになることがあれば全部買いましょう。だがしかし高いだし、米国さんの仕事だから基本価格がさらに高くなることは予想される。高い城の高い男。
今のところ分かっていることは、ヤード・ポンド法が(廃止されるのかは分からないけど)メートル法になるという(笑)ことだけです。“D&D名物”10フィート棒は無くなっちゃうのかな。

わたくし、第5版では『プレイヤーズ・ガイド』と『ダンジョンマスター・ガイド』しか買いませんでした。
第3版(2000年)では『プレイヤー』『ダンジョンマスター』『モンスターマニュアルⅠ&Ⅱ』を買いましたけど、すぐに「第3.5版」(2005年)が出て、「こんな高い物もう一度買い直せるか!」 と腹を立ててしまったのでそれを揃えることはありませんでした。今では後悔しています。「第3版」と「第3.5版」は何が違うのか、今の私にはさっぱり分かりません。「第4版」(2008年)は凄かったですね。凄いペースで高い本が次々と出て、あまりのすさまじさに「これは買ったらいかんやつだ」と思って私はこれに手を出すことはありませんでした。今では後悔しています。「第3.5版」と「第4版」が何がどう違うのか、もう私には理解できません。

とにかく、もっと安いゲームは今ではいくらでもあるのですから、D&Dにこだわる必要なんて全然無いんですよ。
にも関わらず、D&Dの本はどれも読んでも面白いので、いつでも買える状態(買うとはいってない)であることは有り難いし、今後が楽しみですね。・・・でも3版の頃ぐらいが一番楽しかった。安くてボリュームある(ダンジョン地図のある)シナリオがたくさん売られていたから。


<第2版のヴァンパイヤ(東洋版)>

さて、ここからはゲームとしてのD&Dとは、あまり関係ない思い出話です。
今でこそいろんな資料がよりどりみどりの世の中ですが、私が子供の頃はネタ本なんてものは本当に限られたものでした。私は『モンスター事典』のたぐいが大好きでしたが、今となって思うと、『ウルトラ怪獣大事典』や『なぜなに世界の妖怪のひみつ』とか『水木しげるのご本』とか小学校の図書館に並んでいたもののほかは、ファイティング・ファンタジーの『モンスター事典』(マーク・ガスコイン)と『ダンジョンズ&ドラゴンズ(赤青緑黒)』と井村君江氏の本ぐらいしか無かった。

中でも影の世界に入り込んでいた中学生の私(←「中二病」なんて言葉もない時代でしたけど)がD&Dに対してもっとも興味を持ったのは、「アンデッド」の分類がとても独特だったことです。5才ぐらいのときから幽霊話が大好きだったので。

その頃も今も、私はゲームをするのなら全部ゆうれい話にしたい。

でも幽霊亡霊魔霊妖霊って、ゲームのデータにするとなんだこれってものになりますよね。存在を数値化することに無理がある(でもしなくてはならない)。
D&Dの赤箱にあるのが「グール」「スケルトン」「ワイト」「ゾンビ」、青箱で「ミイラ」「スペクター」「ヴァンパイア」「レイス」、緑箱では「ハウント(バンシー、ゴースト、ポルターガイスト)」「ファントム(アパリション、シェイド、ヴィジョン)」「スピリット(ドルージュ、オーディック、リベナント)」、黒い箱のがちょっと行方不明なのでよく分かんない。D&Dではアンデッドは特殊の処理をする敵なので(クレリックが一番活躍できる)分類が細かいんですね。でもねー、最初の頃のD&Dってイラストが乏しかったので、例えばワイト(塚鬼)とレイス(幽鬼)がどう違うのかって、よく分からなかったんですよ。レイスとゴーストとスペクターとファントムって、同じ物で良くない? ゾンビとミイラって包帯を巻いているかいないかの違いですよね。グールってアンデッドじゃなくても良いよね?(『ピックマンのモデル』に親しんでいた感想)。

で、初期のD&Dには出てこないのですが、私の最もの関心事は「人魂について」でした。
私の怪談物語には「人魂」「幽霊火」が絶対に欠かせない。

D&Dに限らずゲーム一般で「人魂」は「ウィル・オー・ウィスプ」と呼ばれるのですが、なんとほとんどのゲームで「人魂」はアンデッドではないのです。「死者の魂だというのは間違い」と書かれています。

人魂はターニング・アンデットできない。
では、その正体は何なのかというと、D&D第3版では「小型サイズの異形(風)」。共通語と風界語のほかに2つのボーナス言語を話す。
AD&Dの第2版では「沼地・湿地帯などに生息する悪意のある魔物」。知能は高く、継続的な振動によるおどろどろしい音声を発することができるようになったものがいる。

ついでに、アドヴァンスド・ファイティング・ファンタジーでは「亡者の魂を喰らう魔法生物」。墓地や遺跡に出る。
ルーン・クエスト、トンネルズ&トロールズ、ウォーハンマー等では(私の持っている限りでは)出てこない。T&Tでは1レベルの呪文に「ウィル・オー・ウィスプ」があって自分で呼べます(明かりとして)。ビヨンド・ローズ・トゥ・ロードではウィル・オーウィスプはアンデッドなのですが、ファー・ローズ・トゥ・ロードでは妖魔の分類になってしまいます。(ただこの作品には別に「亡者火」というのもいるんですけど、実はわたくし『ユルセルーム博物誌』と『大旗戦争』しか持っていないので、詳細がよく分かりません)。
そもそもD&Dではウィル・オー・ウィスプがすごい強いんですが、人魂状のあまたある同種の生き物(?)の中で特に強大なものだけが取り上げられていて、その他一般の人魂は、攻撃力ないものとして無視されているのかも知れない。怪談話でもめちゃくちゃ攻撃的な火の玉なんていないし、、、 (いやいや、そうでもないぞ)。
そもそもD&Dって原作(?)ではただ泣いている婆さんなだけのバンシーを、とても強い怪物(ヒットダイス;26d12!)にしてしまうようなゲームですしなあ。

こちらのサイトさんに、「第5版のウィル・オー・ウィスプはアンデッドの一種」って書いてありますが、本当でしょうか。
「第5版のモンスター・マニュアルも買わなきゃならないのか」とむにゃむにゃしています。


<これは第3版>

もう、私たちの知っているお墓の上をただよっている火の玉と、沼地に出てくるウィル・オー・ウィスプは別物だと思うのしかないのですが。
欧州では火の玉ってふつう沼地に出るものなのか?
日本の火の玉だって、水辺や海の上に出るのがいないとはいいませんけど、「沼地に多く出る」と言われたら違和感を訴えたくなります。

でもそもそも「ウィル・オー・ウィスプ」の語源的に、二度死んで冥界に行けず現世をさまよっている男の魂なのですから、これがアンデッドじゃないのはおかしいじゃないですか? くだんの「ひとつかみの藁のウィリアム」の逸話でも、別に彼は「じめじめしたところをさすらえ」とか「泥沼に人を引きづり込め」とか、そういう指令が出たとかはなかったと思う。・・・と思ったら、哀れな彼の姿を見て、ある悪魔が言ったそうです。「燃えた石炭をひとつやるから、これで身体を温めろ」。ところが彼はそれを明かりとして、愚かな人間を沼地に落とすことに使いました。彼は心底性格が悪かったのです。ウィルは聖ペテロをうまく言いくるめて地獄行きをまぬかれたくらいの奴なので、そのもじりでターン・アンデッドは逃れられる設定にするのはいいかもしれませんね。でもググってもまったく出てきませんが、泥炭の多いイングランドとかドイツ低地とかに、「人魂がよくでる」という場所があるんでしょうか。(たくさんありそう)。それよりも、なんで「鬼火」の一般名がどのゲームでも「ウィル・オー・ウィスプ」になっちゃってるんでしょうか。D&Dだとウィル・オー・ウィスプの武器は電撃ですよ。名前として「イグニス・ファトゥス(愚者の火)」が格好いいし矛盾は無いと思うんですが。

沼地に出てくる火の玉のイメージとして思い浮かぶのは、トールキンの『指輪物語』の「死者の沼地」です。指輪はD&Dの元ネタの主要なひとつですから。

でも、『指輪物語』では死者の沼地の鬼火は、はっきり死者の怨念と絡めて語られています。ターンアンデッドが効くかどうかは不明ですけど、ガラドリエルの玻璃は効きそう。「しとをだます明りだよ。人魂(しとだま)なのよ。そうよ、そうだよ、知らん顔したがいいよ! 見るんじゃないよ! ついてくんじゃないよ!」「でないと、ホビットさんたちも下に沈んで死人たちの仲間入りよ。そしてちっちゃい蝋燭をともすよ。スメアゴルについておいで! 明りを見るんじゃないよ!」

原作では亡霊のように空中を踊りながら飛び廻っていましたが、映画では、まるで沼の底から湧き出すメタンガスに火が付いているかのように、水面に近いところから力強く出火し、その場を動かず燃え続けていました。これはこれで私たちの思う「人魂」とは違う形ですけど。

「人魂」と「鬼火」は違う物、とは水木しげる氏もたびたび書いておられるし、「狐火」や「天狗火」とかいう似た様な別の存在も日本にはたくさんいます。
天狗火にはターンアンデッドは効かないだろう。
日本の場合、鬼火にもいろいろ種類があって、その8割が死者の亡魂が素材になってるのですが、そうでないのもいるにはいる。
「生き霊」もよく火の玉の形になって飛んでいきますが、死んでいない人の魂にはターニング・アンデッドはいかがなんでしょうか。例えば、「火の玉のようなものが家の周りをゆっくり飛び廻っていたので気味が悪く思っていたら、翌朝に寝たきりだった九州のおばあちゃんがなくなったという知らせが届いた」というのに間違えてターニングアンデッドしちゃったら、婆さまが生き返ったりして。
そもそも「人魂」には攻撃力は無いもので、(※鬼火にはありますよ)、ゴーストとかスペクターの付属物扱いでいいのかもしれませんね。

ここで、イングランドやアイルランドの妖精の話。
英国周辺では、ある種の幽霊って妖精の一種なんですよ。

 


我が上に 月日はてらせ 神路山 あふぐ心に わたくしはなし。

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火の玉の話、あと倍ぐらい書くつもりだったのに停滞してしまいました。今だってやる気満々なのにどうしてなんでしょうね。といっても、あと水木しげるの話と浜松のお松さんの話をして、最後にうしろの百太郎で締めるだけなんだ。(がんばるぞ)

と、いいながら申し訳ないのですが、旅行に行ってきたのでその話を先にします。
一ヶ月ぐらい前、何も考えずにとことん遠くに行きたくなって、東を目指したのですけど、東京の檜原村まで行った所で気が変わって帰ってきてしまいました。一泊二日車泊でした。できたら岩手県ぐらいまで行こうと思っていたんですけどね。意気地なしなんだから私。でも、2日間で箱根峠で3時間だけ仮眠したほかはずっと運転し続け、神奈川県を2周ぐらいして江戸城のまわりも一周半したのでした。写真は一枚しか撮らなかった。(「写真は一枚だけ許可する」で有名なお店)

リベンジで、今回は西方です。行く前は、できたら広島県ぐらいまでは行きたいと思っていました。けど、結果として5日かけて行けたのは神戸まででした。じゅん兵さんの意気地なし。

まず最初はコレです。近江ちゃんぽん。
10年ぐらい前からとても気になっていたのですよね。琵琶湖に行くたびに滋賀県にだけ大量にある近江ちゃんぽんのお店。近江ちゃんぽんとは何ぞや。しかし私は滋賀県ではほぼ天下一品か鮒寿司しか食べませんので、疑問は疑問のままでした。今回は心をチャンポンにして毅然として行きます。
彦根にあるお店が本店だそうなので、そこを目指しました。

お店は写真で見るより巨大でインパクトがあります。
開店直後から家族連れが大量に訪れて(お盆連休中だから)大混雑でしたが、こんな巨大な見た目だから二階席があるのかと思ったら、なかった。

わたくしたちは肥前の民なのですから九州原理主義者であり、ちゃんぽん的なものには一家言あるはず。でも九州ちゃんぽんの定義とか、近江ちゃんぽんの歴史(発祥の場所とか原点の店をかべが何かとか)とか近江の独自性は、ネットで調べた方が早いし少しややこしいので全部省き、一度食べたら全部疑点は氷解したので大満足でした。これは身体にいい食べ物です。日常的に食べたくなるのは良く分かる。飯田に行ったとき、「皿うどん」にも長崎血うどんとそうでない血うどんがあったのも、これと関係があったのでしょうか?

黄金スープ。なぜかタマゴ入りのを頼んでしまって(多分メニューの中央にあった)、900円ぐらいだったかしら。
見えませんけどキクラゲもちゃんとありましたよ。もう、肉なんか入れなくてもいいくらい、朝食べたい滋味深いちゃんぽん。
滋賀県にしかないと思っていましたら、われらがららぽーと磐田にもあるそうですよ。そのうち行ってみよう。でも、この野菜的な感じって、私の中の概念ではタンメンなんですよね。日頃タンメンなんて食べないのでタンメンの定義もよく知らないんですけど、だとすると今度は、来るときによく見て「大増殖してるな」と感じた、「岐阜といったら岐阜タンメン」が気になるところ。

 

私が奈良・京都を巡るといいましたら。それは天下一品を食べに行くということなんです。でも今回は、5日間で2店しか寄りませんでした。

彦根東店。

奈良庵治(おうじ)店。
天下一品ってすごいよね。店ごとに味わいが全然違う意味が分かんない。帰ってきてから思いますけど、なんであと10店舗ぐらい食べてこなかったんだろう。
私が初めて天下一品を食べたのは20年ぐらい前に神戸ででしたが、あのお店は今回見つけられませんでした。

彩華ラーメンにも一店舗だけ行きました。

田原本(たわらもと)店。
わたし、8年ぐらい前に彩華ラーメンで一度戦いに負けて浜松に逃げ帰ったことがあったんです。その復讐戦です。む、イメージと違う。にんにくの臭いはするがそれよりもラー油の方がはるかに強い。とてもおいしゅうございます。私が酷敗した天理市の石上神宮前のお店、行ったら見当たらなかったんですけど、なくなってます? その数年前に奈良の南の方の山の中で彩華ラーメンを食べた記憶が、私の初めての彩華の記憶なんですよね。宇陀のあたりだったかしら。そろそろ「天理スタミナラーメン」にも挑んでみなければ。

この年になってしまうと、ラーメンとかって基本的に昔食べたことのある思い出のものしか食べたくなくなってしまうんですね。それはそれで楽しいことなんですけど、自分の全盛期は15年前なんです。もう世の中は動かなくていい。

 

さて、今回の旅行の名目上のテーマはコレです。

ご朱印集め。
左が天狗関連神社用の御朱印帳で、右が「建武中興十五社」用の御朱印帳。思い立って買ったのは5年ぐらい前なんですけど、それから急に私は旅行に行かなくなってしまい、それで少し前に鎌倉を通過したとき、「しまった、車に御朱印帳を積んでない」と後悔したんですよね。それで思い出して、改めて「建武中興十五社巡りをしよう」と思ったのでした。

関西には、大阪に2ヶ所、兵庫に1ヶ所、奈良に1ヶ所の「中興神社」があります。
(大阪と京都の天狗神社も巡る気満々だったのですけど、時間的な問題で左側の御朱印帳の出番はありませんでした。)

なんせ私は、ご朱印集めなんてこれまで親しんでなかったですから、ご朱印をいただくときの作法とか全然知らないのでした。

最初に押した井伊谷宮は平成30年(笑)。

つくづく、この十五社というのは浜松に住んでいる私にとっては、(熊本以外は)都合の良い配置になっていると思います。九州に何とかして行く計画を立てねばな。鳥取はまあなんとかなるだろう。これが隠岐の島(後醍醐天皇)とか笠置山(後醍醐天皇)とか佐渡ヶ島(日野某)とか土佐国(満良親王)とか讃岐国(宗良親王)とか忽那島(懐良親王)とか篠島(義良親王)とか青森(長慶天皇)とか越中越後(宗良親王)とか奥州(北畠顕家・顕信)とか奥州(守永親王)とか無数にあったら、とても困ってしまいます。「ひとりにつきひとつ」なのがありがたい。数に制限がないのなら、宗良親王だったら10ヶ所はできてしまいます。

 

★四條畷(しじょうなわて)神社 (大阪府四條畷市)

“小楠公(しょうなんこう)”楠木正行(くすのきまさつら)を祭る。
わたし、楠木正成はそれほどでないんですけども、楠木正行と楠木正儀は大好きなんだ。
御朱印は300円でした。

「有孚顒若」、かっこいいですね。どういう意味でしょう。
(※「真であれば、厳かとなる」だそうです)

「御妣(みおや)神社」も素敵な文字。

「楠公」は「なんこう」と読みますからね。この五輪(?)様が慰霊しているのは正成公の方です。
元中3年(1386年)が本当のことだとして、終始一貫して北朝側の武将だった(が、のちに乱を起こした)大内義弘が、本当にこれを立てたとしたらスゴイ。

お母さまの名前は久子さん。1991年の大河ドラマでも、この名前でしたね。

ちょっと読めないと思うので拡大。

「参道を下って1km先に墓所がある」と書いてあるんです。
でもわたくし、この看板ざざっと斜め見しただけで、ちゃんと読まなかったので、なぜか1km先にあるのは「四條畷合戦にまつわる何か」だと勘違いし、「きっと「古戦場の碑とかあるのだろう」「それをみに行こう」と思ってしまったのです。だって「楠木正行の首塚」は京都の寳筺院にあることを知ってましたから、墓がこんなところにもあると思わなかった。その役目としてこの神社があるのだと思った。結果として、そんなむやむやした状態で漠然と探しただけなので、何も見つけることはできませんでした。
この「四條畷」、すごい土地です。今日は東大阪市八尾の方からずっと北上してきたのですが、なんか大阪でも独特の不思議な文化の感じられる地帯なんですよね。この山麓には西側に巨大な沼(深野池)があり、山と沼に挟まれた細い道路(畷道)が南北に走っていた。こんな変なところででどうして戦ったのかというのがこの戦さのキモで、「高師直が凄かった」と言うしかないのですが、Wikipediaによるとはるかに広い範囲で戦ったそうで、これはなかなか楽しい戦いでしたね。(私は高師直・師泰も好き)。小楠公が戦死した場所もなかなか遠かった。
とにかく、参道からしばらく歩いても何も見つからず(とても変な巨大邸宅が途中にありましたよ)、20号線の門があるところで足が痛すぎると思って諦めて帰ってきてしまいました。1㎞は歩いたと思ったのですけど実は600mで、本当に400m先に楠木正行の墓があった。
「四條畷合戦古戦場の碑」はどこにもないそうです。
「四條畷の合戦」「沖田畷の合戦」「山木判官攻め・韮山城攻防戦」「藤波畷の戦い」「木原畷の戦い」「獄門畷の戦い」「松本市の縄手通りの宇宙堂」「八丁畷治安悪い」は、日本史の「五大不思議畷」として有名です。
そもそも四條畷神社の創建って明治23年なんですね。井伊谷宮(明治5年)よりはるかあとや。
あとで、「四條畷神社の宮司さんはとてもすごい人」と、歴史に詳しい人に聞きました。

 

★阿部野神社 (大阪市阿倍野区)

阿倍野区にあるのに阿部野神社。北畠親房と北畠顕家の親子を祭る。
ここ、極めて細狭な住宅街のただ中にあって、Googleマップを見ながら「裏側から攻めて、ここをこう行ってここからこう行けば行けるだろう」と思った道からは行けませんでした。どう行ったら正解の道なのか、今もさっぱり分かりません。30分は行ったり来たりしましたぞ。

北畠顕家像。ゴクミ。私はゴクミと同い年なんですよ。この神社、御祭神が北畠親房・顕家両卿なんですが、やや2:8ぐらいの比率で親房卿(公?)よりも息子の方が顕彰されている。
なぜかといったら近くに顕家卿のお墓があるからで、、、 知らなかったから行かなかったぜ。しまった、前を通ったのに。(こんなのばっかり)。
(戦死地は別の場所(堺市)です。どうしてこんなところに墓があるのだろう。)
北畠顕家はなんとなく“軍神”上杉謙信に通ずる、軍行して勝つためだけに生きた最強戦士。
軍行して戦い続けていたのに負けばかりだった(のに長生きした)宗良親王とは正反対の運命の生涯。

一願一遂之宮。(叶えられない願いもあります。願いとはあなたが自分で遂げる物)

神は人の敬によって威を増し、
人は神の徳によって運を添う。 

見よ、かの森は顕家が孤忠を誇る常磐木ぞ
みよ金剛、峰の色 青史に永く正成が至誠を誌す不朽の心。

まず気づくのが、この神社では境内社のお稲荷さんの存在感が異様に大きいことです。
この写真だけ見ると「神社でよくある赤鳥居の道じゃん」と思われるかと思いますが、中に入ると分離していて、わたくし数えで少なくとも3つのお稲荷の小祠がある。
「旗上芸能稲荷」と書いてあるんですけど、なんで芸能?(親房卿の和歌の道つながりですかね)

で、あとあと境内地図をみましたら、「旗上稲荷社」、「旗上芸能稲荷社(鈴之宮)」、「土の宮」の3つがあるそうでした。

世阿弥八世 観世銕之亟。

黒祠の島。

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dアニメで 『サマータイムレンダ』を全部観ました!
すげーワタクシ好みの島アニメでした。

このアニメ、'22年の春アニメだったんですが、4月ぐらいに仕事の休憩時間にBSで第1話だけ視たんですよね。島の描写が淡くて私の心をくすぐるもので「これはなんということだ!」と思った。ちょうどデアゴスティーニの『週刊 日本の島』が再開され心を持ち去られていた頃だったのです。(今も購入し続けていますぞ)。しかしその後職場で運の問題でその続きを見ることは得ず、私の家のテレビは日本テレビで固定されているのでこれは映らず、(うちはBSは観られるはずなのに私の部屋のテレビでは入らない)、アニメだったら8割は充足できるはずのdアニメ(月500円)でもなぜかこれは配信されず、「なんで!?」と思っていたのでした。11月15日になってdアニメで配信されるようになって、3日で全部観ました! 25話もあるとは思わんかった!

中央構造線。

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<大西山崩壊礫保存園(大西公園)>
昭和36年の大雨による大崩落で亡くなった42名を慰霊するための公園。
広域に桜がたくさん植えられ、花の名所となっています。案内板の説明(・・・本来崩れ難い場所が崩れ落ちたから大災害となった)がとても読んでいて面白い。
亡くなった方々には申し訳ないですが、日本列島には繊細な造りの場所が多々あり、中央構造線を巡るだけでとても有意義な長野旅となるだろう。
若い頃から「フォッサマグナ」という語句が好きでした。(伊豆半島の衝突がその形成に大きな役割を果たしています)
さっき崩れていた御所平もそうですけど、この付近(中央構造線の南側の柔らかい部分)には「~~崩落地」という地名が随所にあります。

7月の頭に行った「隠し伊那谷を巡る旅」の記録。1日目(その3)。
この頃は浜松はとても静穏だったのでわざわざ(観光地を助けるために)行ってやろうかな、と思って行ったのですが、その後一ヶ月経ってその浜松は「出かけたくない町」になってしまった。


<小渋湖-四徳湖>
昭和44年の小渋ダム完成によるダム湖。この水の下に「桶谷」の里があったという。「桶谷」の地名の由来は“高貴な人が棲まった”という「王家谷」が転じたものだという。

何度も同じ地図貼ってごめんなさい。
新しい地図用意するのめんどくさい。

 

次に、宗良親王の盟友であった北条時行が同じく長期間住んでいたという「桶谷」「四徳小屋」も近くにあるというので、それを見に行きます。

ずっと参照している『宗良親王 信州大河原の三十年』という本の地図に、「桶谷には北条時行の墓がある」と書いてあるんですよね。さっき道の駅で観光案内所のお兄さんに、それはあるのかどうか訊いてみました。私の持っている本(そんなにたくさんないが)に北条時行の墓について書いてあるのはこの本だけ。(北条時行という人は有名人物なのに「墓所」が存在しないようです)
でも、観光案内所のお兄さんの反応は、やっぱり「知らない」でした。(当たり前か)。ただ、川の底に沈んだ桶谷のことをそれなりに教えて下さいました。実はさっき私が大河原入りしたのは松川町から小渋川を遡ってだったのですけど、事前に地図を見ながら「桶谷の里があったとしたらこのあたりかな」と思っていた場所(「桶谷の泉」より東側)は、予想より全然そういう気配が無かったのです。(本では小渋川と鹿塩川が合流する所のすぐ下みたいな書き方だったのにな)。
でも、お兄さんによると「ダムによって沈んだ桶谷」は確かにあの川沿いにあったという。私が思っていたより桶谷はもっと西側だったのかもしれない。
お兄さんは、「お墓のことはよく知らないけど、道路の途中に何かの石碑があるのは見たことがあるので、それを見に行ったらいいかもしれない」とも教えて下さいました。(それはその後うっかり通り過ぎてしまいましたけど、恐らくGoogle-mapに「交通事故供養仏」と書いてあるやつですかね。それとも桶谷の泉のことかも)

「四徳小屋というのがどの付近か」も聞いてみたかったのですけど、聞いても無駄なような気がしてやめてしまいました。(「桶谷」までは大鹿村だけど、「四徳」は中川村で管轄が違うでしょうから)

(※道の駅で買った『今、甦る村の浪漫!』に少しだけ記述があります。「『伊那史概要』は「大河原の北条坂の麓に、北条家と名乗る家が四戸あり、時行の末孫と称し、そこに時行の墓というのがある。しかし、上伊那の藤澤谷、福地だとの諸説もあっていずれが真なるかは不明である。ともかく藤澤から大河原の谷にかけて時行伝説があることは北条に何らかの関係があったことは考えられる」と延べ」「頭屋敷・別当・木戸口の名前があるのは時行がこの地に住んだ名残で大河原の内でも更に峻険な谷間に落人が潜伏したとしても無理のない土地である」などなど)・・・ただ、この本の著者にも詳しいことは分からないようです。

小渋湖のまんなかあたりに北から注ぎ込んでいる小渋川の支流(四徳川)があって、それを遡っていくと「四徳の里」です。
四徳の村も「三六災害」で瀕死のダメージを受け、全村移住を余儀なくされてしまったそうです。現在は無人だという。

雨はもうそれほどひどくなくなっていましたが、道がすごくて、四徳まで至る道の写真をほとんど撮れませんでした。
荒れ果てているということはないんですけど、川に沿って細くうねうねとして起伏がある過酷な道。でも、ちゃんと管理はされているらしい。四徳の村が放棄されてからこの道路沿いには集落はないはずですが、「四徳温泉」と「キャンプ場」がこの先にある。

事前に地図を見て、「北条時行が潜伏した四徳小屋があるとしたらどこだっただろう」と考えてみました。まあ、人にみつからないように建てた小屋でしょうから、案内板でも無い限り見つけることは不可能でしょう。地図に載ってないけど「四徳の集落」はどこにあったのでしょうか。おそらく四徳神社というのが集落の中心だったでしょう。

で、行ってみたんですが凄かった。どこまで行くんだ!と心配するぐらいの道の奥の奥にあって、よくこんな場所に人が住んだな、と思う所です。大河原の宗良親王の御所と同じ思想を感じる。さっきまで、「四徳の里から少し離れた不便な場所に四徳小屋はあるのでは」と考えていたのですが、こんな不便な場所なんだから四徳小屋はここでいいよ!
なんでこんなところにこの里はあるんでしょう?
明らかに農業は全然できない土地なので、林業か狩猟民か木地師が住むような場所だったのか。(平家の落人伝説があったといいます)。交通の場所としては西隣と東隣に「大伊那谷」と「大河原-分杭峠の道」があるのだからわざわざこんな所を通ることはない。まさに宗良親王が好みそうな場所だと思いました。(※私が思っている以上には折草峠の交通は頻繁だったそうです)


<四徳小学校跡>


<四徳神社>
主祭神は諏訪神(建御名方命)

道路が狭いので最初は分からないんですけど、林の中に広大な住宅地の跡があったことに気づく。

なんかいろいろある!
・・・が急に山ビルが怖くなってしまって、私はこれ以上奥には行きませんでした。
「四徳小屋」がここにあってもおかしくはない感じ。

 

最盛期には100戸の家があったといいます。畑もあった。
後になってから知ったので行かなかったんですけど、中川村文化センターにこの四徳集落を再現した大きな立体ジオラマがあるそうです。ネットでその写真(小さい)を見ると四徳の里は私が思っていたより広い範囲に家に分散していた。ジオラマには各所の地名も貼られているようですけど、その中に「四徳小屋」はあるのでしょうか。(見に行きたい)

 

北条時行は「中先代の乱」で「廿日先代」したあと、すぐに鎌倉を奪回されて諏訪へ逃げ、そのあと南朝方に降参し、けっきょく何もせずに死んだような印象があるんですけど、実は宗良親王とはかなり長いつきあいだったようで、16年間ぐらい一緒に行動しています。宗良親王にとっては比叡山で一緒に活動した猟奇的な兄(護良親王)が殺害されるきっかけを作った張本人ですから、彼に複雑な感情を抱いていたに違いありませんが、宗良親王と北条時行が初めて出会ったのは延元3年(1338年)の船旅の時。年齢は15歳差。
たまたま宗良親王と彼は同じ船に同乗することになったんですけど、遠州灘沖で暴風雨に遭い、座礁して遠州白羽に上陸。一緒に北浜名湖の井伊谷城に入ります。延元4年(1339年)から仁木義長・高師泰らの井伊谷攻略が本格的に始まりますが、延元5年(1340年)の井伊谷落城の直前に北条時行が伊那谷に出現し、「王徳寺城」で挙兵。(遠江国での北朝軍を牽制するためだったと思われます)。が、それは井伊城の陥落にはほとんど影響を及ぼさず、宗良親王は遠江を失った後、安倍川の城から富士山の麓、甲斐国を経て、越後国・寺泊、越中国・名子の浦に移り、最後に信濃国を頼って大河原に入る。北条時行はその間ずっと信濃にいたと思われますが、そこからまた宗良親王の片腕的になって戦ったってことですね。

わたしはてっきり、宗良親王が信州大河原に棲み着いた興国5年(1344年)以降に、北条時行もその寄騎として出城的な感じで桶谷ないし四徳にキャンプを張ったのだと思っていましたけど、大鹿村に伝わる伝説では、それより遥かに先立つ「元弘3年(1333年)に鎌倉幕府が滅亡したとき、諏訪氏に匿われた亀寿丸(=時行)が潜んでいたのが王家谷(桶谷)」ということになっているようです。うーーむ。諏訪湖と遠いじゃん。諏訪大社で手厚く匿われていたのではなかったのか。ここは諏訪家領だったのでしょうか? そもそも北条得宗家は王家じゃ無いのに「王家谷」というのはおかしい、やっぱりこの王家とは宗良親王のことではないのかと私は思っていたのですけど、宗良親王を匿った香坂高宗と諏訪氏の関係はどうだったのか。井伊氏にしろ知久氏にしろ石黒氏にしろ、「勤王の士」であって鎌倉幕府軍とは相性は良くなかったと思うのですが、宗良親王と北条時行が手を結んだことによって諏訪氏(と鎌倉幕府の残党)は南朝軍に組み入れられることになり、南朝を少し延命させた。幼い亀寿丸が潜んだのが四徳だったらよく分かる。四徳神社は諏訪系の神社でしたし、四徳と大河原は実は違う文化圏だということもわかります。

 

・・・四徳ですでに17時ぐらいになってしまいました。
今日はもっといろいろ行く計画だったのですが、大回りをたくさんしすぎて時間が無くなってしまいました。残念です。今日は「大草城」で締めくくるつもりだったのです。宗良親王は「信濃ノ宮」と呼ばれる以上に「大草ノ宮」と呼ばれる頻度が多かったのです。大河原と大草の里は近かったのか。それとももしかしたら中世には大河原は大草郷の一部だったのか。(少なくとも四徳は大草領域なようです)

でももう時間切れ、今日の宿に向かいます。
四徳の里から一気に飯田の市街へ。(道に迷った)
今日の宿はココ。

殿岡温泉ですって。
飯田の中心地からは少しだけ離れています。本当は久しぶりに「知らない町の居酒屋歩き」をしたかったのです。でも宿を決めようとしたとき(3日前)に雨と分かっていたので、やめてしまいました。予約するとき「健康ランドに宿泊スペースがある感じなのかな」と思ったのですが、逆で、本当に「ビジネスホテルに豊富なお風呂が付いている」という感じでした(笑)
飯田周辺のビジネスホテルは、浜松・掛川の標準よりも1000円ぐらい高い感じです。この宿は一泊朝食付き¥6000。ちょっと高い。浜松が価格が破壊されすぎているのかもしれませんね。(不景気だから)。逆に考えると、長野県南部は観光が良い感じで保持されているということですから、ちょっと安心します。温泉付きだし。
この宿、「館内はすべてハダシで」と言われたことがちょっと新鮮でした。さすが温泉宿。

部屋の窓から見た景色。

長野県はどこにいっても山の感じがとても素晴らしいのですけど、4日間雨のせいでほとんど山の写真を撮りませんでした。写真撮っても見た目の圧倒感は全然再現できないなあ~~。上の写真は午後6時ぐらいです。

ひとっ風呂あびてから、夕食へ。

この宿に決めたのは、¥6000の宿泊料に「ビール一杯無料」だったからです。(浜松の安宿ではビール1杯付きは普通なのにね~~)

館内併設の中華料理店。
とりあえず、ぎょうざと皿うどんとまーぼーどうふを注文。

餃子は浜松餃子ではありませんでした(当たり前)。血饂飩はなぜか2種類あり(ノーマル(醤油?)と長崎皿うどん)、佐世保市出身者のわたくしは当然長崎うどんにしましたけど、最近リンガーハットにすら行ってないなぁ。長崎ちゃんぽんと近江ちゃんぽんは知ってるけど、皿うどんが長崎以外にもあったとは。麻婆豆腐は「凄く辛いよ」と言われました。(辛くて美味しかった)

いや、凄く美味しい店でした。店内は宿泊者と外来客半々ぐらいな感じでしたけど、一人で広い4人テーブルを占拠してだらだら飲みながら長居が許される感じ。厨房の様子はやや殺伐としているが、おねえさまたちの対応はとてもいい。で、食べ終わったらこのたった3品でかなり満腹(笑)。(ビールは3杯か4杯)。あれ、私は居酒屋巡りをする予定じゃなかったっけ。(長野県で刺身か酒蕎麦を食べたかった ←このお店はそれも充実していた)。でももう駄目です。情けない。長野の地酒を飲みたかったです~。

飯田弁って浜松弁とほぼ共通なんですね。
徳川家康経由で三河弁と遠州弁がよく似ているのは知っていましたけど、飯田弁が同じなのはどうしてなんでしょう。「あばな」と「おやすみなんしょ」は言いませんけど。

部屋に入って読書をしまくりながらだんらだんら過ごしましたけど、部屋でビールを飲んだ記憶がありませんので、私は本当にあれで満足してしまったらしい。テレビの長野のローカル番組は静岡と全然違うので(当たり前だ)面白かった。佐世保で水害が非道いというニュースを見ました。この部屋には強力な空気清浄機が付いていて、ずぶ濡れの靴を乾かすのに非常に便利でした。(フロントの人は新聞紙をたくさんくれました)。お風呂へは3回ぐらい入りました。

朝。
朝食です。なんとこの宿ではこのご時勢でも朝食は野蛮なバイキングの人がやっているという。(静岡ではハラルド王形式は半年前に絶滅させられているというのに)
ただノルマン方式であっても、敵勢を目にして大声で叫ぶときと店員の右脇から1ヤードに近づく畏れのあるときはマスクの着用を義務づけられていました。

まぁ、私は朝はあんまり食べられませんので、このくらい。サラダ多め。
地元要素として野沢菜がうれしかったですね。

右側にある焼きそばみたいのは、細切り大根(?)と肉そぼろです。左上は高野豆腐のクリーム和え。

 

さて2日目です。
まずは飯田の町の中心地である飯田城跡に向かいます。
地図を見てて「JR飯田線はどうしてここだけ不自然に曲がっているんだろう」と思っていました。実際に車で走ってみて分かりました。なんだこの変な地形。飯田の町の形はおもしろいです。確かにこんな開けた場所(に見える)のに絶好の要害ですね。私が戦国武将でもここに城を建てると思います。(小笠原貞宗は別の場所を選びましたが)。飯田は浜松からすぐ(笑)ですので小さい頃から私は何度も来たことがあるはずです。でも、こんな変な町だとは初めて知った。(通過したことしかなかったんですね)
今回の旅は「(南北朝時代の)お城巡り」でありまして、さきだって飯田城についてもいろいろ調べたんですけど、「今回の旅とは目的がそぐわないな」と思って主要目的地からは外してしまったんです。ただし飯田城(の造り)もそれ単体ではすごく面白いお城だと思います。また来ましょうね、私。

で、飯田城自体は今回どうでもいいとして、
来たかったのはここです。

飯田城の本丸跡にある「柳田國男館」(柳田國男記念伊那民俗学研究所)。
今回の旅行を思いついたのは一週間前に『東国古道記』を読んだからですが、どうして飯田に柳田國男の博物館があるんだって。

柳田國男が旧姓・松岡国男といって兵庫県で生まれそこで育ったのは知っています。福崎町へはいずれ訪れたい。それから10歳で茨城県へ移ってあとはずっと東京住まいだったのですが、飯田市は柳田國男と何かあったんでしたっけ。もしかして旧姓の「松岡氏」が飯田市の北の方にある「松岡城」と関係ある? と長野県のお城ばっかり調べていた私は思ったのでした。信州の松岡氏は小笠原貞宗の与党として南北朝時代には宗良親王と敵対する側でしたが、戦国時代になって急速に“忠節の輩”井伊氏と接近し、井伊直親つながりで遠州とは関係が深いんですよね。
でも記念館へ行ってみたら、柳田國男の松岡氏は飯田市と全く関係が無かった。関係があるのは柳田氏でした。
(※松岡城も訪問予定地だったのですが、いろいろあって行けませんでした。このお城も図を見るだけでとてもエキサイティングなお城なので、、、 近いうちにまた行くぞ!)

柳田國男館の一階は大書斎です。
これは柳田國男の研究の絶頂期に、自宅兼交流の場として世田谷の成城に建てた家(「喜談書屋」)を、柳田國男の死後、飯田に移築した物だという。この建物を作るきっかけとなったのが、昭和2年に

クレオパトラ7世。

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久しぶりにヘンデルのクレオパトラコレクションを。
もう今や、いろんなのが何でもありですね。

アマンダ・フォーサイスさん。

ホラー風味のクレオパトラ7世。
サビーヌ・ドゥヴィエルさん。

古い映像に見えると思いますが17世紀ステュワート朝風味のクレオパトリック7世。
ヴァレリー・マスターソンさん。何を言ったって18世紀のヘンデルもこういう衣装で初演したんでしょうからね。原点回帰、温故知新。

森麻季さん。わかりやすい。そうだよね。こうだよね。

クレオパトラ7世はもちろんギリシャ人ですが、物語としてこういう方向も追求される様になるだろう。
もちろんジャニーヌ・デ・ビケさんの歌声は力強くて美しくて素晴らしい。

だがなんと、クレオパトラまでが疑似カストラートが歌う映像が。
(原作(?)ではジュリオ・チェザーレがカストラートでクレオパトラはソプラノ)
サムエル・マリーニョさん。
・・・これ本物? 本当にやってんの?
私が思う、「カストラートが本当にいたらこんな声だろう」という素晴らしい力強い声。

 

全然関係ないですが、陸自の歌姫 鶇(つぐみ)真衣さんのリナルド。

エマニュエル夫人。

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急にカール・フィリップ・エマヌエルの曲をたくさん聴きたくなり、注文してしまいました。
私はミハイル・プレトニョフの1998年のピアノ曲集が大好きで、それから似たようなCDをたくさん買った様な気がしたのですが、よく考えたら持っているのは10枚弱でした。でもしかし、カールの曲って音がかなり特殊なので、プレトニョフの至高性と全く同じ興奮をもたらしてくれるCDは無かったな。トレヴァー・ピノックのシンフォニア集とグレン・グールドのヴュルテンブルクソナタ集は、全然違う感興を得たくて聴きます。私は古い人間なので、今でも曲はCDを買って聴く。

とにかく私の好みは、ピアノの打鍵音。
フォルテピアノでなくてはだめなのです。ハープシコードやチェンバロは面白さを顕現できてない気がするのです。(それはそれで面白い音なのですが、あくまで私の好みでね)。カーフィリプの時代にはピアノフォルテなんて存在していなかったのに面白いね。アナ・アリア・マルコヴィナという人の演奏が素敵だという噂を耳にし、26枚組のピアノ曲全集が12000円ぐらいだという。しかしHMVだとこの26枚組を含むエマニュエル作品集60枚組が9500円で買えるという。すばらしい。
11月の半ばに注文し、届いたのは12月の5日頃。注文ページには「1週間程度で入荷」と書いてあったのですが、11月終わり頃に「輸入がままなりません。先方で商品が確保できてません。もしだめだったら勝手に注文はキャンセルさせていただきます」みたいなメールが来てやややきもき。でも実はこれはHMVではよくあることなのです。HMVは必ずやってくれます。実はHMVにキャンセルされたことが過去数回あったのですが、そのあとよく調べると、もっとお得な商品がリリースされていた。HMVはかなり良心的でよくがんばっていて、私はとても信頼している。

で、無事に届きました。
この頃の私は待ちくたびれすぎてCPEの曲をずっと予習していて、焦がれきっていました。私が聴きたいのはピアノ独奏の26枚の部分だけです。1日1枚でも26日間は楽しめるぞ。・・・しかし、半月経った今、聴いているのはまだ1枚目なんでした。あれーー? なんだ私、買っただけで満足してしまうパターンだ。

 

26枚組の1枚目は、カールフィリップの代表作のひとつ、「プロイセンソナタ集」(1740~42年)です。
6曲の曲集ですが、聴いたことの無い曲ばかりでした。でもこの作品群はあまりおもしろくない。おもしろくないと思わせつつ、やがておもしろくなってくるのがおもしろかった。それより私は、おまけで入っている「協奏曲ハ長調」という作品に耳を見張り(?)ました。これも聴いたことが無い作品でしたが、私が聴きたかったC.P.E.Tの理想的な音が詰まってる。やっぱりバッハには、有名じゃなくても傑作が多々あるんだなぁ~。


協奏曲ハ長調Wq.112-1(1765年) の第1楽章。アレグレット。

動かない動画ですが、これですこういうの。こういうのを今の私はずっと聴いていたい。
今さら知ったのですが、マルコヴィナの演奏ってYoutubeでかなり(公式?)あるんですね。全く知らずに買ってしまいましたが、私にとってはプレトニョフに準じる理想的なものでした。
ピアノが一人だけで演奏する協奏曲。協奏曲って何なのか。大バッハにも同じ主旨のイタリア協奏曲ってのかあって息子はそれをリスペクトしたんでしょうが、父様のより息子は何倍もいい。(←私には大バッハを過小評価する持病があります)

 

第2楽章ラールゴ。

第3楽章アレグロ。

 

マルコヴィナとプレトニョフの比較。

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